上毛かるた 老農船津傳次平

 浅間のいたづら鬼の押し出し
  上毛かるた44枚中の一番最初の「あ」が、「あさまのいたづらおにのおしだし」です。

浅間山
 浅間山 (標高2568m 日本百名山の一つ)

 浅間山は、長野県と群馬県の県境にある活火山です。
 平成16年(2004年)9月に発生した噴火では、関東や東北の広い範囲に火山灰が降りました。
 その後、平成21年(2009年)2月から3月と、同年5月に小規模な噴火が起きています。
 今回の6月16日の噴火では、6年前と同じく噴火警戒レベル2の火口周辺警報を発表しています。


 行く先が逸れ始めました。「上毛かるた」に話を戻しましょう。
 先ず最初に「上毛かるた」を手に取ったときに気づくことですが、帯を解くと、最初が「あ」になっていますので、昔からある「イロハかるた」とは趣を異にしていることが判ります。
 「上毛かるた」は、昭和22年(1947年)12月に誕生しました。
  日本が敗戦という歴史を迎えた翌々年です。
  終戦後の復興にあって、「これから育っていく子どもたちに、意義あるものを感じ取ってもらいたい。郷土との所縁(ゆかり)を改めて認識し、これからの時代、明るく楽しく、そして希望のもてるものはないか。」と考えていた思いが、一つの形となり『上毛かるた』が誕生しましたと、「上毛かるた」の生い立ちに綴られています。
 発行からまもなく68年が経とうとしていますが、『上毛かるた』は、群馬県の文化として位置づけられ、いまなお県民に愛され続けています。


 

 前橋から渋川に行く道すがら、「船津傳次平の墓」という標識をいつも目にしていました。
 船津傳次平は、今から117年前の6月15日に没しています。
 (前橋市富士見町原之郷生れ.天保3年10月1日〈1832年10月24日〉-明治31年(1898年)6月15日。→「ウィキペディア」では生年を天保3年11月16日〈1832年11月22日〉とあります。)

 上毛かるたの43番目の「ろ」を思い浮かべます。
 「老農船津傳次平(ろうのうふなつでんじべい)」
 (ちなみに最後44番目の「わ」は、「和算の大家関孝和」です。)

 ようやくにして、今日(6月17日)、渋川からの帰り道に立ち寄りを実現しました。

 明治の三老農の一人として、その偉業を讃え顕彰碑が建てられています。
 船津家の墓所は、見事に全て船津姓の墓標となっていました。

船津傳次平の墓 ①
 船津傳次平の墓 (群馬県指定史蹟:昭和26年10月5日指定)


 群馬県指定史蹟
 船津傳次平の墓 
   指定年月日 昭和26年10月5日

 明治三老農の随一とたたえられた船津傳次平は、天保三年(一八三ニ)十月一日、勢多郡原之郷(富士見村原之郷)に生まれ、幼名を市造といいました。
 少年のころより学問に励み、特に和算は関流の皆伝を受けました。なお俳句もたしなみ俳号を冬扇といいました。
 傳次平は、いつも農業を工夫研究し、実験を重ねては農業を改良進歩させました。
 また寺子屋の師匠にもなって筆子の教育にあたりました。
 安政五年、二十七歳で名主となった傳次平は、他村の名主たちとはかって赤城山麓に植林し、水源涵養のために尽くしました。
 明治七年「太陽暦耕作一覧」を作りましたが、これは熊谷県より広く農家に配布されました。
 明治十年十二月、船津傳次平は、内務卿大久保利通に見いだされ、東京駒場農学校の教師となりました。傳次平は駒場野を開墾して実習地を作り、生徒たちに農学の指導をしました。
 明治十八年より農商務省の巡回教師となって農業改良の任にあたりましたが、全国への出張は百五十回にものぼり、その足跡は沖縄県を除く全国の道府県にわたったそうです。
 明治二十六年、西ケ原農事試験場の技師となって活躍していましたが、健康を害したので、明治三十一年三月帰郷しました。
 明治三十一年(一八九八)六月十五日逝去、六十六歳でした。

 墓誌は漢学者の保岡亮吉が書いたものです、なお裏面には次の句が刻まれています。

 駒場野や ひらき残りに くつわ虫
 こぼれても 草間に消えず 春の露

昭和六十三年三月二十一日
        前橋市教育委員会




《「明治三老農」について》

・ウィキペディアによる:
 老農(ろうのう)とは、おもに明治時代、農書に基づいて在来農学を研究し、これに自らの体験を加えて高い農業技術を身につけた農業指導者。

特に群馬県の船津伝次平、奈良県の中村直三、香川県の奈良専二の3人は明治の三老農と呼ばれ、彼らに次いで福岡県の林遠里、秋田県の石川理紀之助が知られていた。

彼らは、輸入学問であった近代農学とは独立して、近世以前の在来農学の蓄積に基づき、単なる個人の経験の寄せ集めという段階を越えた実証主義的な態度からの技術改良を志向した。一部には、イネの品種間の実証的な比較収量試験を行ったり、メンデルの法則の導入以前から交配によるカイコの品種改良を試みるものもいたという。

