5月の詩  五月の詩

2017/ 05/ 07
                 
 「萩原朔太郎記念館」が、つい1か月前の2017年(平成29年)4月8日から新たに公開となりました。
 移築復元場所は、前橋文学館と広瀬川を挟んだ河畔緑地です。
 今年の5月11日は、 萩原朔太郎(〈※〉)没後75年となります。

〈※〉萩原 朔太郎:はぎわら さくたろう、1886年(明治19年)11月1日 - 1942年(昭和17年)5月11日).詩人。
「萩原朔太郎記念館」:〈⁂前橋文学館アドレスにナビ設定〉
「前橋文学館」:群馬県前橋市千代田町三丁目12番10号. tel 027-235-8011.
 ・開館時間 9:00~17:00.・休館日 毎週水曜日〈祝日の場合翌日)と年末年始.
 ・文学館の周辺は、広瀬川沿いにさまざまな詩碑が設置されています。水の街前橋ならではの散策コースとなっています。


五月の詩3



五月の詩  5月の詩   

五月の詩2


寺山修司 「五月の詩・序詞」-詩集『われに五月を』より-

   きらめく季節に
   たれがあの帆を歌ったか
   つかのまの僕に
   過ぎてゆく時よ

  夏休みよさようなら
  僕の少年よ さようなら
  ひとりの空ではひとつの季節だけが必要だったのだ 重たい本 すこし
  雲雀の血のにじんだそれらの歳月たち

  萌ゆる雑木は僕のなかにむせんだ 
  僕は知る 風のひかりのなかで
  僕はもう花ばなを歌わないだろう
  僕はもう小鳥やランプを歌わないだろう
  春の水を祖国とよんで 旅立った友らのことを
  そうして僕が知らない僕の新しい血について
  僕は林で考えるだろう
  木苺よ 寮よ 傷をもたない僕の青春よ
  さようなら

   きらめく季節に
   たれがあの帆を歌ったか
   つかのまの僕に
   過ぎてゆく時よ

  二十才 僕は五月に誕生した
  僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる
  いまこそ時 僕は僕の季節の入り口で
  はにかみながら鳥達たちへ
  手をあげてみる
  二十才 僕は五月に誕生した


1-1ミユ


谷川俊太郎 5月の詩 

  言葉 

何もかも失って
言葉まで失ったが
言葉は壊れなかった
流されなかった
ひとりひとりの心の底で

言葉は発芽する
瓦礫(がれき)の下の大地から
昔ながらの訛(なま)り
走り書きの文字
途切れがちな意味

言い古された言葉が
苦しみゆえに甦(よみがえ)る
哀(かな)しいゆえに深まる
新たな意味へと
沈黙に裏打ちされて

1-15 タヌキ

  一心

生きのびるために
生きているのではない
死を避けるために
生きているのではない

そよ風の快さに和む心と
竜巻の禍々(まがまが)しさに怯(おび)える心は
別々の心ではない
同じひとつの私の心

死すべきからだのうちに
生き生きと生きる心がひそむ
悲喜こもごもの
生々流転の

1-8 ノウサギ


  もし言葉が

黙っていた方がいいのだ
もし言葉が
一つの小石の沈黙を
忘れている位なら
その沈黙の
友情と敵意とを
慣れた舌で
ごたまぜにする位なら

黙っていた方がいいのだ
一つの言葉の中に
戦いを見ぬ位なら
祭りとそして
死を聞かぬ位なら

黙っていた方がいいのだ
もし言葉が
言葉を超えたものに
自らを捧げぬ位なら
常により深い静けさのために
歌おうとせぬ位なら


1-2 キジバト


三木露風 「去りゆく五月の詩」-日本詩人全集〈三木露風〉より-  

われは見る。
廃園の奥、
折ふしの音なき花の散りかひ。
風のあゆみ、
静かなる午後の光に、
去りゆく優しき五月のうしろかげを。

空の色やはらかに青みわたり
夢深き樹には啼〔な〕く、空〔むな〕しき鳥。

あゝいま、園〔その〕のうち
「追憶」〔おもひで〕は頭〔かうべ〕を垂れ、
かくてまたひそやかに涙すれども
かの「時」こそは
哀しきにほひのあとを過ぎて
甘きこころをゆすりゆすり
はやもわが楽しき住家〔すみか〕の
屋〔をく〕を出〔い〕でゆく。

去りてゆく五月。
われは見る、汝〔いまし〕のうしろかげを。
地を匍〔は〕へるちひさき虫のひかり。
うち群〔む〕るゝ蜜蜂のものうき唄
その光り、その唄の黄金色〔こがねいろ〕なし
日に咽〔むせ〕び夢みるなか……
あゝ、そが中に、去りゆく
美しき五月よ。

またもわが廃園の奥、
苔古〔ふ〕れる池水〔いけみず〕の上、
その上に散り落つる鬱紺〔うこん〕の花、
わびしげに鬱紺の花、沈黙の層をつくり
日にうかびたゞよふほとり――

