箕田古墳群 郷土史研究ということではないのですけれど・・・

2016/ 09/ 02
                 

 きょうは朝から、マイタケとエノキダケを天日干しにしています。
 (キノコは天日干しにすることによって、健康にとって必要不可欠な成分が、新たに生じます。)
 洗濯ものも干しています。


 というようなことはさておきまして、
 私は群馬県で生まれ、このかた23回ほど現住所を変えました。
 学生時代、サラリーマン時代を含めると、東京都内での住所替えが一番多かったようです。
 その次が、終の棲家としている埼玉県でしょうか。

 生れ育った群馬県、そして今、長らく住んでいる埼玉県には、大小さまざまな古墳が、今でもあちこち点在しています。
 
 そういった生い立ちが多少なりとも影響したかもしれませんが、身近なところにある古墳群を気にかけたのは、「鴻巣市文化財マップ」を見たからです。旧跡の「伝箕田館跡」を訪れたさいに、「箕田二号墳」が目の前にあったことで、「箕田古墳群」を知ることとなりました。

 以下、それぞれの古墳の説明書きをつけて、道順に従って各々の古墳写真をアップしました。説明書きある古墳は、その文書を転記して写真の下に載せました。

(〈※〉長短高さなどの寸法、年などの数字は、漢数字から算用数字に置き換えて表示しましたが、「△号墳」の箇所は、固有名詞になっているのかどうか判らないということもあり、あえて「ソノママ」表示していますので、その旨ご留意いただければと思います。なお、蛇足とは思いましたが、幾つか「〈※〉注記」を付け足しました。)
 


鴻巣市指定文化財(史跡)
箕田古墳群(みだこふんぐん)  昭和45年3月10日指定

⑥箕田古墳群20160831
【注記〈※〉説明文に書かれてある通り、箕田一号墳、箕田三号墳は現存しません。箕田四号墳・箕田六号墳の所在判りませんでした。】

 箕田古墳群は大宮台地の北端部、通称箕田台地と呼ばれる台地上にある。
 古墳群は、標高16~18メートルの地点に、幅約600メートル、長さ1000メートルの広い範囲に亘って散在している。
 古墳の分布から、宮前支群、富士山支群、龍泉寺支群、稲荷腰支群、追分支群の五つに分けられる。
 これまでに九基の古墳の所在が知られているものの、現在は 一、三号墳が消滅しているため、わずかに七基の古墳が残っているのみである。
 周辺付近一帯から埴輪片が採集される事実からすると、往時は相当数の古墳が存在していたものと思われ、鴻巣市では、生出塚古墳群〈※〉と並んで最も多くの古墳が密集していた地域である。
 『新編武蔵風土記稿』の記述が古墳群に関する最古のものである。
 昭和3年に柴田常恵氏によって七号墳の発掘調査が科学的調査の最初で、続けて 二、三、九号墳(宮登古墳)で実施されている。
 須恵器有蓋高坏(すえきゆうがいたかつき)、𤭯(はそう)〈※〉、埴輪(はにわ)、金環(きんかん)、鉄鏃(てっそく)等が発見されているが、九号墳は埴輪を作っていなかったことが調査により明らかとなっている。
 これらの発掘調査の成果によって、箕田古墳群は、六世紀初頭から七世紀中葉に至るまでの約150年間に亘って築造されたことが判明している。
  平成24年2月

〖注記:
〈※〉生出塚古墳群(おいねづかこふんぐん)=国指定文化財「重要文化財・考古資料」・名称「埼玉県生出塚埴輪窯跡出土品」.・所在地「クレアこうのす(鴻巣市教育委員会)」

[〈※〉𤭯(はそう):「はんぞう・はぞう」とも読む。
 ・ 『大辞林』を紐解くと、「はそう」:「𤭯」、「匜」、「半挿」。〔「はぞう」とも〕 ①〈省略シマス〉 ②特に考古学で須恵器の一器型にあてた名とあります。丸い胴部に小さい孔があけられた口の広い小型壺。穴に竹の管を差し込み、液体を注ぐのに用いたとされる・・・と記載されています。

 ・ 「はんぞう」は『広辞苑』に、「半挿、【瓦+泉】、【木+泉】、【医-矢+也】」と表記され、「湯・水を注ぐ道具。柄の中の穴を湯・水が通ずるようにしてあり、この柄が半分本体の中に挿しこまれているところからの名」とあり、「はにそう」「はそう」ともいうとあります。 これから「はんぞう」→「はぞう」→「はそう」と転訛した様子がうかがえます。

