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BOYS BE AMBITIOUS 父の遺した拓本

2020/ 03/ 13
                 

 拓本をあれこれみると思い出す父の言葉と様々なこと

 1-1少年よ野心家たれ

 少年よ野心家たれ!
 BOYS BE AMBITIOUS


 中学生の時のクラス内でのことです。
 先生が、生徒一人ひとりに好きな言葉を、皆の前で発表して、何故その言葉を選んだのかを説明するように。という授業の一コマでした。
 ここでは仮にA君としましよう。その彼が、
 Boys be Ambitious!
少年よ 大志を抱け! 
 私は、このことばが大好きです。大志を抱いて立派な大人になりたいです。と、説明し始めました。
 ・・・
 B君に順番が回ってきました。
 BOYS BE AMBITIOUS
 少年よ 野心家たれ
 彼は、父から話を聞いていたクラーク博士のことを思い浮かべながら、なぜに、野心家たれなのかを説明し始めたのですが、先生から話の途中でストップがかかりました。
 という授業風景を思い出しました。
 B君というのは、私のことです。
 担任が、あのときストップをかけた意味は、いまこの年になって、とてもよく理解しています。

 手元にある、「BOYS BE AMBITIOUS」の拓本は、北海道大学(古川記念講堂前)のクラーク胸像に記されている文字です。
 さっぽろ羊ヶ丘展望台の全身像「丘の上のクラーク」に刻まれている「BOYS BE AMBITIOUS」に記されているものではありません。(と、思います。)

 この「BOYS BE AMBITIOUS」の拓本は、実際に父が北大に出向いたときに採択したのか、親戚のどなたかに依頼して取り寄せたのか、そのへんのところが判っていません。
 私の大叔父(父の「叔父」)は北大の学生でしたし、そこの獣医師にもなっていました。
 私の従兄たちも、ときおり、私の父(父の「甥」)のご所望にこたえて、あれこれ父の喜ぶものを贈り物として届けていたということもあり、正しいことは何も判っていないのですが、ただいえることは、今私の手元にありますということです。

                 
        

父の遺したもの ブルーノタウトの拓本

2020/ 03/ 10
                 
 父遺す数ある中の拓本にブルーノタウトの足跡をみる

 1-2-1ブルーノタウト  本文
 1-2-2ブルーノタウト サイン
  ICH LIEBE DIE JAPANISCHE KULTUR
   1934年8月24日  ブルーノタウト


 少林山とブルーノタウト 
   ~少林山達磨寺の公式サイトより~

 ブルーノ・タウトは1880年5月4日ドイツの東プロイセン・ケーニヒスブルクに生まれました。建築の学校を卒業後、当時流行ったジャポニズム、アールヌーボーに影響され、日本に関心を持ち、画家になるか迷ったこともあったが、ヘードヴィヒと結婚し、ベルリンで建築設計事務所を開き、博覧会出品作や色彩豊かなジードルンク(住宅団地)などの作品が国際的な評価を受けました。
しかし、ナチス政権の台頭により、身の危険を感じたタウトは日本インターナショナル建築会の招待状があるのを幸にエリカ・ヴィティヒと共に日本に亡命しました。
 1933年5月3日敦賀に到着し、翌日の誕生日に桂離宮を訪れて深い感銘を受けたのをはじめ、伊勢神宮では自然と調和した簡潔なそして厳しい形式に共感し、また建築家に連れられて全国を旅し、また、多くの文化人や工芸家に接し日本の文化を深く理解して行ったのです。

 ブルーノタウトご夫妻写真於神社

 始めは仙台の工芸指導所に勤めましたが、建築家・久米権九郎氏の紹介で高崎の井上房一郎氏の知遇を得、後に高崎の県工業試験場高崎分場に着任します。
 井上氏は八幡村の大地主である沼賀博介氏が農業の普及と改良の指導をして頂く東京農大学長・佐藤寛治博士のために建てた洗心亭という建物が少林山達磨寺境内にあって空いていることを知り、100日の予定で当時の住職・廣瀬大蟲和尚にタウトの滞在を依頼したのですが、結果的には1934年8月1日から2年3ヶ月もの長期滞在になってしまいました。

 作品その1 スタンド

 高崎では家具の設計をはじめ、竹や和紙を使った作品や漆器、竹皮細工、銘仙の図案など日本独特の素材を生かし、モダンな作品の数々を作り出しました。
 洗心亭での生活は、6畳と4畳半だけの狭い簡素な建物ですから不便であったと思いますが、タウトは鴨長明の方丈記や松尾芭蕉の奥の細道を読み、池大雅の十便図を是とするほど、日本特有の「わび」「さび」の心をドイツにいる頃から学び、かえって自然に囲まれた「侘び住まい」を楽しまれたように思います。

