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熊谷桜堤 さくら名所100選 平成2年3月3日 財団法人 日本さくらの会 

2021/ 04/ 05
                 

 往復で一里の花見菜の花と香りコラボの川風に舞う

熊谷桜堤123 -


 荒川堤約2キロメートルにわたり、500本をなんなんとするソメイヨシノの桜が咲き誇っています。
 菜の花も負けじと、延々と黄色のじゅうたんを敷き詰めています。

 3熊谷桜堤石碑

 4月2日の午前、熊谷桜堤を初めてたずねました。



 令和3年4月1日、NHKのあさイチ。
 この日の熊谷桜堤の桜リポーターは、 テレビ朝日、森葉子アナウンサーの姉、森花子アナウンサーでした。蛇足ついでに申しますと、二人ともに剣道四段の腕前です。

 9コラボ3 (2).

 「満開の桜と菜の花。ピンクと黄色のコントラストです!」と、桜の木の下に鮮やかに咲く菜の花に囲まれて登場しました。

 5菜の花こんにちは1 (2).

 ~背をかがめて通ることのできる桜のトンネルに吃驚しました。~

 6桜こんにちわ2 (2).

 ~菜の花と桜の花が目の高さよりも下に、一緒に咲いていることを見ることができるのにも吃驚しました。~
 
 熊谷桜堤には、まだ一度も行ったことがないのです。

 7コラボ2 (2).

 明日は曇りだから花の見栄えはイマイチだなとは思いましたが、行ってみたいなと、あさイチを見ながら思いました。

 2桜名所100選の地.

 4桜と菜の花のコラボ
                 
        

武蔵水路の桜 さきたま緑道の春

2021/ 04/ 04
                 

 花曇り幾重に揺れる薄紅の花咲きし午後風わたりゆく

 もず


 このところ、さきたま緑道にはとんとご無沙汰していました。

 さくらと彫刻

 散歩コースとしては申し分ないところなのに・・・と、思いつつ、億劫が先に立ち、常日頃の不摂生加減を恥じているところです。

 武蔵水路の桜並木2

武蔵水路は、行田市の利根大堰で利根川から取水された水を運び、鴻巣市で荒川に注ぐ延長約14.5kmの水路として、昭和38年(1963年)に着工し、昭和43年(1968年)に完成しました。

 武蔵水路

 その後40年以上が経過し、水路の沈下や損傷などの老朽化による通水能力の低下を回復するため、水路の耐震化や、新たに水路周辺の内水排除機能の確保・強化を目的に平成22年(2010年)から改築工事を行い、平成28年(2016年)にリニューアルした施設へと生まれ変わりました。
1 周辺地域の内水排除
河川や市街地からの出水を水門及び放流口から武蔵水路に取り込み、荒川へ排水(最大毎秒50立方メートル)します。
2 都市用水(水道用水、工業用水の)導水
利根大堰で取水された東京都及び埼玉県の都市用水を荒川へ導水(最大毎秒35.054立方メートル)します。
3 浄化用水の導水
荒川水系の水質改善のため、浄化用水を導水(最大毎秒8.146立方メートル)します。
 ~鴻巣市広報より転記~

 武蔵水路の桜並木1

「さきたま緑道」は、JR高崎線北鴻巣駅東口前の鴻巣市赤見台近隣公園から、武蔵水路に沿って、「さきたま古墳公園」に至る4.5km、幅員25mの遊歩道と自転車道のある緑道です。
安全で快適な、花とみどりあふれる雰囲気の中で、いにしへの緑のみちとして整備され、昭和58年(1983年)4月に一部開通、以後徐々に拡張し、平成元年(1989年)11月に全面が開通されました。平成元年に開催された「第4回国民文化祭さいたま'89」にともない製作された、「さきたま」の地にふさわしい彫刻50点が展示されています。
 ~埼玉県公式サイトから転記~