色青くきらめける蜻蛉〔せいれい〕ひとつ、
その瞳、ひたとたゞひたと瞻視〔みつ〕む。

ああ去りゆく五月よ、
われは見る汝のうしろかげを。

今ははや色青き蜻蛉の瞳。
鬱紺の花。
「時」はゆく、真昼の水辺〔すゐへん〕よりして――


1-3ヒヨドリ


室生犀星 「五月」-日本詩人全集<室生犀星>より-
           
  悲しめるもののために
  みどりかがやく
  くるしみ生きむとするもののために
  ああ みどりは輝く


1-4ツグミ


中原中也 五月

昼たちし砂塵(さじん)もじっと落付きて淡(うす)ら悲しき春の夕よ 


1-7 シロハラ


萩原朔太郎 「五月の貴公子」-日本詩人全集〈萩原朔太郎「月に吠える」〉より-

若草の上をあるいてゐるとき、
わたしの靴は白い足あとをのこしてゆく、
ほそいすてつきの銀が草でみがかれ、
まるめてぬいだ手ぶくろが宙でおどつて居る、
ああすつぱりといつさいの憂愁をなげだして、
わたしは柔和の羊になりたい、
しつとりとした貴女(あなた)のくびに手をかけて、
あたらしいあやめおしろいのにほひをかいで居たい、
若くさの上をあるいてゐるとき、
わたしは五月の貴公子である。


五月の詩1












                 
        

冬至

2016/ 12/ 21
                 
 今年を振り返る今日この頃となっています。




一年の越しかた良しと柚子風呂に  西崎佐知


湯上りの柚子の香まとひ集まりぬ  加藤美津子


わが余生浸りて想ふ柚子湯かな  八巻年子



冬至 柚子湯 2016年12月21日




                 
        

雨ニモマケズ  宮沢賢治

2016/ 08/ 08
                 


 二人の東北旅行のおりに、 宮沢賢治の古里もおとずれました。
 賢治の記念品の一つとなっている「雨ニモマケズ」。童話「銀河鉄道の夜」とともに、ときに心に響いてくる詩です。


《 「雨ニモマケズの周辺」

 宮沢賢治の没後、賢治愛用のトランク蓋裏のポケットから、一冊の黒手帳が発見されました。これが有名な「雨ニモマケズ」の手帳です。くり返し書かれた南無妙法蓮華経のお題目、快楽もほしがらずに見られる反省や悲願のことば、等といっしょに「雨ニモマケズ」が書いてありました。

 最初に 11.3 とあるのは、昭和6年11月3日を示す日付です。当時、賢治は病床に臥せっておりました。しかし、病人の手になるものとは思えない程の大きな、しっかりした字で、前後9ページに及んで書き込まれております。

 この「雨ニモマケズ」を書いたとき、賢治はおそらく、死を予感していたと想像されます。それを念頭におけば、最後の方の「ソウイウモノニワタシハナリタイ」という悲願が、ずっしりとした重みで、われわれの胸をうちます。

 賢治が晩年、農民と共に生きようとしてつくった「羅須地人協会」のあとには、昭和11年に、「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ・・・・・・」からはじまる石碑が建立され、今でも訪れる人が多くおります。

       財団法人
         宮沢賢治記念会 》

①雨ニモマケズ

③印刷雨ニモマケズ


雨ニモマケズ -1-

雨ニモマケズ -2-

雨ニモマケズ -3-



                 
        

 宮沢賢治  種山ヶ原(作品第368番) パート三

2016/ 08/ 06
                 

 特に詩歌・童話の世界において、宮沢賢治の名を世に高らしめた一番の功労者は、草野心平その人です。心血を注ぐ彼の尽力があったからこそ、こんにちの「宮沢賢治」ワールドがあるといっても過言ではありません。
  大正14年(1925年)7月、『春と修羅』を読んで「瞠目し感動し」た草野心平から賢治のもとに書簡が届いたことから二人の交友が始まり、同年8月には、草野編集の文芸誌『銅鑼』に詩が発表されています。

 ここ埼玉県における宮沢賢治の足跡をたずねると、大正5年(1916年)9月、賢治は盛岡高等農林学校農学科の2年生の時の学校の地質旅行に参加したおりに、熊谷市、寄居町、長瀞町、小鹿野町、秩父市に足を運んでいます。

宮沢賢治画②


 宮沢賢治は、明治29年(1896年)8月27日、岩手県稗貫(ひえぬき)郡花巻町〈現花巻市〉に生まれ、郷里において昭和8年(1933年)9月21日永眠しました。(享年37歳)

 大正5年(1916年)9月、宮沢賢治は盛岡高等農林学校農学科の2年生の時に、学校の地質旅行に参加して埼玉県各地を訪れていますが、この年の3月には修学旅行で、京都、東京方面に初めて旅行し、8月には、絵画、浮世絵への関心がたかまり、帝室博物館見学のために上京しています。

