館林の正田本家 美智子様
2019/ 10/ 11㋪ 姫を偲んで橘山 弟橘媛
2019/ 01/ 10「橘陰郷土(きたたちばなむら)かるた」

橘山は北橘南橘の境にあります。赤城榛名武尊谷川法師妙義荒船秩父等の諸連山を仰ぎ、利根の清波を俯観して景色まことに全村に冠絶いたして居ります。これから東南は太平洋迄一望千里一つの山を見ません。古来幾多武将の来りよらんとし、又、近郷人の目標として仰ぎみた山であります。昔は桃が多くありました由、其後松山と化しました。現在は松に桜に雑木の山であります。山名由来伝説如次。
「橘山」
前橋と渋川をつなぐ県道の中程、道は一方川に臨み、一方山に迫る。其の川は利根川で其の山は橘山である。橘山の山裾を書いて僅かに通ずる道をこすらんばかりにして通る。そうして道はくねり、電車の軌道も曲り曲って行って利根の流れを渡る。其橋が坂東橋である。この道を歩いた者、この電車に乗ったもので、恐らく橘山と坂東橋の名を知らないものはなからう。
橘山に登って西を眺むれば、山容秀麗の榛名の諸峰岱顕噴煙空に棚引く活火山浅間の大山、見るからに岩山らしき奇峭の妙義、見下ろせば利根の流れ、ここには一際広き河原をつくり砂原に生ふる松、小松は青きに水は紺碧の色を湛えて帯の如くに流れ行くし、首をめぐらして東を望めば関東の大平野五十里、見果てもつかぬ大広野の後方には房総の山々がかすむか。
東夷御征討の日本武尊は東海諸国を討ち平らげ走り水の瀬戸を渡って房総の地をも平らげられ引かへして武蔵から甲斐の国へと出られたが、上野の国赤城の裾、沼田の奥、信州諏訪の地方にもまだ皇威を恐れぬ不遜の夷党が住まって居て時々悪事を働らいて氏を苦しめつつあると御聞きになり、再び軍を返されて上野の国へと這入られた。其の利根の奥へと行きかかる道すがら関東平野の北に尽くるところ赤城つづきの橘山に登られてとある小石に腰うちおろされ、しばし四方の景色を御覧になった。
遥かに東の方を眺むれば心に見ゆる房総の海、其の房総の海の荒れに妃弟橘媛が尊に尽された誠心、赤い心、犠牲といふ尊い、気高い、清い心、夫を思ふ妻のいぢらしい可愛らしい心、尊はしばしばそれのみに思ひを走らせつつ、遠い彼方、目には見えぬ房総の海のあたりに見入られ、今は此の世に亡き人とは云ひながら吾妻恋し、橘媛恋しと口にこそ出さね、胸に和やかにささやかれて居らせられたがやがてのこと、遂に「橘媛はや」と御仰せになった。
橘山の名のそもそもの由来は尊がかうして山に登り橘媛の事を追憶なされたそのことに基づいて居るものと云ふ。
―― 伝説の上州 中島吉太郎 ――
㊁ 西(にし)に銀龍(ぎんりゅう)刀根(とね)の水(みず)

㋞ 空(そら)は赤城(あかぎ)の旭(あさひ)やけ

㋪ 姫(ひめ)を偲(しの)んで橘山(たちばなやま)

上野三碑 山上碑 山上古墳 平成30年二度の訪問
2019/ 01/ 08山上碑(やまのうえひ)は、完存するものとしては日本最古(西暦681年)の石碑です。
山上古墳(やまのうえこふん)は、山上碑よりも数十年古く造られています。群馬県の同種の岩室のなかでは最も古い七世紀前半から中ごろのもので、こうした切石積み岩室は古墳としては最末期のものです。
平成30年10月28日と11月4日の二度、現地を訪れました。
最初はガラス越しで対面し、再度の訪問時には直接目の当たりに見ることができました。

山上碑 平成30年11月4日




(※注:上記各プリントは「特別史跡・上野三碑」パンフレットによる。)

