アド街ック天国 鴻巣 勝願寺 寺紋の三つ葉葵 徳川家との縁深く 小松姫ゆかりの地

2016/ 09/ 19
                 
 鴻巣市には2つの勝願寺があります。(その謂れは後ほど述べることにさせていただくことにして)
 江戸時代に、御朱印状を拝領した市内の寺社は11ありますが、本町の勝願寺は、慶長年中30石を拝領しています。市内の寺社としては雲祥寺とともに最大の石高を拝領しています。

勝願寺 ⑦.

 この勝願寺には、市内に11ある埼玉県指定文化財のうち、4つのものが指定〈※〉されています。
 そのうち3つはお墓ですが、1つは絵画で、鎌倉時代の作とされています。如来や諸菩薩が来迎する姿が優雅に描かれた作品です。
 (〈※〉・有形文化財:絵画「絹本着色阿弥陀廿五菩薩来迎図.・記念物:史跡「伊那忠次墓」.・旧跡「福島東雄墓」.・旧跡「横田柳几墓」.)

勝願山門 ⑤.

 勝願寺は、徳川家の御紋、「三つ葉葵」を寺紋として拝しています。
 
 文禄2年(1593年)、徳川家康が初めて鴻巣で鷹狩を行った際に勝願寺を訪れ、二世住職円誉不残上人の知徳と学識、造詣の深さに感銘を受け、様々な宝物を寄進。そのおりに、三つ葉葵の許認を与えたといわれています。
 家康は、慶長2年(1597年)、慶長6年(1601年)、慶長9年(1604年)にも鷹狩を行い、 慶長6年に訪れた際には、家康の次男結城秀康の越前移封によって、領主不在となった結城城の御殿、御台所、太鼓櫓、築地三筋塀、下馬札、鐘などを寄進しています。
 この御殿は、百十四畳敷きの大方丈「金の間」、九十六畳敷きの小方丈「銀の間」に分けられており、大方丈は将軍来訪の際に使用されたことから「御成の間」とも呼ばれ、将軍以外の使用を禁じられていたといいます。
 鴻巣御殿も、将軍の鷹狩の際に使用された建物ですが、この御殿とは別の場所にありました。

[ときの住職、円誉不残上人は、慶長11年(1606年)に後陽成天皇から、僧としては最高位の紫衣を与えられました。つとに名声が高まり、檀林として興隆し、関東十八壇林の一つに数えられています。]

勝願寺 小松姫 ③.

 以下、公式サイトより拝借。
 《御台所は庫裏(くり)として御殿の右手に建てられ、客間、応接間、僧の居室などがあり、御殿よりも大規模な建物だったようです。

 太鼓櫓は手を加え、仁王門として利用されました。仁王像は登戸の勝願寺から移されたもので、運慶作だったと伝えられ、その巧みな技をもって作られた像には「児喰い仁王」の話が伝えられています。
 仁王門の階上には、釈迦無仁仏(しゃかむにぶつ)、普賢菩薩(ふげんぼさつ)、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)が安置されていたようです。

 仁王門の左右に移築されたのが築地三筋塀で、表面に瓦の筋が三本見えたことから、この名が付けられていました。

 下馬札は総門の外、中山道に面した参道に柵が廻らされ、その真ん中に立てられました。当時、壇林の権威は高く、たとえ将軍といえども下馬しなければならないほどでした。加賀の前田家はこの下馬札を見落としたことから、法要寺との縁を深めることになりました。

 鐘は結城の花蔵寺にあったもので、応永2年(※)に鋳造されたものでした。

 勝願寺を描いた絵図によると、総門、中門、仁王門は朱塗りで、威風堂々とした門構えであり、また、御殿に面した本堂も桧皮葺だったようです。

勝願寺を襲った災厄

それらの建物群が現在に伝われば、間違いなく文化財となったでしょうが、残念ながら明治3年(※)の大旋風による被害と、同15年(※)に起こった火災によって殆どが失われてしまいました。

 明治3年の風害は被害が大きかったようで、鴻巣全体でも、倒壊した家屋は数知れず、屋根瓦が2~3町は飛び、屋根がそっくりそのまま木の上にかぶさるほどの風ですから、想像を絶するものだったようです。勝願寺では、山内の巨木が多数根倒しになり、鳥たちの死骸で埋め尽くされる程の被害が出ました。 金の間、銀の間は壊滅し、そのまま破却。三筋塀や開山堂と共に売却されてしまいました。

