炉辺郷談

2015/ 12/ 05
                 



 「橘郷土叢書外篇 一」として、昭和36年8月15日に発行した「炉辺郷談」。
  発行所は北橘郷土研究会となっています。
 著者は ― あとがきに代えて ― として「ある感懐」を述べています。

 《 郷土史の研究は何故するかというと、私はよい村人になるためと思っていた。郷土の昔の事がわからなければ、郷土の現在、或は将来の正しい発展は望まれないのだと思ったのである。

 しかるに戦後、というより最近一、二年、いや、ほんの数カ月の間に、私は、自分の考えが一切無駄であったのではないかと思う程になった。それは農村と都市の差別が急激に失われていった事である。最近の経済情勢の変化、社会生活の変動、それは驚くべきものがある。村は村として一つの有機体の如く働く区域と考えていた。恰も一家が一つの有機体であるように、しかるに日本の家は今や非常な勢で解体しつゝある。村も亦しかり。あやぶむらくは国という団体すら、あるがよいのか否か問題の焦点にさえなっている。この驚くべき変化の中に、古い郷土史の研究などがどれ程の意味があろうか。

 人は今や、八丁注連の中にどじこもった村人として生きるのではなく、世界人類の一員として生きる処迄来ているのである。村の昔の事を根ほり葉ほりさぐって何になろうか。学問は学問のためにだけあるので、人生の利害など問題でないという説もあるが、私はその様には思わない。微々たる郷土研究たりとも人生に寄与する処がなければならぬと思っている。しかも今やその寄与する面は非常狭隘になってしまった。

 具体的な例でいえばよくわかってもらえると思うから一例をあげれば、村の青年階級の研究なぞは、従来よい研究課題であった。青年団、その前の若者組という団体内にあって、村人は少年から成年への、家庭人から社会人への脱皮をした。そのグループ内の交際は自ら一つの立派な成人教育であった。教師は若い衆各自相互であった。一人前の村人となる可き、又、妻をもつべき男としての訓育が自らそこになされた。私人から公人への眼覚めもそこで行われた。私達がある一村に入ってその調査をする時、これらの事はずい分興味をもって研究し得る好題目であった。

 しかし、今や、見よ、村に青年はいなくなってしまった。青年団の解消は連続的に起きている。人が居らねば団体の存しようはない。多くの農山村の青年は職業を村外に撰んでしまい、明治天皇の御製のように「翁や一人山田守る」の現状では、若者組の研究をした処で村の進展に何の寄与する事も出来ない。

 こゝ迄考えてくると私は従来の自分の勉強について、大きな失望を感じざるを得ない。少なからざる時間をかけた仕事は、ほとんど水泡に帰してしまった。

 思うに私達は研究対象の変遷に伴って、私達の視野を拡げ、社会組織そのものゝ変革を正しく見究めて、新しい研究に移ってゆかねばならないのであろう。村の社会は血縁団体として発生し、地縁の団体として発達して来たが、今や地縁の組織は分裂しつゝある。次に来るものは一体何であるか。しかもそれは基底に「世界平和」という一条件をおいているように見える。この「世界平和」が、一旦崩れるなら、現在の経済機構は一瞬にして崩れ去るであろうし、その時の社会保持の靭帯の切断に伴う困乱は想像するだにもおそろしい事である。ひるがえって現在の経済の膨張は実にこの「世界平和」の上にアグラをかいて進展している。社会の変化が之に伴っているのである。しかしこのアグラは無統制、無目的にさえ見える。「平和」は何者かに「利用」されてさえいえるのではないかと思われる程である。実に村落社会の変化はこの大きな経済組織の変化の影響に外ならない。

 私達の郷土研究は、村の一隅にいても、やはり、この世界につゞく大きな変動と、その影響下の村をじっと見つめてゆかなければならないだろう。その間に自分自身がどこへ流し去られるかわからないとしても。

 (この後書は本書の本文とほとんど何等の関係もないが、本書を書終わった頃の私の郷土研究に関する心の表白を綴っておく事も読者への務めと思うので敢て記した。) 》



* 「原文」を「ソノママ」転記しました。
* 「一(剣幕彌次右衛門)」から「百(箱田の石剣)」までありますが、「六五」は「かくれ切支丹」となっていて、75㌻の中ほどから76㌻中ほどにかけての16行、652の文字数となっています。

 (「隠れキリシタン」を表した書物を追ってみると、「武蔵野・武州」あたりまでの痕跡を伺うことが出来るようです。)


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