謡曲 巴

2014/ 02/ 03
                 
 謡曲に「兼平」「巴」があると、京都のお宅に伺った折り、教えて頂きました。
 謡曲もまた、流派があります。
 手元に置いた「巴」は、何れの流派ということになるのでしょうか。

 
 「謡曲 巴」、「義仲寺縁起」、「平家物語」と、三者三様の巴御前が描かれています。

 どの時代で作られた「巴」も、女性の理想の姿を映し出しているといわれています。
 現代においても、私たちが求める「女性像」は、いつも普遍的で、そして遠くにあるものとして、その輝きを放っているのかも知れません。


謡曲 巴
 木曽の里人二人が都に上る途中、粟津ケ原で巴御前の怨霊に出会います。

 巴       
 前シテ:里の女
 後シテ:巴御前  
 ワキ:旅の僧  
 ワキツレ:同行の僧   
 アイ:里の男

[次第]
(ワキ・ワキツレ)行けば深山もあさもよい。行けば深山もあさもよい。木曽路の旅に出でうよ。

[名ノリ]
(ワキ)これは木曾の山がより出たる僧にて候、われいまだ都を見ず候ふほどに、このたび思ひ
        立ち都に上り候。

[上ゲ歌]
(ワキ・ワキツレ)旅衣、木曾の御坂を遙々と、木曾の御坂を遙々と、思ひ立つ日も美濃尾張、
        定めぬ宿の暮れごとに。夜を重ねつつ日を添へて、行けば程なく近江路や、鳰の海とは
        これかとよ、鳰の海とはこれかとよ。

[サシ]
(シテ)面白や鳰の浦波静かなる、粟津の原の松蔭に、神を齋ふや祭りごと、げに神感も頼もしや。

「ワカ受ケ]
(シテ)けふは粟津が原のご神事にて候ふほどに、参らばやと思ひ候。あら有難や候。
        昔のことの思ひ出でられて候。

[問答]
(ワキ)不思議やなこれなる女性の、神に参り涙を流し給は、なにと申したることにて候ふぞ。
   (シテ)お僧はみづからのことを仰せ候ふか。
   (ワキ)さん候ふ神に参り涙を流し給ふ不審にて候。
   (シテ)おろかと不審し給ふや。傳へ聞く行教和尚は、宇佐八幡に詣で給ひ、一首の歌に曰はく、
       なにごとのおはしますとは知らねども、忝なさに涙こぼるると、かやうに詠じ給ひしかば、
       神もあはれとや思しめされけん、御衣の袂にみ影をうつし、それより都男山に誓ひを示し
       給ひ、国土安全を守り給ふ、愚かと不審し給ふぞや。

[掛ケ合]
(ワキ)優しやな女性なれどもこの里の、都に近き住まひとて、名にしおひたる優しさよ。
    (シテ)さてさてお僧の住み給ふ、在所はいづくの國やらん。
    (ワキ)これは信濃の国木曾の山がの者にて候。
    (シテ)木曾の山がの人ならば、粟津が原の神のおん名を、問はずはいかで知るべきぞ、これこそ
        おん身の住み給ふ、木曾義仲のおん在所、同じく神と齋はれ給ふを、拝み給へや旅人よ。
    (ワキ)不思議やさては義仲の、神と現はれこの所に、いまし給ふは有難さよと、
    (シテ)神前に向かひ
    (シテ・ワキ)手を合はせ

[上ゲ歌]
(地謡)いにしへの、これこそ君よ名は今も、これこそ君よ名は今も、有明の月の義仲の、仏と
       現じ神となり、世を守り給へる、誓ひぞ有難かりける。旅人も一樹の陰、他生の縁と思し
       めし、この松が根に旅居し、夜もすがら経を読誦して、五衰を慰め給ふべし、有難き値遇
       かな、げに有難き値遇かな。

[歌]
(地謡)さるほどに、暮れ行く日も山の端に、入相の鐘の音の、浦曲の波に響きつつ、いづれも物
       凄き折節、われも亡者の来りたり、その名をいづれとも、知らずはこの里人に、問はせ給
       へと夕暮の、草のはつかに入りにけり、草のはつかに入りにけり。

