人生の意味と神 信仰をめぐる対話

2016/ 04/ 02
                 
 「はじめに」

日本語に翻訳されている聖書は、もともとはヘブライ語で書かれています。
 ヘブライ語から、ギリシャ語、あるいはドイツ語と経由して、日本に聖書の言葉は伝えられました。

  ブログタイトルは、ヴィクトール・フランクル と ピンハス・ラピーデ 二人の対話を翻訳した、芝田豊彦氏と、広岡義之氏が共訳で著した本(発行所:株式会社新教出版社.2014年9月1日第1版第1刷発行)の題を使っています。

②人生の意味と神 信仰をめぐる対話

 その文中、マルコ福音書15章34節(詩編22編)のはじめの言葉について、ラピーデは次のように述べています。

 《…そこにあなた〈註:フランクルを指す〉は次のように書いておられます。「わたしの『ホモ・パティエンス――苦義論の試み』においてわたしが企てたのは、二―チェが立てた『何のための苦しみか』という問いに対する答えを、次のようにして答えることであった。すなわち、みずからに課せられた苦しみをいかにして引き受けるかということが重要であると、わたしが表明することによって。このいかにして苦しむかということに、何のために苦しむのかということの答えがある。ユダヤ教典礼のおおいなる嘆きの詩編を口にして、イエスは死なれた。エリ、エリ、ラマ サバクタニ、と」。

 エロイ エロイ レマ サバクタニ(マルコ福音書15章34節)――詩編22編のはじめの言葉――は、ドイツ語とギリシャ語においてよく間違って訳されました。すべてのドイツ語の翻訳では、「わが神、わが神、なぜあなたはわたしを見捨てられたのですか」となっています。それに対してヘブライ語が言っているのは、「わが神、わが神、何のためにあなたはわたしを見捨てられたのですか」ということです。二光年ほどの相違があります。というのは、「なぜあなたはわたしを見捨てられたのですか」は、神に対する疑いに由来し、神を疑問視し、後向きに、過去へ、動機付けへ向かいます。それに対してヘブライ語で三千年前から立てられ、イエスもきっと知っていたであろう問いは、未来を見ており、したがって神を疑問視しているのではなく、神に問いをを立てています。その問いは、この苦しみの意味をまったく確かなものとして前提したうえで、なぜ神がそれをわたしに課せられたのかを知りたく思っています。》

①人生の意味と神 信仰をめぐる対話


 ところで、はなしは変わります。
 聖書のどこのページを括っても、「三位一体」とはひとことも書かれていません。
 「三位一体」について、理解をどのように深めたらよいのか。
  キリスト教における「三位一体」とは、そもそも何なのか?!
 以下、『「キリスト教は初めて」という人のための本』(内田和彦著.発行:いのちのことば社)より、そのまま引用してみることに致します。
 《「主は私たちの神。主はただひとりである」(申命6・4、「主」は聖書を通して自らを明らかにしている神のことです)。 
 「私たちは・・・・・・唯一の神以外には神は存在しないことを知っています」(Iコリント8・4)。
 しかしまた、新約聖書においてイエスは神を「父」と呼び(ヨハネ6・27、32、40等)、自らを神の「子」としました。人間がみな「神の子」だということと異なり、彼だけが特別な意味で「子」なのです。その意味で、彼は「御子」とか「神のひとり子」と呼ばれているのです。
 イエス・キリストは直接自分を「神」と呼ぶことはしませんでしたが、実質的に自らを神としたのです。神でなければ語ることができないようなことを言いました。例えば、「わたしと父とは一つです」、「わたしを見た者は、父を見たのです」(同10・30、14・9)といった具合です。そのために厳格な唯一神教を信じるユダヤ人は激怒し、イエスを「神を冒涜する者」として殺そうとしました(同10・31-33)。
 イエスだけでなく、「父」とイエスがやがて遣わすと言った「精霊」、「御霊」(同14・16、26、15・26)もまた、彼らと並んで神であるとされています(Iコロンと2・11、マタイ28・19)
 すると唯一の神でありながら、しかも父と子(イエス)と精霊(御霊)が神であり、三つに区別される存在であるということになります。これが三位一体ということです。
 この教えはどうでしょうか。まず人間の論理を超えています。そのため、三位一体の教えを受け入れない人々はいつの時代にも・・・ ・・・ このように「三位一体の神」は私たちの理解を超えていますが、同時に私たち人間存在の謎を解いてくれます。・・・ ・・・ 》
 聖書はまだまだ謎が深そうです。
 



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