石田堤史跡公園 忍城水攻め(天正18年・1590年)

2016/ 09/ 21
                 
 JR高崎線、北鴻巣駅、または、吹上駅から2.4kmのところに位置している、「石田堤史跡公園」(鴻巣市袋字台326-1)。
 2015年4月1日には、「石田堤歴史の広場」もオープンしました。50台分の駐車場、そしてトイレがついています。
 武蔵水路に沿って、「さきたま緑道」(さきたま古墳群・さきたま古墳公園・風土記の丘方面)が通っていますので、散策がてらに歩いて行こうと思う方は、北鴻巣駅(東口)下車をおすすめします。

石田堤史跡公園①

②石田堤史跡公園

 石田堤は、総延長28kmに及んでいました。今、その面影をとどめているのが、鴻巣市と行田市にまたがる、「石田堤」です。

 
 忍城水攻め(天正18年・1590年)の際に、人夫に支払われた賃金は、昼夜を通して突貫工事を行ったので、夜は高めになっています。
 昼は、銭六十文と米一升。夜は、銭百文と米一升。
③ 忍城水攻め 賃料

 忍城水攻めの8年前の、天正10年(1582年)に、秀吉は、備中高松城を水攻めにしましたが、ここでの人夫に支払った賃金は、土嚢一俵との交換として、銭百文と米一升でした。
④備中高松城 水攻め

 秀吉は、このほかにも、天正8年(1580年)の三木城の兵糧攻め、天正9年(1581年)の鳥取城の兵糧攻め、そして、天正13年(1585年)の紀州太田城の水攻めによる包囲作戦をしています。
⑤兵糧攻め・水攻め

                 
        

「権八地蔵とその物語」…「白井権八と幡随院長兵衛」  

2016/ 09/ 04
                 

 三谷幸喜作の、NHK大河ドラマ『真田丸』。
 《戦国時代最後の名将・真田幸村。
その本名を、真田源次郎信繁という。
好奇心にあふれ、冒険を好み、戦国の世を駆け抜けた真田信繁は、
いつしか、覇者・徳川家康をも恐れさせる伝説の武将となった。

真田幸村伝説には、もうひとつのストーリーがある。
天才の父、秀才の兄の背を追いかけながら、故郷に住む家族と共に
乱世を生き延びていくために、迷い、悩み、苦しみながら成長していく、
家族愛にあふれた次男坊・信繁の物語。

大坂の陣において真田信繁が、戦国時代最後にして最強の砦
「真田丸」を作りあげるまでの人生は、戦国の荒波に揉まれ続けた
小さな家族船「真田丸」での長い長い航海の道程でもあった。
(『真田丸』公式サイト冒頭文)》
 と、斯く申す通り、作者、脚本家によるシナリオは、史実もものかは、ドラマであるがゆえに、どこにスポットをあてていくかにより、自由奔放というが如く筋書きは変化していきます。


 今回の主人公、平井権八も、知る人に知る、その名はつとに知れ渡っていますが、
彼のプロフィールの何が事実で、何が虚構なのかということとなると、随分と悩みが深くなります。
 例えば、歌舞伎での演目の一つにある、白井権八と幡随院長兵衛との出会いなど、互いの生存年代が異なっていますから、後世の全くの作りものであるということは論を待ちません。

とまあ、長くなってしまったプロローグはそんなくらいにして、いざ本題に入ることに致しましょう。



 平井権八(ひらいごんぱち)のモデル名は、白井権八(しらいごんぱち)。
 浄瑠璃、歌舞伎、落語と、それぞれの脚本家によって、権八に息吹があたえられています。
 当然の如く、各々の舞台に登場するストーリーは異なります。
 ですが、平井権八は実在の人物でしたので、脚色の中にも共通の事実が語られています。
 一つ.江戸時代前期の武士。
 一つ.因幡(いなば)鳥取藩士で、同藩の藩士(「父の同僚・父の同役・父の敵・同僚」などの表記有り)を殺(あや)め、出奔(しゅっぽん)する。
 一つ.浪人となり、江戸に出る。
 一つ.吉原の遊女(小紫などの名…)と馴染み、その金策のため辻斬り(人数不記載が多い。130名という記載もある。)に及んだ。
 一つ.品川の鈴ケ森で刑死(「処刑・獄門・磔刑・刑死」の四つの表記有り)。
 
