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エール最終回 鏡の中の笑顔の素敵な志村けんさん 

2020/ 11/ 29
                 
 
 志村けん鏡の中の笑い顔エールでおくる忘れえぬ人


 エール最終回20201126志村けんさん1


 偶然に写っていたという、鏡の中の志村けんさん。
 NHK連続テレビ小説「エール」最終回の一コマ。
 笑顔がチャーミングな志村けんさん。
 小山田耕三役を演じる中では、笑みのこぼれるシーンは一つとしてありませんでした。
 チーフ演出の吉田輝幸監督ならではのミラーショットの挿入でしたね!



【エール】最終回に志村けんさん登場 偶然撮れていた笑顔の初出しカットは「奇跡」  
  ~ Drama & Movie  2020-11-26 08:15 ~

 NHKの連続テレビ小説『エール』(月~土 前8:00 総合ほか※土曜は1週間の振り返り)は、26日放送の第119回で、多くの名曲を生み出した作曲家・古山裕一(窪田正孝)と妻・音(二階堂ふみ)の夫婦二人三脚の物語が完結。裕一が作曲をはじめるきっかけとなった日本を代表する西洋音楽の作曲家・小山田耕三役で出演し、今年3月に亡くなった志村けんさんの回想シーンと、「子どもみたいにチャーミング」な笑顔のミラーショット(初出し映像)が華を添えた。

 第119回は、病に伏す音の療養ため、東京を離れて静かな生活を送っていた裕一のもとに、ある日、作曲家を目指しているという広松寛治(松本大輝)という青年が裕一を訪ねてくる。そして、東京オリンピックの後、裕一の元に届けられた、小山田が亡くなる直前に裕一に宛てて書いたという手紙を思い出す。

 小山田は、裕一のたぐいまれな作曲の才能に気づき、コロンブスレコードに専属作曲家として推薦するが、一方で、裕一の活躍が自分の地位を脅かすのではないかと恐れていた。手紙は、西洋音楽ではなく、あえて流行歌の専属作曲家にしたことを懺悔(ざんげ)するものだったが、そのことが結果的にジャンルレスな裕一の活躍にもつながり、裕一は「感謝しかありません」と語るのだった。

 裕一の前ではいつもしかめっ面だったが、手紙を届けにきた付き人の猿橋重三(川島潤哉)が「笑顔は子どもみたいにチャーミング」だったと語る場面の志村さんの笑顔は、今回が初出しの映像。脚本・演出に携わった吉田照幸氏は次のように明かす。

 「第119回は、2つやることがあると最初から思っていました。一つは志村さん、もう一つは夫婦の終わり方。最後に志村さんをどうやって出したらいいのか。もし天国に行くことができて、志村さんと再会できたら笑いについてお話したいな、と思っている僕の思いを台本に書きました。撮影している時、涙が出てしまい、プレビューが見れなかったです。ですが、窪田さんも猿橋役の川島さんも抑えた素晴らしい重みのある芝居だったな、と思います。

 志村さんの初出し映像は、実際は現場でほかの人がNGを出した時に思わず笑っていた志村さんがたまたま映っていた映像を編集担当が見つけてくれたんです。奇跡だな、と思うのはミラーショットじゃなかったら使えなかったかもしれないということ。鏡に映っている顔だから、思いを馳せることができる。本当に、偶然撮れていた映像なんです。志村さんは、本当に子どもみたいな笑顔をされる方で、それをこういう形で表現できて、みんなで頑張って、努力して、思いが詰まった作品ではこういう奇跡みたいなことが起こるんだな、と思いました」

 今作がテレビドラマ初出演にして遺作となった志村さん。演出の吉田氏は、『となりのシムラ』シリーズ、『志村けんin探偵佐平60歳』(2018年)などで志村さんと番組を作ってきた。

 「手紙の内容を小山田が直接、裕一に伝えるシーンは、構想として最初からあったものです。わだかまりを超えて、普段の志村さんのような柔らかい笑顔で終わろうと思っていました。プライドの功罪、嫉妬は力にもなるけど、人を蝕むこともある、ということを『エール』の中で描きたいと思っていたんです。志村さんは“笑い”に対して本当にストイックで、他の人がウケていたら悔しいし、自分はもっと笑わせることができる、と常に勝負に挑み、努力されていた。実際に撮影することができなくなり、猿橋のせりふとして書きましたが、本当に笑顔は子どもみたいにチャーミングな方でした」と、志村さんを偲んだ。



                 
        

心のままに

2020/ 10/ 22
                 

心 の ま ま に
       NAOKOさんの句集

心のままに①NAOKO句集



 耳たぶの  霜焼けも似る  親子かな


 落人の  里も躑躅に  包まれて
 天高し  初入賞の  徒競走


 春風に  そよぐ髪型  吾もしたし
 故郷は  遠き思いに  盂蘭盆会


 わが夫と  仕事の前の  花見かな
 初電話  老いまぬがれぬ  父の声
 受験子の  足踏む場なき  部屋のさま


 風邪癒えて  常の小言の  始まりぬ
 プランタに  菖蒲根分けの  都市住まい


 たくましき  日焼けが吾子の  旅みやげ


 丹精の  花菖蒲切る  手の迷い


 数だけの  美しさあり  花菖蒲


 錦木の  枝に自然の  巧見る
 芍薬の  張りしつぼみの  弾きたくて
 くるくると  菖蒲の花の  萎れゆく


 冬暖  がんと共存  良きかなと
 検査受け  息をひそめし  夏の果つ
 病名を  父には言えず  曼珠沙華


 豆飯を  好まぬ夫の  留守に炊く
 髪洗う  命を見つめつつ  洗う 
 春眠や  日程表の  白嬉し


 完治なき  病を負いて  春暮るる
 退院に  百日紅の  まぶしくて
 三椏の  花の色なき  色の好き
 雨振りて  桔梗の色の  あらたまる
 秋の夜や  薬効きをる  やすらぎも



