FC2ブログ
        

聖天さま参詣のお土産にいなり寿し その名も「聖天寿し」

2019/ 04/ 07
                 
 
 
 縁結びのご利益・妻沼聖天山にちなんで、縁起の良いメニューをたくさんのお店が揃えています。
 参拝のおりに、どうぞお立ち寄りください。

~ めぬま 聖天さまと縁結びのまち ~

 「縦横無尽。5」ガイドマップの中から、今回は縁結びメニューの中から、聖天さまお膝元の「聖天寿し」をご案内いたします。

 「聖天寿し」
 
 熊谷市妻沼1515
 ☏048-588-0162
 営業時間/9:00~売り切れ終い
 休日/月曜日(祝日の場合は振替)
 駐車場/共用P
 ※聖天さま参道に面している。


  32-2 聖天寿し 

32-1聖天寿し 包装




 32-4 聖天寿し -

 
 32-5聖天寿し



                 
        

妻沼聖天山 貴惣門 百年のときを超えて建立

2019/ 04/ 06
                 
 妻沼聖天山には、平成24年(2012年)7月9日に指定された国宝(「歓喜院聖天堂」)が一つと、二つの国指定重要文化財があります。
そのうちの一つは旧国宝で昭和35年(1950年)8月29日に指定された工芸品の錫杖(「御正躰錫杖頭」)で、もう一つが平成14年(2002年)5月23日に指定された建造物の門(「貴惣門」)です。
また、境内には、国登録有形文化財が九つあります。

  貴惣門は、聖天堂の伽藍と並び特徴的な建造物として知られています。
寛保年間(かんぽうねんかん.1741年2月27日~1744年2月21日)に企画された貴惣門の建立は、100年以上の歳月を経て弘化4年(1847年)11月に再び発意され、勧進を募ることなどして寄進を受け、ようやくにして嘉永4年(1851年)に竣工したという経緯(いきさつ)を持っています。
嘉永4年といえば、妻沼村俵瀬(現熊谷市俵瀬)出身の「埼玉の三偉人」のひとりである荻野吟子が生まれた年でもあります。

 貴惣門は、破風(はふ)を三つ重ねた特異な側面の意匠からも、全国でもほとんど類例をみない門の一つである。と、『熊谷市史 別編2 妻沼聖天山の建築 本編』で、伝えています。
 ちなみに現存する同様な建造物は、誓願寺山門(青森県弘前市.昭和13年8月26日、国指定重要文化財.弘前市の公式サイトによると、江戸時代中期に創建されたと推定される云々とあります)、豊楽寺仁王門(岡山県岡山市)、四天王寺東大門(大阪府大阪市.1984年再建)、そして貴惣門(埼玉県教育委員会公式サイト〈※註〉では、安政2年〈1855年〉頃完成と記載されています)の四つとなっています。
〈※註:歓喜院貴惣門/安政2年頃完成。表側に波風を3つ重ねた特異な意匠の三間一戸の八脚門。聖天堂の棟梁林正清の子孫、林昌道が棟梁となり建立。〉

 41-2 歓喜院 貴惣門横面

 41-1 歓喜院 貴惣門正面 - コピー


 42-1 貴惣門  守護

 42-3 貴惣門 守護

                 
        

妻沼聖天山歓喜院 840周年記念「秘仏御本尊御開扉」

2019/ 03/ 30
                 
 
 国指定重要文化財の、御正躰錫杖頭(みしょうたいしゃくじょうとう)が23年ぶりに公開されます。
  《「歓喜院聖天堂」(かんぎいんしょうでんどう=妻沼聖天山本殿)は、平成24年(2012年)7月9日に国宝に指定されています。》

 11 秘仏



 男女二体の小さな仏(歓喜天)が、錫(すず)製の杖(つえ)の頭部(高さ47cm)の中央に立つ形で、寺の名の「歓喜院」はこの秘仏が由来ともされると新聞記事では伝えています。

 今回の開扉は、寺が開かれて(1179年創建)840周年に当たることからお披露目されます。院主も不定期の御開扉の時しかその姿を見ることができないそうです。

 4月16日(火)~22日(月)の1週間、一般公開されます。
 (午前10時から午後4時の間、聖天堂近くの太子堂で公開)
 16日午後2時から、鈴木英全院主、山下学芸員らによる座談(聴講無料)が、境内の石舞台で開かれます。
 

妻沼聖天山歓喜院(めぬましょうでんざんかんぎいん)
埼玉県熊谷市妻沼1627
☎048-588-1644

 21-1聖天さま 本殿正面
   妻沼聖天山本殿


 21-2聖天さま 本殿側面
  妻沼聖天山本殿側面.桜の見ごろ時期は、この角度がベストショットだそうです。




 ⇒⇒⇒ツヅク ⇒⇒⇒ 次回は、院紋「二股大根」の予定です。

                 
        

下忍神社 力石  琴平神社 新川早船絵馬

2019/ 03/ 06
                 
 
 下忍神社拝殿前に、力石が左右に分かれて2つおいてあります。

 15-1 下忍神社 力石   15-4 下忍神社 力石

 大きい石は24.8貫匁(93.0㎏)、小さい石は10.8貫匁(40.5㎏)の重量です。
何時の時代から存在するか明らかではありませんが、昔の若衆が農休日などに神社に集まり、力比べをした旨の説明札が立てられていました。