 平井権八の生没年については、次の表記が見られます。
  ①デジタル大辞泉:[?~1679]
  ②デジタル版 日本人名大辞典+Plus:[1655?-1679](明暦元年?生まれ)
  ③大辞林 第三版:〔(延宝年間(1673~1681)に磔(はりつけ)になったという]
  ④世界大百科事典:[1679年(延宝7)11月3日処刑され・・・]
  ⑤ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典:[延宝7 (1679) 年に処刑され・・・]
  ⑥朝日日本歴史人物事典:[(1679年没か)]
  ⑦大辞林 第三版:
  [~1(1655年 - 1679年12月5日).
  ~2生誕明暦元年1655年 死没延宝7年11月3日(1679年12月5日)(満23-24歳没)]



 先日、三つの権八地蔵のもとを訪れたと書きましたが、一つは鴻巣市の公式ページに、一つは熊谷市の公式ページに載っていました。
 そしてもう一つは、『忍の石物語~幻の石碑を訪ねて』(行田市民大学 平成26年度5期生 歴史・文化Bグループ.作成日:平成27年2月5日)に記述

《・・・見せて頂いた資料の中の埼玉県の「鴻巣市だより」に面白い記事がありました。権八地蔵の本物が埼玉県鴻巣市の勝願寺〈※〉にあるというのです。(以下、略)。(2001年9月12日記) 》

の、鴻巣市本町にある勝願寺のお地蔵様です。(〈※〉「勝願寺」の「権八地蔵」については、他所にも記載有ります。)

 その勝願寺のお地蔵様に手を合わせて来ましたが、お地蔵様の由緒書きに相当するような立札はありませんでしたので、ここでは写真をアップするにとどめておきます。(〈※〉写真では、「延宝元年」〈※〉という文字が見てとれるようです。〈※:延宝元年=1673年〉)
勝願寺お地蔵様20160831①

勝願寺お地蔵様20160831②石碑
勝願寺お地蔵様20160831③石碑






☆鴻巣市指定民俗資料「権八地蔵とその物語」(平成3年8月21日指定)

 権八延命地蔵20160831①

 権八延命地蔵20160831②

◇立札書き:「権八延命地蔵」・「権八地蔵(ごんぱちじぞう)とその物語(ものがたり)」
 《権八は、姓を平井といい、鳥取藩士であったが、同僚を殺害したため脱藩し江戸へ逃れた。その途中金に困り、久下の長土手で絹商人を殺害し大金を奪い取った。
 あたりを見廻すと地蔵様を祀った祠があった。
 良心が咎め己の罪の深さにいくばくかの賽銭をあげて「今、私が犯した悪行を見ていたようですが、どうか見逃してください。また、誰にも言わないでください。」と手を合わせると、地蔵が「吾(わ)れは言わぬが汝(なれ)は言うな。」と口をきいたと伝えられている。
 この話から、この地蔵は「物言い地蔵」と呼ばれるようになった。権八はその後捕えられ、延宝8年(延宝7年とも)に鈴ヶ森の刑場(東京都品川区南大井)で磔(はりつけ)の刑に処された。
      参考:延宝8年(1680)
 平成24年2月  鴻巣市教育委員会

⑯延命地蔵20160831

◇『鴻巣市文化財マップ』:「権八地蔵とその物語」
  《権八は鳥取藩主池田家の家臣で、わけあって脱藩し江戸へ逃れた。ある時久下の長土手で絹商人を殺害し大金を奪い取り、辺りを見回すと地蔵様の祠があった。
 良心が咎め、いくばくかの賽銭をあげて「今、私が犯した悪行を見逃してください」というと地蔵が「わしは言わぬが我言うな」と口をきいたという。この話から、この地蔵は「物言い地蔵」と呼ばれた。
 権八はその後捕えられて延宝8年(1680)に品川で処刑された。
  (荊原町内会)
 