この老農らによって、1875年頃から各地で種子交換会や農事会など、農業技術の交流を行う組織が形成された。また、老農らによって集約・収斂された在来農学の集大成は明治農法と呼ばれた。

老農らをまとめ、組織化した会は農談会とよばれた。農談会は明治初期より各地で小規模なものが開かれていたが、1881年3月に開催された全国農談会が、初の全国規模の農談会といわれる。


・ひとことバンクによる:
 農会をつうじて老農の優れた経験的な技術の深化と普及が進むなど,明治農法の基礎が固まった。 著名な老農には,イネの品種改良や耕種改善に功のあった中村直三や奈良専二,勧農社を組織して馬耕教師と抱持立犂(かかえもちたちすき)を全国にひろめた林遠里,駒場農学校から農商務省の巡回教師となった船津伝次平,勤倹力行を鼓吹した石川理紀之助などがおり,とくに中村,船津,奈良(あるいは林)を明治三老農という。 
    


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上毛かるた わ

 父は、「群馬県和算研究会」に入っていた時期があります。
 かなり長いあいだの会員だったようです。

 先ほど、インターネットで検索しましたところ、あちこちに父の名前が出てきました。
 「・・・ 本解法は、群馬和算研究会会報第20号に載っているIG氏の解法を参考にした。昭和59年(1984年)8月13日の解法」なども出てきました。

 あるとき、なにかの折に、さりげなく「和算研究会を退会したよ」と言ったことを思い出しています。

 本棚にたくさんの和算、算額に関する書物が並べられています。
 「山形の和算」の本が発刊されたということを、私が全国紙の一隅に見つけ、新聞社に著作者の連絡先を聞き、父に伝えたことがあります。
 しばらくして、田舎の書棚を見ましたところ、その一冊が、他の和算の本と一緒に、ずっと以前からそこにあったかのように並んでいました。
 発行部数が限定される典型的なジャンルの本ですが、父の熱意が伝わったのでしょうね。


 わ ・・・ 和算の大家 関孝和

 
 上毛かるたでは、「せきこうわ」と覚えたつもりですが、あちこちを検索してみると「せきたかかず」と表示しています。(両方併記しているのもありました。)

 田舎の書棚には、勿論、関孝和に関する書籍本が置かれています。
 「算額を訪ねて」という企画も魅力あるのでしょうけれど、残念ながら私は上州でさえも、一度もその機会を得ていません。

 1992年に、数学者・関孝和の生誕350年を記念して、記念切手(62円)が発行されています。


 関孝和の生誕の地については、諸説ありますが、何れの表記でも生年については不詳と書かれています。
  
 次に、「国立国会図書館のhp」より、関孝和の業績を紹介します。
 関の業績は多彩でありましたが、中でも後世への影響が大きかった事柄は、独自の記号法(傍書法)の開発と、それを用いて自由自在に数式を表現し、天元術を格段に飛躍させたこと(解伏題之法)が挙げられます。傍書法は、簡単に述べるならば数字と文字を1つの式の中に表現できるように工夫したもので、和算の数式としての表現力を向上させました。

 これによって天元術も応用が加えられました。中国から最初に伝わった天元術は方程式といっても未知数が1個の場合にしか対応できませんでしたが、傍書法による数式を導入したことで、複数の未知数を1つの式に表現することができ、そこから数式の処理が簡単になりました。現代数学の用語を用いていえば、連立方程式の未知数消去が容易になったということになります。関はこの天元術の応用を様々な分野の問題に適用し、例えば正三角形から正20角形までの正多角形それぞれについて、その面積を計算する実例を『括要算法』で実践しています。

 関孝和による新しいタイプの数学の出現によって、後世の和算家は多大な恩恵を受けました。数式表現が非常にシンプルになったこと、問題解法の見通しが立てやすくなったこと、各種の新しい公式が開発されたことなどです。18世紀も後半になると関孝和のことを俳句の松尾芭蕉(俳聖)や茶道の千利休(茶聖)に倣って「算聖」と呼ぶこともあったほど、彼の名前は和算家の間で普及していきます。関孝和の系列に連なる和算家たちが自らの集団を「関流」と自称するようになるのも、18世紀後半以降のことになります。


 次に、「藤岡市役所のhp」より、「関孝和」を紹介します。
 関孝和は、算木を使って高次方程式を解く天元術に改良を加えて筆算式の高等代数学である点竄術を発明し、数学の多くの分野における理論的研究を行い、体系化を試みるなど卓越した業績を残されました。その業績により我が国では「算聖」と呼ばれ、さらに同世代に出たイギリスのニュートン、ドイツのライプニッツとともに世界三大数学者として尊称されています。

 関孝和(せきたかかず)は、近世日本数学を代表する数学者ですが、関孝和の生涯を知る資料は余りにも少ないのが現状です。
 孝和は、内山七兵衛永明の第二子として生まれました。その生年は定かではありませんが、寛永19(1642)年、もしくはその数年前と推測されています。その生地についても上州藤岡あるいは江戸の2説があります。20代にいたって関五郎左衛門の養子となり、関孝和と名乗ることになりました。関孝和の幕府における勘定吟味役は今日の会計検査官のような職務であり、御納戸組頭も将軍家の財産管理を司る管理職でした。このように見ると関孝和はその生涯を財政関係の職務に捧げたことが分かります。


