父の遺したもの

2016/ 08/ 18
                 

 父が他界して、間もなく10年になります。

 私たち子ども、親類縁者、ご縁、所縁〈ゆかり〉のある人たちに、父は日暮し硯に向かって書きためたものを、折々の便りとしていました。
いまのように、ブログとかのSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)のない時代です。

 ある折りの郵便の中に「アンケート」用紙が入っていました。
 《毎々おもしろくないものを お送りいたして居りますが かえって御迷惑なことと存じ、この辺で中止したいと存じて居ります。
 つきましては 一応皆様の御意見をおうかゞいいたしたいと思います。御自身の思うまゝに該当項目に○印をおつけ下さい。
   アンケート
 一.いたゞいても読むことがない。
 二.むづかしいので読んでも興味がない。
 三.中学生、高校生に読ませたい。
 四.興味を以て読んでいる。
 五.原子力発電所を見学したい(東電と打合せします)
 六.年寄りの楽しみに勉強をつづけなさい。
 七.よその人に話をするのに役立つ。
             以上

 封書の中には、上記の文章と、アンケート(返送して下さい)用紙と、62円切手が貼ってある父宛の封筒が入っていました。
 (私は、父に返事を出していなかったので、アンケート用紙も父宛の封書も、今、手元にあるということになります。)

 今の時代でしたら、例えばブログでしたら一日に何人ぐらいの訪問者があるのかなど、一目で判りますが、当時は反応を知る手だてなどはありません。多くの読者からの読後感想文が届かない故の、父なりの状況判断がそうさせたのでしょうか。

 その後も、父の折々の便りが続きました。
 父の投げかけに対する、読者からの反響が大きかったからでしょうね。


 父は、早稲田時代に英語を習った、會津八一に私淑していました。
 (父の専攻は電気です)
 《オレは貧乏だから、お前たちが大人になったら、誰か家を建ててくれや・・・》など、會津八一の朴訥な人柄を偲ばせる逸話を、父の晩酌の折に、聞くことができました。
 
 父の遺した「便り」は数々あります。
 『會津先生をしのんで』(モノクロトーン写真貼付)は、昭和59(1984)年5月31日に、『會津先生をしのんで (其の二)』(カラー写真・モノクロ写真貼付)は、昭和59(1984)年11月28日に、それぞれ記されています。
 和紙を使い、筆で著しています。
 装幀は袋綴じとなっています。 

 シリーズものは、随分と息の長いストーリーとなっています。
 私は、このブログをはじめてから、今ようやくにして、父の遺した和紙袋綴じ装幀の書物を読み始めているのです。
 いわずもがなではありますが、父の存命中は、ほとんど目を通していなかったのです。

 私に父の思い出があるように、父も、『桑切り鎌』〈平成元(1989)年9月24日〉のサブタイトルに、「父のおもいで」と題して、父から無言の教えを学び取ったその時のことを平易な文章で書いています。

 
 父は、長く東京電力に勤めていましたので、『チェノブイリ原子力発電所事故について』も、154ページ〈序 平成1(1989)年6月15日〉にわたって、論考しています。


 父は、また、群馬県和算研究会の会員でしたので、会報にいろいろ文章を寄稿していました。 その原稿とは別に、臺灣軍兵器部に属していた時〈昭和15(1940)年6月18日-22日〉に解いた『方陣』も、遺しています。いつ頃私たちに郵送したのか記載ないのが、心残りですが。



 ここに、父の遺した書物の名前を、ひとつのページにおさめることができました。
 父の「自分史」の一端を、僅かでも知ることができたのかな、と思っています。
 
 

川原田政太郎先生のこと  1990(平成2)年8月26日


崇禅寺算額  平成2(1990)年8月31日


川原田政太郎先生のこと  平成2(1990)年10月1日→8月26日付と、記載内容異なる。


泉岳寺 そわ女 句碑  1990(平成2)年11月17日


おもい出ばなし (自分史) 1990(平成2)年12月2日
おもい出ばなし 第二集〈※〉 1990(平成2)年12月11日 →※原文のママ」
おもい出ばなし 第三話 1990(平成2)年12月19日
おもい出ばなし 第四話 1991(平成3)年1月19日
おもい出ばなし 第五話 1991(平成3)年1月29日
おもい出ばなし 第六話 1991(平成3)年2月9日


