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水沢なおさん 第25回 「中原中也賞」受賞

2020/ 02/ 10
                 
 詩碑訪ね墓前に偲びはや4年中原中也追憶のひと

  3-1中原中也詩碑.


 2020年(令和2年)2月9日(日曜日)、読売新聞全国版朝刊の社会面下段に、「松〈たかこ〉さんアカデミー賞へ」、「〈ビート〉たけしさん再婚」の記事の後に、「中原中也賞に水沢〈なお〉さん」の記事が載っていました。

 ≪ 優れた現代詩集に贈られる「第25回中原中也賞」(山口市主催)の選考会が8日、山口市で開かれ、東京都在住の会社員水沢なおさん(24)の「美しいからだよ」が選ばれた。詩人の佐々木幹郎さんら5人の選考委員から、「若い世代の社会的風俗をとらえた詩句が多く、詩にあまり触れていない人でも読みやすい」などと評価された。同賞は現代詩人の登竜門とされ、今回は224点の応募・推薦作が寄せられた。≫

≪※註:中原中也生年と没年…「現代詩読本・1―中原中也―思潮社」(発行日1978年7月1日).中原中也年譜による=1907‐明治40年4月29日、吉敷郡山口町大字下野令村(現山口市湯田温泉)に生まる。1937-昭和12年10月6日、鎌倉養生院入院。同22日午前零時10分永眠。24日寿福寺で告別式、後、郷里の経塚に葬る。≫



 中原中也賞に水沢なおさん
 詩集「美しいからだよ」

2020/2/8 20:18 (JST)2/8 20:29 (JST)updated
©一般社団法人共同通信社
 4-1提供元 共同通信 2月8日 20:18

中原中也賞に決まった水沢なおさん
 若手詩人の登竜門として知られ、優れた現代詩集に贈られる「中原中也賞」の選考会が8日、山口市で開かれ、東京都の会社員水沢なおさん(24)の「美しいからだよ」に決まった。会話調で進む物語で「現在の日本の社会を描くのに、最も効果的な手法だった」と評価された。
 選考委員を務めた詩人佐々木幹郎さんは記者会見で「自分の存在感の薄さにとらわれている時代だが、そのことが詩集の中で浮かび出てくる」と指摘。「若い人に確実に届く詩だ」と語った。水沢さんは「これからもひたむきに、詩と向き合っていきたい」とのコメントを出した。
 賞は今回が25回目で、224点が選考対象になった。



 中原中也賞に水沢なおさんの「美しいからだよ」 現代詩人の登竜門
2/8(土) 19:54配信  毎日新聞

 現代詩人の登竜門、第25回中原中也賞(山口市主催)の選考会が8日、山口市であり、東京都の会社員、水沢なおさん(24)=本名非公表=の「美しいからだよ」が選ばれた。小説に近い物語性を持つ作品など13編を収録。選考会では「若い世代の社会風俗をとらえた。詩のプロからすると『薄すぎる』かもしれないが、若い人にはものすごく読みやすい」など、将来の可能性が評価された。水沢さんは「地層を掘り起こすようにしてうまれた詩集です。これからもひたむきに、詩と向き合っていきたいと思います」とコメントした。【祝部幹雄】



 山口・中原中也賞に水沢なおさん
yab山口朝日放送
最終更新:2/8(土) 18:14

優れた詩集に贈られる「中原中也賞」の受賞作品が発表され静岡県出身水沢なおさん(24)の作品が選ばれました。中原中也賞は山口市出身の詩人中原中也の業績をたたえ、新鮮な感覚を持ち優れた詩集に贈られます。今回は全国から224点の応募がありました。選考の結果静岡県出身水沢なおさんの作品「美しいからだよ」が受賞しました。会話体で詩が書かれていて小説に近い作品になっています。選考委員の佐々木幹郎さんは「軽いタッチながらも現代における自己の存在を浮かび上がらせる作品。若い人にとっても詩への入り口になるのでは」と講評しました。水沢さんは「これからもひたむきに詩と向き合っていきたいと思います」とコメントしています。