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上毛かるた らりるれろ

 ら ・・・ 雷とから風 義理人情
 り ・・・ 理想の電化に 電源群馬
 る ・・・ ループで名高い 清水トンネル
 れ ・・・ 歴史に名高い 新田義貞
 ろ ・・・ 老農 船津伝次平


 昨年暮れ、船津伝次平のお墓の横の道を車で通りました。
 そのときは「上毛かるた」をブログに載せようと思っていなかったので、ちょっと立ち寄っておけばよかったかなと、いま、思い返しているところです。



船津伝次平
(1832~1898)は日本三老農の一人です。養蚕の基本である桑の栽培の研究をし、「桑苗簾伏法」を出版したのをはじめ、農業全般の近代化に貢献し、駒場農学校(現東京大学農学部)の教官となりました。
 ・所在地 : 前橋市富士見町原之郷乙539
 ・見学 : 墓参り可能
 ・問合せ : 前橋市文化財保護課 TEL 027‐231‐9875
 ・交通 : JR両毛線前橋駅からバス約20分 関越自動車道前橋I.Cから約20分
 (群馬県hpより)



老農 船津伝次平
 上毛かるたに「老農 船津伝次平」と詠われている船津伝次平翁。
 群馬県での知名度は抜群に高い有名人物ですが、どんな人物だったか知っている人は少ないのではないでしょうか。

 船津伝次平は日本三大老農の一人。「老農」とは、農業を研究し、それに体験を重ねて高い農業技術を身に付けた農業指導者のことを言います。

 天保3年(1832年)、勢多郡原之郷(現:富士見村)の名主の家に生まれました。
伝次平が生まれた船津家には「田畑は多く所有すべからず、又多く作るべからず」という家訓があり、寄生地主化への道は意識的に選ばず、養蚕を軸とした商業的農業を営むなかで、和算、漢学、俳諧といった文化に積極的に関わり、寺子屋を開設するなど、地域文化の核としての役割を果たしていました。

 そのような環境の中で、地域の農民の教育や農業改良普及に尽力した伝次平は父親の死後、若くして名主を継ぎ、広く村民に愛されるようになりました。その名声は明治政府にまで届き、請われて駒場農学校の教官になりました。

 駒場農学校では西洋農法と日本農法のよいところを併せ持つ混同農法(船津農法)を生み出します。
さらにその後、農事試験場技師に就任し、全国を駆け巡りながら新しい農法を普及し、日本農業の近代化に大きく貢献しました。

 明治31年(1898年)6月15日、郷里で亡くなりました。享年66歳。
お墓(県指定史跡)は富士見村原之郷にあります。
 (グッドぐんま 2007年9月20日付 hpより)



 小学校6年生のときの一泊バス旅行は、江ノ島・鎌倉でした。
 バスの車内で、Kちゃんが手元のメモ用紙を見つめながらガイド役をつとめ、一緒に歌ったのが、あの「鎌倉」の一節です。


 
鎌倉
 作詞=芳賀矢一 (文部省唱歌)

 1 七里ケ浜(しちりがはま)のいそ伝(づた)い
      稲村ケ崎(いなむらがさき) 名将(めいしょう)の
      剣(つるぎ)投(とう)ぜし古戦場(こせんじょう)

 2 極楽寺坂(ごくらくじざか)超(こ)え行けば
      長谷観音(はせかんのん)の堂(どう)近く
      露座(ろざ)の大仏(だいぶつ)おわします

 3 由比(ゆい)の浜(はま)べを右に見て
      雪の下村(したむら)過ぎ行けば
      八幡宮(はちまんぐう)の御社(おんやしろ)

 4 上(のぼ)るや石のきざはしの
      左に高き大銀杏(おおいちょう)
      問(と)わばや遠き世々(よよ)の跡(あと)

 5 若宮堂(わかみやどう)の舞(まい)の袖(そで)
      静(しず)のおだまきくりかえし
      かえせし人(ひと)をしのびつつ

 6 鎌倉宮(かまくらぐう)にもうでては
      尽(つ)きせぬ親王(みこ)のみうらみに
      悲憤(ひふん)の涙わきぬべし

 7 歴史(れきし)は長き7百年(しちひゃねん)
      興亡(こうぼう)すべてゆめに似て
      英雄墓(えいゆうはか)はこけ蒸(む)しぬ

 8 建長円覚古寺(けんちょうえんがくふるでら)の
      山門(さんもん)高き松風に
      昔の音(おと)やこもるらん


 文部省唱歌、芳賀矢一作詞の「鎌倉」の第一番に、「…名将…」と謳っているのは、「新田義貞」です。
 郷土かるたにうたいこまれている人物が、 何気なく歌っていた歌詞の中に入っているとは、恥ずかしながら、それまで存じ上げていませんでした。
 勢多郡北橘村の小学校に通っていたときに、「上毛かるた」を覚えました。
 転校して前橋市の小学校に通っていたときは、「上毛かるた」は、これっぽっちも話題にもなっていませんでした。
 先生の影響か何だったかどうか判るすべもありません。何れにせよ校内での「かるた会」というものはありませんでした。
 江ノ島・鎌倉旅行のバス内でY先生から、「名将とは、新田義貞のことだよ」と言われた時に、私は文字通り、両手を使って合点!したのですが、クラス仲間の反応は、「ヘェー…」という程度の軽いものでした。




