小谷ささら獅子舞 鴻巣市指定無形民俗文化財

2016/ 10/ 14
                 
 小谷のささら獅子舞は、五頭(五匹)で舞います。関東地方の獅子舞はほとんど三頭(三匹)で舞いますので、とても印象深く感じます。
 無病息災、家内安全を願って、獅子舞、棒術、刀術、槍術が奉納されます。
 今から51年程前の昭和40年(1965年)11月17日、市の指定無形民俗文化財に指定されました。
 300年程前から伝えられてきた小谷のささら獅子舞ですが、説明書きには、「起源は不詳」と記されていました。

 「観光こうのす 2016年 秋・冬号 №22」に、小谷のささらは、10月10日(月・祝)の13時~日枝神社となっていましたが、現地の掲示板には、
金乗寺 午前10時、
寶勝寺 午前11時、
日枝神社 午後1時~。
となっていました。

 当日、あらためて、ちょっと立ち寄ったところ、運よく、寶勝寺に向かうところに出会いました。

小谷のささら③201610

小谷のささら①201610

 これから獅子舞いが始まるというところで、本日は庭を後にしました。

小谷のささら②201610

小谷のささらは、「ささら獅子舞保存会」というような名前の保存会かなと思っていたのですが、「小谷文化財保存会」という名称で、地域芸能文化の伝承を図っていることが判りました。



                 
        

小谷のささら 五頭獅子舞

2015/ 10/ 17
                 
 国立民族学博物館研究報告26巻2号「三匹獅子舞の分布」(著者:笹原亮二.発行:2001年10月22日.出版社国立民族学博物館.)によると、全国の「三匹獅子舞」は、その数1,400か所以上《※①》にのぼるとあります。
 また、埼玉県域においては,中断や廃絶を含めると,200ヵ所以上の所在を確認することができる《※②》とあり、大芦のささら獅子舞にみるごとく、現在も県内200か所以上で獅子舞が伝承されているということではないような気も致します。


 「小谷のささら」は、他所とは異なり、珍しく五頭立てとなっていますので、この「三匹獅子舞の分布」調査の対象外となっているのでしょうか。ということからすると、《埼玉県は「獅子舞王国」といわれるほど獅子舞の伝承が多く、その数なんと200か所以上。》というのもあながち的を得ていないということではないのかも知れませんね。(他の拠りどころとする紹介記事では、《伝承されている獅子舞は160か所以上》とありました。)

⑪小谷のささら20151012 説明書き前段

⑫小谷のささら20151012説明書き後段

小谷のささら・金乗寺(2015年10月12日午前10時~)
⑬小谷のささら20151012五頭立て金乗寺

小谷のささら(2015年10月12日)〈「法螺貝」を珍しく感じました…〉
⑭小谷のささら 金乗寺→寶勝寺

小谷のささら・寶勝寺(2015年10月12日午前11時~)
⑮棒術子供二人小谷のささら20151012

小谷のささら・寶勝寺(2015年10月12日午前11時~)
⑯棒術大人二人小谷のささら20151012

小谷のささら(2015年10月12日.稲穂も揺れず、静穏な一日でした。)
 〈金乗寺、寶勝寺、日枝神社の何れもほんの数分のところに位置していますので、移動も楽です。〉
⑲小谷のささら20151012


小谷のささら・日枝神社(2015年10月12日午後1時~)
 〈「奉納」の後、演舞者の挨拶。「挨拶」も珍しいなと感じました…〉
⑰小谷のささら日枝神社フィナーレ20151012

小谷のささら・日枝神社(2015年10月12日)
⑱小谷のささら日枝神社奉納のあと20151012





※①参照項:《全国各地には獅子舞が分布していて,日本で最も数が多い民俗芸能といわれている。日本の獅子舞は,2人以上の演者で1匹の獅子を演じる二人立の獅子舞と,1人で1匹の獅子を演じる一人立の獅子舞に分類される。両者の違いは単に形態の面に止まらず,二人立は古代に成立した外来の舞楽・伎楽系統,一人立は中世末から近世初期にかけて成立した風流系統というように,芸能史的に異なる系統に属している。
 一人立の獅子舞のひとつに,三匹獅子舞と呼ぼれる民俗芸能がある。三匹獅子舞は,頭上に獅子頭を戴き,腹部に太鼓を付けて1人で1匹の獅子を演じる演者が,3人一組となって獅子舞を演じるものである。三匹獅子舞は広域的かつ大量な分布が認められる。分布は,東日本においては,静岡,関東甲信越,岩手を除く東北地方,北海道と1都1道15県に及び,ほぼ全域において分布が見られ,その数は1,400ヶ所以上にのぼる。一方,西日本においては,江戸時代に埼玉県川越から伝来したとされる福井県小浜市に数ヵ所見られるのみである。・・・》