☆熊谷市指定有形民俗文化財「権八地蔵」(昭和31年11月3日指定)


⑧久下権八地蔵20160831

◇立札説明書き:久下権八地蔵尊
 《元禄11年(1698)に造立された地蔵。江戸時代に平井権八という男が罪を犯し、お地蔵様に向かって「誰にも言うな」と明かしたところ、「我は言わぬが、汝こそ言うな。」と答えたという逸話で知られています。

⑩熊谷久下権八地蔵20160831

◇熊谷市Web博物館熊谷デジタルミュージアム:熊谷市指定有形民俗文化財:「権八地蔵ごんぱちじぞう」
 ・所在地 久下2342-5
  ・所有者(管理者) 地蔵堂
 「久下の地蔵堂に安置されている、高さ1.5mの延命地蔵であり、また子育地蔵でもあります。元禄11年(1698)に作られた、歌舞伎の「鈴ヶ森すずがもり」などで知られる平井権八が、久下の土手で人を殺し大金を奪ったとき、「このことは黙っていてくれ」と祈ったところ、「われは言わぬが、なれ言うな」と口をきいたというので、この地蔵は「権八地蔵」の他、「物言い地蔵」と言われています。」
 
◇熊谷市Web博物館熊谷デジタルミュージアム
 ・市指定有形民俗文化財「権八地蔵」とは何ですか?
 ・回答します
 「元禄11年(1698)造立された地蔵であり、江戸時代平井権八の物語と結びつけた「物言い地蔵」として有名です。石地蔵としては、県内最古のものと推察されています。
 江戸時代、江戸から中仙道を進んでいた平井権八が、久下堤で信州の商人に遭遇し、その商人の持金を奪って殺してしまった。ふと傍を見ると石地蔵が立っていることに気づいた。権八に良心が甦ったか地蔵に向かって「このことは、誰に言ってくれるな」と、地蔵は「我は言わぬが汝言うな」と口をきいたという逸話が言い伝えられています。
 吹上(現、鴻巣市)においても権八地蔵という名の地蔵が存在しますが、平井権八の伝説よりも後の時代の建立であると言われています。
 元々、権八地蔵は、久下堤防上にありましたが、堤防の改修により久下上区の人家に移された後、昭和32年、地元の人々の協力でお堂が建てられ、そこに安置されることになりました。」

⑦久下権八地蔵20160831



                 
        

箕田古墳群 郷土史研究ということではないのですけれど・・・

2016/ 09/ 02
                 

 きょうは朝から、マイタケとエノキダケを天日干しにしています。
 (キノコは天日干しにすることによって、健康にとって必要不可欠な成分が、新たに生じます。)
 洗濯ものも干しています。


 というようなことはさておきまして、
 私は群馬県で生まれ、このかた23回ほど現住所を変えました。
 学生時代、サラリーマン時代を含めると、東京都内での住所替えが一番多かったようです。
 その次が、終の棲家としている埼玉県でしょうか。

 生れ育った群馬県、そして今、長らく住んでいる埼玉県には、大小さまざまな古墳が、今でもあちこち点在しています。
 
 そういった生い立ちが多少なりとも影響したかもしれませんが、身近なところにある古墳群を気にかけたのは、「鴻巣市文化財マップ」を見たからです。旧跡の「伝箕田館跡」を訪れたさいに、「箕田二号墳」が目の前にあったことで、「箕田古墳群」を知ることとなりました。

 以下、それぞれの古墳の説明書きをつけて、道順に従って各々の古墳写真をアップしました。説明書きある古墳は、その文書を転記して写真の下に載せました。

(〈※〉長短高さなどの寸法、年などの数字は、漢数字から算用数字に置き換えて表示しましたが、「△号墳」の箇所は、固有名詞になっているのかどうか判らないということもあり、あえて「ソノママ」表示していますので、その旨ご留意いただければと思います。なお、蛇足とは思いましたが、幾つか「〈※〉注記」を付け足しました。)
 


