玉原高原 鹿俣山

2018/ 03/ 13
                 
 
 パソコンの置いてある部屋の幾つかある本棚の中の書籍の一冊に、『創立二十周年記念誌 みんなで歩いた 埼玉百山』(平成26年11月刊行) があります。
 編集後記には、〈 この記念誌は、2010年6月から2014年4月まで約4年間かけて浦和市部の皆さんが、延べ965名で歩き、担当筆者の方からいただきました貴重な山行紀行文であります。・・・〉と記されています。

   埼玉百山

 
 この本をパラパラとめくっていましたら、突如として我が家の愛犬MUCCHANとの家族三人での高原での思い出がフツフツと蘇ってきました。
 峰の原高原(みねのはらこうげん・標高1,400m~1,600m)に行ったときは、いつも泊まり込みで出かけました。
 目の前に、四阿山(あずまやさん・標高2,354m)と根子岳(ねこだけ・標高2,207m)がその華麗な姿をみせています。
 玉原高原(たんばらこうげん・標高1,200m~1,550m)には、最初の頃は泊まり込みで出かけていましたが、わが家から比較的近いということもあり、あることをきっかけとして日帰りでの旅行を繰り返すことになりました。
 玉原湿原からは、尼ヶ禿山(あまがはげやま・標高1,466m)、鹿俣山(かのまたやま.標高1,637m)の二つの山を身近に眺めることができます。


 この四つの山のうち、2回登ったのが鹿俣山です。
 何故だか知らん、最初の登山の時は、MUCCHANと私の二人での山行となりました。
 この日、早朝、MUCCHANと私はほぼ同時にパッチリと目が覚めました。そして二人の目と目が合いました。そうです。彼の好きな「オサンポ」のアイコンタクトです。

 二人で音をたてないようにそっと扉を開けて外に出ました。
 清々しい朝の空気です。
 どんどんどんどん上へ上へと登っていきます。ふと振り返ってみると、いつのまにか随分と上の方まで来ていたことに気づきます。
 時計をみたらまだまだ朝早い時間です。MUCCHANとまた目が合いました。山頂まで行こうか! 彼は尻尾を大きく左右に何回も振ります。よし決まりです。


 山頂につきました。
 私たちは意気揚々と帰りの途につきました。


 8時前にはちゃんとペンションに戻り、三人で朝食を美味しく頂きました。
 (すくなくとも二人にとっては、この上もない美味しい美味しい朝ごはんとなったのです。)



                 
        

ミユは如何お過ごしですか

2017/ 06/ 04
                 
 ミユにあったら、よろしくネ!    私の出がけに家人から、声をかけられました。
   ・・・
 ミユはいかがお過ごしですか     ゴルフの練習が終わり、奥様に声をかけました。
 このところ元気ですよ!        オウム返しに奥様から
 ミユによろしくお伝えください。  私から奥様に

 ミユはメスネコです。今から17年前の6月に、家族になったそうです。
 いつ頃何処で生まれたのか判らないのだけれど、ご縁があって結ばれたんですね。とのことを、今から2年前にお聞きしました。

2015年6月のミユ 20150627
  ある日のミユ(2015年6月撮影)



 MUCCHANは、昭和63年(1988年)の今日、1歳半になってから私たちの家族となりました。
 29年の年月(としつき)が経っています。




                 
        

MUCCHANのこと

2017/ 05/ 22
                 
 MUCCHANを私たちが家族として迎えたのは、1988年6月4日のことでした。彼が1才半の時です。
 それから私たち3人一緒の生活が12年間続きました。

 MUCCHANとの別れの日となったのが、2000年6月3日です。

 それから12年経った頃、MUCCHANとの思い出を今のうちに綴っておきたいという気持ちが強くなりました。
 この頃、今の時代のSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)というジャンルに遅まきながら関心を持ち始めていました。
 facebookは名前と顔が一致し日々おりおりのメッセージ、ツィッターは覆面子で短文の時事寸評、ブログはその両方を兼ね備えかつフリーハンドの幅が大きいスタイルという色分けを私なりにし、タイムラグはありましたが、3つとりあえずスタートしました。
 実際のところ、世間を見ると千差万別で、SNSの使い方が様々なことが判りました。全て顔を表に出している人たち、一方でその真逆な人たちと、何でもありの世界でした。