 21さきたま緑道表示

展示彫刻50点の作品名・制作者名
 設置作品制作者(50名) (平成元年(1989年)11月2日~11月12日)
・お日様の下で・・奥野誠  
・じゃいぷーる・・田中等     
・方形とその周辺・・梶滋  
・occurrence・・原田砂織   
・森の人・・広瀬友彦   
・ロマンチシスト・・中岡慎太郎
・明白入素・・中井保博 
・LOVE DANCE・・高橋克明  
・風のかたち・・ 松本光司  
・風韻・・杉山仁           
・倭人伝・・市川治郎   
・大地の精・・松永勉
・風景・・寺田栄     
・住処・・岩間弘         
・〇△☐・・岸田松次郎  
・太陽との語らい・・大津文昭   
・時計虫の合唱・・笠原幸生   
・Waiting ・・原一史
・ポコ.ポコ.ポコ・・花田俊彦   
・時の流れに・・南部治夫    
・芽・・入江陽子  
・WIND ・・谷川浩        
・牛・・増田幸雄   
・集積・・高岡典男
・森林浴・・酒井鉱治  
・家族(美しい記憶)・・松本雄治 
・風のイメージ・・岡本参千峯
・球又は立方体・・水村昭    
・モコ・モコ・・新谷一郎      
・森・・内田みどり
・親愛融合・・レーポー・ゾルターン   
・連・・田代収           
・ある日のコリント地峡・・小井土満  
・地平・・佐治正大  
・ライトな生活・・東裕二   
・雲の夢・・高橋勝             
・海原・・近藤哲夫
・紀元・・佐々木至      
・からみ合う二つの立体・・遠藤春彦  
・和・・尾崎真 
・環(わ)・・伊藤正人    
・ニュウ・・丸山富二


 森の精
・森の精・・藤巻秀正    


・大寒・小寒(Ⅱ)・・三木勝     
・MOVE・・佐藤賢太郎   
・男と女かな?・・黒田峯夫                  
・Swing「オバケ」 ・・ 岡野義広

 桜の花を覗く
・Silent Language・・安田明長 


・Metamorphosis XV 藺・・戸田裕介  


 風の音(と」
・風のと(音)・・斎藤馨    




                 
        

2021年1月 深谷市本田のハクチョウ

2021/ 01/ 17
                 

 白鳥よ暖かき日に遥か見る

 ハクチョウ20210116-1

 唐梅の香に惑わされ時過ごし


1月中旬。熊谷地方の最高気温が17度となったこの日。
先日のNHKのトピックスにも誘われ、埼玉県深谷市本田の白鳥飛来地に行ってきました。
鹿島古墳群を見学する人たちのために設置された駐車場とトイレでしょうか、その一隅に車を停めて、地図に載っている荒川の「白鳥飛来地」に向かいました。
超望遠レンズのカメラを構えた人たちが数人、双眼鏡を持った家族連れの人たちなどが先客でした。
 目の前の川面に白鳥の姿はありませんでした。カワウが数羽とシラサギが1羽羽を休めているだけでした。
 上流を見やりました。
 かなり遠くに白い鳥の群れが目に入りました。
 河原の砂利を踏みしめながら行けるところまで行ってみました。
長靴を履いていたので、足元を気にすることはありませんでした。
そうはいっても川の中にどっぷりとつかるわけにはいきません。
カメラを構えることができるギリギリのところまで行きました。
そのとき、丁度運よく、数羽の白い鳥が飛び立ってこっちの方に向かってくるではありませんか。白鳥です。
そして、あっというまに空中ユータンをするところです。あわててシャッターを押しました。
まあ、満足とはいきませんでしたけれど、記念写真としておさめることができました。

 駐車場近くには、今が盛りと蝋梅の黄の香りが満ち満ちていました。

 蝋梅20210116-2

                 
        