※②参照項:《3.10 埼玉県の三匹獅子舞
 埼玉県域においては,中断や廃絶を含めると,200ヵ所以上の所在を確認することができる36)。分布はほぼ全県域に及んでいるが,特に川越市から東松山市にかけての中央部,群馬県と接する深谷市から神川町にかけての北部,群馬・栃木・茨城各県と接する加須市付近の北東部,千葉県と接する東部に集中が認められる。三匹獅子舞は単に獅子舞と呼ばれているが,ササラあるいはササラ獅子舞と呼ぶところも多い。利根川流域や荒川流域,秩父地方には龍頭舞と呼ぶところがある37)。
 3匹の獅子は雄2匹と雌1匹から構成され,呼称は① 大(男)獅子・女獅子・中獅子,② 法眼・女獅子・男獅子,③ 太夫獅子・女獅子・男獅子,④ 前(先)獅子・中(女)獅子・後獅子の4種類に大別される。中部以東の広い地域では① が使われ,その西側に接する地域には② が分布している。児玉地方では② に④ の系統が混入した法眼・中獅子・後獅子と呼ぶところが多い。③ は秩父の浦山から入間郡西部にかけてと南埼玉・北葛飾郡方面に分布する。④ は秩父地方と入間郡の川越や狭山方面で見られる。
 そのほか,皆野町皆野の大狂い・女獅子・小狂い,児玉町東小平の一番獅子・二番獅子・三番獅子など,独自の呼称を使用しているところもある。獅子頭の形状は獅子形式と,全体が前後に長い龍形式に大別される。獅子形式には先が分枝した鹿角と鳥の羽の叢を持つものが多く,秩父盆地を中心とする山間部に分布しているのに対して,龍形式では捻り角に毛の叢が多く,利根川沿岸に分布している。しかし,秩父地方でも古い獅子頭は龍形式が多いので,両形式は地域差ではなく時代差とも考えられる(山199国立民族学博物館研究報告  26巻2号本1986)。構造は木彫に漆塗りが一般的で,児玉・秩父方面では毎年塗り替えるところもある。
 獅子役は腹部に付けた太鼓を打ちながら,難子方の笛と歌に合わせて舞う。獅子役の太鼓の構造には鼓形式と桶胴形式があり,前者は秩父・児玉・大里方面に多く,それ以外では後者を使用している。
 獅子舞は基本的には若者組によって行われてきた。昔は舞手を長男に限っていたところがほとんどで,十代前半から始めて,年齢が上がるに従って演じる演目や役が変わっていった。獅子宿を毎年同じ旧家が務めるというように,個人の家と獅子舞の結び付きが認められるところも多い。
 獅子役以外の役としては,大宮・桶川方面では行列の先導役の天狗がそのまま舞に加わる。秩父地方では天狗を仲立ちと呼び,最初に舞場に入って一頻り舞って獅子を導く。児玉地方では,少年が演じるカンカチと呼ぼれる役が両手に持った鉄棒を打ち鳴らしながら獅子と一緒に舞って難す。同様の少年が演じる役は,入間郡一帯ではハイオイ(蝿追い)や山の神,比企郡では難子っ子,鷲宮ではオカジシと呼ぼれている。
 ヒョットコなどの滑稽な面を着けたドウケやメンカと呼ばれる道化役が登場するところもあり,それらは木製の男根をぶら下げてオカメと抱き合ったりして見物人を笑わせる。花笠を被り女装した少年や少女が務めるA摺り役が加わるところも多い。北足立方面では花笠を被った彫っ子と笛吹きが2名ずつ出る。そのほか,万灯の随行も各地で見られる。幸手市下千塚では,台車に立てた大型の万灯を大勢で引き回す(幸手市1997:784-785)。
 この地方では獅子舞は秋祭に行われる場合が多く,次に多いのが夏である。ただし,地域差があり,東部の南埼玉・北葛飾両郡では夏が多く,春祭にも行われるが,秋祭にはほとんど行われない。北埼玉郡では春祭に行われるところが多い。舞場は祭が行われる社寺の境内に設けられ,庭あるいは芝と呼ぼれている。宿から行道してきて練り込み,舞が上演される。その前後に,地域内の祠堂や家々を巡って演じる村回りが行われる。南埼玉・北葛飾両郡では悪疫退散の祓いが毎年恒例の行事として行われていて,辻固め・辻切りと呼ばれている。こうした定期的な上演以外に,雨乞いや病気が流行した時の悪疫退散のお祓いとして,臨時の上演が各地で行われていた。
 舞の内容は,上演される曲目数から見ると,曲目が多い秩父方面西部,3~4曲以上であるがそれ程多くはない北西部・山麓・東部・東南部の諸地域,1~2曲と少ない中央部の北足立・入間・比企各郡の3地域に大別される。曲目には,ほぼ全域で見られる女獅子隠し,中央部以外でよく見られる幣掛かりや弓掛かりなどの掛かりもの200笹原  三匹獅子舞の分布など,ある程度共通するものもあるが,基本的には各獅子舞によっていろいろで,かなり多様性が認められる。付随する芸能としてはハナボウ・ハヤシボウなどと呼ぼれる棒術があり,行道の際に露払いや警護役を受け持つ棒使いが,舞場で獅子舞に先立って披露する。棒術が付随する獅子舞は中央部を南北に貫くかたちで分布している38)。