☆伝説!龍神に祈った新田義貞☆
 由比ヶ浜と七里ヶ浜を分ける稲村ヶ崎は、新田義貞の鎌倉攻めの際の古戦場。

 新田義貞が海に黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈願すると、潮が引き、海上の北条軍もはるか遠くに流されたため、稲村ヶ崎を突破できたという伝説がある。

 新田義貞の伝説は、尋常小学校の唱歌「鎌倉」にも「七里ヶ浜の磯づたい稲村ヶ崎名将の剣投ぜし古戦場」と歌われている。

 ※稲村ヶ崎は、源頼朝が落馬した地ともいわれている(参考:旧相模川橋脚)。

☆新田義貞☆
 新田義貞は、足利尊氏と同じく源義家(八幡太郎義家)の子義国を祖とする源氏。
 現在の群馬県新田庄を領したことから「新田氏」を名乗る。
 新田氏は、鎌倉御家人として仕えていたが、源頼朝の鎌倉幕府成立に非協力的であったことから、足利氏と比べるとその地位は低かった。
 1333年(元弘3年)5月8日、後醍醐天皇の綸旨を受けて、新田庄生品神社で討幕の挙兵をする。
 挙兵時は150騎程度だったといわれているが、軍を進めるに従いその数を増し、次々に幕府軍を破り進軍した。
 5月22日、大潮に乗じて稲村ヶ崎を突破し鎌倉に攻め入った義貞は、北条高時ら一族を東勝寺においての自刃に追い込み、鎌倉幕府を滅ぼした(参考:鎌倉幕府の滅亡)。
 しかし、後醍醐天皇の「建武の新政」は、長くは続かず、足利尊氏を棟梁としての武家による政治が望まれるようになると、尊氏と義貞は敵対し、義貞は敗れて越前で最期を遂げた。
 (「鎌倉手帳」hpより)



新田義貞 【にった・よしさだ】

 生年: 正安3 (1301)
  没年: 暦応1/延元3.閏7.2 (1338.8.17)
  南北朝時代の武将。新田朝氏(朝兼)の長子,小太郎を称する。文保1(1317)年ごろに家督を継ぎ,上野国(群馬県)新田荘を本拠地とする新田一族の惣領となる。
 正慶1/元弘2(1332)年,河内(大阪府)の楠木正成攻めの幕府の動員令に応じたが,病気を理由に中途で帰国した。翌元弘3(1333)年4月,執権北条氏の守護国である上野国で,楠木合戦の戦費調達のための有徳銭の徴集使として得宗被官の紀出雲介親連と黒沼彦四郎入道が新田荘世良田宿に入部してきた。
 義貞はその過酷な徴集をとがめ,親連を捕らえ,黒沼を斬った。この事件は幕府に対する公然たる反抗に映じた。幕府による誅伐の機先を制して,5月8日に義貞は荘内一井郷の生品明神で挙兵し,東山道を西進して越後(新潟県)の新田一族や上野・信濃の諸士を八幡荘(高崎市)に糾合し,翌9日鎌倉街道を武蔵に進撃した。
 一方,12日に同じ新田荘の世良田で,紀政綱,世良田満義らに擁されて足利尊氏の子千寿王(4歳)が蜂起し,義貞軍と合流した。
 ここに,新田・足利連合軍が形成され,尊氏の六波羅攻めと相呼応する形で,分倍河原(東京都府中市)合戦で北条軍を撃破したのち,稲村ケ崎を突破した義貞は,22日に鎌倉を攻め落として北条高時以下を自尽させ鎌倉幕府を滅亡させた。
  後醍醐天皇の建武政府のもとで,義貞は越後・上野の国司に任ぜられ,左兵衛佐(のちに左近衛中将),従四位上の官位を得た。建武2(1335)年,南北朝内乱が開始されると,南朝方の侍大将として,箱根竹ノ下合戦,播磨の赤松則村攻め,兵庫湊川合戦,京都合戦などに転戦したが,戦い利あらず天皇を擁して比叡山に立てこもった。
 3年8月,両朝の一時的和睦の際,恒良親王を擁して越前(福井県)に下向して金ケ崎城,黒丸城などに拠り,越前守護斯波高経らと抗争していたが,藤島城付近の燈明寺畷で不慮の戦死を遂げた。
 南朝方一筋に転戦に次ぐ転戦の末の最期であった。安養寺明王院(新田郡尾島町)に葬られる。
 <参考文献>尾島町編『尾島町誌』通史編上
 (「kotobank」hpより)