◇詩歌・童話集の発刊:
 大正13年(1924年)4月、心象スケッチ『春と修羅』〈大正11年1月より大正12年12月までの詩69篇を収録〉を自費出版で東京関根書店より刊行。発行部数一千部。
 大正13年(1924年)4月、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』を東京光原社より刊行。
 昭和2年〈1927年)1月、『春と修羅』第二集〈大正13年2月より大正14年10月までの作品108篇収録)の出版を予定して「序」を書いていますが、出版はされていません。
 また『春と修羅』第三集は、大正15年(1926年)5月より昭和2年(1927年)9月までの作品、126篇収録の詩となって書き残されています。
◇没後の全集発刊:
 昭和9年(1934年)10月、「宮沢賢治全集」全三巻が文圃堂より刊行。
 昭和14年(1939年)11月、「宮沢賢治全集」全七巻を十字屋書店より刊行、昭和19年(1944年)2月完結。
 昭和31年(1956年)4月より「宮沢賢治全集」決定版全十一巻を筑摩書房より刊行、昭和32年(1957年)2月完結。

宮沢賢治画①



 宮沢賢治の詩には、「春」、「冬」の文字が良く使われています。
 反面、「夏」という言葉が見つかりません。私が目を通した限りにおいては、次の「種山ヶ原 パート三」に1カ所だけ載っています。諸兄姉において、賢治の「詩」の中に、「夏」が表記されているのをご存知でしたら、どうぞ教えてください。
 

「種山ヶ原 パート三  宮沢賢治」

この高原の残丘(モナドノックス)
こここそその種山の尖端(せんたん)である
炭酸や雨あらゆる試薬に溶け残り
苔から白く装(よそは)れた
アルペン農の夏のウヰーゼの
いちばん終りの露岩(ろがん)である
わたくしはこの巨大な地殻の冷え堅まった動脈に
槌(つち)を加へて検(しら)べよう
おお 角閃石(かくせんせき) 斜長石 暗い石基と斑晶(はんしゃう)と
まさしく閃緑玢岩(せんりょくふんがん)である
じつにわたくしはこの高地の
頑強に浸蝕に抵抗したその形跡から
古い地質図の古生界に疑(うたが)ひをもってゐた
そしてこの前江刺(えさし)の方から登ったときは
雲が深くて草穂は高く
牧路(まきみち)は風の通った痕(あと)と
あるかないかにもつれてゐて
あの傾斜儀の青い磁針は
幾度もぐらぐら方位を変へた
今日こそはこのよく拭(ぬぐ)はれた朝ぞらの下
その玢岩の大きな突起の上に立ち
  ……赤いすいばとひとの影……
なだらかな準平原や河谷(かこく)に澱(よど)む暗い霧
北はけはしいあの死火山の浅葱(あさぎ)まで
天に接する陸の波
イーハトヴ県を展望する
いま姥石(うばいし)の放牧地が
緑青(ろくしやう)いろの雲の影から生れ出る
そこにおお幾百の褐や白
馬があつまりうごいてゐる
かげろふにきらきらゆれてうごいてゐる
食塩をやろうと集めたところにちがひない
しっぽをふったり胸をぶるっとひきつらせたり
それであんなにひかるのだ
起伏をはしる緑のどてのうつくしさ
ヴァンダイク褐にふちどられ
あちこちくっきりまがるのは
この高原が
十数枚のトランプの青いカードだからだ
  ……蜂がぶんぶん飛びめぐる……
海の縞(しま)のやうに幾層ながれる山稜と
しづかにしづかにふくらみ沈む天未線(スカイライン)
ああ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵(ちり)とでなりたつときに
風も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは
水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ
  ……蜂はどいつもみんな小さなオルガンだ……

(※)所収:日本詩人全集 20 宮沢賢治 発行所株式会社新潮社 昭和42年4月10日発行


宮沢賢治大正15年ごろ
 宮沢賢治(大正15年頃)



                 
        

山村暮鳥  雲  あるとき

2016/ 08/ 05
                 


「雲  山村暮鳥」

おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平(いはきたひら)の方までゆくんか

(※)所収:現代日本名詩集 大成 3 発行所東京創元新社 昭和40年6月30日 四版

①セミの抜け殻20160805


「あるとき  山村暮鳥」

また蜩(ひぐらし)のなく頃となつた
かな かな
かな かな
どこかに
いい国があるんだ

(※)所収:日本詩人全集 13 発行所株式会社新潮社 昭和43年7月20日発行

②セミの抜け殻20160805


山村暮鳥は、明治17年(1884年)1月10日、群馬県西群馬郡棟高(むなだか)村〈現在高崎市〉に生まれました。
大正2年(1913年)、第一詩集『三人の処女』を、新声社より自費出版。大正4年(1915年)『聖三稜玻璃』(人魚詩社)、大正7年(1918年)『風は草木にささやいた』(白日社)、大正10年(1921年)『梢の巣にて』(洛陽堂)、それぞれの詩集を刊行。大正12年(1923年)、39歳の時に、童話集『鉄の靴』を内外出版社から刊行しています。没後、大正14年(1925年)詩集『雲』がイデア書院より、大正15年(1926年)詩集『月夜の牡丹』(花岡謙二編)が紅玉堂より、相次いで刊行されました。