山上古墳 平成30年10月28日

山上古墳 切石積みの岩室 平成30年10月28日
上野三碑 多胡碑 実物初御目文字 拓本
2019/ 01/ 07東京の学生時代、部活の年間行事の一つとして、仲間と一緒に鎌倉のお寺に採拓しに行ったことがあります。
今から思いますに、あの当時は拓本を採るのに、場を提供する側も提供される側も、お互いがすんなりと理解しあえる時代だったように思えます。
タンポ(「短穂」、「打包」)なども、予め部員で手分けして作りました。
勿論、墨汁ではなく,墨をたくさんすって準備するのですから、それはそれは、手間暇がかかりました。
和紙は、幾つかの石碑の大きさ(予め先様に確認していますので)に合わせて、それなりの枚数の特別サイズもつくりました。
ワイワイガヤガヤと、それはそれは賑やかな部室でした。
江ノ電の行き帰りの一こまひとこまも、今は懐かしい思い出となっています。
今年、節目の年を迎える多くの皆さん、その齢(よわい)を相前後している皆さん、ともに、お元気でご健在のことと拝察申し上げます。
はてさて・・・
書のお手本として多胡碑の文字は、古今東西を問わずその名は夙に知られています。
昨年、多胡碑の実物に初御目文字が叶いました。

(平成30年11月4日)
が、
石碑に刻まれた文字一つひとつと、拓本で採られた文字と文字とが、
頭の中でマッチングしません。
どういうことかと申しますと、習字のお手本の多胡碑文は拓本から採った字なのです。

その習った字と、目の当たりに見た実際の文字との心理的距離の乖離が、途惑う私をその場所に放置させてしまったようです。








(※注:上記各プリントは「上野三碑」パンフレットによる)
上野三碑 多胡碑 上毛かるた 郷土かるた
2019/ 01/ 06上毛かるたが誕生したのは昭和22年(1947年)です。
戦後に制作される郷土かるたということで、読み札の素材を群馬県民から広く公募しました。
応募された素材は9つに分類されました。〈※:()内は応募点数〉
◇史跡・・・多胡の碑(11点)
◇人物・・・新島襄(11点)
◇名勝・・・白衣観音(11点)
◇名物・・・繭・生糸・養蚕(8点)
◇温泉・・・伊香保・草津(各11点)
◇山川湖沼・・・赤城山・榛名山・妙義山(各9点)
◇神社仏閣・・・貫前神社・大光院・茂林寺(各11点)
◇郡邑・・・桐生〈御召〉・伊勢崎〈銘仙〉(各11点。「名物」との重複あり)
◇雑・・・清水トンネル(11点)
ここに記載されている素材は全て上毛かるたによみこまれていますが、応募点数が多いのにも関わらず、札によみこむことができなかった人物がいました。
何れも、時のGHQによって拒否されています。
高山彦九郎(9点)は皇国史観の人物として、また、国定忠治(8点)は遊民としての理由でした。
明治の傑出した人物として名高かった小栗上野介(2点)は江戸時代武士だったということで却下されましたが、新田義貞(10点)は難色を示されたものの、上毛かるたの生みの親、浦野匡彦(うらのまさひこ.1910年~1986年)の粘り強い交渉の結果、よむことが許された札となりました。
昭和41年(1966年)に、20版発行を記念して制作された桐箱入りの「上毛かるた」は、昭和天皇に献上されました。

上野三碑の一つ「多胡碑」は、「昔を語る多胡の古碑」として上毛かるたによまれています。


群馬県で最初に生まれた郷土かるたを紹介します。
昭和8年(1933年)に発行された、橘陰郷土(きたたちばなむら)かるたです。
昭和60年(1985年)に、北橘村教育委員会により復刻版が出されました。

この郷土かるたのおいたちは、群馬テレビで、1月7日(月)、12:30~12:45 の15分間再々放送されます。
群馬テレビをキャッチできない場合は、 → エムキャス を使うとみることができますので、どうぞご覧ください。
(※平成31年元旦に放送された番組です。1月5日に再放送されています。 上記エムキャスの ぐんま! トリビア図鑑 1月5日10:30放送 → 郷土かるた で放映されていますので、1月7日の再々放送をまたずに見ることができます。 )
再放送時間〈2019年1月7日(火) 12:30~12:45〉
エムキャス https://mcas.jp/
→ 群馬テレビ → ぐんま! トリビア図鑑(週1回レギュラー放送15分番組)