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2020年度藝祭の中止 早々と大学が決める

2020/ 07/ 13
                 

 中止です学園祭を早々と大学側の即断即決


 ペインティング・キャビネット 横山由起 2018年9月8日
〈平成最後の藝祭:2018年9月8日「ペインティング・キャビネット」横山由起 〉


東京藝術大学公式サイトには、早々と「2020年度藝祭中止について」のお知らせが掲載されました。2020年4月28日の日付でした。
〈 2020年9月4日(金)~6日(日)開催を予定しておりました藝祭につきましては、新型コロナウイルス感染症感染拡大に伴う様々な影響を考慮し「中止」することといたしました。 〉

 それではということで、藝祭実行委員会の「バーチャル藝祭2020 公式」をのぞいたところ、かくの文章が掲載されていました。

 藝祭実行委員会 - コ


 というお知らせにもかかわらず、藝祭開催日までのカウントダウンは、秒単位で刻まれていました!?


                 
        

長空不妨白雲飛 松永安左ヱ門

2020/ 05/ 03
                 
 長空は白雲の飛ぶを妨げず表装にした最初の書

 
 ⇨ここに、表装した作品の写真を載せようと思ったのですが・・・  



 夏の合宿で、先輩の書いた書をお手本にし、指導を受けながら作品に仕上げた、「長空不妨白雲飛」。
 太筆などは持ってあろうはずがなく、Kさんにずっと借りっぱなしでした。
 筆をお借りしていたあのときのお礼を、まだしていなかったことを今思い出しています。
 苗字が変わって、吉祥寺にお暮しになってどのくらいの月日が経ったことでしょうか。


 5白雲


 明治8年(1875年)長崎で生まれた、松永安左ヱ門。
 昭和46年(1971年)に95歳で没していますが、墓所は埼玉県新座市平林寺にあります。
 電力の鬼と呼ばれた松永安佐ヱ門の座右の銘は、長空不妨白雲飛〈ちょうくうははくうんのとぶをさまたげず〉ということを父との思い出の一コマで聞いて以来、ずっと私の耳の奥処に潜んでいました。
 
                 
        

上京 学園祭 麗遊展

2019/ 11/ 06
                 
 お習字は七つの手習い父母に

 麗遊展その1 -


数年このところ、麗遊展に顔を出しています。
午後1時、駅の改札口で待ち合わせ。
今回は七人の侍となりました。

  麗遊展その2 - コピー



                 
        

土、日、上京。 銀座歩行者天国

2019/ 07/ 29
                 
 線路内人立ち入りて停車する電車の中の人の静けさ


 1-1銀座歩行者天国 GSIX


 真夏の銀座。
 2020年、東京オリンピックの年は、8月の最終週に4日間開催することとなった書道展覧会。


 2-1 - 海水魚


 今回は二度東京に足を運びましたが、次回は木曜、金曜も出向こうかなと今のところは思っています。


 1-2 銀座歩行者天国


 2-3 - 海水魚


                 
        

かなりや 西條八十  東京そぞろ歩き

2019/ 06/ 29
                 
かなりやの唄口遊(うたくちずさ)む心旅昨日忘れそ明日を煩う


 村田英雄が歌い、当時(1961年~)空前のヒット曲となった、「王将」は西條八十が作詞しました。船村徹が歌詞の一部を見直して作曲した歌謡曲です。



 「かなりや」の巣   野田宇太郎 (詩人)

 西條八十の名が童謡詩人として、ひろく世間に知られることになったのは、大正七年十一月号「赤い鳥」に「かなりや」を発表し、それが成田為三に作曲されて翌八年五月号に曲譜が発表されてからである。それ以前の西條八十は、早稲田の学生時代に発行した雑誌「聖杯」や「假面」の詩人というに過ぎなかった。
 西條八十さんは大正四年に早大を卒業すると、没落した実家の再興を計って兜町のカネナカという株屋に勤め、自分も相場に身を入れた。金が少し出来たので知人の紹介で、宮辺という人が営んでいた建文館という小出版社に共同出資し、その建文館の二階で結婚間もない奥さんと生活した。そこは当時の神田神保町三番地、現在の神保町一丁目の一角に当る。こうして西條さんが神保町の小出版社の編集と経営に当ったのは大正七年末なでだったが、その間大正七年五月には長女嫩子さんがそこで生れ、それから間もなくのある日、創刊されたばかりの童話童謡雑誌「赤い鳥」の主幹鈴木三重吉の来訪を受ける。それが詩人西條八十の運命の決定であった。

  2-5西條八十 挿絵その5

 三重吉に童謡の寄稿依頼をうけた西條さんは、先ず「青い鳥」の大正七年九月号に「忘れた薔薇」を発表し、つづいて十一月号に発表したのが「かなりや」である。そのころ西條さんはある翻訳の仕事をするために上野不忍池のアパートの一室を借りていた。たまたま生まれて間もない長女を抱いて上野の山を散歩することもあった。そのときふと思い浮かんだのが「かなりや」の構想だった。
 もう西條さんは「唄を忘れたかなりや」ではなかった。こうして西條さんの運命の転記となった建文館のあとを、わたくしは神保町一丁目に捜したことがある。そのころ西條さんは奥さんと一緒にやはり神保町の旧居付近を歩いて、何か思い当ることがあると次々にわたくしに報せて来た。

 2-1西條八十 挿絵その1

 その後「かなりや」の詩碑は人手の多い不忍池畔に建てられたが、やはりわたくしには幻のように消えはてた半世紀昔の表神保町三番地の建文館のことが忘れ難い。そこが人間西條八十の苦労の多かった生活の跡であり、名作「かなりや」の巣だったからである。



 かなりや

 2-2西條八十 挿絵その2.jpg

唄を忘れた金絲雀(かなりや)は、後(うしろ)の山に棄(す)てましょか。
いえ、いえ、それはなりませぬ。

唄を忘れた金絲雀は、背戸の小籔(こやぶ)に埋(い)けましょか。
いえ、いえ、それもなりませぬ。

唄を忘れた金絲雀は、柳の鞭(むち)でぶちましょか。
いえ、いえ、それはかわいそう。

唄を忘れた金絲雀は、
象牙(ぞうげ)の船に、金の櫂(かい)
月夜の海に浮かべれば、
忘れた唄を思いだす。


かなりやの歌碑

 2-3西條八十 挿絵その3


 上野不忍池のかなりやの歌碑は夙に知られている所ですが、和歌山県那智勝浦町の狼煙山遊園(ホテル浦島内)にも、かなりやの歌碑が建っています。
 何れも最終節の歌詞が刻まれています。
 不忍池の歌碑は1960年(昭和35年)にサトウ・ハチローらによる「西条八十会」によって建立されました。

 かなりや歌碑 その1

 1969年(昭和44年)には建立10周年を記念した「かなりや祭」も開催されています。


 2-4西條八十 挿絵その4



 4-1 かなりや歌碑