上毛かるた わ

2014/ 01/ 14
                 
 父は、「群馬県和算研究会」に入っていた時期があります。
 かなり長いあいだの会員だったようです。

 先ほど、インターネットで検索しましたところ、あちこちに父の名前が出てきました。
 「・・・ 本解法は、群馬和算研究会会報第20号に載っているIG氏の解法を参考にした。昭和59年(1984年)8月13日の解法」なども出てきました。

 あるとき、なにかの折に、さりげなく「和算研究会を退会したよ」と言ったことを思い出しています。

 本棚にたくさんの和算、算額に関する書物が並べられています。
 「山形の和算」の本が発刊されたということを、私が全国紙の一隅に見つけ、新聞社に著作者の連絡先を聞き、父に伝えたことがあります。
 しばらくして、田舎の書棚を見ましたところ、その一冊が、他の和算の本と一緒に、ずっと以前からそこにあったかのように並んでいました。
 発行部数が限定される典型的なジャンルの本ですが、父の熱意が伝わったのでしょうね。


 わ ・・・ 和算の大家 関孝和

 
 上毛かるたでは、「せきこうわ」と覚えたつもりですが、あちこちを検索してみると「せきたかかず」と表示しています。(両方併記しているのもありました。)

 田舎の書棚には、勿論、関孝和に関する書籍本が置かれています。
 「算額を訪ねて」という企画も魅力あるのでしょうけれど、残念ながら私は上州でさえも、一度もその機会を得ていません。

 1992年に、数学者・関孝和の生誕350年を記念して、記念切手(62円)が発行されています。


 関孝和の生誕の地については、諸説ありますが、何れの表記でも生年については不詳と書かれています。
  
 次に、「国立国会図書館のhp」より、関孝和の業績を紹介します。
 関の業績は多彩でありましたが、中でも後世への影響が大きかった事柄は、独自の記号法(傍書法)の開発と、それを用いて自由自在に数式を表現し、天元術を格段に飛躍させたこと(解伏題之法)が挙げられます。傍書法は、簡単に述べるならば数字と文字を1つの式の中に表現できるように工夫したもので、和算の数式としての表現力を向上させました。

 これによって天元術も応用が加えられました。中国から最初に伝わった天元術は方程式といっても未知数が1個の場合にしか対応できませんでしたが、傍書法による数式を導入したことで、複数の未知数を1つの式に表現することができ、そこから数式の処理が簡単になりました。現代数学の用語を用いていえば、連立方程式の未知数消去が容易になったということになります。関はこの天元術の応用を様々な分野の問題に適用し、例えば正三角形から正20角形までの正多角形それぞれについて、その面積を計算する実例を『括要算法』で実践しています。

 関孝和による新しいタイプの数学の出現によって、後世の和算家は多大な恩恵を受けました。数式表現が非常にシンプルになったこと、問題解法の見通しが立てやすくなったこと、各種の新しい公式が開発されたことなどです。18世紀も後半になると関孝和のことを俳句の松尾芭蕉(俳聖)や茶道の千利休(茶聖)に倣って「算聖」と呼ぶこともあったほど、彼の名前は和算家の間で普及していきます。関孝和の系列に連なる和算家たちが自らの集団を「関流」と自称するようになるのも、18世紀後半以降のことになります。


 次に、「藤岡市役所のhp」より、「関孝和」を紹介します。
 関孝和は、算木を使って高次方程式を解く天元術に改良を加えて筆算式の高等代数学である点竄術を発明し、数学の多くの分野における理論的研究を行い、体系化を試みるなど卓越した業績を残されました。その業績により我が国では「算聖」と呼ばれ、さらに同世代に出たイギリスのニュートン、ドイツのライプニッツとともに世界三大数学者として尊称されています。

 関孝和(せきたかかず)は、近世日本数学を代表する数学者ですが、関孝和の生涯を知る資料は余りにも少ないのが現状です。
 孝和は、内山七兵衛永明の第二子として生まれました。その生年は定かではありませんが、寛永19(1642)年、もしくはその数年前と推測されています。その生地についても上州藤岡あるいは江戸の2説があります。20代にいたって関五郎左衛門の養子となり、関孝和と名乗ることになりました。関孝和の幕府における勘定吟味役は今日の会計検査官のような職務であり、御納戸組頭も将軍家の財産管理を司る管理職でした。このように見ると関孝和はその生涯を財政関係の職務に捧げたことが分かります。


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