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補修再版 習俗歳時記 六十二 木犀の花 

2020/ 08/ 29
                 

 幾重にも波打つ香り満庭に金銀染める木犀の花


 としごとの家のならはし


『習俗歳時記 ――赤城山西南麓農家の年中行事――』は、昭和16年9月5日発行となっています。

 習俗歳時記 初版本

「一、 火打箱」から、「五十八、大祓」、「補遺」まで含めて100ページの歳時記です。
それから34年後の『補修再版 習俗歳時記』は、昭和50年10月1日発行となっていて、「一 いろり」から、「七七 井戸」、「あとがき」まで含めて240ページの歳時記となっています。

 冬支度 薪の山

 著者は「はじめに」の中で次のように記しています。
 〈・・・実を言えば年中行事もかつかつに昔の跡をたどっているので、もはや明日にも消え去るかも知れないのである。そこで今日の姿をここに書き止めて記念の意も含ませて置く。懐かしいのは日本の家族制度である。家族制度には幾多の弊害があるが私の家も、私の外戚の多くもこれを長く美しく保持して来たのである。
 今、日本国は制度としての家族制度を失った。私は今習俗としての家族制度に殉じようとしている。私の一生は「古屋」(ふるや)の守(もり)である。〉

 著者生家

  『補修再版 ・・・』は、初版本に加筆修正、抹消など手を加えていますが、「六二 木犀の花」や、「七〇 乞食のこと」など、終戦後のことも書き加えられています。
 〈・・・ナポレオンという乞食がありました。或秋のさつま芋のとれた時来てその中二本だけもらってゆきました。なぜもっともらわないのかと尋ねました、「俺は日本中にあずけてあって必要なだけもらってゆくのだ」と答えました。このナポレオンは大の旅行家で関東以北を重い荷を背負って歩き廻っているのでした。私の家ではきまった飯と汁のお椀があってそれで食事をしてゆきました。私の娘が東京のある女子大の寮に居た時その話をしましたら山形のお友達が「私の家へもその人は来る」と言ったので大いに驚きました。この人は九州の出身でナポレオンマニアが嵩じて遂には気が変になり乞食にまでなったということです。この人は終戦後よく家に来ました。〉



 雲20200828-1-

   憶良らは今やまからん 子泣くらん

   その子の母も吾を待つらんぞ
       

 六二 木犀の花    2014/ 09/ 11
                 

 木犀の花の咲く頃になると家中にその香りが満ち満ちます。そしてその花の下を出征して行った弟の事を思い出します。

 戦争は周期的のものではないのですけれど、昔はよく十年に一度位の割に大きな戦争があると言われていました。実際明治から大正の頃はそんな説がほんとうかと思われるように十年位の間隔に戦争がありました。

 弟の出て征ったのは今度の戦争でそれも二回出征しました。弟は補充兵でしたから年とって呼ばれました。家の三本の木犀が一度に咲いて秋は九月と十月の交(こう)でその香りは正に満庭香しという感がありました。隠居の庭に生えている木は大きく伸びて、枝は塀を越し外の通りの上に乗り出していました。その花の下を弟は出かけて行ったので特に記憶に残っているのでしょう。

 箱田の家

 第一回の出征の時は初年兵から訓練を受けて途中から小石川の工科学校に入り、そこを卒業しました。そして台湾軍に入りました。台湾軍に入って海を渡る時、弟は父宛に一通の手紙を送ってまいりました。驚いた事にそれは結婚の希望の手紙でした。こののっぴきならぬ時に届けられた切札の様な手紙に父も驚きながら降参して四国まで私をやって、その弟の希望する女性(ひと)をもらって来る話をさせました。私が阿波の徳島の先方の家へ着きその話をしますと、先様はその女(ひと)がその家の相続人であったにもかかわらず、その方は養子を迎えて本人はくれて下さる話になりました。

 20200828雲-5―.

 そして娵女(よめじょ)は私の家へ、婿なしの嫁入りをし、暫く私の家に居ましたが、そのうち台湾から弟が呼びますので、単身敵船の縦横する海を渡って弟の許へゆきました。そして台湾で二度目の結婚式を挙げました。
 嫁の親代わりには兵器部少将閣下、仲人は兵器部少佐殿御夫妻、場所は台湾神宮広前でありました。

 台湾軍の兵器部で、弟は平穏無事に過しました。ただ小さな事がありました。弟は将校の端くれでしたから、下に兵卒の人が居たわけです。その人達を弟は「何々さん」とさんを付けて呼ぶ癖があったという事です。これは軍隊の慣例にも反する事ですし、士気にも反する事ですので上級の将校さんからきびしく叱られたそうですが、いつか弟のさんづけは又始まってしまって、その中に台湾軍兵器部全部がさんづけをするようになったと言うことです。