 集合写真 

 また、毎日2時間ほど鼻高の丘陵地帯を散策し、農家の家々に寄り込み大黒柱を撫で回したり、天井裏の曲がりくねった棟木を見たり、農家の家の作りやその生活ぶりを気易く見て廻りました。言葉は通じないのに時にはお茶や菓子が出され、ゆっくりすることもあったそうで、タウトはその気のおけないなごやかな雰囲気を好み、地元の人達もまたタウトさん、エリカさんと親しく声をかけました。
 次ぎのような散歩の時のエピソードが日記にあります。
 私たちが山下の小径を歩いていると、いつものように大勢の村童たちが私たちのあとからついて来たが、やがて私たちの歩く先に立って両側の潅木の枝を左右に押さえつけ、枝の先が私たちに触れないようにしてくれた。外人を見ようとする好奇心はあっても、実に細かい心遣いをする物だ。みな貧しい?それも極めて貧しい子供たちなのに!やはり日本なのだ。

  (昭和10年3月24日の日記)
 ブルーノタウト 日記

 タウトは昭和10年9月25日の碓氷川の洪水で罹災した藤塚地区には沼賀氏を通して見舞金を贈り、沼賀氏は全戸に「水害見舞 ブルーノ・タウト」と書いたバケツ渡し、残金は貧困家庭に分けられました。日本では十分な生活費もなく、ドイツから持ち込んだお金を取り崩す生活をしていたのにもかかわらず、仕事や散歩で行き会う人々の惨状を見ぬふりが出来なかったのでしょう。タウトのバケツはつい最近まで保存していた家が藤塚にあったそうで、タウトの暖かい心が今だ藤塚地区には語り継がれています。
日本では本職の建築では力を発揮することは出来ませんでしたが、洗心亭を本拠地にして、おもに関西から東日本の各地を廻り、画帳『桂離宮』『ニッポン』『日本の家屋と生活』『建築芸術論』『日本文化私観』などの著作を通して、日本建築の自然と調和した美しさと日本文化の素晴らしさを世界的に知らしめた功績は、私たち高崎市民にとって誇るべきことではないでしょうか。
トルコからイスタンブール芸術アカデミー建築科教授、兼政府最高建築技術顧問としての招聘があり、後ろ髪を引かれつつも建築の仕事が出来るということで応じました。

 記念写真 家の中

 1936年10月10日赤坂の幸楽(その年2.26事件で反乱軍の宿舎となった料亭)で送別会の挨拶でタウトは「私はもはや健康ではない、再び日本に帰ることはできないだろう。日本は遂に戦争になるだろうが、集まって下さった方々の無事生きながらえることを願うばかりだ。出来得るならば私の骨は少林山に埋めさせて頂きたい」と言われたそうです。
 その年の11月11日にイスタンブールに到着するのですが、翌年、厚遇を受けた大統領ケマル・アタチユルクの死に際し、その恩顧に応えようとして、葬儀場の設計を一晩のうちに仕上げるなどの無理がたたったのか、1937年12月24日脳溢血のためにこの世を去りました。
遺体はエディルネカピ墓地に埋葬されましたが、タウトの遺志を果たすため、エリカは翌年9月15日にデスマスクを少林山に納めました。

 デスマスク.


 タウトがわが故郷とした洗心亭には「ICH LIEBE DIE JAPANISCHE KULTUR」(私は日本の文化を愛す)というタウトが少林山に残した言葉の碑があります。私たち日本人は自信を持ってこのような言葉を言えるようになることが、これからの国際化時代には必要なのだと今気付き始めました。座右の言葉として大切にしたいものです。

                 
        

時代の証言者 とほしろし 美智子さま

2020/ 03/ 05
                 
 
 君とゆく道の果たての遠白(とほしろ)く夕暮れてなほ光あるらし

         歌会始御題 光  平成二十二年 

 1光
   『皇后美智子さま 全御歌』(発行2014年10月20日.発行所株式会社新潮社.より)



 お歌では、美智子さまは「とほしろし」という幽遠な感じのする言葉が好きですね。古くからある言葉ですが、心が広く大きくなる、あるいは視野が広く大きく感じられるというときに使うとぴったりきます。
 <君とゆく道の果たての遠白(とほしろ)く夕暮れてなほ光あるらし>。2010年(平成22年)の歌会始に出されました。周りが暗くなり、道の遠い果てのところがぼーっと輝いて見えるわけでしょう。心理的な内容で、勉強ではできない、本質的な歌人としての素質がおありです。

 「時代の証言者」 情念をうたう 岡野弘彦 ㉖ 
  2020年(令和2年)3月4日(水曜日) 読売新聞


                 
        

