熊谷うちわ祭 ここが判らない

2015/ 07/ 23
                 
 読者の方から、「わからない・・・」と質問があった、熊谷うちわ祭に書かれている言葉の意味をメモしました。


ひとつ:「引き合わせ叩き合い」 

 ・「叩き合い」というのは、2台以上の山車や屋台が、熊谷囃子を鳴らして競い合うことを言います。
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 ・特に祭りのクライマックスである曳合せ叩き合いでは、全ての山車・屋台がお祭り広場に集結し、勇壮なお囃子を響かせます。
 ・熊谷うちわ祭の見どころは、「叩き合い」で一日の最高潮を迎えます。 3日間とも叩き合いは行われますが、1番迫力があるのは、3日目最終日の曳き合わせ叩き合いです。 集結した山車・屋台の響き渡るお祭り囃子が、集まった人々を魅了します。

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ひとつ:「年番送り」
 今年度の大総代が、次年度の大総代にバトンタッチする儀式を「年番送り」といいます。
 ・熊谷うちわ祭りは、8つの地域が順番に年番町となり運営されています。
 ・この8つに、年番町にならない4つの地域が加わり合計12地域の山車や屋台が熊谷囃子を鳴らしながら街を練り歩き、「疫病退散」「五穀豊穣」「商売繁盛」を祈願するお祭りです。
 ・年番を担当する順序をここでは建制順序といっていますが、市街地をほぼ時計回りに一周するようになっています。年番町にならない4町区は付番されていませんが、伊勢町区および桜町区をそれぞれの町区と関係の深い荒川区・仲町区の次に置き、末尾に石原八坂神社で祭礼を行う2町区をこの順序で置くことが一般的で、かつ、この順序は、21日昼の巡行祭での巡行順、22日夜のお祭り広場での曳き合わせ叩き合いでの並び順にも用いられています。

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ひとつ:「そもそも『熊谷夏祭』の由来は?」
 ・うちわ祭の由来は、商店では夏祭りの期間中、買い物客に赤飯を振舞う風習がありました。
 しかし赤飯は手間がかかるため、当時の生活必需品であるうちわを配ったところ、好評をはくし、以後「うちわ祭」の呼び名が定着しました。

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もうひとつ:さらに詳しく、「熊谷うちわ祭の歴史」について、熊谷うちわ祭の公式サイトより転記しましたので、ご参照ください。
 なるほどとご理解頂きまして、来年のお越しをお待ち申し上げることに致します。

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《熊谷うちわ祭の歴史》
うちわ祭は、当地に鎮座する八坂神社のご祭礼です。
八坂神社は、文禄年間(1592~)に京都八坂神社を勧請し、現在鎌倉町にある愛宕神社に合祀されたものであります。
熊谷の夏祭りの起源を示す最初の記録は、江戸中期の寛延3年(1750)に、当時各寺社ごとに行っていた祭りを町内統一の祭りにする上申書でありました。町役人の許可により、以来町内全体の祭りとなり、現在の祭りの形態が作られました。
その頃の祭事係は、祭りの期間一躍町役人と同じ力を持ち、祭りのすべてを取り仕切る祭番となり、形態とともに権限も脈々と受け継がれております。
天保年間(1830~)は祭りの中輿の時代といわれ、重さ200貫の神輿が新調され、祭りの原点ともいえる全町合同の神輿渡御が始まりました。またこの頃より、町内各店が祭りの期間中、買物客に赤飯をふるまった事から、「熊谷の赤飯ふるまい」として評判となり、祭りの名物となりました。
「うちわ祭」の名称の由来は、明治35年頃より、料亭「泉州楼」の主人が、東京での修行時代に、神田明神の「天王祭」でうちわが飛び交う祭を見た事などにより、東京の老舗伊場仙から渋うちわを買い入れ、赤飯のかわりに客にふるまったところ大評判となった事に始まります。
その後各商店でもうちわを出したため、買い物は「熊谷うちわ祭」の日といわれるようになりました。
時を同じくして絹産業などの発展などにより町はにぎわい、各町競って山車・屋台を購入し、神輿渡御と山車・屋台巡行による現在のうちわ祭の原型はこの時に作られ、今日まで続いております。 このように「町民一体として始まった伝統」「江戸からの祭文化の継承」「自ら熱意で祭をつくり上げてきた熊谷人の心意気」が融合し、今や関東一の祇園として発展しております。



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