 由来に関する伝承は,江戸期より前のものとしては,源義家が兵卒の士気を鼓舞するために始めたとする浦和市南部領辻や羽生市中手子林,楠正成の子孫が信州から諏訪神社を勧請して奉納したのが始まりとする両神村薄(大友1990:49),太田道潅の家臣が京より伝えたとする富士見市渡戸などがあげられる。16世紀後半のものとしては,元亀3年(1572)に城主の息女の嫁入りに先導を務めたのが始まりと伝える上里町金久保,長篠の戦い(1575)で敗れて落ち延びた武田氏の家臣が伝}た大滝村浜平,元亀・天正の頃に上杉謙信が上野国からささら師を招いたのが始まりと伝える羽生市村上君などがある。三郷市戸ヶ崎では,天正年間に凶事凶作が続いたので,領主が角兵衛の末孫を召して獅子舞を奉納したところ万幸来福を得たのが始まりとしている。
 江戸期以降になると伝承の数は増加する。流行病や干天洪水などの厄災退散を祈願して始まったとする伝承は,飯能市北川・川島町園部など,各地に見られる(倉林1970:368-369)。領主との関係を伝える伝承としては,川越藩主がその地を領有することになり,寛文7年(1667)に検知が行われた際に始まったとする上尾市藤波,寛永11年(1634)の領主酒井氏の若州小浜への国替えの際に2体の獅子頭を携えたために中断を余儀なくされたと伝える川越市石原(倉林1970:367-370)などがある。獅子頭が洪水の時に漂着して始まったとするところが,行田市下中条・北川辺町飯積中新田・久喜市久喜など(大友1990:49-50),中川水系域に重なるかたちで分布している(埼玉県行政情報資料室1993:928-929)。川越市下小坂では寛政年間に寺の住職にお告げがあって始まったと伝xているが,仏教や僧侶との関係を伝えているのは,川越市石原・大宮市今羽・越生町上野・横瀬町芦ヶ久保など意外に多い。秩父市矢行地では,安永4年(1775),秩父札所総開帳の時に平賀源内の口添えで始まったと伝えている。他所から伝来したという伝承も各地で見られる。近隣から伝わったとしているところが多いが,前述の信州を初め,三河国・伊勢・京都・宇佐といったかなり遠方からの伝来を伝えているところもある。
 記録類としては,17世紀のものでは寛永5年(1628)の熊谷市池上の女獅子,寛文8年(1668)の本荘市台町の女獅子(山本1986:177-178),寛永12年(1635)の年号が記された東松山市野田の獅子舞保管箱と太鼓の胴,元禄10年(1697)の越谷市下間久里からの伝来が記された春日部市銚子口の巻物がある。18世紀に入ると,秩父市201国立民族学博物館研究報告  26巻2号矢行地の宝永2年(1705)の役割書,幸手市平須加の道具箱の宝永6年(1709)の銘など,記録類の残存は増加する39)。
 この地方では,獅子舞の由来や秘伝を記した巻物が各地に伝わっている。内容には何種類かあり,宮中に獅子頭が飛来して始まったという起源を説く秩父市浦山の『大日本獅子舞之来由』,鞍馬寺から書写したとする北川辺町飯積のr獅子舞の始』,平将門に因んだ起源を記す皆野町門平のr竜頭之巻』,稲荷大明神が獅子の供養に始めたとする『獅子舞略縁起』(埼玉県立民俗文化センター1985:182-184)などがある。
 巻物は,浦山のr大日本獅子舞之来由』とほぼ同じものが名栗町下名栗に伝わっているように,書写されて他所に伝えられた。巻物は開けると目がつぶれるといって開くのを忌まれる一方で,桐箱に収めて行列の先頭で天狗が捧げ持ったり,万灯や幟旗に下げたり,天狗が持って舞ったりして見物人に顕示されている40)。
 倉林正次はこの地方の獅子舞を,中央部系統・北部系統・西部系統・山麓系統・北西部系統・東部系統・東南部系統の7種類に分類している(倉林1970:57)。こうした分類は,埼玉県域の状況を整理するということで一定の有効性が認められる。しかし,この地方では北部でのみ若干見られたカンカチが群馬県域では広く分布していたり(飯塚1984:31),千葉県野田市清水町の獅子舞は越谷市原馬室から巻物を発給されていたり(飯塚1993:262-264)といった他県域との関係を考慮すると,埼玉県域に限定して系統の厳密な細分化を試みるだけでなく,県外まで視野に収めて広域的な文脈で系統や特徴をえていく必要があるように思われる。》