「権八地蔵とその物語」…「白井権八と幡随院長兵衛」  

2016/ 09/ 04
                 

 三谷幸喜作の、NHK大河ドラマ『真田丸』。
 《戦国時代最後の名将・真田幸村。
その本名を、真田源次郎信繁という。
好奇心にあふれ、冒険を好み、戦国の世を駆け抜けた真田信繁は、
いつしか、覇者・徳川家康をも恐れさせる伝説の武将となった。

真田幸村伝説には、もうひとつのストーリーがある。
天才の父、秀才の兄の背を追いかけながら、故郷に住む家族と共に
乱世を生き延びていくために、迷い、悩み、苦しみながら成長していく、
家族愛にあふれた次男坊・信繁の物語。

大坂の陣において真田信繁が、戦国時代最後にして最強の砦
「真田丸」を作りあげるまでの人生は、戦国の荒波に揉まれ続けた
小さな家族船「真田丸」での長い長い航海の道程でもあった。
(『真田丸』公式サイト冒頭文)》
 と、斯く申す通り、作者、脚本家によるシナリオは、史実もものかは、ドラマであるがゆえに、どこにスポットをあてていくかにより、自由奔放というが如く筋書きは変化していきます。


 今回の主人公、平井権八も、知る人に知る、その名はつとに知れ渡っていますが、
彼のプロフィールの何が事実で、何が虚構なのかということとなると、随分と悩みが深くなります。
 例えば、歌舞伎での演目の一つにある、白井権八と幡随院長兵衛との出会いなど、互いの生存年代が異なっていますから、後世の全くの作りものであるということは論を待ちません。

とまあ、長くなってしまったプロローグはそんなくらいにして、いざ本題に入ることに致しましょう。



 平井権八(ひらいごんぱち)のモデル名は、白井権八(しらいごんぱち)。
 浄瑠璃、歌舞伎、落語と、それぞれの脚本家によって、権八に息吹があたえられています。
 当然の如く、各々の舞台に登場するストーリーは異なります。
 ですが、平井権八は実在の人物でしたので、脚色の中にも共通の事実が語られています。
 一つ.江戸時代前期の武士。
 一つ.因幡(いなば)鳥取藩士で、同藩の藩士(「父の同僚・父の同役・父の敵・同僚」などの表記有り)を殺(あや)め、出奔(しゅっぽん)する。
 一つ.浪人となり、江戸に出る。
 一つ.吉原の遊女(小紫などの名…)と馴染み、その金策のため辻斬り(人数不記載が多い。130名という記載もある。)に及んだ。
 一つ.品川の鈴ケ森で刑死(「処刑・獄門・磔刑・刑死」の四つの表記有り)。
 
 平井権八の生没年については、次の表記が見られます。
  ①デジタル大辞泉:[?~1679]
  ②デジタル版 日本人名大辞典+Plus:[1655?-1679](明暦元年?生まれ)
  ③大辞林 第三版:〔(延宝年間(1673~1681)に磔(はりつけ)になったという]
  ④世界大百科事典:[1679年(延宝7)11月3日処刑され・・・]
  ⑤ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典:[延宝7 (1679) 年に処刑され・・・]
  ⑥朝日日本歴史人物事典:[(1679年没か)]
  ⑦大辞林 第三版:
  [~1(1655年 - 1679年12月5日).
  ~2生誕明暦元年1655年 死没延宝7年11月3日(1679年12月5日)(満23-24歳没)]



 先日、三つの権八地蔵のもとを訪れたと書きましたが、一つは鴻巣市の公式ページに、一つは熊谷市の公式ページに載っていました。
 そしてもう一つは、『忍の石物語~幻の石碑を訪ねて』(行田市民大学 平成26年度5期生 歴史・文化Bグループ.作成日:平成27年2月5日)に記述

《・・・見せて頂いた資料の中の埼玉県の「鴻巣市だより」に面白い記事がありました。権八地蔵の本物が埼玉県鴻巣市の勝願寺〈※〉にあるというのです。(以下、略)。(2001年9月12日記) 》

の、鴻巣市本町にある勝願寺のお地蔵様です。(〈※〉「勝願寺」の「権八地蔵」については、他所にも記載有ります。)

 その勝願寺のお地蔵様に手を合わせて来ましたが、お地蔵様の由緒書きに相当するような立札はありませんでしたので、ここでは写真をアップするにとどめておきます。(〈※〉写真では、「延宝元年」〈※〉という文字が見てとれるようです。〈※:延宝元年=1673年〉)
勝願寺お地蔵様20160831①

勝願寺お地蔵様20160831②石碑
勝願寺お地蔵様20160831③石碑






☆鴻巣市指定民俗資料「権八地蔵とその物語」(平成3年8月21日指定)

