デートの風景 阿刀田高 小説工房12カ月

2015/ 09/ 08
                 


 阿刀田高も、私と同様、中原中也の詩との出会いは、高校生のころのようです。

 「小説工房12カ月」の「Ⅱ小説工房の秘密」中に、「デートの風景」と題して、中原中也の詩「湖上」を載せています。


    湖上
         中原中也

  ポッカリ月が出ましたら、
  舟を浮かべて出掛けませう。
  波はヒタヒタ打つでせう、
  風も少しはあるでせう。

  沖に出たらば暗いでせう、
  櫂(かい)から滴垂(したた)る水の音は、
  昵懇(ちか)しいものに聞こえませう、
  あなたの言葉の杜切(とき)れ間を。

  月は聴き耳立てるでせう、
  すこしは降りても來るでせう、
  われら接唇(くちづけ)する時に
  月は頭上にあるでせう。

  あなたはなほも、語るでせう、
  よしないことや拗言(すねごと)や、
  洩らさず私は聴くでせう、
  ――けれど漕ぐ手はやめないで。

  ポッカリ月が出ましたら、
  舟を浮かべて出掛けませう、
  波はヒタヒタうつでせう、
  風も少しはあるでせう。
               (〈在りし日の歌〉)


 高校生のころに出会った詩だ。私の高校は東京・杉並区にあって井の頭公園が近い。上級生はガールフレンドを誘って公園の池でボートを漕ぐんだ、とか。
 現実問題として、この公園で夜中にボートを出すのはむつかしかったろうけれど、イマジネーションは、そんな制約を超えて飛翔してしまう。
 このときの印象がよほど強かったせいかどうか、以来今日に至るまで私は女性とのあいびきというと、水上にボートを浮かべる情景を思い描いてしまう。
 実際には……一度もない。六十余年の人生、という思い返してみても、そういう体験はない。
 なのに、一番と言ってよいほどまっ先に思い浮かべるデートのシーンが、水の上、ボートの中、二人向かいあって男が漕ぎ、女が脚を畳んでいる……。
 ―なぜかなあ―
 やっぱり中原中也の詩のせいらしい。青春の血の蠢き始めたころ、この〈湖上〉を読んで妄想をたくましくしたせいらしい。
 「今どき、ボートって珍しいんじゃない」
 「どこに行けばあるだろう?」
 「夏は暑いし、虫なんかが出るし、冬は寒いわよ」
 「言える」
 「第一、みんなが見てるわ」
 「たいしたこと、できんしな、ボートの中じゃ」
 「なに考えてんの。厭ねえ」
 ボート上のデートについては、こんな会話が想定されるだろう。
 その通り、中也の詩のようにはうまくは運びそうもない。
 しかし、断然よいのである。この詩が、この詩に描かれている風景が、雰囲気が……。
 ポッカリと月が出て、気候もほどよい。夜が更けるにつれ月は男女のよしない会話に聞き耳を立てる。二人を包むのは、月あかりの薄闇と、わずかな水音だけ、やがて口づけを交わすときに至れば、月は頭上にあって、遠い光が今宵の歓楽を祝ってくれている。
 女はすねているらしい。
 少し甘えながら男をなじっている。男のほうは思いのほか冷静だ。六・四の割合で、女の方が強く男に惚れている……。
 とはいえ、よほどうまい偶然が重ならないと、こういう情景はありえない。
 どこの湖なんだ。沖という以上、相当に大きい。井の頭公園の池に沖はありえない。琵琶湖だって、
 ―沖って言うかなあ―
 遠くまで漕ぎ出すと、対岸に着きかねない。
 月も半月以上、満月に近くないと困る。風は少し吹いているけれど、波がわずかに立つくらい。ほかにボートは出てないのかなあ。口づけなんかしていると、
 「この野郎、イチャイチャして」
 なんて、ほかのボートにぶつけられたり、しないだろうか。
 自家用のボート、自家用の湖、自家用の月、つてわけにはいくまい。
 この〈湖上〉は〈在りし日の歌〉中の一作で、次には〈冬の夜〉が載っている。
 だから、ついでに読んでしまう。〈冬の夜〉の冒頭は、
  
  みなさん今夜は静かです
  薬鑵(やかん)の音がしてゐます
  僕は女を想ってる
  僕には女がないのです

 つまり、”女がない”のに”女を想ってる”のだ。〈湖上〉もまた同じシチュエーションだろう。私が高校生のころに憧(あこが)れ、今
 一生、こういうことなどないなあ―
 と思うのも当然のこと。現実にはありえない美しいイマジネーションの世界に属することであるらしい。



 
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