東新宅棟札銘 (第五話付録)  1991(平成3)年1月21日


おもい出 あれや これや 1991(平成3)年7月20日


兵隊のおもい出  
 ① 1991(平成3)年8月23日 
  →父から私あてのリクエスト用紙が挿んでありました《此の間いただいた おなめはおいしい塩味で生きています 又 暮にはお願いします》
 ② 1991(平成3)年8月31日  
 ③ 1991(平成3)年10月10日  
 ④ 1991(平成3)年11月4日


中山俊夫大先輩のこと  1991(平成3)年10月22日


天壽國曼荼羅  平成4(1992)年壬申歳(じんしん)如月(きさらぎ:二月)18日


名古屋火力発電所 1992(平成4)年2月28日


兵隊のおもい出 台湾編  
 (一)      →記載日未記載
 (二) 1992(平成4)年3月11日
 (三) 1992(平成4)年3月27日
 (四) 1992(平成4)年4月2日
 (五) 1992(平成4)年4月12日
 (六) 1992(平成4)年5月5日
 (七) 1992(平成4)年5月25日
  →《兵隊のおもい出 台湾編(九)の裏表紙内側に張ってください》と添え書きの和紙の中に、「昭和18年1月3日撮影」の白黒写真が入っていました。18名の人物の中に、祖父母、両親は写っていますが、姉は母のお腹の中です。このとき、兄と私は居りません。)
 (八) 1992(平成4)年6月2日
 (九) 1992(平成4)年6月15日


おもい出ばなし  1992(平成4)年7月13日


兵隊のおもい出 大陸編
 (一) 1992(平成4)年7月27日
 (二) 1992(平成4)年8月11日 →「263㌻~278㌻」となっている。
 (二) 1992(平成4)年8月15日 →「263㌻~282㌻」となっている。且つ、272㌻からは、文章も異なっている。
 (三) 1992(平成4)年9月2日
 (四) 1991(平成4)年10月15日 →1992年が「正」。
 (五) 1992(平成4)年11月5日
 (六) 1992(平成4)年11月21日
 (七) 平成四(1992)年11月26日
 (八) 1993(平成5)年2月19日
 (九) 1993(平成5)年2月26日
 (十) 1993(平成5)年3月8日
 (十一) 1993(平成5)年3月12日
 (十二) 1993(平成5)年3月30日 
  →「昭和19年9月26日撮影」の白黒写真18名の人物写真の中に、母方の祖父母、母、姉が写っています。この時、兄は母のお腹の中でした。
 (十三) 1993(平成5)年4月22日
 (十四) 1993(平成5年)5月4日
 (十五) 1993(平成5)年5月13日
 (十六) 1993(平成5)年5月20日
 (十七) 1993(平成5)年6月9日 
   →《今日は皇太子殿下御結婚の日 テレビを見ながら》と、末尾に記載。
 (十八) 1993(平成5)年6月23日
 (十九) 1993(平成5)年7月22日
 (二十) 1993(平成5)年7月28日
 (二十一) 11993(平成5)年7月31日
  →《「憶良らは 今やまからん 子泣くらん その子の母も 吾を待つらんぞ」・・・いよいよ帰國が出来る、家人に手紙を出してよろしいいとのことにより、私はどのように書こうかと思ったが、すぐ、その昔、支那に留学した憶良がうたった歌を思い出したのである。この歌一首で故郷の人達に充分意が通じると思い、書いたものである》
 (二十二) 1993(平成5)年8月14日
 (二十三) 1993(平成5)年9月10日
 (二十四) 1993(平成5)年10月21日
 (最終回) 1993(平成5)年10月30日
  →裏表紙裏面に《國 破れて 山河在り 城 春にして 草木深し》の記述。
   (昭和13年10月1日の「歩兵二等兵」から始まる官等級の記録を見ると、敗戦後の昭和20年8月18日に復員令が下った後の8月20日、所謂ポツダム「技術大尉」で、その記録を終えています。)  

 
入院  1994(平成6)年2月3日


田村福平君を偲ぶ  平成6(1994)年7月8日


木曽義一さん  平成8(1996)年1月10日


山梨の思い出  2002(平成14)年8月9日





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