                 
        

木下サーカス四代記 読売新聞書評 戌井昭人  サーカス 中原中也

2019/ 03/ 04
                 
 
 小学生の頃と30代半ばに、木下サーカスを観に行ったことがある。大人になって空き地に建てられたテントの中に入った瞬間、かって感じた、あやしくもワクワクした気持ちが蘇り、子供の自分と大人の自分が繋がった。と、「木下サーカス四代記」(山岡淳一郎著.東洋経済新報社)の書き出しで始まった戌井昭人氏の書評。

   木下サーカス四代記.


 
 小学生のころ

 小諸市立野岸小学校に転校してきた男の子。
 担任の先生の紹介の後、家族でサーカスにいます。しばらくいますので見に来てくださいと短い言葉で挨拶。
 先生が、仲よくしてください。と再び皆にひとこと声をかけた後、学級委員の私の隣の席に座らせました。
 遊びに行っていい!?と、私。
 いいよ・・・と、彼。
 
 その彼は、午後早引けして、翌日からはずっと学校に来ませんでした。
 学校の休みの日。
 空き地にサーカスがテントを張っています。
 
 出入り口で、男の子の名前を伝えたら、しばらく経ってから彼が姿を現しました。
 遊びに来たよ。と、私。
 今、忙しいから・・・と、彼。
 その彼が木戸銭番をしている大人に、ひとこと。
 学校の友だちだから。中に入れて、と。

 私は木戸銭を払わずにサーカスをみることができましたが、あの時交わした言葉を最後にして、その後、学校でもどこでも、彼の姿をみることはありませんでした。



 当時の日本四大サーカスのうち、キグレ(New)サーカスは2010年10月に倒産(本業を停止)し、団員たちはテントを置いて夜逃げしました。(「ザ・ノンフィクション 倒産ピエロ ~夢の終わり。そして…~」 2012年7月8日(日) 14:00~14:55 フジテレビ)
木下(大)サーカスもご多聞に漏れず浮き沈みがありながらも存続の危機を乗り越え、今、年間120万人の観客動員数を誇っています。
 木下サーカスの四代にわたる軌跡が記された本書(『木下サーカス四代記』)。百年以上も家族経営で続いているということに凄まじさを感じる。経営の本質がココにあるかどうかわからないが、人間の本質が濃密に詰まっていた。と、戌井昭人氏は書評末尾に書き記しています。



 サーカスのこと

  そもそも「サーカス」という外来語が日本に定着するのは、昭和8年(1933年)にドイツから「ハーゲンベック・サーカス」がやってきて、日本全国を巡演したときからであったと言われています。〈最初に日本にサーカスが紹介されたのは、元治元年(1864年)にアメリカからやってきたサーカス団が横浜で公演したときで、「曲馬団」と翻訳されて広まりました。〉


 「サーカス」というと、中原中也の詩を思い出します。
 この詩は「生活者」(倉田百三主宰の文芸雑誌)に掲載された時(昭和4年〈1929年〉10月号)は「無題」でした。(「サーカス」の初稿は1925年から1926年の間に書かれたと推定されていますが、中原中也がこの詩に「サーカス」と名付けたのは、『山羊の歌』編集期の1932年4月~6月のことだと推定されています。
 「サーカス(曲馬団)の唄」〈西条八十(やそ)作詞、古賀政男作曲・編曲、歌手・松本晃〉は、「ハーゲンベック・サーカス」が初来日した1933年5月にコロムビアレコードから発売されていますが、この時代になっても「サーカス」には「(曲馬団)」という注記が必要とされていました。
 初出時、そのタイトルを「曲馬団」とせず、「無題」としたのは、中也の心情として当然にそうなのでありましょう。
かにかくに申し述べましたが、何れにせよ、サーカス団が日本にやってくる1年前に詩のタイトルを「サーカス」と名付けたことに、中也の詩性が伝わってきます。



