晩鐘

2015/ 01/ 11
                 
 佐藤愛子さんは、1923年11月5日生れです。
 2014年12月10日、株式会社文藝春秋から、『晩鐘(ばんしょう)』が発刊されました。
 91歳を数え、まだまだ筆勢衰えることを知りません。

 夫だった彼と、彼を取りまく人々への追慕と、残されたものの寂寥感が、終章の終わり12行にたんたんと綴られています。


 今はもう、辰彦をわかりたいとは思いません。わからなくてもいいのです。人が抱えている深淵は誰にもわかりません。本人でさえもわからないのではないかと思います。
 畑中辰彦は彼なりに、一所懸命に生きた――。
 彼はかく生きた――。
 辰彦だけじゃない。庄田さんも川添さんも桑田さんも、皆、「かく生きた」という事実があるだけです。その人生の意味とか、徒労であったとか、立派であったとか、辛かっただろうとか、幸福とか不幸とか、そんなことをいう必要などないのです。わからなくてもいい。わからないままに、「かく生きた」という事実の前に私は沈黙して頭を下げる。それだけです。

 見渡す限りの広野に私は一人、佇んでいます。広野の果てに太陽が沈んで行くのを見ています。太陽の頭が少しずつ小さくなっていって、とうとう地平に没し、その残光の中に夕暮の靄(もや)が湧いて広がります。気のせいでしょうか。微かに遠く、低い鐘の音(ね)が聞えます。
 でもその鐘の音は、あるいは他の人には聞えない、私にだけ聞えているものかもしれません。
                               (完)


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