 ・ 『岩波漢語辞典』によれば、「泉」の語源は「丸い穴から水がわき出てしたたり落ちるさまを描いた象形文字」とあります。これから【瓦+泉】は陶製の、【木+泉】は木製(漆器)の「水差し器」を表すもので、【医-矢+也】とともに「波佐布」(ハサフ)と文字が転化しています。〗


箕田二号墳(みだにごうふん)  昭和45年3月10日指定
①箕田2号墳20160901
 本墳の現状は直径23メートル、高さ2.7メートルを計る円墳である。墳頂に氷川神社があるため 墳形は若干変形しているものの、全体として保存状態は良好である。
 昭和58年(1984)〈※原文のママ〉の発掘調査によって、墳丘を巡る周溝が確認され、そこから築造当時は、直径32メートルの規模で箕田古墳群の中でも、箕田三号墳に次ぐ大きさであったことが明らかになった。
 また、周溝内より須恵器有蓋高坏、甕の破片及び埴輪片が検出されており、本墳は六世紀後葉に築造されたものであることが判明している。
 なお、本墳の南側一帯は、箕田館の推定地であることから、『武蔵国郡村誌』には、武藏守源仕及び妻子の墓とする古記述がある。しかし、源仕の活躍した年代と築造年代には大きな隔たりがあり、これは後世に古墳と館とが結びついて伝承されたものであろう。
 また、同誌では本墳を「三士塚」(さんしづか)と呼んでいる。
  平成24年2月
      〖注記:〈※〉昭和58年は、1983年。〗


箕田五号墳(みだごごうふん)
③箕田5号墳20160901


箕田7号墳(みだななごうふん)
③箕田七号墳20160901



鴻巣市指定史跡  昭和45年3月10日指定
箕田古墳群:箕田八号墳
④箕田八号墳20160901
 この箕田八号墳は、台地の斜面上に作られているため、斜面下側からと上側からとでは見る位置の違いで規模が異なるように感じられる。
 現状は長径16.7メートル、短径10.5メートルの長楕円形で、西側の墳裾からの高さは 3.1メートルである。
 本来は直径20メートル以上の規模となる円墳だったと推察される。また、周囲の状況から墳丘を巡る周溝が存在するものと思われる。
 これまで正式な発掘調査が行われていないため、埋葬部の形状、出土遺物は明らかになっていない。墳裾付近から採集された円筒埴輪の特徴から、築造年代は古墳時代後期(6世紀代)と推定されている。
 古墳時代後期になると、一定の地域内に小規模な古墳が群集するようになった。箕田古墳群もそうした古墳群のひとつで、この箕田八号墳は、箕田古墳群の中の富士山支群に属している。
 現在この周辺には、南方50メートルに 箕田七号墳が存在しているだけであるが、かっては多数の古墳が存在していたとみられる。
  平成24年2月  鴻巣市教育委員会



鴻巣市指定史跡  昭和45年3月10日指定
宮登古墳〈みやとこふん〉  (箕田9号墳)
⑤箕田九号墳20160901
 箕田古墳群の一基で、荒川に面する大宮台地の西側縁辺部に位置している。
 墳丘の保存状態は比較的良好で、直径20m、高さ2m程を有する円墳である。昭和34年に埋葬部の発掘調査が行われており、それによると主体部は 角閃石安山岩(かくせんせきあんざんがん)を使用した銅張(どうば)り型 横穴式石室(よこあなしきせきしつ)で、玄室(げんしつ)長2.9m、奥壁幅1.3m、高さ1.65mを有する。
 玄室(げんしつ)内からは、須恵器(𤭯すえき はそう)〈※〉、鉄鏃(てつぞく)、切子玉(きりこだま)〈水晶製〉、管玉(くだたま)、丸玉(まるたま)他が出土しており、これらの遺物から十世紀の前半~中頃にかけて築かれた古墳と考えられている。また、埴輪類は認められていないので、埴輪樹立の風習が行われなくなった以後のものであろう。
 なお、石室に使われた角閃石安山岩(かくせんせきあんざんがん)は、群馬県榛名(ぐんまけんはるな)山二ツ岳の爆発によりできた岩石で、利根川流域に分布する。本墳を作った人々は利根川からわざわざこの岩石を運んだものであろう。
  昭和62年3月
  鴻巣市教育委員会


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