 弟は台湾へ行く時父から日本刀をもらって軍刀として持ってゆきました。この刀は父の毎夜寝る時枕元に置く守り刀でした。陸奥大掾三善長道作の直刀に近い直刃(すぐば)の比較的短い刀でした。軍刀には短いのですが、弟は「乃公がこの刀を使う時は最後の時だけだから、平常は軽い方が良いのだ。」と云って、短いのを喜んで持って行きました。台湾では勿論この軍刀を使う事はなかったでしょう。然し大陸へ行ってはどうだったでしょう。戦争は平坦ではなかったようです。洞庭湖のもっと先まで進んで敵機の直撃などにもさらされた事があるようでした。

  太平洋戦争の緒戦の終ったときでしょう。最もその時は緒戦が終ったときなどは意識しなかったのですから、戦果が徐々とあがっていると思って居ました。そのような時ひょこり台湾の戦線から弟が帰って来ました。戦地の兵器の事を陸軍省だか参謀本部だかに連絡しにきたのだと言いました。今思えば空手で戦争している実状だったと思います。弟は用事を終えて、一晩だけ生家に泊まって戦線へ戻りました。戦地の事は一言も語りませんでした。これも今思えば千言万言故国の危急を告げたかったでありましょうに。

 戦争が終えてからしばらくの後に、弟は他の多くの彼国派遣の日本軍と共に無事帰ることが出来ました。然しこれもすぐ帰れたわけではありません。永い抑留の生活がありました。消息は途絶えて不明でもありました。

 20200828雲-3―

 どうしようもない焦燥と生きているという希望との入り交じった長い長い無音の末、突然一葉のはがきが舞い込みました。
 「憶良らは今やまからん 子泣くらん
  その子の母も吾をまつらんぞ」
 弟です。たったそれだけの文字が書かれておりました。彼の帰還の第一声は万葉歌の一首をもって書かれていました。

 それから幾日かして無事家庭に帰りました。父と喜びの盃を交わす夜もまいりました。盃の中身を口に含みながら弟は云いました。
 「日本酒はうまいなあ」と。
 彼の妻子も同じ席に並んでいたのはいうまでもありません。

 さて今年も木犀の匂う頃となりました。木犀は戦争を思い出させますが戦争が周期的なものだという事は迷信の一種だと思わざるを得ません。

 戦いの名残り 鍔.

 後の日になって私の家に弟が残して行った軍刀の元の拵え(こしらえ)だけが遺っているのに気がつきました。そこでこの中、鍔だけを弟に贈りました。この鍔は糸透かし(いとすかし)という細い透かしの入った鉄の鍔でしたがそれが戦争の唯一の記念になりました。

 


                 
        

ヒグラシの鳴く頃 

2019/ 08/ 12
                 
 カナカナの林の中にただ一人


 はてさてと迷う心の徒桜(あだざくら)やすらぎの刻(とき)何をか求めん



 薬師寺東堂 水煙 相輪 - コピー - コピー.  薬師寺東堂 水煙 相輪
 (薬師寺東堂「水煙」.向かって左の写真が「正」(水面に写っている))



 蜩(ひぐらし)は、秋の季語となっていますが・・・。
 田舎の本家の十二畳。小学生の時の夏休み。
 蚊帳の中では子供たちが雑魚寝でごろごろ寝入っています。
 早朝、蜩が一斉に鳴き始めました。
カナカナ、カナカナ、カナカナ、
カナカナの輪唱です。

あるとき
早い夕方です。
本家の皆さんに帰りの挨拶をして、西の門から出ましたところ、
蜩が一斉に鳴き始めました。
カナカナ、カナカナ、カナカナ、
どこまでも、どこまでも、カナカナが鳴き続けていました。


 濱田庄司作陶 湯飲み茶椀
  (父からの贈り物「濱田庄司作陶・湯飲み茶碗)


父を思います。
カナカナの鳴く頃、
父を思います。
間もなく8月も終わろうかというとき、
耳の奥処で、カナカナが鳴いていました。


                 
        

百人百様 十人十色

2017/ 01/ 09
                 
習わしの歳時記


寛仁大度
一味同心
肝胆相照
一上一下
安宅正路

一衣帯水
拳拳服膺
一諾千金
烏兎怱怱
一粒万倍

越鳥南枝
安居楽業
安車蒲輪
安寧秩序
握髪吐哺

一張一弛
一病息災
一家団欒
一刻千金
一唱三嘆

一心同体
異体同心
一旦緩急
合縁奇縁
一意専心

侃侃諤諤
安心立命
一日千秋
胡馬北風
急転直下

一路平安
時節到来
拈華微笑
余韻嫋嫋
一陽来復







                 
        

虫の口焼き

2016/ 02/ 03
                 
 補修 習俗歳時記    四  年越し


 私共の村でも一般には年越しをするのですが、私の一族だけは大晦日に年越しをするのです。一族の言い伝えには遠い先祖がその主君と戦死したのは一月の二十一日であった由で、その子供達節分に豆撒きが出来ず大晦日にする家例となったというのです。多くの家例の理由は大体この程度のあまり信ぜられない原因によるのですが、それが永世を支配する力は強いものがあります。大晦日の豆撒きは何か他の民俗的原因によるものと思いますが節分より実際の年越しと一致するのでその実感はよくいたします。

