百人百様 十人十色

習わしの歳時記


寛仁大度
一味同心
肝胆相照
一上一下
安宅正路

一衣帯水
拳拳服膺
一諾千金
烏兎怱怱
一粒万倍

越鳥南枝
安居楽業
安車蒲輪
安寧秩序
握髪吐哺

一張一弛
一病息災
一家団欒
一刻千金
一唱三嘆

一心同体
異体同心
一旦緩急
合縁奇縁
一意専心

侃侃諤諤
安心立命
一日千秋
胡馬北風
急転直下

一路平安
時節到来
拈華微笑
余韻嫋嫋
一陽来復







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虫の口焼き

 補修 習俗歳時記    四  年越し


 私共の村でも一般には年越しをするのですが、私の一族だけは大晦日に年越しをするのです。一族の言い伝えには遠い先祖がその主君と戦死したのは一月の二十一日であった由で、その子供達節分に豆撒きが出来ず大晦日にする家例となったというのです。多くの家例の理由は大体この程度のあまり信ぜられない原因によるのですが、それが永世を支配する力は強いものがあります。大晦日の豆撒きは何か他の民俗的原因によるものと思いますが節分より実際の年越しと一致するのでその実感はよくいたします。

 年の暮の忙しい一日が終りますと、年男は湯に入って体を清め、神仏にあげる火をきります。その同じ火がいろりの下の「豆木」にうつされます。豆木というのは大豆の実を落した、豆殻のついたままの根こそぎにした木です。実によく燃えます。真黒な焙烙(ホウロク)が、鉤竹にかかっていて豆はこの豆木の火でいられるのです。この時は一年の重荷をおろした顔々が囲炉裏の側にならんで豆のいられるのを待ちます。炉の焚き火のはしに鰯を、頭と尾の二部分に銅切りされたものが、昔は柊の二又の枝にさされ、今では豆木そのものの二叉にさされて炙(あぶ)られています。鰯が少しく焦げてくると、豆木ごと灰から抜き取られて炉のまわりの人々に順次に手渡されます。これを持つ人は、口の中で農作物を害する虫に対する呪文をとなえて、唾をこの鰯にはきかけ、炉の火にあぶって又次の人に廻すのです。

①年越 虫の口やき
 〈虫の口やき〉


 この虫の口焼きは、
 「稲の虫の口を焼き申す。ぺッぺッ。」
 「茄子、胡瓜、稲、麦、小麦、小豆、大豆、其の他四十八色の虫の口を焼き申す。ペッ、ペッ。」などと沢山一度に唱える事もあります。この鰯はよくやかれた後、家のトボロの上に一年中かざられて居ります。勿論害悪除けでありましょう。

③年越 ④年越
 〈ヤカガシ(※) と豆煎り〉  〈虫の口焼き(大晦日)〉
 (※=柊鰯の別称.北関東で「ヤカガシ」といういい方に、初めてお目にかかりました!)

 いり上った豆は一升桝に入れられて年神様に供えられます。次にこの桝を下して年男を先頭に豆撒きが始まります。
 「福は内、鬼は外、福は内」が普通の呼び声です。神棚の前だけ更に「鬼は外、福は内」をつけ加えます。各部屋、部屋、土蔵、便所、馬屋、門、納屋、稲荷様等順に撒き廻るのであります。晴れた空に三つ星様が中天にかかっていたり、うす曇って大きな月の暈が真上の空に望まれたりするのもこの豆撒きの晩であります。

②年越
 〈豆まき〉


 豆は撒き終ると一度神棚に供えられて更に豆茶にいれて飲んだり、粒のまま新しい年令の数だけたべたりして新年を待つのです。この豆は「鬼の豆」と云って少し許り別に瓶に入れて神棚の端に一年中とって置かれます。よく村のむずかしい問題や、其の他心配事のある場合、ネクタイなどしめながら父が「鬼の豆」をと云って母にとりよさせて三粒ほどを食べてゆくのもこの豆でした。この豆は洋服の中身をこの位今も支配して居るのでした。

 豆撒きが終るといろりには梅さんが大きな根っ子を燻べて年の火の支度をします。これが明日の元旦まで炉の中でゆっくり燃えていて、けむいけれども暖かい朝をむかえさせてくれるのでした。