鴻巣市指定文化財(史跡)
箕田古墳群(みだこふんぐん)  昭和45年3月10日指定

⑥箕田古墳群20160831
【注記〈※〉説明文に書かれてある通り、箕田一号墳、箕田三号墳は現存しません。箕田四号墳・箕田六号墳の所在判りませんでした。】

 箕田古墳群は大宮台地の北端部、通称箕田台地と呼ばれる台地上にある。
 古墳群は、標高16~18メートルの地点に、幅約600メートル、長さ1000メートルの広い範囲に亘って散在している。
 古墳の分布から、宮前支群、富士山支群、龍泉寺支群、稲荷腰支群、追分支群の五つに分けられる。
 これまでに九基の古墳の所在が知られているものの、現在は 一、三号墳が消滅しているため、わずかに七基の古墳が残っているのみである。
 周辺付近一帯から埴輪片が採集される事実からすると、往時は相当数の古墳が存在していたものと思われ、鴻巣市では、生出塚古墳群〈※〉と並んで最も多くの古墳が密集していた地域である。
 『新編武蔵風土記稿』の記述が古墳群に関する最古のものである。
 昭和3年に柴田常恵氏によって七号墳の発掘調査が科学的調査の最初で、続けて 二、三、九号墳(宮登古墳)で実施されている。
 須恵器有蓋高坏(すえきゆうがいたかつき)、𤭯(はそう)〈※〉、埴輪(はにわ)、金環(きんかん)、鉄鏃(てっそく)等が発見されているが、九号墳は埴輪を作っていなかったことが調査により明らかとなっている。
 これらの発掘調査の成果によって、箕田古墳群は、六世紀初頭から七世紀中葉に至るまでの約150年間に亘って築造されたことが判明している。
  平成24年2月

〖注記:
〈※〉生出塚古墳群(おいねづかこふんぐん)=国指定文化財「重要文化財・考古資料」・名称「埼玉県生出塚埴輪窯跡出土品」.・所在地「クレアこうのす(鴻巣市教育委員会)」

[〈※〉𤭯(はそう):「はんぞう・はぞう」とも読む。
 ・ 『大辞林』を紐解くと、「はそう」:「𤭯」、「匜」、「半挿」。〔「はぞう」とも〕 ①〈省略シマス〉 ②特に考古学で須恵器の一器型にあてた名とあります。丸い胴部に小さい孔があけられた口の広い小型壺。穴に竹の管を差し込み、液体を注ぐのに用いたとされる・・・と記載されています。

 ・ 「はんぞう」は『広辞苑』に、「半挿、【瓦+泉】、【木+泉】、【医-矢+也】」と表記され、「湯・水を注ぐ道具。柄の中の穴を湯・水が通ずるようにしてあり、この柄が半分本体の中に挿しこまれているところからの名」とあり、「はにそう」「はそう」ともいうとあります。 これから「はんぞう」→「はぞう」→「はそう」と転訛した様子がうかがえます。

 ・ 『岩波漢語辞典』によれば、「泉」の語源は「丸い穴から水がわき出てしたたり落ちるさまを描いた象形文字」とあります。これから【瓦+泉】は陶製の、【木+泉】は木製(漆器)の「水差し器」を表すもので、【医-矢+也】とともに「波佐布」(ハサフ)と文字が転化しています。〗


箕田二号墳(みだにごうふん)  昭和45年3月10日指定
①箕田2号墳20160901
 本墳の現状は直径23メートル、高さ2.7メートルを計る円墳である。墳頂に氷川神社があるため 墳形は若干変形しているものの、全体として保存状態は良好である。
 昭和58年(1984)〈※原文のママ〉の発掘調査によって、墳丘を巡る周溝が確認され、そこから築造当時は、直径32メートルの規模で箕田古墳群の中でも、箕田三号墳に次ぐ大きさであったことが明らかになった。
 また、周溝内より須恵器有蓋高坏、甕の破片及び埴輪片が検出されており、本墳は六世紀後葉に築造されたものであることが判明している。
 なお、本墳の南側一帯は、箕田館の推定地であることから、『武蔵国郡村誌』には、武藏守源仕及び妻子の墓とする古記述がある。しかし、源仕の活躍した年代と築造年代には大きな隔たりがあり、これは後世に古墳と館とが結びついて伝承されたものであろう。
 また、同誌では本墳を「三士塚」(さんしづか)と呼んでいる。
  平成24年2月
      〖注記:〈※〉昭和58年は、1983年。〗