サーカス


幾時代かがありまして
  茶色い戦争ありました

幾時代かがありまして
  冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして
  今夜此処での一(ひ)と殷盛(さか)り
    今夜此処での一と殷盛り

サーカス小屋は高い梁(はり)
  そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒(さか)さに手を垂れて
  汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆゃゆょん

それの近くの白い灯が
  安値(やす)いリボンと息を吐き

観客様はみな鰯(いわし)
  咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆょーん ゆゅゆょん

    屋外(やがい)は真ッ闇(くら) 闇(くら)の闇(くら)
    夜は却々と更けまする
    落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルヂィアと
    ゆあーん ゆょーん ゆゃゆょん



 (※追補:

 この詩は「朝の歌」と共に、自信のあった作品である。歌い易く出来ていて、中原に始めて会った人間は、大抵朗誦を聞かされたものである。「ゆあーん ゆょーん、ゆゃゆょん」のオノマトペを、中原は仰向いて眼をつぶり、口を突出して、独特に唄った。
 ・・・
 「サーカス」の道化は、むしろダダの系統のものであり、童謡は十八歳の中原に自然な口調だったに過ぎないと思われる。中原には何処か大人になる暇がなく歳を取ってしまったようなところがあったから、童謡調はずっと彼の詩についてまわり、中原独特の形に完成されて行ったと考えたい。

 と、大岡昇平は、自著『中原中也 なかはらちゅうや』(昭和49年発行.発行所角川書店)で書き表しています。)


                 
        

 自治会連合会の夏祭り 節目の開催年

2018/ 08/ 20
                 
 例年、日曜日(ここ数年来の開催曜日は、頭に入っていません。ちょっと前の記憶をもとにしています)に開催していた夏祭り。
 例年、午前中から開催していた夏祭り。
 今年のプログラムは、土曜日の午後2時30分から開催となっていました。
 今年は節目の年になったということなのでしょう、午後5時20分から、夏祭り開催第30回を記念しての大抽選会があるというので、眼科医に行った後に、祭り会場に出向いててみようかなとも思っていたのです。
 自宅に戻ったのが午後5時2分。
 手元に置いてあった抽選券を能々見たら、「抽選参加受付時間/15:00~17:00」と印字されていました。

 いつしか、盆踊りもプログラムから消えている夏祭り。

 そういえば、連合会主催のではありませんが、(単一自治会の)餅つき大会もあったな、運動会もあったな、と、あれこれを思い出すことにもなりました。



                 
        

新たな旅立ち

2017/ 12/ 17
                 
 如何お過ごしですか。
 先日のfacebookに、

I decided my next new journey.

と、書き込んでいましたね。


 過日、西出ひろ子さんのメッセージが目に留まりましたので、メモしてみました。


 《 上司への報告、連絡、相談、いわゆる「ほう・れん・そう」に「お・ひ・た・し」で返す「ほうれんそうのおひたし」がSNS上で共感を呼んでいます。その内容はどのようなものでしょうか。

 ◇部下に怒ったり、説教したりしてはいけない?

 職場の新人によく「報告・連絡・相談(ほう・れん・そう)を教える」という、ツイッターのとあるユーザーが、それに対して「お・ひ・た・し」で返す「ほうれんそうのおひたし」を心がけていると紹介し、大きな話題となりました。「お・ひ・た・し」の内容は以下の通りです。

「お」:怒らない
「ひ」:否定しない
「た」:助ける(困り事あれば)
「し」:指示する

 そして「悪い内容でもこの点を注意してると新人さんは早めに相談してくるので対策打ちやすい」と投稿すると、「今の上の人たちってこれ全部できてない気がする」「とても大事な心得」「これ印刷して上司のデスクに貼り付けたい」といった共感の声が多く寄せられました。

