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花ハス遊覧船 群馬県館林市城沼(じょうぬま)

2021/ 07/ 12
                 

 夏の朝遊覧船で花ハスを眺める姿この日も一人


 14花ハスその1 -


館林の夏の風物詩となっている城沼の花ハスの開花時期の、7月10日(土)から8月15日(日)まで、花ハス遊覧船〈※註〉が運行されています。

 12ハス花遊覧船 -

今年は雨が多く、例年よりも50センチメートルほども水かさがましていることで水温が低く、花の見ごろは7月下旬になってからということです。
城沼は約50ヘクタール (古城沼含む)の面積を有し、東京ドーム約10.7個分の広さです。
 城沼と多々良沼〈面積約80ヘクタール.東京ドーム約17.1個分〉には、白鳥が飛来し、NHKテレビでも冬の風物詩として紹介されています。

 11水面に映えるハス花 -

 
〈※註:乗船場所:つつじが岡公園遊覧船乗場(館林市花山町3252)〉



                 
        

館林の正田本家 美智子様

2019/ 10/ 11
                 
 美智子様旅立つ姿さわやかに 
 

1-1-1美智子様



この日は上州路。
館林、伊勢崎、前橋です。
早やお昼に、つとに知られている「館林の大根そば」を、生まれて初めて味わいました。
館林といえば、正田様の御本家があるところです。

 1-2正田醤油株式会社


正田醤油株式会社の敷地内にある、「正田記念館」の門をくぐりました。初訪問となりました。

 1-1 正田記念館


 あの当時、正田本家を訪ねた折の美智子様の写真が飾られていました。

 1-1-2正田本家の皆さんと


 正田家の家紋は九曜です。
 「九曜は天地をまもる神仏をあらわしている。」と、説明書きにありました。

 1-5正田家家紋九曜



 記念館の裏手にあるお蔵の屋根瓦に、家紋と屋号を見ることができました。

 1-3正田家紋・屋号




                 
        

㋪ 姫を偲んで橘山  弟橘媛

2019/ 01/ 10
                 

 「橘陰郷土(きたたちばなむら)かるた」

  2きたたちばなかるた 読本



 橘山は北橘南橘の境にあります。赤城榛名武尊谷川法師妙義荒船秩父等の諸連山を仰ぎ、利根の清波を俯観して景色まことに全村に冠絶いたして居ります。これから東南は太平洋迄一望千里一つの山を見ません。古来幾多武将の来りよらんとし、又、近郷人の目標として仰ぎみた山であります。昔は桃が多くありました由、其後松山と化しました。現在は松に桜に雑木の山であります。山名由来伝説如次。



 「橘山」

 前橋と渋川をつなぐ県道の中程、道は一方川に臨み、一方山に迫る。其の川は利根川で其の山は橘山である。橘山の山裾を書いて僅かに通ずる道をこすらんばかりにして通る。そうして道はくねり、電車の軌道も曲り曲って行って利根の流れを渡る。其橋が坂東橋である。この道を歩いた者、この電車に乗ったもので、恐らく橘山と坂東橋の名を知らないものはなからう。
 橘山に登って西を眺むれば、山容秀麗の榛名の諸峰岱顕噴煙空に棚引く活火山浅間の大山、見るからに岩山らしき奇峭の妙義、見下ろせば利根の流れ、ここには一際広き河原をつくり砂原に生ふる松、小松は青きに水は紺碧の色を湛えて帯の如くに流れ行くし、首をめぐらして東を望めば関東の大平野五十里、見果てもつかぬ大広野の後方には房総の山々がかすむか。
 東夷御征討の日本武尊は東海諸国を討ち平らげ走り水の瀬戸を渡って房総の地をも平らげられ引かへして武蔵から甲斐の国へと出られたが、上野の国赤城の裾、沼田の奥、信州諏訪の地方にもまだ皇威を恐れぬ不遜の夷党が住まって居て時々悪事を働らいて氏を苦しめつつあると御聞きになり、再び軍を返されて上野の国へと這入られた。其の利根の奥へと行きかかる道すがら関東平野の北に尽くるところ赤城つづきの橘山に登られてとある小石に腰うちおろされ、しばし四方の景色を御覧になった。
 遥かに東の方を眺むれば心に見ゆる房総の海、其の房総の海の荒れに妃弟橘媛が尊に尽された誠心、赤い心、犠牲といふ尊い、気高い、清い心、夫を思ふ妻のいぢらしい可愛らしい心、尊はしばしばそれのみに思ひを走らせつつ、遠い彼方、目には見えぬ房総の海のあたりに見入られ、今は此の世に亡き人とは云ひながら吾妻恋し、橘媛恋しと口にこそ出さね、胸に和やかにささやかれて居らせられたがやがてのこと、遂に「橘媛はや」と御仰せになった。
 橘山の名のそもそもの由来は尊がかうして山に登り橘媛の事を追憶なされたそのことに基づいて居るものと云ふ。
 ―― 伝説の上州  中島吉太郎 ――