 父に所望され、父母と三人で、新田義貞が挙兵の折に成就祈願した「生品神社」に行ったことがあります。
 群馬県太田市新田市野井町645

新田荘遺跡(生品神社境内) ※国指定史跡(遺跡地・平成12年11月1日指定)
 元弘3年(1333)5月8日、新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて、鎌倉幕府を滅ぼすための兵を挙げたところです。「太平記」には「五月八日ノ卯刻ニ、生品明神ノ御前ニテ旗ヲ挙、」(巻第十)と記載されています。神社に参集した軍勢は150騎に過ぎませんでしたが、兵を進めるに従い数を増やしていったということです。
 生品神社境内は、昭和9年(1934)に「生品神社境内新田義貞挙兵伝説地」として国指定史跡に指定されましたが、平成12年(2000)に「新田荘遺跡生品神社境内」として、面積を広げて指定されました。境内には義貞が旗を挙げたと伝えられる「旗挙塚」や陣を構えたと伝えられる「床几塚」があり、神社拝殿の前には義貞が軍旗を掲げたと伝えられるくぬぎの木の古木が保存されています。
 現在では、毎年5月8日に「鏑矢祭」が行なわれています。これは、義貞が旗挙げの際に鎌倉に向かって矢を放ったという故事にならったもので、生品小学校の6年生の児童が鎌倉に向かって矢を放つ行事です。
 (太田市hpより)


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上毛かるた まみむめも

 
 ま ・・・ 繭と生糸は 日本一
 み ・・・ 水上、 谷川 スキーと登山
 む ・・・ 昔を語る 多胡の古碑
 め ・・・ 銘仙織出す 伊勢崎市
 も ・・・ 紅葉に映える 妙義山



神秘の糸に出逢う里
 群馬県立日本絹の里
 〒370-3511 群馬県高崎市金古町888-1
 ☎027-360-6300

~hpより~
群馬県立日本絹の里は、繭や生糸に関する資料や群馬の絹製品などの展示、絹を使った染織体験などにより、多くの人々が集い、伝統ある群馬県の蚕糸絹業の足跡と天然繊維であるシルクのすばらしさを紹介します。

第28回企画展「ちりめん創作人形展 ~故郷にあそぶ~」
開催期日 平成25年12月14日(土)〜2月23日(日)
開館時間 9:30~17:00
観覧料 一般:400円(320円)
大・高生:250円(200円)
中学生以下及び身体障害者手帳等をお持ちの方とその介護者1名様は無料
※( )内は20名以上の団体割引料金です。
入館料は税込みです。
休館日 毎週火曜日(但し、祝祭日の場合は翌日) ※臨時休館日有り。



 上野〈こうずけ〉三碑(または上毛〈じょうもう〉三碑)と呼ばれる古碑が、群馬県にあります。
 昭和29(1954)年、国の特別史跡に指定されました。
 多胡碑は、建郡(多胡郡)を記念して和銅4年(711)年に、山上碑は、墓碑で天武天皇10(681)年に、金井沢碑は、供養碑で神亀3(726)年に、それぞれ建てられました。
《後述:①「白雉(はくち・650-654)の後、「朱鳥(しゅちょう・すちょう・686の1年だけ)まで、年号はありません。》 ②「山上碑」に、「辛巳(かのとみ・しんし)歳」とあり、60年1サイクルの十干十二支(じっかんじゅうにし)に当時のサイクルを当てると「天武天皇10(681)年の年に該当します。
  (・ウィキぺディアでは、「山上碑」の説明文の「辛巳歳」を「已・イ」と書き込んであるように見えます。)




 多胡碑記念館
 群馬県高崎市吉井町池1085番地
 ☎ 027-387-4928

~高崎市のhpより~
 多胡碑は、奈良時代初期の和銅4(711)年に当時の群馬県では14番目の郡の多胡郡が誕生したことを記す記念碑で、日本三古碑の一つです。当時の三つの郡から三百戸を分割し、新しく多胡郡を設けたことが記されています。その優れた書体は今も多くの書家達に愛好され、多胡碑記念館では、中国等の拓本等も展示されています。周囲は緑あふれるいしぶみの里公園として人々の憩いの場ともなっています。

 ・利用時間 9:30~17:00(入館16:30マデ)
 ・休館日  月曜(月が祝祭日の場合は翌日)、12月28日~1月4日
 ・観覧料  大人200円、大学生100円、高校生以下無料。※満65歳以上無料(証明書提示)。


書道史上の価値
書道史の面から見ると、江戸時代に国学者高橋道斎によってその価値を全国に紹介され、その後多くの文人、墨客が多胡碑を訪れている。筆の運びはおおらかで力強く、字体は丸みを帯びた楷書体である。北魏の雄渾な六朝楷書に極めて近く、北魏時代に作成された碑の総称である北碑、特にその名手であった鄭道昭の書風に通ずると言われる。清代の中国の書家にも価値が認められ、楷書の辞典である『楷法溯源』に多胡碑から39字が手本として採用された。
《ウィキペディアによる》

