絶望の中で書かれた機知

2016/ 05/ 08
                 
 名言巡礼 近うて遠きもの・・・・・・・・・鞍馬のつづらをりといふ道


 年は30歳前後だろうか。彼女は、同僚の女性たちから、のけ者にされるいじめにあう。休職して実家に帰り、引きこもりは10か月ほど続いた。

 彼女を救ったのは、書くことだった。
 愚痴を書いたのではない。皆を楽しませようと思ったのである。

 ブログをつづる現代女性のようだが、平安時代、清少納言と呼ばれた女性の話だ。ユーモアのある明るい文章で人気の彼女。「実は、絶望の中で書いていたんです」と京都学園大学の山本淳子教授は話す。日本文学の古典中の古典でありながら、ミーハーで自慢話ばかりと批判もされる清少納言。「置かれていた状況を知ると、見方が変わってきます」

 彼女は天皇の后(きさき)である中宮定子(ちゅうぐうていし)に使えた。だが、権力闘争で定子の一家は没落。定子は尼になり、清少納言は宮中で裏切り者とされる。実家で引きこもっていた時、定子から白い紙が届く。この紙に書くために、死にたいけど、もうしばらく生きよう。そう思ったのではないか。

 「『枕草子』が書かれた時期には二つあって、もう一つは定子が亡くなった後でした」。
 定子は天皇の求めで尼から后に戻るが、政敵からいじめ抜かれ、3人を生んだ後、24歳の若さで世を去った。清少納言は失業して再び実家に戻り、定子との楽しかった思い出を書き始める。


 そう聞くと、「鞍馬のつづらをりという道」の一筋も意味が違ってくる。京都の鞍馬寺は、門から本殿までの高低差は160㍍だが道は1㌔以上。そのうち、つづら折りと呼ばれるジグザグの道が800㍍ほど続く。実際に歩くと本当に「近くて遠い」。なるほどと思うが、それ以上の感想はなかった。

 山本教授は、定子が出した「近うて遠きもの」というお題に、女房たちが当意即妙で答えた知的な遊びだったと語る。宮中のサロンで、当時、最先端の女性たちがにぎやかに機知を競う風景が目に浮かぶ。それを絶望の中、どんな思いで書いたのか。
 「悲運だった定子ではなく、輝いていた定子を後世に残したかったのでしょう。つらいけれど、それは書かず、私たちは幸せだった、と」

名言巡礼20160508 枕草子 清少納言

   文・小梶勝男
   写真・林陽一

 ・・・ 2面に続く

 ・・・
 ・・・
 ・・・

 
 清少納言へのバッシング

 才気走った文章のせいか、清少納言は今も昔も、バッシング(非難)の対象になることが多かった。
 例えば「新版 枕草紙」(角川ソフィア文庫)で訳注を付けた石田穣二・東洋大学名誉教授(1925~2003)は、その「解説」で、「筆者にとって『枕草子』はつまらない作品であった」と断言している。「空(むな)しいと言えばこれほど空しい文章もない」「少しもこちらの心を打たない」とまで書いている。石田名誉教授は「後宮の文明の記録」として見ることで、「枕草子」は面白くなると結んでいるが、それにしてもひどい書きようである。

 京都学園大学の山本淳子教授は、「石田さんは結論を強調するために、わざとそう書いていますが、普通の人が初めて読んでも、そんなふうに思うかもしれません」と話す。
 自身も中学生のころは、「枕草子」が自慢話ばかりのように思われて嫌いだった。書かれていることの歴史的な背景を知って、それが表面的な読み方だったと気付くには、時間がかかったという。

 山本教授が訳注を付けた「紫式部日記」(同)では、紫式部が清少納言をけなしている。山本教授の訳で、「清少納言ときたら、得意顔でとんでもない人だったようでございますね」と始まり、利口ぶって漢字を書き散らしているが学識が足りず、的外れで中身がない、とまで言っている。
 紫式部には、清少納言への激しいライバル意識があったようだ。


 2016年(平成28年)5月8日(日曜日) 讀賣新聞 よみほっと 日曜版


※備忘メモ:
 ・清少納言「枕草子」:996~1009頃(讀賣新聞記事より転載)
 ・紫式部「紫式部日記」:通説では1010年頃完成という記事が多いです。

 ・清少納言の生年は、966年頃、没年は、1025年頃という記述がみられます。
 ・紫式部の生年、没年は、諸説ありますので、ピックアップしてみますと、
 ・生年:970、972、973、974、975、978、
 ・没年:1014、1016、1017、1019、1025、1037、
 となっていました。




関連記事
スポンサーサイト
                 

コメント