比企郡吉見町 吉見観音〈岩殿山安楽寺〉三重塔 雪景色に期待して…

2020/ 04/ 03
                 
 十六丈あったというさきたまで一番古き三重塔

 4-1-1吉見観音三重塔


 国宝の東寺五重塔の高さは54.8メートルです。
 安楽寺の三重塔は、創建時16丈(約48メートル)の高さであったと記録されています。埼玉県内最古の三重塔は江戸時代初期に再建され、県の重要文化財に指定されています。

 〈※註:現在の、東寺五重塔は寛永21年(1644年)に再建されたもので、総高凡そ24メートルの安楽寺三重塔は明暦2年(1656年)に再建されました。〉

 雪の三重塔・・・というイメージをもって、この日イの一番に訪れたのが吉見観音の三重塔でしたが、今回もこと思惑とは違った風情とはなっていました。
 それでも、桜の花にのっかった雪とは御目文字がかないましたので、まあよしとすることにいたしましょう。

 4-1吉見観音 桜に雪が


 吉見観音近くで見かけた、あるときの野うさぎ。
 4-13野うさぎ -

 あるときの、吉見観音駐車場でお目にかかったシロハラ。
 4-9安楽寺 シロハラ

 

 岩殿山安楽寺 ~吉見町ホームページより~

 4-7吉見観音本堂

岩殿山安楽寺は坂東11番の札所で古くから吉見観音の名で親しまれてきた。

 4-12坂東十一番札所

本尊は聖観世音菩薩で、吉見観音縁起によると、今から約1200年前に行基菩薩がこの地に観世音菩薩の像を彫って岩窟に納めたことが始まりとしている。平安時代の末期には、源頼朝の弟範頼がその幼少期に身を隠していたと伝えられ、安楽寺の東約500mには「伝範頼館跡」と呼ばれる息障院がある。この息障院と安楽寺は、かつては一つの大寺院を形成していたことが知られている。天文6年(1537年)後北条氏が松山城を攻めた際に、その戦乱によって全ての伽藍が消失し、江戸時代に本堂・三重塔・仁王門が現在の位置に再建されたと伝えられている。毎年6月18日は「厄除け朝観音御開帳」が行われ、この日は古くから「厄除け団子」が売られている。現在でも、6月18日は安楽寺の長い参道に出店が立ち並び、深夜2時ごろから早朝にかけて大変な賑わいとなる。


安楽寺本堂
-県指定 建造物-

 4-10岩殿山本堂  以前の写真

 岩殿山安楽寺は板東11番の札所で古くから吉見観音の名で親しまれてきた。「吉見観音縁起」によると今から約1200年前、聖武天皇の勅命を受けた行基菩薩がこの地を霊地とし、観世音菩薩の像を彫って岩崖に納めたことにその創始を見ることができる。延暦の代、奥州征伐のとき、この地に立寄った坂上田村麻呂によって領内の総鎮守となり、その後、源平の合戦で名高い源範頼みなもとののりよりが吉見庄を領するに及び、本堂・三重塔を建立したが北条氏との戦いですべて消失した。 現在の本堂は今から約350年前の寛文元年、秀慶法印によって再建されたものである。その様式は禅宗様に和様を交えた典型的な五間堂の平面を持つ密教本堂で、内部各部材に施された華麗な色彩文様と共に江戸時代前期の様式を保持している。屋根はもと柿葺であったが、大正12年の改修の際に銅瓦棒葺に改められた。


安楽寺三重塔
-県指定 建造物-

 4-8三重塔アップ.