✩後述:日本三古碑 ・那須国造碑(700年建碑、国宝、栃木県大田原市) ・多胡碑(711年建碑、国指定特別史跡)、 ・多賀城碑(762年建碑、国重要文化財)


 金井沢碑
 群馬県高崎市山名町金井沢2334


 山上碑
 群馬県高崎市山名町神谷2104



陶房窯八作



✩後述:十干十二支
 

 十干
 10を周期とする十干ですが、 十干の「干」は木の幹を語源として、陰陽五行説と結びついて、甲(こう)、乙(おつ)、丙(へい)、丁(てい)、戊(ぼ)、己(き)、庚(こう)、辛(しん)、壬(じん)、癸(き)の漢字であらわします。
 つまり、五行説の木、火、土、金、水がそれぞれ陽と陰、兄と弟に分かれて十干になります。
 兄(え)と弟(と)なので「えと」となります。


五行 陰陽 十干
木 陽 甲 木の兄=きのえ
陰 乙 木の弟=きのと
火 陽 丙 火の兄=ひのえ
陰 丁 火の弟=ひのと
土 陽 戊 土の兄=つちのえ
陰 己 土の弟=つちのと
金 陽 庚 金の兄=かのえ
陰 辛 金の弟=かのと
水 陽 壬 水の兄=みずのえ
陰 癸 水の弟=みずのと

 十二支
 
 十二支の「支」は幹の枝をあらわしています。
 古代中国では天空の方角を12に分け、それぞれの方角の記号として動物の名をつけたという説があります。子(ね、し)、丑(うし、ちゅう)、寅(とら、いん)、卯(う、ぼう)、辰(たつ、しん)、巳(み、し)、午(うま、ご)、未(ひつじ、び)、申(さる、しん)、酉(とり、ゆう)、戌(いぬ、じゅつ)、亥(い、がい)をいいます。

 この「十二支」と「十干」を組み合わせていくと、次の表に示すような60種の組み合わせができます。これを「六十干支」または「十干十二支」または単に「干支」(えと)といいます。甲子(きのえね)→乙丑(きのとうし)と順に進み、壬戌(みずのえいぬ)→癸亥(みずのとい)で一巡して最初の甲子にもどります。一巡には日にあてはめると60日、年にあてはめると60年かかることになります。


 ・ 六十干支・・・   読み1・・・・     読み2・・・     年代   
1・ 甲子・・・・・    きのえね・・     かっし・・・     1984
2 ・乙丑・・・・・    きのとうし・・    いっちゅう・・・   1985
3 丙寅・・・・・・    ひのえとら ・・   へいいん・・・   1986
4 丁卯・・・・・・    ひのとう・・     ていぼう・・・    1987
5 戊辰・・・・・・    つちのえたつ・・   ぼしん・・・     1988(昭和63年)
6 己巳・・・・・・    つちのとみ・ ・   きし・・・     1989(平成元年)
7 庚午・・・・・・    かのえうま ・・   こうご・・・     1990
8 辛未・・・・・・    かのとひつじ ・・  しんび・・・     1991
9 壬申・・・・・・    みずのえさる・・   じんしん・・・    1992
10 癸酉・・・・・・   みずのととり・・   きゆう・・・     1993
11 甲戌・・・・・・   きのえいぬ・・    こうじゅつ・・・・・1994
12 乙亥・・・・・・   きのとい・・     いつがい・・・    1995
13 丙子・・・・・・   ひのえね・・     へいし ・・・    1996
14 丁丑・・・・・・   ひのとうし・・    ていちゅう・・・  1997
15 戊寅 ・・・・・・  つちのえとら・・   ぼいん ・・・    1998
16 己卯・・・・・・   つちのとう ・・   きぼう・・・     1999
17 庚辰 ・・・・・・  かのえたつ ・・   こうしん・・・    2000
18 辛巳 ・・・・・・  かのとみ ・・    しんし ・・・    2001
19 壬午・・・・・・   みずのえうま ・・  じんご ・・・    2002
20 癸未 ・・・・・・  みずのとひつじ ・・ きび ・・・ 2003
21 甲申・・・・・・   きのえさる ・・   こうしん・・・ 2004
22 乙酉 ・・・・・・  きのととり・・    いつゆう・・・ 2005
23 丙戌・・・・・・   ひのえいぬ・ ・   へいじゅつ・・・ 2006
24 丁亥・・・・・・   ひのとい・・     ていがい ・・・ 2007
25 戊子 ・・・・・・  つちのえね ・・   ぼし・・・ 2008
26 己丑 ・・・・・・  つちのとうし・・   きちゅう・・・ 2010
27 庚寅・・・・・・   かのえとら・ ・   こういん・・・ 2010
28 辛卯・・・・・・   かのとう・・・    しんぼう・・・ 2011
29 壬辰 ・・・・・・  みずのえたつ・・  じんしん・・・ 2012
30 癸巳・・・・・・   みずのとみ ・・   きし・・・ 2013
31 甲午 ・・・・・・  きのえうま・ ・   こうご ・・・ 2014
32 乙未・・・・・・   きのとひつじ・・   いつび・・・ 2015
33 丙申・・・・・・   ひのえさる ・・   へいしん・・・ 2016
34 丁酉 ・・・・・・  ひのととり・・    ていゆう・・・ 2017
35 戊戌 ・・・・・・  つちのえいぬ・・   ぼじゅつ・・・ 2018
36 己亥 ・・・・・・  つちのとい・・    きがい・・・ 2019
37 庚子 ・・・・・・  かのえね・・     こうし ・・・ 2020
38 辛丑・・・・・・   かのとうし・・    しんちゅう・・・ 2021
39 壬寅 ・・・・・・  みずのえとら・・   じんいん・・・ 2022
40 癸卯・・・・・・   みずのとう ・・   きぼう・・・ 2023
41 甲辰 ・・・・・・  きのえたつ ・・   こうしん・・・ 2024
42 乙巳 ・・・・・・  きのとみ ・・    いつし・・・ 2025
43 丙午・・・・・・   ひのえうま ・・   へいご ・・・ 2026
44 丁未・・・・・・   ひのとひつじ・・   ていび ・・・ 2027
45 戊申・・・・・・   つちのえさる・・   ぼしん・・・ 2028
46 己酉 ・・・・・・  つちのととり ・ ・ きゆう ・・・ 2029
47 庚戌・・・・・・   かのえいぬ ・・   こうじゅつ・・・・ 2030
48 辛亥・・・・・・   かのとい・・     しんがい ・・・ 2031
49 壬子・・・・・・   みずのえね・・    じんし ・・・ 2032
50 癸丑・・・・・・   みずのとうし・・   きちゅう・・・ 2033
51 甲寅 ・・・・・・  きのえとら・ ・   こういん・・・ 2034
52 乙卯・・・・・・   きのとう・ ・    いつぼう・・・ 2035
53 丙辰・・・・・・   ひのえたつ・ ・   へいしん・・・ 2036
54 丁巳・・・・・・   ひのとみ ・・    ていし ・・・ 2037
55 戊午 ・・・・・・  つちのえうま ・・  ぼご ・・・ 2038
56 己未 ・・・・・・  つちのとひつじ・・  きび・・・ 2039
57 庚申 ・・・・・・  かのえさる ・・   こうしん・・・ 2040
58 辛酉・・・・・・   かのととり・ ・   しんゆう ・・・ 2041
59 壬戌・・・・・・   みずのえいぬ・・・  じんじゅつ・・・ 2042
60 癸亥・・・・・・   みずのとい・ ・   きがい ・・・ 2043