 権八延命地蔵20160831①

 権八延命地蔵20160831②

◇立札書き:「権八延命地蔵」・「権八地蔵(ごんぱちじぞう)とその物語(ものがたり)」
 《権八は、姓を平井といい、鳥取藩士であったが、同僚を殺害したため脱藩し江戸へ逃れた。その途中金に困り、久下の長土手で絹商人を殺害し大金を奪い取った。
 あたりを見廻すと地蔵様を祀った祠があった。
 良心が咎め己の罪の深さにいくばくかの賽銭をあげて「今、私が犯した悪行を見ていたようですが、どうか見逃してください。また、誰にも言わないでください。」と手を合わせると、地蔵が「吾(わ)れは言わぬが汝(なれ)は言うな。」と口をきいたと伝えられている。
 この話から、この地蔵は「物言い地蔵」と呼ばれるようになった。権八はその後捕えられ、延宝8年(延宝7年とも)に鈴ヶ森の刑場(東京都品川区南大井)で磔(はりつけ)の刑に処された。
      参考:延宝8年(1680)
 平成24年2月  鴻巣市教育委員会

⑯延命地蔵20160831

◇『鴻巣市文化財マップ』:「権八地蔵とその物語」
  《権八は鳥取藩主池田家の家臣で、わけあって脱藩し江戸へ逃れた。ある時久下の長土手で絹商人を殺害し大金を奪い取り、辺りを見回すと地蔵様の祠があった。
 良心が咎め、いくばくかの賽銭をあげて「今、私が犯した悪行を見逃してください」というと地蔵が「わしは言わぬが我言うな」と口をきいたという。この話から、この地蔵は「物言い地蔵」と呼ばれた。
 権八はその後捕えられて延宝8年(1680)に品川で処刑された。
  (荊原町内会)
 



☆熊谷市指定有形民俗文化財「権八地蔵」(昭和31年11月3日指定)


⑧久下権八地蔵20160831

◇立札説明書き:久下権八地蔵尊
 《元禄11年(1698)に造立された地蔵。江戸時代に平井権八という男が罪を犯し、お地蔵様に向かって「誰にも言うな」と明かしたところ、「我は言わぬが、汝こそ言うな。」と答えたという逸話で知られています。

⑩熊谷久下権八地蔵20160831

◇熊谷市Web博物館熊谷デジタルミュージアム:熊谷市指定有形民俗文化財:「権八地蔵ごんぱちじぞう」
 ・所在地 久下2342-5
  ・所有者(管理者) 地蔵堂
 「久下の地蔵堂に安置されている、高さ1.5mの延命地蔵であり、また子育地蔵でもあります。元禄11年(1698)に作られた、歌舞伎の「鈴ヶ森すずがもり」などで知られる平井権八が、久下の土手で人を殺し大金を奪ったとき、「このことは黙っていてくれ」と祈ったところ、「われは言わぬが、なれ言うな」と口をきいたというので、この地蔵は「権八地蔵」の他、「物言い地蔵」と言われています。」
 
◇熊谷市Web博物館熊谷デジタルミュージアム
 ・市指定有形民俗文化財「権八地蔵」とは何ですか?
 ・回答します
 「元禄11年(1698)造立された地蔵であり、江戸時代平井権八の物語と結びつけた「物言い地蔵」として有名です。石地蔵としては、県内最古のものと推察されています。
 江戸時代、江戸から中仙道を進んでいた平井権八が、久下堤で信州の商人に遭遇し、その商人の持金を奪って殺してしまった。ふと傍を見ると石地蔵が立っていることに気づいた。権八に良心が甦ったか地蔵に向かって「このことは、誰に言ってくれるな」と、地蔵は「我は言わぬが汝言うな」と口をきいたという逸話が言い伝えられています。
 吹上(現、鴻巣市)においても権八地蔵という名の地蔵が存在しますが、平井権八の伝説よりも後の時代の建立であると言われています。
 元々、権八地蔵は、久下堤防上にありましたが、堤防の改修により久下上区の人家に移された後、昭和32年、地元の人々の協力でお堂が建てられ、そこに安置されることになりました。」

⑦久下権八地蔵20160831



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コメント

        

権八ものいい地蔵、懐かしいです。それで『新編熊谷風土記稿』日下部朝一郎著にあったのを思い出しました。
読んでみると、権八が殺害して三百両を奪った絹商人は信州ではなく上州の人だと書かれていました。つまらない事ですが、少し気になりました。
Re: タイトルなし
> 権八ものいい地蔵、懐かしいです。それで『新編熊谷風土記稿』日下部朝一郎著にあったのを思い出しました。
> 読んでみると、権八が殺害して三百両を奪った絹商人は信州ではなく上州の人だと書かれていました。つまらない事ですが、少し気になりました。

  出典を顕かにしてくださり、ありがとうございました。他の引用例をみても、「上州の・・・」と書いてあり、「信州の・・・」とは記されていません。念のため、熊谷市監修の公式サイトをあらためて検索したところ、「熊谷市Web博物館デジタルミュージアム」と同様に、
「熊谷市文化財日記」にも、《・・・言い伝えによると、江戸時代、江戸から中仙道を進んでいた平井権八が、久下堤で信州の商人に遭遇し、その商人の持金を奪って殺してしまった。ふと傍を見ると石地蔵が立っていることに気づいた。権八に良心が甦ったか地蔵に向かって「このことは、誰に言ってくれるな」と、地蔵は「我は言わぬが汝言うな」と口をきいたという逸話が言い伝えられています。・・・》
と記載されていることが判りました。