 12 下忍神社鳥居

 14 久伊豆社 下忍神社



 『埼玉の神社』(埼玉県神社庁編集)より、「下忍神社」の項を引用させていただきますと、
 当社の創始は、口碑に「下忍神社は昔、久伊豆(ひさいず)社と呼んでいた。久伊豆社は武蔵七党の一つ私市党(きさいとう)の氏神で、私市城の鎮めに祀った社(やしろ)である」・・・
また『明細帳』には「昔ヨリ下忍村上組総鎮守ト仰キ云々」とあり、『風土記稿』には「久伊豆神社 村の鎮守とす、明光寺持」と載せている。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治二年に村社となり、同三年に高畑の賽神社を境内に合祀し、同四二年には東谷の天神社を本殿に合祀して、社号を下忍神社と改める。更に、同年中に京田の山神社、高畑の琴平神社を境内に合祀する。
 合祀社のうち賽神社は、古くは道六神と称し、既に『慶長十三年検地水帳』(島崎隆家所蔵)にその名がみえることから古社であることが分かる。また、琴平神社は、旧別当明光寺の本山、行田遍照院の金毘羅大権現であり、神仏分離により下忍飯田萬吉家に移され、次いで当社に合祀したものである。内陣に、「弘化四年開眼供養」の墨書がある金毘羅権現蔵(24センチメートル)を安置している。
と、書き表されています。

 16 鳥居の琴平神社文字

 18 琴平神社 -

 17 金毘羅大権現
  金毘羅大権現



 明治6年(1873年)、琴平神社に奉納された「新川早船絵馬」(しんかわはやぶねえま)の作者は絵師の岩田霞岳(かがく)で、願主は芝崎鉄五郎です。
 桐板6枚を繋げて造られ縦77.5cm、横104.7cmの額装です。
 琴平神社に飾られている絵馬は複製(「埼玉県立 川の博物館」制作のレプリカ)です。

 11 新川早船絵馬

 実物は行田市郷土博物館に寄託されていますが、ふだんは未公開となっています。


 この絵馬は、明治6年(1873)に琴平神社(下忍神社境内)に奉納されたもので、作者は絵師の岩田霞岳(かがく)、願主は芝崎鉄五郎です。桐板6枚を繋げて造られ縦77.5cm、横104.7cmの額装です。
 新川とは新川河岸(かし)の事で、寛永6年(1629)の荒川開削以降に開かれ、主に忍藩の年貢米や御用荷物の運送で賑わいましたが、鉄道の開設により衰退し、大正末頃には消滅してしまいました。
画面中央には早船の様子、左上には河岸問屋の様子が描かれており、船、問屋の家屋、波頭が見事な筆致で描かれています。下半部には本絵馬の奉納者の名前と国・村名が列記されていますが、その構成は埼玉県の外、栃木、千葉、茨城、群馬県にまで及んでいます。奉納者は、問屋仲間や船頭仲間として新川河岸とつながりのあった者と考えられ、彼らが商売繁盛と航行の安全を祈願して、船運の神として信仰されていた琴平神社に奉納したものと思われます。当時の船運、新川河岸の様子や金毘羅神社信仰の様相を示す貴重な資料です。(「行田市指定有形文化財」〈平成13年3月30日指定〉行田市教育委員会)

                 
        

安楽寺(吉見観音)三重塔 小雪が舞った朝

2019/ 02/ 14
                 
 国宝の東寺五重塔の高さは54.8メートルです。
 安楽寺の三重塔は、創建時16丈(約48メートル)の高さであったと記録されています。
 現在の、東寺五重塔は寛永21年(1644年)に再建されたもので、総高凡そ24メートルの安楽寺三重塔は明暦2年(1656年)に再建されました。

 埼玉県内には四つの三重塔を今に見ることができますが、県内最古の安楽寺三重塔は、県指定重要文化財に指定されています。

  1 安楽寺三重塔


 平成31年2月10日の安楽寺
 6

   2 安楽寺 寺紋

 3安楽寺 
 





「安楽寺(吉見観音)」 東松山むさしロータリークラブ公式サイトより
所在地・・・・比企郡吉見町御所378
指定・・・・・・県指定文化財(昭和28年)
建立年・・・・1656年頃(江戸時代 明暦2年頃)
建築様式・・和様式
構造形式・・3間3重塔婆・銅板葺
総高・・・・・・24メートル

 安楽寺(吉見観音)は坂東十一番札所、真言宗智山派の寺です。天平年間(729~749年)、行基によって草創されたと伝えられています。その後、大同元年(806年)坂上田村麿によって、吉見領の総鎮守とされました。
 平治の乱(1159年)後、源頼朝の弟、源範頼がこの地を領するようになり、16丈(約48メートル)の三重塔と25間(約45メートル)の四面の大講堂を建立しました。その後、天文年間(1532~55年)、北条氏康と上杉憲政との松山城合戦に際し、松山城の落城とともに、大伽藍をことごとく焼失してしまいました。
 現在の三重塔は、1656年(明暦2年)中興開山杲鏡(こうきょう)法印や、呆慶(こうけい)法印によって再建されたものです。さらに、昭和35年(1960年)には解体修理が行われました。
 吉見観音として親しまれている安楽寺は、今でも多くの参詣客で賑わっています。長い参道を抜け、石段を登ったところに元禄15年(1702年)に再建された仁王門があります。さらに石段を上りつめると、寛文元年(1661年)に再建された本堂があります。この本堂は江戸時代前期の建築様式を伝える貴重な遺構です。本堂の右側に寄り添うように建っているのが、県下最古の三重塔です。初層の内部には誕生釈迦像を安置し、伝統的な和様式で造られ、装飾を排し落ち着きが感じられる塔です。
 周囲の緑に溶け込んでいる仁王門、本堂、三重塔、そして鐘楼。江戸時代初期に建てられ、当時の様式をよく伝えている貴重な建物です。