 2014年(平成26年)の十干十二支は、甲午(きのえうま・こうご )の年です。

参考: 旧暦で読み解く日本の習わし
日本史小百科 暦


上毛かるた はひふへほ

 

 は ・・・ 花山公園 つつじの名所
 ひ ・・・ 白衣観音 慈悲の御手
 ふ ・・・ 分福茶釜の 茂林寺
 へ ・・・ 平和の使い 新島襄
 ほ ・・・ 誇る文豪 田山花袋



 埼玉の行田や羽生を舞台にした小説「田舎教師」や、「蒲団」などの作者で知られる、田山花袋(1872年1月22日―1930年5月13日)は、館林出身です。
 群馬県立つつじが岡公園は、上毛かるたに花山公園としてうたわれています。
 分福茶釜の茂林寺も、花山公園も館林市にあります。


 ゴルフで栃木方面に行くとき、「茂林寺」、「向井千秋記念こども科学館」、「正田醤油株式会社・正田記念館」の表示板を左右に見ながら、館林市内の道路を通ります。


群馬県立つつじが岡公園
:・群馬県館林市花山町3181. ・総合事務所☎0276-74-5233. ・「つつじまつり」以外の時期は、フルオープン、駐車場無料。 ・「つつじまつり」開催期間:4月中・下旬~5月中旬.・期間中の入場時間7:00~18:00.・期間中の駐車場料金600円程…?。


「茂林寺」
:・群馬県館林市堀工町1570. ・☎0276-72-1514. ・入場9:00~16:00. ・木曜不定休. ・宝物(分福茶釜など)拝観料 おとな300円.こども150円。


向井千秋記念こども科学館
:・群馬県館林市城町2番2号. ・☎0276-75-1515. ・開館時間9:00~17:00.・休館日月曜・祝祭日の翌日.利用料大人310円(高校生以上)、中学生以下無料。


正田記念館
:・群馬県館林市栄町3番1号 (正田醤油株式会社内).・☎0276-74-8100(正田醤油㈱〈代電〉)、入館料無料.・開館時間10:00~16:00.・休館日土曜、日曜、夏季休暇、年末年始。


陶房窯八作⑤


「正田醤油株式会社」HPより
このページは正田醤油お客様相談室宛に寄せられた商品に対するご質問の中で特にお問い合わせの多かったもの、醤油に関する疑問などについて載せてあります。