   NAOKOさんの逝去にあたり

 振り向かず
    花野の径を  真直ぐに
                曉星

 
        表紙は NAOKOさんが 若い頃に着ていた
        羽織の布を 使いました





 母として
 母として (実家にて.1969〈S44〉年4月撮影)







                 
        

微笑みの円空仏

2020/ 09/ 27
                 

 円空の忿怒と微笑彫刻の仏唇仰ぎ見て知る


 観音座像 円空仏
 〈観音座像 北海道・洞爺湖観音島〉
 

今、全国に残る円空仏は4,500余りとききます。
北海道、東北、関東、長野、岐阜、愛知、そして近畿地方まで、円空は、三十路を超えて旅立ちました。
円空は、寛文6年(1666年)にえぞ地といわれた北海道に渡り、冬を越して1年余り、ノミを振るっています。
 4年の足跡を遺す関東での円空は、赤城、榛名、妙義の上毛三山、そして日光二荒山などを中心に巡っています。

 不動明王座像 妙義神社
 〈不動明王座像 群馬・妙義神社〉


 時に、延宝8年(1680年)ごろ、円空50歳前後の、修行と造像の日々でありました。




  賓頭盧像〔自刻像〕〈丹生川村・千光寺〉
 円空仏 賓頭盧像〔自刻像〕

 見れば見るほど、円空の微笑像の唇は優しい。飾らぬ声で、優しい慰めの、励ましの、いたわりのことばが、次から次へあふれるように唇からこぼれてくる。これほど多弁な唇を、ほかには知らない。
 たぶん、円空は唇を刻みながら、弱者に向かって優しいことばをあふれるばかりに発していたのだろう。
 数多い円空仏から一つだけを選べといわれると、しかたない、わたしは微笑みする唇しかない。・・・と、早坂暁は記しています。


                 
        

中秋の月 蘇武  

2020/ 08/ 31
                 

 中秋の月何処かと蘇武問うや中島敦李陵に語る


 月と雲20200826


中秋月
暮雲収盡溢清寒
銀漢無聲轉玉盤
此生此夜不長好
明月明年何處看

中秋の月
暮雲 収め尽くして清寒溢れ
銀漢 声無く 玉盤を転ず
此の生 此の夜 長くは好からず
明月 明年 何れ(いずれ)の処にて看ん


                 
        

三島由紀夫逝きて半世紀 猫の描写

2020/ 08/ 25
                 

 猫描く三島由紀夫は何語る小説の筋曰く不可思議


 セミの抜け殻50個に20200816-2.
  〈セミの抜け殻50個.令和二年八月.於わが家の庭〉


 三島由紀夫の小説の中には、猫が登場する作品が幾つかあります。
 三島の猫好きは有名でしたが、こと小説の中に題材として描く猫に関しては思いもかけないかたちをとって、読む者にとっては心が惑うことになります。

 三島由紀夫と愛猫チル.
   〈書斎にて、愛猫チルと。中央公論新社「三島由紀夫と戦後」〉


 三島最後の小説、『豊饒の海』四部作の結末もそうであるように、小説の落ちどころは曰く言い難い迷路に私たちを誘い込んでいるようにもみることができます。
 死出の旅として遺した「檄」もまた、自らの魂の終焉としての幕引きのメッセージだったのかも知れません。
 衆人を前にして自らに終止符を打った三島由紀夫・・・。私たち日本人に何が遺されたのでしょうか。


  ~三島由紀夫 間もなく没後50年~

 昭和45年(1970年)11月25日(水)、三島由紀夫は 45歳〈大正14年(1925年)1月14日生(水)〉で生涯を終えました。満年齢と昭和の年数が一致という、まさに昭和を代表する日本人の一人でもあった三島由紀夫。
 学生時代、experimental psychology の機械実験演習室に、学科研究室の女史が駆け込んできて、三島由紀夫の自刃を告げました。
 浅沼稲次郎が17歳の山口二矢(おとや)に暗殺〈昭和35年(1960年)10月12日(水)〉されて以来の衝撃を受けました。


  ~三島由紀夫「檄文」の写し~

 平成27年(2015年)9月23日(水)午後6時から、小野照崎神社において、「足利学校・雅楽の夕べ」が催されました。

 小野照崎神社秋季例大祭20150923

 20150923萬歳楽小野照崎神社


 この年の「足利学校」の講演は「戦後70年と三島由紀夫」と題して、神社本庁の木田孝朋先生が講師を務めました。
 その折に、コピー-「檄 盾の会隊長 三島由紀夫」〈直筆.B4サイズ1枚(両面コピー)と、印字.A3サイズ1枚〉を頂戴しました。

 20200820檄1

 20200820檄2

 20200820檄3印刷