⑫ 鰯を柊の二枝に頭と身に分けて
 〈鰯の頭と身を柊の二枝にさしました。〉



〈柊鰯(ひいらぎいわし)〉
⑯柊鰯


 《 『柊鰯は、節分に魔除けとして使われる、柊の小枝と焼いた鰯の頭、あるいはそれを門口に挿したもの。西日本では、やいかがし(焼嗅)、やっかがし、やいくさし、やきさし、ともいう。』
 ◇柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言う(逆に、鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすとも説明される)。日本各地に広く見られる。
 ◇歴史と変移:平安時代には、正月の門口に飾った注連縄(しめなわ)に、柊の枝と「なよし」(ボラ)の頭を刺していたことが、土佐日記から確認できる。現在でも、伊勢神宮で正月に売っている注連縄には、柊の小枝が挿してある。江戸時代にもこの風習は普及していたらしく、浮世絵や、黄表紙などに現れている。西日本一円では節分にいわしを食べる「節分いわし」の習慣が広く残る。奈良県奈良市内では、多くの家々が柊鰯の風習を今でも受け継いでいて、ごく普通に柊鰯が見られる。福島県から関東一円にかけても、今でもこの風習が見られる。東京近郊では、柊と鰯の頭にさらに豆柄(まめがら。種子を取り去った大豆の枝。)が加わる。
 また、奈良県吉野町では、一本だたらを防ぐため節分の日にトゲのある小枝に焼いたイワシの頭を刺して玄関に掲げるという。
 鬼を追いはらう臭いを立てるために、ニンニクやラッキョウを用いることもある。》~ウィキペディア~


としごとの家のならはし

 

 本家の伯父と最後にお会いしたのが、今から四十年前のお正月でした。
 あのときの一つひとつのお話しが、今でも胸に過(よみがえ)ってきます。
 
 七日後、かえらぬ人となろうとは思いもよりませんでした。
 命日。遠くから手を合わせています。
 
としごとの家のならはし①  ⑧筆者




炉辺郷談




 「橘郷土叢書外篇 一」として、昭和36年8月15日に発行した「炉辺郷談」。
  発行所は北橘郷土研究会となっています。
 著者は ― あとがきに代えて ― として「ある感懐」を述べています。

 《 郷土史の研究は何故するかというと、私はよい村人になるためと思っていた。郷土の昔の事がわからなければ、郷土の現在、或は将来の正しい発展は望まれないのだと思ったのである。

 しかるに戦後、というより最近一、二年、いや、ほんの数カ月の間に、私は、自分の考えが一切無駄であったのではないかと思う程になった。それは農村と都市の差別が急激に失われていった事である。最近の経済情勢の変化、社会生活の変動、それは驚くべきものがある。村は村として一つの有機体の如く働く区域と考えていた。恰も一家が一つの有機体であるように、しかるに日本の家は今や非常な勢で解体しつゝある。村も亦しかり。あやぶむらくは国という団体すら、あるがよいのか否か問題の焦点にさえなっている。この驚くべき変化の中に、古い郷土史の研究などがどれ程の意味があろうか。

 人は今や、八丁注連の中にどじこもった村人として生きるのではなく、世界人類の一員として生きる処迄来ているのである。村の昔の事を根ほり葉ほりさぐって何になろうか。学問は学問のためにだけあるので、人生の利害など問題でないという説もあるが、私はその様には思わない。微々たる郷土研究たりとも人生に寄与する処がなければならぬと思っている。しかも今やその寄与する面は非常狭隘になってしまった。

 具体的な例でいえばよくわかってもらえると思うから一例をあげれば、村の青年階級の研究なぞは、従来よい研究課題であった。青年団、その前の若者組という団体内にあって、村人は少年から成年への、家庭人から社会人への脱皮をした。そのグループ内の交際は自ら一つの立派な成人教育であった。教師は若い衆各自相互であった。一人前の村人となる可き、又、妻をもつべき男としての訓育が自らそこになされた。私人から公人への眼覚めもそこで行われた。私達がある一村に入ってその調査をする時、これらの事はずい分興味をもって研究し得る好題目であった。

 しかし、今や、見よ、村に青年はいなくなってしまった。青年団の解消は連続的に起きている。人が居らねば団体の存しようはない。多くの農山村の青年は職業を村外に撰んでしまい、明治天皇の御製のように「翁や一人山田守る」の現状では、若者組の研究をした処で村の進展に何の寄与する事も出来ない。

 こゝ迄考えてくると私は従来の自分の勉強について、大きな失望を感じざるを得ない。少なからざる時間をかけた仕事は、ほとんど水泡に帰してしまった。

 思うに私達は研究対象の変遷に伴って、私達の視野を拡げ、社会組織そのものゝ変革を正しく見究めて、新しい研究に移ってゆかねばならないのであろう。村の社会は血縁団体として発生し、地縁の団体として発達して来たが、今や地縁の組織は分裂しつゝある。次に来るものは一体何であるか。しかもそれは基底に「世界平和」という一条件をおいているように見える。この「世界平和」が、一旦崩れるなら、現在の経済機構は一瞬にして崩れ去るであろうし、その時の社会保持の靭帯の切断に伴う困乱は想像するだにもおそろしい事である。ひるがえって現在の経済の膨張は実にこの「世界平和」の上にアグラをかいて進展している。社会の変化が之に伴っているのである。しかしこのアグラは無統制、無目的にさえ見える。「平和」は何者かに「利用」されてさえいえるのではないかと思われる程である。実に村落社会の変化はこの大きな経済組織の変化の影響に外ならない。