箕田五号墳(みだごごうふん)
③箕田5号墳20160901


箕田7号墳(みだななごうふん)
③箕田七号墳20160901



鴻巣市指定史跡  昭和45年3月10日指定
箕田古墳群:箕田八号墳
④箕田八号墳20160901
 この箕田八号墳は、台地の斜面上に作られているため、斜面下側からと上側からとでは見る位置の違いで規模が異なるように感じられる。
 現状は長径16.7メートル、短径10.5メートルの長楕円形で、西側の墳裾からの高さは 3.1メートルである。
 本来は直径20メートル以上の規模となる円墳だったと推察される。また、周囲の状況から墳丘を巡る周溝が存在するものと思われる。
 これまで正式な発掘調査が行われていないため、埋葬部の形状、出土遺物は明らかになっていない。墳裾付近から採集された円筒埴輪の特徴から、築造年代は古墳時代後期(6世紀代)と推定されている。
 古墳時代後期になると、一定の地域内に小規模な古墳が群集するようになった。箕田古墳群もそうした古墳群のひとつで、この箕田八号墳は、箕田古墳群の中の富士山支群に属している。
 現在この周辺には、南方50メートルに 箕田七号墳が存在しているだけであるが、かっては多数の古墳が存在していたとみられる。
  平成24年2月  鴻巣市教育委員会



鴻巣市指定史跡  昭和45年3月10日指定
宮登古墳〈みやとこふん〉  (箕田9号墳)
⑤箕田九号墳20160901
 箕田古墳群の一基で、荒川に面する大宮台地の西側縁辺部に位置している。
 墳丘の保存状態は比較的良好で、直径20m、高さ2m程を有する円墳である。昭和34年に埋葬部の発掘調査が行われており、それによると主体部は 角閃石安山岩(かくせんせきあんざんがん)を使用した銅張(どうば)り型 横穴式石室(よこあなしきせきしつ)で、玄室(げんしつ)長2.9m、奥壁幅1.3m、高さ1.65mを有する。
 玄室(げんしつ)内からは、須恵器(𤭯すえき はそう)〈※〉、鉄鏃(てつぞく)、切子玉(きりこだま)〈水晶製〉、管玉(くだたま)、丸玉(まるたま)他が出土しており、これらの遺物から十世紀の前半~中頃にかけて築かれた古墳と考えられている。また、埴輪類は認められていないので、埴輪樹立の風習が行われなくなった以後のものであろう。
 なお、石室に使われた角閃石安山岩(かくせんせきあんざんがん)は、群馬県榛名(ぐんまけんはるな)山二ツ岳の爆発によりできた岩石で、利根川流域に分布する。本墳を作った人々は利根川からわざわざこの岩石を運んだものであろう。
  昭和62年3月
  鴻巣市教育委員会


                 
        

 「鴻巣市文化財マップ」&「箕田古墳群」

2016/ 09/ 01
                 

 《―ご利用いただく皆様に―
 文化財は郷土の歴史・文化を正しく理解するうえで、欠くことのできない貴重な私達の財産です。「鴻巣市文化財マップ」は郷土の文化財を紹介し、ふるさと鴻巣を広く周知するために作成したものです。多くの方々にご利用いただければ幸いです。》