 ◇マナーなき上司に部下は従わない

 企業や大学などで人財育成やマナーコンサルティングを行い、上司と部下のコミュニケーションやリーダー育成、新人教育、営業接客マナー、接遇などのマナー本が国内外で70冊以上、著者累計100万部以上のマナーコンサルタント・西出ひろ子さんは「『ほう・れん・そう』を行うように指示する上司にマナーがなければ、部下は従いたくなくなるもの。上司の心得として『お・ひ・た・し』は良いと思います」と話します。

 西出さんによると、「お」「ひ」「た」「し」のポイントは以下の通りです。

【お(怒らない)】

 「怒る=感情に身を任せる」行為をNGとしている点が優れています。
 ただし、相手のためを思って注意する「しかる」は必要です。

【ひ(否定しない)】

 仕事をする上で、上司が部下の意見を否定する場面は少なからずあるもの。しかし、そのような場合でも、冒頭からいきなり否定するのは避け、まずは相手の意見や言葉を受け入れてから自分の意見を伝える姿勢を意識しましょう(イエス・バット法)。こうすることで、否定のニュアンスを和らげることができます。
 また、受け手側も「否定された」と落ち込まないことが大切。状況をネガティブに捉えない癖をつけましょう。マナーはお互い様。仮に不本意だと思うことがあっても、それをポジティブに捉えることで自身を成長させることにつながります。

【た(助ける)】

 部下を助けるのは上司として当然の役目。しかし過剰に助けすぎると、時と相手によっては部下の成長の妨げになってしまうこともあります。
 「助けること」と「サポートすること」は別物。いきなり助けるのではなく、部下が悩んだり困ったりしている時は、まずサポートをしてみましょう。その結果を見て、さらにサポートをするのか助けてあげるのか状況判断するのがよいです。

【し(指示する)】

 SNS上でも「指示がない」「適当な指示ばかり」など上司に対する不満が目立ちますが、部下は常に上司からの的確な指示が欲しいと思うもの。上司には、これに応える責任があります。
 しかし、部下も何でもかんでも「指示待ち」の状態になるのはよくありません。まずは、自分で考えるという自発的な姿勢が大切です。

 指示を受けたい時は、状況に応じて自分から上司に伺いを立て、指示を促すことが重要。この時、上司としては、部下が伺いを立てやすい雰囲気を日頃から作ってあげることが大切です。
 部下は「上司が忙しそう」「いつもしかめっ面をしている」「冷たくあしらわれるのが怖い」などの理由から、なかなか上手にコミュニケーションを取れないと悩んでいることも多いのです。 》


                 
        

中原中也「在りし日の歌・湖上」 ハイネ「抒情挿曲・第42章」 

2017/ 11/ 10
                 
 「世界詩人全集」は、2つの出版社のものが手元にありましたが、かなり以前にブックオフに引き取ってもらいました。
 買い取り価格は、ソノシート付の全集本はゼロ円で、もう一つは12巻1セットで百円でした。
 今は、手元から離れたことを悔いています。


 これからの文章は、転記したものそのものですので、詩人ハイネに、そして詩人中原中也に興味ない人はスルーしてください。

 私にとっては、新しい発見となった『湖上』ですので、記録の意味も込めて載せることにしました。


中原中也 沈黙の音楽 佐々木幹郎



《 ・・・
  生田春月訳のBuch der Lieder(訳者訳は「詩の本」)の詩句は、愛誦するにふさわしい平易な言葉が使われており、特にその恋愛歌のいくつかは、中原中也の「朝の歌」以降の詩語と恋愛歌の構想において、インスピレーションを与える役割を果たしたと思われる。その顕著な例をあげてみよう。生田春月訳『ハイネ全集』第1巻に収録された「抒情挿曲」第42章に次の詩がある。