[上ゲ歌]
(ワキ・ワキツレ)露を片敷く草枕、露を片敷く草枕、日も暮れ夜にもなりしかば、粟津の原
       のあはれ世の、亡き影いざや弔はん、亡き影いざや弔はん。

[サシ]
(シテ)落花空しきを知る、流水心なうしておのづから、すめる心はたらちねの。

[ノリ地]
(地謡)罪も報いも、因果の苦しみ、今は浮かまん、み法の功力に、草木国土も、成仏なれば、
       いはんや生ある、直道の弔ひ、かれこれいづれも、頼もしや、あら有難や。

[掛ケ合]
(ワキ)不思議やな粟津が原の草枕を、見ればありつる女性なるが、甲冑を帯びする不思議さよ。
     (シテ)なかなかに巴といつし女武者、女とてご最期に召し具せざりしその恨み、
     (ワキ)執心残つて今までも、
     (シテ)君邊に仕へ申せども、
     (ワキ)恨みはなほも、
     (シテ)荒磯海の、

[上ゲ歌]
(地謡)粟津の汀にて、波の討ち死に末までも、おん供申すべかりしを、女とてご最期に、捨
      てられ参らせし恨めしや。身は恩のため、命は義による理、たれか白真弓取りの身の、最期
      に臨んで、功名を惜しまぬ者やある。

[クセ]
(地謡)さても義仲の、信濃を出でさせ給ひしは、五萬餘騎のおん勢、銜を並べ攻め上る。礪波
      山や倶利伽羅、志保の合戦においても、分捕り高名のその数、たれに面を並べ、たれに劣る
      ふるまひの、亡き世語りに、なほをし思ふ心かな。
    (シテ)されども時刻の到来、
    (地謡)運槻弓の引くかたも、渚に寄する粟津野の、草の露霜と消え給ふ、所はここぞお僧たち、
      同所の人なれば、順縁に弔はせ給へや。

[ロンギ]
(地謡)さてこの原の合戦にて、討たれ給ひし義仲の、最期を語りおはしませ。

「中ノリ地]
(シテ)頃は睦月の空なれば、
    (地謡)雪は班消えに残るを、ただ通ひ路と汀をさして、駒を知るべに落ち給ふが、薄氷の深田
      に駆け込み、弓手も馬手も鐙は沈んで、下り立たん便りもなくて、手綱に縋つて鞭を打てど
      も、引くかたも渚の濱波、前後を忘じて控へ給へり、こはいかにあさましや。

[歌」(地謡)かかりし所にみづから、駆け寄せて見奉れば、重手は負ひ給ひぬ。乗り替へに召させ参ら
      せ、この松が根におん供し、はやおん自害候へ。巴も共にと申せば、その時義仲の仰せに
      は、汝は女なり、忍ぶ便りもあるべし、これなる守り小袖を、木曾に届けよこの旨を、背か
      ば主従、三世の契り絶え果て、長く不孝と宣へば、巴はともかくも、涙にむせぶばかりなり。

[中ノリ地]
(地謡)かくてご前を立ち上がり、見れば敵の大勢、あれは巴か女武者、餘すな漏らすな
      と、敵手繁く掛かれば、今は引くとも逃るまじ、いでひと戦嬉しやと、巴すこしも騒がず、
      わざと敵を近くなさんと、薙刀引き側め、すこし恐るる気色なれば、敵は得たりと斬つて掛
      かれば、薙刀柄長くおつ取り伸べて、四方を払ふ八方払ひ、一所に当たる木の葉返し、嵐も
      落つるや花の滝波、枕をたたんで戦ひければ、皆一方に斬りたてられて、跡も遙かに見えざ
      りけり、跡も遙かに見えざりけり。