 同15年の火災では、本堂、庫裏、鐘楼、仁王門など、殆どの建物を嘗め尽くし、鐘もこの時に割れてしまいました。
 幸い、総門が残り、仁王像も運び出され無事でしたが、像は後日、何者かによって売却されてしまいます。

勝願寺の再興

既に朱印地や山内の一部は明治政府によって国有地化されていたため、この災厄は勝願寺にとっては手痛いものでした。
 当時の住職、了寛和尚は各地へ赴いて浄財を募り、その苦労の甲斐あって明治24年(※)に現在の本堂及び庫裏を復興されました。

 その後、明治43年(※)に鐘楼が建立され、勝願寺の末寺でもあり、鴻巣の時の鐘を知らせていた、五智堂の鐘が移されました。しかしこの鐘も、太平洋戦争のあおりを受けて供出されてしまいました。現在の鐘は、昭和44年(※)に鋳造されたものです。

 仁王門は大正9年(※)に建立されたもので、仁王像は秩父三峰神社より寄贈されたものです。

現在の勝願寺

栄華を極めた勝願寺の面影を残すものは総門くらいなものですが、再興された仁王門や仁王像はそれに相応しく力強い印象を与えていますし、入母屋屋根や唐破風を持つ本堂は威風堂々としており、当時の姿がしのばれます。
 毎年11月には勝願寺でお十夜が催され、関東三大十夜として親しまれています。

 今や鴻巣公園となって市民の憩いの場となっている鴻巣公園には、かつて学寮が立ち並んでいました。(以下略)》

注記: (※) ・応永2年=1395年.・明治3年=1870年.・明治15年=1882年.・明治24年=1891年.・明治43年=1910年.・明治44年=1911年.・大正9年=1920年.


勝願寺 小松姫 ②.


小松姫と勝願寺

 鴻巣市環境経済部観光戦略課による配布資料により、勝願寺に繋る小松姫のところをピックアップすることに致します。

 「大河ドラマ真田丸放映記念~夏休み特別講座~『小松姫を知ろう』=小松姫と中山道鴻巣宿=」

小松姫肖像画① -


 《埼玉県鴻巣市にある勝願寺(鴻巣市本町8丁目地内)には、真田信繁(幸村)の兄信幸(後の信之)の正室小松姫の墓があります。小松姫は晩年病にかかり江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中で武蔵国鴻巣の地で亡くなりました。
 翌年、小松姫の墓は分骨され、武州鴻巣市勝願寺・上州沼田市正覚寺・信州上田市芳泉寺にあります。また、長野市松代町大英寺にも霊廟があり、上田城には小松姫が用いたとされる駕籠が残されています。
 徳川家ゆかりの古刹「勝願寺」には、その三男「真田信重夫妻」と共に眠っています。

小松姫勝願寺 ④

向かって右側:真田小松姫の墓
 小松姫は 本田忠勝の女(むすめ)で、家康の養女となり、眞田信之(幸村の兄で信州松代藩の祖)に嫁し、元和6年(1620)2月24日没した。
 生前当山中興二世の管主円誉不残上人に深く帰依した。
 そのような縁で元和7年(1621)一周期に際し 信之の二女松姫(見樹院)が当山に分骨造塔した。
 本廟は長野県上田市の芳泉寺にある。

真ん中:真田信重の墓
 信重は眞田信之(幸村の兄で信州松代藩の祖)の三男。
 慶長元年(1648)2月23日、鴻巣で病没した。母、小松姫の縁で当山に葬る。
 長野市松代町の西楽寺には夫妻の霊屋(おたまや)があって位牌が安置されている。

向って左側:信重の室の墓
 信重の室は鳥居右京亮の六女。
 慶長2年(1649)12月9日に没した。



 [年表による:
 ・元和6年(1620年) 小松姫、病気療養のため、江戸真田屋敷から草津温泉へ向かう途中鴻巣宿に立ち寄る。母の知らせを聞き、沼田から子信吉・信政、上田から夫信之もかけつけるが、鴻巣宿にて死去(47歳)
 ・元和8年(1622年) 信之、上田から松代へ転封
 ・寛永7年(1630年) 鴻巣御殿閉殿
 ・慶安元年(1648年) 3男信重、鴻巣で病没(勝願寺に眠る。)
 ・慶安2年(1649年) 信重の室(松月院)没(勝願寺に眠る。)
 ・万治元年(1658年) 夫信之没(93歳)]


 
 ※「勝願寺・三つ葉葵」の写真は後ほどアップします。


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