能「巴」 大河ドラマ…?!

2015/ 05/ 25
                 
 能「巴(ともえ)」は、修羅能(※)として唯一の「女人が主役」の作品です。
 義仲の死をしかと見届けた巴[能]と、命を受け軍(いくさ)の途中で落ち延びてゆく巴[平家物語」と。異なる二人の「巴」が現世に交錯しています。 

 NHKの2020年、大河ドラマは、「巴御前」に決まる。という仮説を立てて、筋書きを追ってゆくと、平家物語による巻九の「木曾最後」の描写にかかるところでは、能の「巴」に軍配があがるようです。

 「物語」というと、作り話にも通じます。「能」の世界もまた然り。題材として得たものをどういう推し量り方をして観る者の心を引き込んでゆくのか。

 「巴御前(ともえごぜん)は、木曽義仲(きそよしなか・源義仲)の側室。中原兼遠(なかはらかねとお)の娘。
 (ちなみに、義仲の正室は、藤原伊子(ふじわらのいし)で、父は関白・松殿基房。後に源通親の側室となり道元(曹洞宗開祖)を生んだとされる。松殿伊子とも記されています。)
 樋口兼光(ひぐちかねみつ・中原兼光)、今井兼平(いまいかねひら・中原兼平)の兄弟は、巴の兄。」と、ここで私はあらためて定義づけをします。
 そうすることによって、物語は先に進むことができます。
 主役が主人公です。
 テレビドラマ「巴」の脇役陣は、木曽義仲、義仲の正室、中原兼遠、樋口次郎兼光、今井四郎兼平などですが、脇役が主人公をくった筋書きとなると、あっちを向いて、こっちを向いてという風になって、照準が定まらなくなります。
  義仲、兼遠、兼光、兼平、そして藤原伊子の没年は後世の書物それぞれに記載がありますが、さいわいにして巴御前だけは没年とも不詳です。
 没年が判らないということは裏を返して言うと、自由に色づけが出来るキャラクターということにもつながります。
 
  今まで、巴を主役にした小説は、お馴染み姿三四郎の著者、富田常雄が1954年に「巴御前」を、鈴木輝一郎が2004年に「巴御前」をそれぞれ著しています。二人の作品は、それぞれどんなような展開になっているのか、とても気にかかります。早く一読する機会を得ようと思います。

 
 能での巴は、義仲と自害を望みますが、〈汝(なんじ)は女なり、忍ぶ便りもあるべし、これなる守り小袖を、木曾に届けよこの旨を、背かば主従三世(※)の契り絶え果て、永く不興・・・〉との義仲の言葉を受け、息絶えた主人を後にして湖畔(琵琶湖)を立ち去ります。
 作中で、巴の霊が粟津(滋賀県)を旅する僧侶に、涙とともに述べたのが、〈落ち行(ゆ)きし後ろめたさの、執心を弔(と)ひて賜(た)び給(たま)へ〉という願いでした。



注記:※
 ・修羅能(しゅらのう):能の演目の中で武人がシテになる曲を言う。修羅物とも言う。
  能柄:二番目物で、凡そ50分の上演。
 ・主従三世(しゅじゅうさんぜ):主従の間柄には、現在だけでなく過去・未来にもわたる深い因縁があるものだということ

 
《メモ》
・巴御前:生没年不詳
・木曽義仲:久寿元年(1154)年-寿永3年1月21日(1184年3月5日)
・藤原伊子:仁安2年(1167年)-承元元年(1207年)
・中原兼遠:生年不詳-治承5年(1181年)
・樋口兼光:生年不詳-元暦元年2月2日(1184年3月15日)
・今井兼平:仁平2年(1152年)-寿永3年1月20日(1184年3月4日)


 
 平家物語(日本古典全書「平家物語」・中 富倉徳次郎校註 昭和31年5月20日第4版発行 発行所朝日新聞)による平家物語巻第九「木曾最後(きそのさいご)」から、「巴」の記述するところを拾い読みしてみましょう。

