フジコ・ヘミング たどりつく力   ~大月投網子~

2017/ 05/ 10
                 
 家人は、一年前に読んでいたフジコ・ヘミングさんの『たどりつく力』。幻冬舎から2016年5月30日に第1刷が発行されています。

 ひところのフジコさんとは、ずいぶん趣きが違ってきたなあ。と、読んだ後の感想です。

 最も感じたのは、彼女の母親、ピアニストの大月投網子(おおつきとあこ)に対する思いです。
今まで断片的に語ってきた母親像(親の所為が子に与えることによるトラウマ)から離れ、今日のピアニストとしての自分があるのは母親がいたからこそとの思いを、述べるようになっていました。

 この『たどりつく力』の本文中の至るところに母のことを書き記しています。
 ページを追っていくことにいたしましょう。

①020p-021p:
・・・母はヒステリーで、気性がはげしく、思い通りにいかないとわめきまくる。・・・母親は東京音楽学校、現在の東京藝術大学の出身で、ベルリンに留学していたピアニストの大月投網子(とあこ)です。・・・両親は私が五歳の時に日本に帰国しました。でも、戦争の気配が濃厚で、外国人排斥の傾向が強かった当時の日本は、父のジョスタには住みやすいところではなく、やがて強制送還のような形で日本から追い出され、ひとりスェーデンに戻ってしまいます。・・・幼い子どもたちを残して去っていった父を、母はけっして許そうとはしませんでした。・・・

②024p-025p:
 「まだ、できないの。どうしてこんなこともできないのよ」
 「いつになったら、おまえはちゃんと弾けるようになるの」
 「遊ぶことばかり考えているんじゃあないよ。もっと弾きなさい」
 「今日は練習をどのくらいしたの。さぼったら、承知しないからね」
 母が私にピアノを教え始めたのは五歳のころです。
 自分がピアニストでしたから、子どもに教える優しい方法ではなく、とてつもないスパルタ式の練習方法を私に課したのです。
 まるで父がいなくなったことに対する怒りのはけ口のように、私に向かって攻撃的な言葉を投げかけてきました。
 ピアノを始めてからは、母に一日中どなられっぱなし。
 少しでもいわれたことができないと、「おまえはバカだ、バカだ」っていうの。・・・でも、そのきびしい練習が功を奏し、のちに母と同じベルリンに留学することができたのですから、母には感謝しなければなりません。・・・

③030p:
 母はありったけの情熱を傾け、寸暇を惜しんでレッスンを行い、全身全霊を傾けるほど熱心に娘の教育に取り組みました。
 いま考えると、その熱意には頭が下がります。・・・

④036p:
 このころ、町ではよくいじめに遭いました。
 「なんで、おまえの髪はそんな色をしているんだ」
 「日本人の顔じゃない」
 「おまえの父ちゃん、外国人なんだってな」
 こういわれ、私と弟のウルフは追い回され、いつも悪ガキたちから逃げてばかりいました。
 家に泣いて帰ると、今度は母の雷がドーンと落ちてきました。
 「何をめそめそしているの。ピーピー泣くんじゃないわよ。悪いことは何もしていないんだから、堂々としていなさい」・・・
 母は実家からの仕送りとピアノを教えることで生計を支え、鬼のような形相でレッスンを行っていました。・・・ 

⑤070p:
 母が九十歳で亡くなった二年後の一九九五年、長年のヨーロッパ生活に終止符を打ち、日本に帰国し、母が残してくれた東京・下北沢の家で暮らすようになりました。
 そのころは、左耳の聴覚だけが四十パーセント回復していましたので、母校の旧東京音楽学校の旧奏楽堂などで少しずつコンサート活動を開始しました。
 その矢先、一九九九年二月に私の運命を変えることになるテレビ出演の話が舞い込んできます。NHKのドキュメンタリー番組『フジコ ~あるピアニストの軌跡~』と題した番組への出演です。
 私は母親が残した下北沢の古い洋館の自宅でピアノを弾き、愛する家族である数匹の猫の世話をし、思い出話をしました。 ・・・
〈※註〉:本文には、下線は引いてありません。私が記しました。


⑥118p:
 「日本に戻っても、ピアニストはたくさんいるから、おまえの出番はないよ」
 母にいわれた言葉が脳裏に蘇りました。
 この言葉がずっと私の心の奥に居座っていて、日本に帰国することができなかったのです。

⑦168p-170p:
 最近、母のことをよく思い出します。
 歳をとったからでしょうか。
 母と暮らした日々が、まばゆいまでの記憶となって蘇ってくるのです。
 母は、私が日本に戻っても演奏の場がないと何度もいっていましたが、いまこうして日本や海外で演奏することができるようになった私をどんな思いで見つめているでしようか。
 子どものころの過酷なレッスンの日々は、思い起こすと本当に大変なものでしたが、そのおかげで私はピアニストになることができました。
 ベルリンに留学してからは、一生懸命ピアノを教えて娘の勉強のために仕送りをしてくれました。
 私のお金が底をつき、「クリスマスに砂糖水しか飲めない」と手紙に書くと、怒涛の勢いで返事が戻ってきました。
 「何をぜいたくなことをいっているの。おまえはベルリンでピアノを勉強することができる身なんだよ。私は毎日必死で働いている。こっちは塩をなめて生活しているんだから、もっと根性を据えてしっかり勉強しなさい」
 母も大変な思いをして仕送りをしてくれたのだと、いまは感謝の気持ちでいっぱいです。
 口が悪く、私は悪口ばかりいわれていたため、子どものころは母に対していい印象は持てなかったのですが、いまはその苦労がよくわかります。
 お母さん、本当はいま一番演奏を聴いてほしいのは、あなたです。
 きっといっさいほめることなく、ボロクソにいわれるでしょうが、それでもいいのです。
 私が世界の舞台でピアノを演奏している姿を、見てほしいんです。
 ・・・

⑧171p-172p:
 母とは、一度イタリア旅行をしたことがあります。母の晩年のことです。
 その時も、私の世話ばかりを焼き、朝から晩までどなっていました。
 この旅で、母は私がドイツで買ってあげた茶色の革のコートを着て、ロンドンで見つけたニットの帽子をかぶり、淡い茶色のサングラスをかけていました。
 七十歳になっていましたが、とても恰好よく、通りすがりの男性が振り返るほどでした。
 私はクリスチャンですから、母には天国で会えると思っています。
 それまでピアニストとしての人生をまっとうしたい。母に少しでもほめてもらうために・・・・・・。
 本当は、一番深く愛している人なのですから。




 母と子と、子と母と。今回はそんな人生模様にフジコ・ヘミングさんの言葉をお借りしました。
 次に書く機会があれば、フジコさんの音楽との出会いを書き記したいとは思っておりますが・・・。












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