 私達の郷土研究は、村の一隅にいても、やはり、この世界につゞく大きな変動と、その影響下の村をじっと見つめてゆかなければならないだろう。その間に自分自身がどこへ流し去られるかわからないとしても。

 (この後書は本書の本文とほとんど何等の関係もないが、本書を書終わった頃の私の郷土研究に関する心の表白を綴っておく事も読者への務めと思うので敢て記した。) 》



* 「原文」を「ソノママ」転記しました。
* 「一(剣幕彌次右衛門)」から「百(箱田の石剣)」までありますが、「六五」は「かくれ切支丹」となっていて、75㌻の中ほどから76㌻中ほどにかけての16行、652の文字数となっています。

 (「隠れキリシタン」を表した書物を追ってみると、「武蔵野・武州」あたりまでの痕跡を伺うことが出来るようです。)


橘陰郷土かるた キタタチバナムラかるた

 *新年・冬

 お正月さまがやってきます。
 いつの時代ころまでだったでしょうか。子どもたちはお正月に「さま」をつけていました。
 元旦にはお年玉をもらいます。正月二日の午前中が書初(かきぞ)めの日です。床の間に飾ることができると「書初め料」が包まれます。本家には書初めを書いてから新年の挨拶に行っていたような記憶があります。お年玉と書初め料の熨斗袋が我が家の分も含めて、あっというまに四つも貯まります。

 タコアゲ、羽根つき、こま、竹馬、メンコ、箱ゾリ、竹スキー、エトセトラ…、新年は、「お正月さま」という神様が子供たちへ遊びを持ってきてくれます。
 あなたの「ふるさとの遊び」、どんな思い出がありますか。

 
 『ふるさとの遊び』(編者丸山知良.発行所フレンドリー株式会社出版会 好日社.昭和47〈1972〉年3月31日第1刷)のあとがきに、丸山知良氏は共著者の一人として、次のように述べています。
 「 回顧と郷愁による人びとのふるさとへの回帰は、時に多くの人を永遠の子どもごころにさそうのである。本書はそうしたすべての過去の子どもたちに捧げる若さの記録である。と同時に、これからの子どもたちへ、すばらしき遺産としての〈ふるさとの遊び〉があることを伝えたいとの念願から本書を企画したのである。従って、これは単なる回顧ではない。子どもたちに日本の遊びを知らせて、健全にして明るい、子どもらしい子どもの遊びを彼らの手に取り戻そうというのである。・・・」



 *カルタ

 長野県の小諸(こもろ)に住んでいた時には、小学校の校庭でのスケートや雪合戦など、外での遊びに事欠きませんでしたが、雪が降り積もっている時や夜など、双六(すごろく)、トランプ、いろはかるた、百人一首、将棋などで時を過ごしました。
 群馬県の北橘(きたたちばな)に住んでいた時に覚えたのが「上毛かるた」(昭和22〈1947〉年発刊)です。
 「あ」は「浅間のいたずら鬼の押し出し」ですし、「い」は「伊香保温泉、日本の名湯」、「う」は「碓氷峠の関所跡」です。

 小さい頃、かるたといえば「いろはかるた」でした。お江戸は、犬も歩けば棒に当る、論より証拠、花よりだんご・・・でしたね。一方、京は、一寸先は暗やみ、論語読みの論語知らず、針の穴から天をのぞく、二階から目ぐすり、佛の顔も三度などと、ことわざ辞典でもお馴染みのかるたが並んでいます。

 かるたは、また郷土(ふるさと)を読み込むことで、子どもたちが郷土(きょうど)を誇りに思い愛着を持ってほしいと願うメッセージとしても、地域の生活に溶け込んでいました。


 *「橘陰郷土かるた キタタチバナムラかるた」

 昭和12〈1937〉年4月17日の日付で、「橘陰(キタタチバナ) 郷(ム) 土(ラ) 読本(モノガタリ) ――郷土かるた解説――」と題して、「母校にある少年諸君に」の文中で「・・・単なる説明以外に皆様がよんで面白いようにと諸家の文章や村内の金石分文を借りて来て一種の郷土読本にしてみたい、・・・村の生活を愉快にし村の将来を豊かにしようと思わせるのはすべて郷土をよく理解する事の結果であります。」と、作者は述べています。

  


プロフィール

むさしの想坊

Author:むさしの想坊
 これから何が飛び出してくるのでしょうか。ひきだしの奥にしまっていたものと合わせ、足跡を綴っていきたいと思います。
 昨日は金環日食をみることが出来ました。
・東京スカイツリー開業日の2012年5月22日記。

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