 《 木曾殿は信濃より、巴(ともゑ)・款冬(やまぶき)とて、二人の美女(びぢよ)を具せられたり。款冬(やまぶき)は労(いたは)りあつて、都にとどまりぬ。中(なか)にも巴(ともゑ)は色白く髪長くして、容顔(ようがん)誠に美麗(びれい)なり。有難き強弓(つよゆみ)、精兵(せいびゃう)、弓矢(ゆみや)・打物(うちもの)取っては如何なる鬼にも神(かみ)にもあふと云ふ一人當千の兵(つはもの)なり。究竟(くつきよう)の荒馬乗(あらうまの)り、悪所落(あくしよおと)し、軍(いくさ)といへば、まずさねよき鎧(よろひ)きせ、大太刀(おほだち)・強弓もたせて、一方(いつぽう)の大将に向けられけり。度度(どど)の高名(かうみやう)、肩を並ぶる者なし。されば多くの者ども落ち失せ討たれける中(なか)に、七騎がうちまでも巴は討たれざりけり。
 ・・・   ・・・   ・・・
 ・・・ そこをも破って行く程に、あそこでは四五百騎、ここではニ三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中を懸け破り行く程に、主従五騎にぞなりにける。五騎が内までも、巴は討たれざりけり。木曾殿、巴を召して、「己(おのれ)は女(をんな)なれば、是(これ)よりとうとう何(いづ)ちへも落ち行け。義仲は討死をせんずるなり。若(も)し人出(ひとで)にもかかわらずば、自害(じがい)をせんずれば、木曾の最後の軍(いくさ)に女を具(ぐ)せられたりなんど、云はれん事こそ口惜しけれ。とうとう落ち行け」と宣へども、猶落ちも行かざりけるが、あまりにつよう云はれ奉(たてまつ)て、「あはれ、よからう敵(かたき)がな。木曾殿の最後の軍(いくさ)して、見せ奉らん」とて、ひかへて敵(かたき)を待つ處に、武藏の國に、聞えたる大力(だいぢから)、おん田(だ)の八郎師重(もろしげ)、Ⅲ廿騎ばかりで出(い)で來(き)たり。巴(ともゑ)其の中(なか)へ懸け入り、おん田(だ)の八郎に押し双(なら)べ、むんずととつて引き落し、吾が乘つたりける鞍の前輪(まえわ)に押し付けて、ちつともはたらかさず、頸ねぢ切つて捨ててんげり。其の後巴は物具脱ぎ棄て、東國方(とうごくかた)へ落ちぞ行く。・・・ ・・・ 》



讀賣新聞 2015年(平成27年)5月24日(日曜日) 「よみほっと」日曜版
 名言巡礼 能「巴」(作者不詳、室町時代) 義仲を慕う心根の深さ 2ページ
能「巴」イラスト①

能「巴」②

能 「巴」 ③



補足:能楽の流派(ウィキペディアによる)

能楽の流派は大和猿楽四座の系統の流派と、それ以外の日本各地の土着の能に分けられる。大和猿楽四座とは観世座、宝生座、金春座、金剛座であるが、更に江戸期に金剛座から分かれた喜多流の五つを併せて四座一流と呼ぶ。喜多流は金剛流より出、金春流の影響を受けつつ江戸期に生れた新興の一派であって、明治期にいたってほかの四流と同格とされた。喜多流は創流以来座付制度を取らず喜多座と呼ばれることはなかったので、五座ではなく四座一流となる。四座のうち奈良から京都に進出した観世、宝生を上掛りと呼び、引き続き奈良を根拠地とした金春、金剛を下掛りと呼ぶ。喜多は下掛りに含む。

大和猿楽四座は豊臣秀吉が政策的に他の猿楽の座(丹波猿楽三座など)を吸収させた為、江戸時代に入る頃には事実上、日本の猿楽の大半を傘下におさめていた。現在、四座一流の系統の能楽師たちは社団法人能楽協会を組織しており、能楽協会に加盟している者が職業人としての能楽師と位置づけられている。

一方、大和猿楽四座に統合されなかった能楽が残存している地域もあり、四座一流では演じられない曲目や、その地域独特の舞いを見ることが出来る。有名なものとしては、山形県の春日神社に伝わる黒川能、黒川能から分かれた新潟県の大須戸能などがある。

なお、能楽協会所属の能楽師によって上演される能楽においては、能楽全体の流儀はシテ方の流儀によって示される。また能に限り、家元を宗家と称する。これは江戸期に観世家に限り分家(現在の観世銕之亟家)を立て、これをほかの家元並みに扱うという特例が認められたことに基づくものである。分家に対し、本家が「宗家」と称したのがやがて「家元」の意味で用いられるようになったものである。現在では、同姓の分家との関係で用いられないかぎり、ほぼ「家元」の言いかえである。

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