 現存する三重塔は今から約380年前の寛永年間に杲鏡法印によって建築されたもので、本堂・三重塔・仁王門・大仏等の中では最も古い。 総高約24.3m方三間の三重塔では基壇は設けられず、心柱は初重天井上の梁で支えられている。屋根は柿葺あったが、現在は銅板葺に改められている。初重の面積は高さに比較して非常に大きく、また各重の面積の縮減も程よく、これに加え軒の出が非常に深いので塔全体にどっしりとした安定感を感じさせる。


安楽寺仁王門・仁王像
-県指定 建造物・町指定 彫刻-

 4-14 仁王門

 本建造物は、境内の入口に南面して立つ三間一戸の八脚門である。規模は、表三間のうち両側の仁王像安置の間が七尺八寸五分(約2.38m)、中央は九尺七寸(約2.94m)である。側面は二間とも七尺八寸五分(約2.38m)である。
 正面両端間には金剛棚を廻めぐらし内部に"阿あ”"吽うん”の密迹金剛力士二体を安置している。屋根は瓦葺であったが、現在は銅板葺に改められている。

 4-5仁王像左.J

 4-6仁王像右

 仁王像の造立は息障院文書から元禄15年(1702年)と考えられている。平成8年~10年に実施した解体修理で、元禄年間の造立時の寄進者を列記した幅六寸、長五尺二寸の板が胎内から11枚発見された。


札所めぐり
 札所めぐりとは、もともとは観音を祀る寺院である霊場をめぐる巡礼であり、霊場のご本尊との結縁を願って自分の住所、氏名を書いた木札を、拝観した寺の天井や柱に打ちつけた。そのため、これらの霊場を札所と呼び巡礼のことを札所めぐりと呼ぶようになった。「観音」とは、正しくは「観世音菩薩」と言い、「世の音を観て」それに応じた姿で人々を救うという意味がある。この観世音菩薩は33種の姿に変えることから、札所の数もそれにならって三十三箇所になっている。
 札所巡りとして有名なものは「西国三十三所」「坂東三十三所」「秩父三十四所」で、これらの観音霊場を全てめぐると百観音となる。西国三十三所は平安時代に成立し、坂東三十三所は鎌倉時代、秩父三十四所は室町時代に始まったと言われている。
 これらの札所めぐりも江戸時代となって世の中が安定し、全国的な交通網が発達すると、庶民に普及し広まっていった。しかし、純粋な信仰心というより、札所寺院の他に名所や旧跡を訪れ、土地の名物を食すなど、行楽的なものであった様である。
 また、遠隔地を巡礼できない人々のために、小規模な新しい札所が整備され、その地域ごとに完結する札所めぐりの風習が広まった。こうした中で比企地域に生まれたのが、「比企西国三十三所」「入比にっぴ坂東三十三所」である。

 4-2吉見観音 本堂と三重塔

坂東三十三所
 坂東の札所で奉られている観世音菩薩は、十一面観世音が14箇所、千手観世音が10箇所、聖観世音6箇所、十一面千手観世音が1箇所、十一面千手千眼観世音が1箇所、延命観世音が1箇所である。
 源頼朝が熱心な観音信者であったことや、源平の合戦で西上した東国の武士たちが、西国の札所を見聞したことがきっかけとなり、鎌倉時代の初めに坂東三十三所が創設されたと言われている。
 鎌倉の杉本寺を一番とし関東八カ国(相模・武蔵・上野・下野・常陸・上総・下総・安房)を巡る全行程は三百三十里(約1,300Km)で、徒歩で巡ると40日以上かかると言われている。埼玉県内には、九番「慈光寺」(ときがわ町)・十番「正法寺」(東松山市)、十一番「安楽寺」(吉見町)、十二番「慈恩寺」(さいたま市岩槻区)の札所があるが、このうち3箇所が比企郡内にある。札所の番付は創設以来一度も変更されていないが、番付どおりに巡ると遠回りすることが多い配置となっている。そのため江戸時代には、交通事情の変化などから便宜的な行程が組まれ、必ずしも順番どおりに巡ることは無かったようである。


  4-11吉見観音鐘楼
                 
        