[歌」
(シテ)今はこれまでなり、
   (地謡)今はこれまでなりと、立ち帰りわが君を、見奉れば痛はしや、はやおん自害候ひて、この
      松が根に伏し給ふ、おん枕の程におん小袖、肌の守りを置き給ふを、巴泣く泣く賜はりて、
      死骸におん暇申しつつ、行けども悲しや行きやらぬ、君の名残をいかにせん。とは思へども
      くれぐれの、ご遺言の悲しさに、粟津の汀に立ち寄り、上帯切り物の具、心静かに脱ぎ置
      き、梨子打烏帽子同じく、かしこに脱ぎ捨て、おん小袖を引き被き、その際までの佩き添え
      の、小太刀を衣にひき隠し。所はここぞ近江なる、信楽笠を木曾の里に、涙と巴はただひと
      り、落ち行きしうしろめださの、執心を弔ひて賜び給へ、執心を弔ひて賜び給へ。



 「謡曲 巴」の舞台  
  ・面白や鳰の浦波静かなる、粟津の原の松蔭に、神を齋ふや祭りごと、げに神感も頼もしや。
  ・けふは粟津が原のご神事にて候ふほどに、参らばやと思ひ候。
  ・木曾の山がの人ならば、粟津が原の神のおん名を、問はずはいかで知るべきぞ、
   これこそおん身の住み給ふ、木曾義仲のおん在所、同じく神と齋はれ給ふを、拝み給へや旅人よ。
  ・これこそ君よ名は今も、有明の月の義仲の、仏と現じ神となり、世を守り給へる、・・・
 ―― 粟津に義仲寺があります。・・・冨倉德次郎校註の平家物語(中)172ページの説明書き中、『長門本に「後に聞こえけるは越後國友椙という所に落ち留りて、尼になりてけるとかや」とある。』とあります。 ――



 「平家物語」の木曽の最期は、今井四郎兼平と共の場面で終わっていますが、「謡曲 巴」では、巴御前と共にある場面となっています。
 巴御前が主役となれば、女の情念を語るがゆえに、「謡曲 巴」は木曾の最期の場面に必然として舞台に登場することになります。
 「謡曲 巴」では、巴御前は怨霊となって現れ出でます。一方義仲寺縁起では、尼僧となった巴は、義仲寺で主の霊を供養する姿を映し出しています。



ひこうき雲 ②


 巴御前は、どこに生き存えたのかということは、とても魅力的な問いかけです。
 元武蔵大学教授深澤邦弘氏の、2012年8月28日のブログ「かかわりゆくほどに…」の中で、諸本から抜粋した落ち行く先のことが書かれていましたので、その箇所を掲載させて頂きました。

 おのれは、とうく、女なれば、いづちへもゆけ…

 討死、さもなくば自害の覚悟を義仲は巴に語り、最後の合戦まで女性を伴っていた、討死させた(『百二十句本』)
などといわれることは不本意、不名誉なことと、義仲は巴に戦場からの離脱を重ねてうながすのである。

 巴は「一人当千」の活躍を義仲の前に示して落ちていった。この場面の諸本の記述を参照する。

・そのまま物具脱ぎ捨てて、泣く泣くいとま申して、東国の方へぞ落ち行きける。(『百二十句本』)

 ・此ともゑはいかゞ思ひけん、逢坂よりうせにけり、後に聞えけるは越後国友椙といふ所に落留りて、尼になりてける    とかや、(『長門本』)

 ・粟津辺二也ニケレバ、主従五騎ニゾ成ニケル。…略…鞘絵ハ落ヤシヌラム、被打シヌラム、行方ヲ  不知一ナリニ    ケリ。 (『延慶本』)

 ・覇絵と云ふ女武者も、討たれや為ぬらん、行方を知らず。(『四部本』)

 ・…疾々忍落ちて信濃へ下、此有様を人々に語れ、敵も手繁く見ゆ、早々と宣ければ、巴遺は様々情けれ共随主命、落涙を拭つゝ上の山へぞ忍びける。粟津の軍終て後、物具脱拾、小袖装束して信濃へ下り、女房公達に角と語、互に袖をぞ絞ける。 (『盛衰記』)

 行き方しれず、東国か、越後か、あるいは信濃へと落ちていった、尼となった、『平家物語』の伝える巴の姿である。




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