 平成27年9月25日付で発行された「鴻巣市文化財マップ」に載っている、「鴻巣市指定文化財・史跡」№19~№25までが、「箕田古墳群」の七基の古墳です。

 8月31日と、9月1日と二度にわたって、それぞれの所在地をたずねました。

①箕田古墳群地図20160831

 昨日は徒歩で、今日は車です。

②箕田古墳群地図20160901

 というのも、七基あるはずのうちの二基の古墳が、昨日探した範囲では見つからなかったため、今日はナビにそれぞれの住所を登録して所在を確かめようと思ったからです。
 
車での移動距離と、歩いての距離に若干の違いは出てくるでしょうが、本日の結果は次の通りとなりました。

 №19.箕田古墳群(箕田2号墳):鴻巣市箕田1260 ※後ほど写真アップします。 
  ↓ 0.15km
 №20.箕田古墳群(箕田4号墳):鴻巣市箕田980 ※所在不明です。
  ↓ 0.35km
 №21.箕田古墳群(箕田5号墳):鴻巣市箕田179-2 ※後ほど写真アップします。
  ↓ 0.6km
 №22.箕田古墳群(箕田6号墳):鴻巣市箕田248-2 ※所在不明です。
  ↓ 0.5km
 №23.箕田古墳群(箕田8号墳):鴻巣市箕田351-1 ※後ほど写真アップします。
  ↓ 0.05km
 №24.箕田古墳群(箕田7号墳):鴻巣市箕田341-1 ※後ほど写真アップします。
  ↓ 0.6km
 №25.箕田古墳群(箕田9号墳):鴻巣市宮前79 ※後ほど写真アップします。

 いつの間にか、№20と、№22の古墳は消滅していたようです。
 

 箕田2号墳、箕田8号墳、そして、箕田9号墳には、それぞれ、古墳の説明書きがありましたので、写真と一緒に後掲します。


 はなしは変わりますが、
 8月31日には、「権八地蔵」を拝んできました。鴻巣2か所、熊谷1か所、つごう3か所のお地蔵さんです。
 「権八地蔵とその物語」(鴻巣市荊原地内)も、鴻巣市指定文化財〈民俗文化財〉として、指定されています。

 幡随院長兵衛に「お若えの、お待ちなせえやし」と問われ、「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」と応える歌舞伎の名場面などで知られる、白井(平井)権八に所縁のあるお地蔵様です。
 
 こちらも、近々載せる予定です。


                 
        

「伝箕田館跡」&「箕田古墳群」

2016/ 08/ 31
                 

 きょうは8月31日の水曜日です。
 
 前々から、「箕田館跡」(※)を見たいと思っていました。
 昨年入手した「鴻巣市文化財マップ」(平成27年9月25日.編集・発行:鴻巣市教育委員会.監修:鴻巣市文化財保護委員会)を拠りどころにして、デジタルカメラ片手に出かけました。
 
 行く先は、JR高崎線北鴻巣駅西口からほど近いところです。

 近所の方に所在をお聞きしたところ、「箕田館跡」という話は聞いたことがないが、遠い昔、この地に住んでいたお姫様の所縁を示した石が、すぐ近くにあると教えて頂きました。
 指さす先に、目的のものがありました。家と家との境界の間の小さな三角地に、小さな石が置かれていました。

①伝箕田館跡20160831

 (※)「伝箕田館跡」(埼玉県指定 旧跡)
 《 およそ1000年前の平安時代後期、嵯峨源氏河原左大臣源融(とおる)の孫、仕(つこう)は武蔵守に任ぜられ、箕田郷を開墾して居館を作ったとされる。
 いわゆる箕田源氏の祖で、その子孫には宛(あつる)、渡辺綱などが排出し、武勇伝が『今昔物語』や『御伽草子』に語られている。
 現在はその推定地付近に石碑が立つだけで、館跡の面影をとどめるものはない。》(所在地:鴻巣市箕田1265外)


 「箕田館跡石碑」近くの駐車場に車を停めたのですが、その場所は「箕田二号墳」(所在地:鴻巣市箕田1260)駐車場でした。3台停めることができます。
 「二号墳」と番号をふっている古墳です。説明書きには、九基の古墳(そのうち二基は既に消滅)があると記述されています。
 古墳の所在地を見ると、箕田と宮前です。歩いて行ける範囲です。
 
 「箕田古墳群」の一つひとつを、ぐるっと見て回ることにしました。
 
 
 ※追補:きょうは、「箕田館跡」と「箕田古墳群」をぐるっと巡りましたが、3か所の「権八地蔵」も訪ねてきました。