Q&A 商品について

Q1 醤油の賞味期間はどれくらい?
 ・ペットボトル: こいくち:18ヶ月. うすくち:12ヶ月. しろしょうゆ:・・・・
 ・ガラスビン : こいくち:24ヶ月. うすくち:18ヶ月. しろしょうゆ 8ヶ月
 容器によって異なりますがおよそ以下のようになります。
・ 開栓前は直射日光のあたらない低温の場所に置いて頂ければ1年から1年半ぐらいは普通にお召し上がり頂けます。ただし一旦栓を開けた醤油は味や香りが落ちてきますので、なるべく冷蔵庫に保管し、1ヶ月位の間に使い切りたいものです。 

Q2 醤油は開封前、賞味期限内なら色が黒くなても大丈夫ですか?
・賞味期限内であれば色が黒ずんでいてもご使用には差し支えありません。しかしどうしても風味は落ちてきていますので、かけ醤油としてよりも他の調味料で味付けを調整できる煮物等へのご使用をおすすめします。 

Q3 開栓後の醤油に白い粒ができましたが、どうしたらよいでしょうか?
 ・ これは酵母の一種で、食品衛生的には特に問題はなく無害です。発生の程度が少量であれば漉して煮炊き等にご使用いただいても差し支えありませんが、多い場合は摂食されない方が無難です。

Q4 味噌から醤油のような液体が出ていますが…
 ・ 味噌が熟成する過程で原料が分解し発生する味噌だまりと考えられます。少量であれば特に問題はありません。

Q5 醤油、味噌は開封前ならば賞味期限を過ぎても食べられますか?
 ・ 醤油、味噌は保存食であるため、賞味期限を過ぎてすぐに腐敗したり、品質が劣化する事はありませんがおいしく召し上がって頂くために賞味期限内のご使用をおすすめします。

【醤油の雑学】
Q&A 醤油について

その1 醤油のおいしさ・香りについて
醤油は醸造によって生まれたアミノ酸などの旨み成分がたっぷり含まれており、ほどよい塩味、酸味、甘味とバランスよく溶け合っておいしさを引き出します。醤油の香りにはバラ、ヒヤシンス、パイナップルなど、花や果実の香りを代表に、約300種類もの成分が含まれています。このよい香りが醤油のおいしさをより一層もりあげているのです。

その2 醤油の種類・使い方について
・醤油には、おなじみのこいくち醤油の他にもいろいろな種類があります。
素材の味や色を生かしたい、関西風に仕上げたいときにはうすくち醤油、
お刺身や魚の照り焼きには濃厚なさいしこみ醤油やたまり醤油と、お料
理によってお醤油を使い分ければ、我が家の味のレパートリーがさらに
広がります。また、塩分の摂取量を気にされる方にはうす塩醤油や減塩
醤油をおすすめします。


その3 意外な醤油の使い方
・ 醤油は意外なところでも効果を発揮します。アイスクリームに一滴たら
すと、香りが引き立ちます。カレーライスやバターライスに入れれば、
コクが増し風味も上がります。また、肉や魚の下味に使えば臭みが消え
、ほどよい焼き色、そして香ばしさがプラスされます。これら以外にも
梅干や漬物の塩辛さをまろやかにするなど、素材の持ち味を引き立てる
、まさに魔法の調味料なのです。和風料理にはもちろん、中華、フレン
チ、イタリアン、エスニックまでどんなお料理にもお使いいただけます。

その4 醤油の効用
・主に下記6つの効用があります。
〈消臭効果〉
醤油をつけて刺身などを食べるのは、味はもちろんのこと生臭みを消す大きな働きがあるためです。日本料理の下ごしらえにある「醤油洗い」は、この効果を利用して、魚や肉の臭みを消しています。
〈加熱効果〉
すきやき、煮魚をはじめ、蒲焼き、焼き鳥など醤油を必須とする多くの日本料理は単に醤油を温めてしみこませたのではなく、各素材との間にその料理固有の新しい香味成分をつくり出します。
〈殺菌効果〉
適度な食塩分と有機酸類、その他の成分によって、大腸菌やその他の食中毒菌を死滅させ日持ちを良くする効果があります。
〈対比効果〉
一方の味が強く、他方の味がごくわずかな場合、主体の味がより強く感じられるのが対比効果です。
ご家庭で餡やおしるこをつくるとき仕上げに少量の食塩を入れることは常識となっていますが、この食塩の量を少し控えめにして、その分醤油を少々加えることをおすすめします。
〈抑制効果〉
混ぜたときに一方あるいは両方の味が弱められることが抑制効果です。塩辛いものに醤油をたらすと、塩辛さが抑えられることがあるのはこのためです。
〈相乗効果〉
醤油の無数の成分を調理で加えることは、それらの味や香りを単に加えるのではなく、相乗的にさらに深い旨みを作り出しています。

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陶房窯八作⑥


プロフィール

むさしの想坊

Author:むさしの想坊
 これから何が飛び出してくるのでしょうか。ひきだしの奥にしまっていたものと合わせ、足跡を綴っていきたいと思います。
 昨日は金環日食をみることが出来ました。
・東京スカイツリー開業日の2012年5月22日記。

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