 ㊁ 西(にし)に銀龍(ぎんりゅう)刀根(とね)の水(みず)
 4きたたちばなかるた 西に銀龍 刀根の水



 ㋞ 空(そら)は赤城(あかぎ)の旭(あさひ)やけ
 6きたたちばなかるた 空は赤城の旭やけ.j



 ㋪ 姫(ひめ)を偲(しの)んで橘山(たちばなやま)
 5きたたちばなかるた 姫を偲んで橘山.





                 
        

上野三碑 山上碑 山上古墳 平成30年二度の訪問

2019/ 01/ 08
                 

 山上碑(やまのうえひ)は、完存するものとしては日本最古(西暦681年)の石碑です。
 山上古墳(やまのうえこふん)は、山上碑よりも数十年古く造られています。群馬県の同種の岩室のなかでは最も古い七世紀前半から中ごろのもので、こうした切石積み岩室は古墳としては最末期のものです。

 平成30年10月28日と11月4日の二度、現地を訪れました。
 最初はガラス越しで対面し、再度の訪問時には直接目の当たりに見ることができました。
 
12-2 山上碑
  山上碑 平成30年11月4日


 
 山上碑 パンフレット写真-2-

 山上碑説明文1


 山上碑説明文2



 山上古墳 パンフレット写真

 (※注:上記各プリントは「特別史跡・上野三碑」パンフレットによる。)


 山上古墳20181028.JPG
  山上古墳 平成30年10月28日


 山上古墳 切石積みの岩室 2018102
  山上古墳 切石積みの岩室 平成30年10月28日


                 
        

上野三碑 多胡碑 実物初御目文字 拓本 

2019/ 01/ 07
                 
 
 東京の学生時代、部活の年間行事の一つとして、仲間と一緒に鎌倉のお寺に採拓しに行ったことがあります。

  今から思いますに、あの当時は拓本を採るのに、場を提供する側も提供される側も、お互いがすんなりと理解しあえる時代だったように思えます。

 タンポ(「短穂」、「打包」)なども、予め部員で手分けして作りました。
 勿論、墨汁ではなく,墨をたくさんすって準備するのですから、それはそれは、手間暇がかかりました。
 和紙は、幾つかの石碑の大きさ(予め先様に確認していますので)に合わせて、それなりの枚数の特別サイズもつくりました。
 ワイワイガヤガヤと、それはそれは賑やかな部室でした。
 江ノ電の行き帰りの一こまひとこまも、今は懐かしい思い出となっています。
 今年、節目の年を迎える多くの皆さん、その齢(よわい)を相前後している皆さん、ともに、お元気でご健在のことと拝察申し上げます。
 
 はてさて・・・

  書のお手本として多胡碑の文字は、古今東西を問わずその名は夙に知られています。
 昨年、多胡碑の実物に初御目文字が叶いました。

 11-1多胡碑 -
  (平成30年11月4日)


 が、
 石碑に刻まれた文字一つひとつと、拓本で採られた文字と文字とが、
頭の中でマッチングしません。
 どういうことかと申しますと、習字のお手本の多胡碑文は拓本から採った字なのです。

     多胡碑拓本


その習った字と、目の当たりに見た実際の文字との心理的距離の乖離が、途惑う私をその場所に放置させてしまったようです。


 多胡碑 その21



 2-1多胡碑 その1

 2-1多胡碑 その2

 2-1多胡碑 その3

 2-1多胡碑 その4

 2-2多胡碑 その1

 2-2多胡碑 その2

 2-2多胡碑 その3.


 (※注:上記各プリントは「上野三碑」パンフレットによる)