 年の暮の忙しい一日が終りますと、年男は湯に入って体を清め、神仏にあげる火をきります。その同じ火がいろりの下の「豆木」にうつされます。豆木というのは大豆の実を落した、豆殻のついたままの根こそぎにした木です。実によく燃えます。真黒な焙烙(ホウロク)が、鉤竹にかかっていて豆はこの豆木の火でいられるのです。この時は一年の重荷をおろした顔々が囲炉裏の側にならんで豆のいられるのを待ちます。炉の焚き火のはしに鰯を、頭と尾の二部分に銅切りされたものが、昔は柊の二又の枝にさされ、今では豆木そのものの二叉にさされて炙(あぶ)られています。鰯が少しく焦げてくると、豆木ごと灰から抜き取られて炉のまわりの人々に順次に手渡されます。これを持つ人は、口の中で農作物を害する虫に対する呪文をとなえて、唾をこの鰯にはきかけ、炉の火にあぶって又次の人に廻すのです。

①年越 虫の口やき
 〈虫の口やき〉


 この虫の口焼きは、
 「稲の虫の口を焼き申す。ぺッぺッ。」
 「茄子、胡瓜、稲、麦、小麦、小豆、大豆、其の他四十八色の虫の口を焼き申す。ペッ、ペッ。」などと沢山一度に唱える事もあります。この鰯はよくやかれた後、家のトボロの上に一年中かざられて居ります。勿論害悪除けでありましょう。

③年越 ④年越
 〈ヤカガシ(※) と豆煎り〉  〈虫の口焼き(大晦日)〉
 (※=柊鰯の別称.北関東で「ヤカガシ」といういい方に、初めてお目にかかりました!)

 いり上った豆は一升桝に入れられて年神様に供えられます。次にこの桝を下して年男を先頭に豆撒きが始まります。
 「福は内、鬼は外、福は内」が普通の呼び声です。神棚の前だけ更に「鬼は外、福は内」をつけ加えます。各部屋、部屋、土蔵、便所、馬屋、門、納屋、稲荷様等順に撒き廻るのであります。晴れた空に三つ星様が中天にかかっていたり、うす曇って大きな月の暈が真上の空に望まれたりするのもこの豆撒きの晩であります。

②年越
 〈豆まき〉


 豆は撒き終ると一度神棚に供えられて更に豆茶にいれて飲んだり、粒のまま新しい年令の数だけたべたりして新年を待つのです。この豆は「鬼の豆」と云って少し許り別に瓶に入れて神棚の端に一年中とって置かれます。よく村のむずかしい問題や、其の他心配事のある場合、ネクタイなどしめながら父が「鬼の豆」をと云って母にとりよさせて三粒ほどを食べてゆくのもこの豆でした。この豆は洋服の中身をこの位今も支配して居るのでした。

 豆撒きが終るといろりには梅さんが大きな根っ子を燻べて年の火の支度をします。これが明日の元旦まで炉の中でゆっくり燃えていて、けむいけれども暖かい朝をむかえさせてくれるのでした。


⑫ 鰯を柊の二枝に頭と身に分けて
 〈鰯の頭と身を柊の二枝にさしました。〉



〈柊鰯(ひいらぎいわし)〉
⑯柊鰯


 《 『柊鰯は、節分に魔除けとして使われる、柊の小枝と焼いた鰯の頭、あるいはそれを門口に挿したもの。西日本では、やいかがし(焼嗅)、やっかがし、やいくさし、やきさし、ともいう。』
 ◇柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言う(逆に、鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすとも説明される)。日本各地に広く見られる。
 ◇歴史と変移:平安時代には、正月の門口に飾った注連縄(しめなわ)に、柊の枝と「なよし」(ボラ)の頭を刺していたことが、土佐日記から確認できる。現在でも、伊勢神宮で正月に売っている注連縄には、柊の小枝が挿してある。江戸時代にもこの風習は普及していたらしく、浮世絵や、黄表紙などに現れている。西日本一円では節分にいわしを食べる「節分いわし」の習慣が広く残る。奈良県奈良市内では、多くの家々が柊鰯の風習を今でも受け継いでいて、ごく普通に柊鰯が見られる。福島県から関東一円にかけても、今でもこの風習が見られる。東京近郊では、柊と鰯の頭にさらに豆柄(まめがら。種子を取り去った大豆の枝。)が加わる。
 また、奈良県吉野町では、一本だたらを防ぐため節分の日にトゲのある小枝に焼いたイワシの頭を刺して玄関に掲げるという。
 鬼を追いはらう臭いを立てるために、ニンニクやラッキョウを用いることもある。》~ウィキペディア~


                 
        

としごとの家のならはし

2016/ 01/ 10
                 
 

 本家の伯父と最後にお会いしたのが、今から四十年前のお正月でした。
 あのときの一つひとつのお話しが、今でも胸に過(よみがえ)ってきます。
 
 七日後、かえらぬ人となろうとは思いもよりませんでした。
 命日。遠くから手を合わせています。
 
としごとの家のならはし①  ⑧筆者