フジコ・ヘミング ~ 母の執念 魂のピアニスト誕生 ~ NHK ファミリーヒストリー 2月24日放送

2020/ 02/ 05
                 
 フジコさん米寿の年に何思う

 フジコヘミング NHK総合 ファミリーヒストリー 2月24日放送
 NHK『ファミリーヒストリー「フジコ・ヘミング〜母の執念 魂のピアニスト誕生〜」』(c)NHK


 おっかけまではいかずとも、年一回お会いできることがとても嬉しいです。
 85歳の誕生日の前日は、フジコさんの思い出深い銀座ヤマハホールで、ソロ演奏会がありました。
 88歳の節目の年。ヤマハホールでの演奏会は実現するでしょうか。


NHK ファミリーヒストリー 
2月24日 午後7時30分~ 午後8時42分

 フジコ・ヘミング ~ 母の執念 魂のピアニスト誕生 ~ 
 
ピアニスト、フジコ・ヘミングさんは日本人の母とスウェーデン人の父との間に生まれた。ドイツで暮らしていた一家は、第二次世界大戦の前、日本にやってきた。しかしまもなく、両親は不仲になり、父は一人、日本を離れた。戦後、母はフジコさんをピアニストにしようと、女手ひとつで懸命に働く。しかし母は、フジコさんが成功をする姿を見ることなく、亡くなった。フジコさんが弾くピアノの音色と共に壮絶な歳月が浮かび上がる


                 
        

村木厚子さん …塀の中で生まれた本… 安部譲二さん 

2020/ 01/ 05
                 
  
 塀の中思いめぐらし本になる 

 2-1猫びより 安部譲二
 〈『猫びより』(2013年11号◇interview 私と猫「安部譲二」.辰巳出版.隔月刊誌)

 ご存じ、安部譲二さん。
 令和元年9月2日に、82歳で死去されていますが、猫好きの作家としてもつとに知られたお方でした。
 安部さんの小説デビュー作『塀の中の懲りない面々』(1986年.文芸春秋)は、ベストセラーとなり、映画化もされたことをご存じの方もいらっしゃるかと思います。
 今、私の手元にあるのは『もう、猫なしでは生きていけない』(2013年.青志社)の一冊だけです。

 3-1もう猫なしでは生きていけない。.

 2-2猫びより 安部譲二 略歴
〈『猫びより』(2013年11号◇interview 私と猫「安部譲二」.辰巳出版.隔月刊誌も置いていますが・・・)


 塀の中に、安部譲二さんは何回も入っていましたが、村木厚子さんは一回だけ入っています。〈村木さんは拘置所に入っていたので、刑務所ではありません。念のため・・・〉


 村木厚子さんの拘留期間は半年近くに及びましたが、その塀の中にいた間に、読み通した本は150冊に及びます。

  その拘留期間中に感じとり、思ったことがきっかけとなったことが、一冊の本として実を結びました。
 『日本型組織の病を考える』 村木厚子著〈角川新書.2018年8月10日初版発行〉

 1-1村木厚子著 

 1-2日本型組織の病を考える 村木厚子 

 その中から、特に目についたのが、次の二つの文章でした。

・・・ 半年近い拘留期間中、約五百通のお手紙を頂き、約七十人の方々が面会に来てくださいました。私を支援する会ができていることなども知りました。
 いろいろな方々からのお手紙の中には、こんなアドバイスもありました。
 「拘留所の食事は、味はともあれ、バランスはいいから、ダイエット道場に入ったと思って頑張りなさい」
 「拘留所を大学院だと思って勉強しなさい」
 本はたくさん読みました。差し入れも多かったので、塀の中にいた間に、一五〇冊ほど読みました。大好きな推理小説のほか、歴史書や児童書など、ジャンルは様々です。イタリア在住の作家、塩野七生(ななみ)さんの歴史長編『ローマ人の物語』(新潮社)も読みました。
 そうして読んだ本の中に、ベタすぎてそれまでは苦手だった相田みつをの作品集『にんげんだもの 逢』(角川文庫)がありました。

 弱きもの人間
 欲ふかきものにんげん
 偽り多きものにんげん
 そして人間のわたし

 この作品は、実に多くのことを言い当てていると思いました。・・・

・・・ 塩野七生さんの『ローマから日本が見える』(集英社文庫)という本に、ローマ皇帝など、古代の英雄たちの資質について語った『英雄たちの通信簿』という対談が収録されています。指導者に求められる資質の指標というものが五つあり、このことは決断力が求められる日本の政治家にもあてはまると思いました。
 その五つとは、「知力」「説得力」「肉体上の耐久力」「自己抑制の能力」「「持続する意思」。体力は腕力ではなく耐久力。知性だけではなく、説得力もいるとある。的確です。日本の政治家を見ていると、自己制御の能力、つまり自分を律する力が弱くなっているのではないかと、最近、思います。 ・・・