 ブログを始めたのが、2012年5月22日です。思い出しやすいようにという気持ちも働き、東京スカイツリー開業日に合わせました。


 それから5年経ちました。
 先日の二次会で、Yさんと同席させて頂きました。
 MUCCHANのことを話題にして頂きました。
 とても嬉しかったです。
 ピーちゃんとの素敵な出会いのお話しを伺うこともできました。
 思い出深いひとときを過ごすことができました。
 ありがとうございました。



1-1 mucchan20170522


 野にあそべ山にあそべと昔日のきみぞ恋しき残り香の夕


 MUCCHANとのことが走馬灯のように思い浮かんでは消えていきます。

















                 
        

NHK連続テレビ小説『ひよっこ』 おばあちゃんのこと 乙女寮コーラス部

2017/ 05/ 15
                 
 ある日の乙女寮、夏井優子(八木優希)が、ハタハタの佃煮を同室のみね子や皆に振る舞います。実家から送りとどけられていたものでした。
 青天目澄子(松本穂香)〈※〉は、福島の自分の家から何も送られてこないので恥ずかしく思います。はがき1枚すら届かないが、ここが楽しいからさみしくないといいます。

 でも、バアチャンには会いてえな。大好きだぁ・・・と呟きます。
 澄子が突然笑顔になります。それは故郷のバアチャンとのあの時のことを思い出したからでした。彼女が中学に入ったばっかしのころ、足を痛めて松葉づえをついて家に帰る途中、橋の所でバアチャンと出会います。バアチャンは腰が曲がっていて、いつもよたよたと体を屈めるながらゆっくりと歩いている人なのです。そのバアチャンが孫娘の痛々しい姿を見て、曲がっていた腰がピンと立って俄然と走り出します。大丈夫かと澄子に声を懸けます。彼女はウンと頷きます。二人は抱き合います。
 そして、バアチャンはその後どうなったかというと、ホッとした後はまた腰をかがめてよたよたとゆっくり歩く元の姿に戻っていたのでした。
 澄子はそのことを思い出していたのです。


〈※〉:青天目 澄子(なばためすみこ) 〈松本 穂香〉
  乙女寮の仲間
  福島県出身。家計を助けるために、中学を卒業してすぐに上京してきた。いつもマイペースで、何をするのも遅い。よくミスをして生産ラインを止めてしまうが、悪びれる様子もない。「乙女寮」では、課外活動のコーラスと食堂のカレーライスを楽しみにしており、それが大きな騒動を巻き起こす。

〈※〉:松本 穂香〈まつもとほのか〉
 ・大阪府出身.・1997年2月5日生れ.・身長162cm.・体重非公表.・高校で演劇部.



 ~おばあちゃんのこと ちょっと横路へ~

 愛犬MUCCHANがわが家に来たのは、彼が生まれてから1年半経ってからのことでした。
 散歩のとき遠くの方に高齢のご婦人を見かけるや否や、私をぐいぐい引っ張って一目散に走り出します。
 彼が私たちのところに来る前に住んでいた家で、おばあちゃんに可愛がられていたMUCCHANでした。その大好きな大好きなおばあちゃんだと思って、彼はいつも高齢のご婦人をみかけると居ても立ってもいられなくなり我武者羅に駆け寄っていくのです。
 MUCCHANの命を救った人がたくさんいます。その一人は八王子の獣医さんです。あと1週間も放っておけば危なかったということでした。栄養失調でどちらかの目が見えなくなっていたということも伺いました。体重は我が家に来てから倍以上増えました。
 彼には友だちがたくさんできました。おかげ様で私たちも「犬とも」の皆さんとの交流が始まりました。今でもご挨拶を交わしています。
 


 乙女寮コーラス部

 アフレコ(アテレコ)(〈※〉)だと思っています。
 NHK東京児童合唱団関係者のお歴々3名が音楽指導に名を連ねていますので、そのコーラス画像に合わせ、乙女寮コーラス部の皆さんが口をパクパク開けているのだと思います。あて推量ですけれど。
 