雪景色「埼玉古墳群」~国指定記念物「特別史跡」~

2020/ 03/ 30
                 
 春の雪さきたまの地に残り香を

 雪景色さきたまの春あれこれと


 1-3丸墓山古墳 菜の花



 雪の降った令和2年3月29日、近隣のさきたま名所旧跡を幾つかたどってきました。
安楽寺〈吉見観音〉三重塔(総高24.3m.350年ほど前の寛永年間建立.県指定有形文化財.吉見町御所374.)、成就院三重塔(総高11.18m.享保14年〈1729年〉建立.県指定有形文化財.行田市長野7618.)、埼玉古墳群(「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」など多くの副葬品が出土、昭和58年に一括して国宝に指定 . 行田市埼玉4834.)、八幡山古墳石室(〈はちまんやまこふんせきしつ〉.石室全長16.7m.県指定記念物.行田市藤原町1-27-2.)
 の順に足を延ばしました。
 雪にすっぽりとつつまれてとはいかなかったのですが、それでも、春のさきたま雪景色の一コマ一コマとはなったように思います。


 
令和2年3月10日、「埼玉古墳群」は国の「特別史跡」に指定されました。

埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)は、大型円墳と武蔵国最大の前方後円墳を含む9基の大型古墳が群集しています。かつては、40基ほどの大小の古墳が造られたことがわかっており、出土した遺物から5世紀後半から7世紀初めごろまでの約150年間に次々と造られたと考えられています。
丸墓山古墳(まるはかやまこふん):日本で最大級の円墳で、墳丘径105m、墳丘高17.2m、豊臣秀吉が天下統一を進める1590年、家臣の石田三成が忍城を水攻めにする際に、忍城がよく見えるこの頂上に陣を張ったといわれています。

 1-2丸墓山古墳 沼を前に

二子山古墳:墳丘長132.2mの前方後円墳で、武蔵国の中で最大の規模を誇り、二重の堀を含めた長さは240m以上あります。

 2-1 稲荷山古墳前

稲荷山古墳:墳丘主軸長120mの前方後円墳で、県内でも3番目の規模を誇ります。昭和43年の発掘調査の際、「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」など多くの副葬品が出土しましたが、昭和58年に一括して国宝に指定され、県立さきたま史跡の博物館の国宝展示室に展示されています。

 2-2稲荷山古墳後

鉄砲山古墳:墳丘長107.6mの前方後円墳で、墳丘周囲の調査の際に円筒埴輪、土器が出土しており、6世紀後半に造られたと推定されています。

 3-4水鳥その2

将軍山古墳:全長90mの前方後円墳で、明治27年に後円部より横穴式石室が発見され、武器、馬具、銅鋺(どうわん)などが多数出土しています。平成9年に石室内部が見学できる展示館としてオープンしました。

 3-1埼玉古墳公園風景

中の山古墳:墳丘主軸長79m、埼玉古墳群で最後に造られた前方後円墳と考えられ、名称は渡柳地区にある3つの古墳(他に奥の山古墳と戸場口山古墳)の真ん中にあたることに由来しています。須恵質埴輪壺が出土しています。

 3-9沼その2

瓦塚古墳:墳丘主軸長73.4mの前方後円墳で、墳丘や中堤(ちゅうてい:土手)から人物埴輪、水鳥埴輪、家型埴輪などが多数出土しています。

 3-7水鳥二羽

奥の山古墳:墳丘主軸長66.4mの前方後円墳で、平成19年の発掘調査で二重周堀であることが確認されました。

 3-8沼

愛宕山古墳:墳丘長概ね53mの前方後円墳で、人物埴輪、形象埴輪、馬形埴輪、円筒埴輪が出土しており、大型古墳に立てられた円筒埴輪に比べ小さいのが特徴です。

 3-6水鳥その4.

※墳丘規模の引用:H30.1.31発行 編集 埼玉県立さきたま史跡の博物館「史跡埼玉古墳群 総括報告書Ⅰ」
 ~行田市公式サイトによる~

 1-4丸墓山古墳.