ハイネの『歌の本』

 ふたりは仲よく手をとって
 軽い小舟に乗ってゐる、
 夜はしづかに凪ぎはよい
 沖へ沖へと舟は出る。

 幽霊島はうつくしく
 月のひかりにかすんでゐる、
 たのしい音色(ねいろ)が漏れて来て
 霧はをどって波をうつ。

 音色はいよいよ冴えわたり
 霧はいよいよ飛びまはる、
 けれどそこへはよらないで
 沖へ出ていくやるせなさ。

 
 
詩のなかの「声」

 この詩に対して、中也に「湖上」(1930年=昭和5年6月15日初稿。『在りし日の歌』所収)がある。「湖上」の初稿(第一次形態)は「ノート少年時」(1927~30年6月15日使用と推定)に万年筆で記されていて、詩が訳されたノート下部の余白部分が破り取られている。なぜ破られたのかはわからないのだが、面白いことに一部に落書きが残っていて、「波」を思わせるようなペンでの描線が何本もあることだ。抹消線とも考えられるが、ひょっとして、海に浮かぶ小舟と男女、それを取り巻く波の絵が落書きされていたのでなないか、と想像してみるのも楽しい。

  
  ポッカリ月が出ましたら、
  舟を浮べて出掛けませう。
  波はヒタヒタ打つでせう、
  風も少しはあるでせう。

  沖に出たらば暗いでせう、
  櫂(かい)から滴垂(したた)る水の音は
  昵懇(ちか)しいものに聞こえませう、
  ――あなたの言葉の杜切(とき)れ間を。

  月は聴き耳立てるでせう、
  すこしは降りても來るでせう、
  われら接唇(くちづけ)する時に
  月は頭上にあるでせう。

  あなたはなほも、語るでせう、
  よしないことや拗言(すねごと)や、
  洩らさず私は聴くでせう、
  ――けれど漕ぐ手はやめないで。

  ポッカリ月が出ましたら、
  舟を浮べて出掛けませう、
  波はヒタヒタ打つでせう、
  風も少しはあるでせう。

     (「湖上」第三次形態、『在りし日の歌』所収)


 ハイネの詩は三連四行だが、「湖上」は五連四行で、第五連は第一連を繰り返している。この繰り返しは「歌」のサビの部分を意識したものだ。そして、ハイネの詩の第三連第三行目「けれどそこへはよらないで」は、小舟の通過コースを示す詩句だが、「湖上」では、第四連四行目で「けれど漕ぐ手はやめないで」という願いの言葉に変えられ、換骨奪胎されている。
 二つの詩に共通しているのは、風の少ない月の夜に男女が小舟を浮かべて沖に出るという設定だけだが、ここから男女の睦言が聞えるような恋愛歌の世界へイメージを膨らませて発展させたのは、中原中也の想像力の賜物だろうと思える。

 ハイネの詩にある歌うようなリズムは、どの詩行も現在形で進むが、中也の詩では「せう」という言葉によって、仮定と推量の形式を繰り返している。後に中也はランボーの「冬の思ひ」を訳すとき(初訳は1934年9月から35年3月末までの間と推定)、この文体を用いている。
 「僕等冬には薔薇色の、車に乗って行きませう/中には青のクッションが、一杯の。/僕等仲良くするでせう。とりとめもない接唇の/巣はやはらかな車の隅々」。
  (全四連のうち第一連。『ランボウ詩抄』1936年、『ランボウ詩集』1937年所収)

 「湖上」の詩句で重要なことは、詩の主人公が「あなた」に呼びかける「声」だけではなく、別の「声」を挿入していることだ。第二連四行目「――あなたの言葉の杜切れ間を」と第四連四行目「――けれど漕ぐ手はやめないで」である。詩句の進行に寄り添いながら、立ち止まり、二重唱のような言葉を重ねている。中原中也が発見した詩のなかの「声」がここにある。
 ・・・ 》