《注〈※〉)アフレコ(アテレコ):
 基本的な意味としては、どちらも元からあった映像に音声を当てる、
ということですので、違いはありません。
 ただ、アテレコという言葉は、演技などに「当てて」録音する、ということから
当ててレコーディング→アテレコとなりました。
アフレコの場合は、映像を先にとり音声は後で取るということから、
アフター レコーディング→アフレコとなりました。
(因みにアフレコは和製英語で、外人に言っても通じません。)
 つまり、アテレコは日本語+英語、アフレコは英語+英語というように、
言葉の作りが違いますので、意味が違うようにかんじるのでしょう。
 また、洋画吹き替え時には演技に当てる事から「アテレコ」、
アニメの場合は「アフレコ」という事が多かったようです
最近はほぼアフレコに統一され、アテレコは使われなくなってきているので、
アテレコという言葉に違和感を覚える人もいるようです。》



『ひよっこ』第7週は、椰子(やし)の実たちの夢〈5月15日(月)〜5月20日(土)〉です。
 5月15日の今日、乙女寮コーラス部によって歌われたのが、島崎藤村作詞(詩)、大中寅二作曲の『椰子の実』でした。


 みね子たちが乙女寮に入った際に、コーラス部が歓迎で歌った曲が『手のひらを太陽に』(作詞:やなせたかし、作曲:いずみたく)でした。

 
 新人たちが初めてコーラス部に参加したときの練習曲は、『トロイカ』(ロシア民謡)でしたっけ。

 その次の練習曲は、『恋はやさしい野辺の花よ』(作詞:F・ZELL、 R・GREEN、訳詞:小林愛雄、作曲:F・SUPPE)。

 そして、5月15日の『椰子の実』。

 これから、
  お盆の帰省前に歌う曲『夏の思い出』(1957年.作詞:江間章子、作曲:中田喜直)、
 そして、
 乙女寮の閉鎖が決まり、夏井優子(八木優希)が帰郷する際にコーラス部が最後に歌う曲が『見上げてごらん夜の星を』(1963年.作詞:永六輔、作曲:いずみたく、歌:坂本九)
と、懐かしの曲が女子コーラスによって歌われます。







                 
        

ゴン太  MUCCHANの友だちのこと

2017/ 05/ 11
                 
 ゴン太が居なくなってしまった。探しているけど見つからない。昨晩激しい雷雨があって朝起きてみたら首輪が外れていて犬小屋がもぬけの殻になっていたと。
 ゴン太はカミナリの音と光が大嫌いだったそうです。

 どんなことでもいいからゴン太のことで判ったことが有ったら知らせてほしいと、「ゴン太のご両親」。

 それからちょっと経ちました。
 踏切にほど近い所に動物らしき物体が線路と線路の間にあるのが目にとまりました。
 犬でした。ゴン太の毛並みにそっくりです。
 ・・・やはりゴン太でした。

 ゴン太の家の人に伝えるべきか考えました。
 轢死です。無残な姿です。
 
 思い出というものは、悲しいことで幕を下ろすよりも、楽しかった日々に彩られていたほうがよっぽどいいことにきまっています。そう思いました。
 自分だったらどうなのか。教えてもらったほうが嬉しいのか、嬉しくないのか。事実を知ったほうがありがたいと思うのか、ありがたくないと思うのか。
 そんなことあんたに言われたくなかったと、言われてしまうようになるのか。


 (時計の巻き戻し〈アナログの時代のことですので〉)
 ゴン太の家族が引っ越ししてきました。
 ゴン太はMUCCHANとすぐ友だちになりました。
 ゴン太のお母さんがいうところによると、ゴン太は向こうっ気が強く、特に牡犬にはケンカぱやくって情け容赦しない態度を取るのに、初めて会った途端に仲良くなるなんて信じらない。ということでした。


(時計の針は進みます〈アナログの時代のことですので〉)
ゴン太が召されてからしばらくして、ポインターが新しい家族になりました。その名をドクターといいます。その後、ドクターの弟も家族となりました。ガウディです。
二人(二匹)ともに、MUCCHANが大好きでした。MUCCHANを兄のように慕っていました。


 フジコさんは、著書『たどりつく力』の中で、「最近、母のことをよく思い出します。歳をとったからでしょうか。」と綴っています。
 私もいつの間にかそこそこの年齢になっていますが、今、この歳になっても、そして、あの日以降も時々当時のことを思い出していました。
 あの時、死という現実を前にして、結果として私はその中の一つを選びました。
 ゴン太の両親から頼まれていたこと、それは、知らせるということでした。