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ブログは不定期に 自覚し始めたこのごろ

2020/ 12/ 06
                 

 目も弱り耳も遠くに老いらくの日々の楽しみ不定期便に


 師走に入っています。
 ブログはまとめて予約投稿にすることにしました。
 何となれば、このところパソコン画面と対峙する時間が増えるにつれ、目を傷め続けているという自覚が出てきたからです。
 どういうことかと申しますと、毎日のようにパソコンを開かないことが目をいたわることにつながるからです。
 目おぼろ、女性皆美人に見え、音遠のき、来たる人も判らず、足腰萎え衰え、ゴルフも例外なく、と、何をとっても、ああこんなはずではなかったのに。と、嘆く年頃になっていました。

 年末年始、ゆるり、お健やかにお過ごしくださいますよう。


 中原中也全詩集外函1


 詩人は辛い
 
私はもう歌なぞ歌わない
誰が歌なぞ歌ふものか
みんな歌なぞ聽いてはゐない
聽いてるやうなふりだけはする
みんなたゞ冷たい心を持つてゐて
歌なぞどうだつたつてかまわないのだ
それなのに聽いてるようなふりはする
そして盛んに拍手を送る
拍手を送るからもう一つ歌はうとすると
もう澤山といつた顔
私はもう歌なぞ歌わない
こんなご都合な世の中に歌なぞ歌わない
 (一九三五.九.十九)


 中原中也全詩集奥付千部限定13番本
 中原中也全詩集〈千部限定「62番本」〉 1972年10月20日発行 著者:中原中也. 発行所:角川書店.
  編者:大岡昇平.中村稔.吉田凞生.・未刊詩篇「詩人は辛い」792ページ.



 山羊の歌 中原中中也

 山羊の歌 限定360部13番本.


                 
        

草稿の詩「雲」 中原中也

2020/ 10/ 17
                 

 ふと思う雲に中也は何を見る


 20201017雲2.


 詩人たちの「雲」をうたった詩をときおり思い浮かべます。
 山村暮鳥の雲、高村光太郎の雲は、完成された詩となって世に出ています。
 一方、中原中也の雲は大岡昇平編集本に載せている通り、未刊詩篇に収めています。
 「編註」によると、「雲」は「原稿用紙その他」に記されている「草稿」となっています。
  草稿であるが故か、感性のままに書き連ねた一連の詩には、世間によく知られている中也の詩と並べてみると、韻律など何か不安定感を覚えます。
 仮に、世に出そうとは思っていなかった詩・・・だったとしても、16行の詩の世界にいつの間にか引きずり込まれていく自分を感じました。
 枯草を背に敷いて、雲を眺めている。
 ・・・ 山の上には雲が流れていた ・・・
 山の上に寝て、空を見るのも
 此処〈枯草の上に寝転んで〉にいて、あの山をみるのも
 所詮は同じとうたっています。



   雲  

山の上には雲が流れてゐた

あの山の上で、お辯當を食つたこともある……  
  女の子なぞというものは
  由來櫻の花瓣(はなびら)のように、      
  欣(よろこん)んで散りゆくものだ

  近い過去も遠いい過去もおんなじこつた
  近い過去はあんまりまざまざ顯現(けんげん)するし  
  遠いい過去はあんまりもう手が届かない

山の上に寢て、空を見るのも   
此處(ここ)にいて、あの山をみるのも   
所詮(しょせん)は同じ、動くな動くな   

あゝ、枯草を背に敷いて   
やんわりぬくもつてゐることは  
空の靑が、少しく冷たくみえることは   
煙草を喫ふなぞということは      
世界的幸福である

 〈「中原中也全集 第2巻 詩Ⅱ」 1967年11月20日印刷發行 著者中原中也 編者大岡昇平 發行所角川書店〉
                 
        

夏は青い空に……  中原中也 白い雲のかなたに

2020/ 08/ 08
                 

 白雲よ汝(な)れは中也かどこまで流る


 345-2.j


 多くの詩人が夏をうたっています。
 中也もまたしかりです。
 夏は青空の中に白い雲が浮かびます。
 羊〈※註〉になることができなかった中原中也は、『山羊の歌』を遺しました。
 和洋の宗教観が混在する中也の詩は、ときとして朗読する者の心をおだやかならざる対岸におくこともありますが、それはまた、ときとして救いを求めるその心象にわが身を擬えることにもなるのです。
 
  〈※註:聖書に記す、「羊を右に、山羊を左に」〉


 345-1安曇野の空 9月



 夏は青い空に……  中原中也

夏は青い空に、白い雲を浮ばせ、
 わが嘆(なげ)きをうたう。
わが知らぬ、とおきとおきとおき深みにて
 青空は、白い雲を呼ぶ。
わが嘆きわが悲しみよ、こうべを昂(あ)げよ。
 ――記憶も、去るにあらずや……
湧(わ)き起る歓喜のためには
 人の情けも、小さきものとみゆるにあらずや
ああ、神様、これがすべてでございます、
 尽すなく尽さるるなく、
心のままにうたえる心こそ
 これがすべてでございます!
空のもと林の中に、たゆけくも
 仰(あお)ざまに眼(まなこ)をつむり、
白き雲、汝(な)が胸の上(へ)を流れもゆけば、
 はてもなき平和の、汝がものとなるにあらずや


  246-2 山羊の歌


                 
        

水沢なおさん 第25回 「中原中也賞」受賞

2020/ 02/ 10
                 
 詩碑訪ね墓前に偲びはや4年中原中也追憶のひと

  3-1中原中也詩碑.


 2020年(令和2年)2月9日(日曜日)、読売新聞全国版朝刊の社会面下段に、「松〈たかこ〉さんアカデミー賞へ」、「〈ビート〉たけしさん再婚」の記事の後に、「中原中也賞に水沢〈なお〉さん」の記事が載っていました。

 ≪ 優れた現代詩集に贈られる「第25回中原中也賞」(山口市主催)の選考会が8日、山口市で開かれ、東京都在住の会社員水沢なおさん(24)の「美しいからだよ」が選ばれた。詩人の佐々木幹郎さんら5人の選考委員から、「若い世代の社会的風俗をとらえた詩句が多く、詩にあまり触れていない人でも読みやすい」などと評価された。同賞は現代詩人の登竜門とされ、今回は224点の応募・推薦作が寄せられた。≫

≪※註:中原中也生年と没年…「現代詩読本・1―中原中也―思潮社」(発行日1978年7月1日).中原中也年譜による=1907‐明治40年4月29日、吉敷郡山口町大字下野令村(現山口市湯田温泉)に生まる。1937-昭和12年10月6日、鎌倉養生院入院。同22日午前零時10分永眠。24日寿福寺で告別式、後、郷里の経塚に葬る。≫



 中原中也賞に水沢なおさん
 詩集「美しいからだよ」

2020/2/8 20:18 (JST)2/8 20:29 (JST)updated
©一般社団法人共同通信社
 4-1提供元 共同通信 2月8日 20:18

中原中也賞に決まった水沢なおさん
 若手詩人の登竜門として知られ、優れた現代詩集に贈られる「中原中也賞」の選考会が8日、山口市で開かれ、東京都の会社員水沢なおさん(24)の「美しいからだよ」に決まった。会話調で進む物語で「現在の日本の社会を描くのに、最も効果的な手法だった」と評価された。
 選考委員を務めた詩人佐々木幹郎さんは記者会見で「自分の存在感の薄さにとらわれている時代だが、そのことが詩集の中で浮かび出てくる」と指摘。「若い人に確実に届く詩だ」と語った。水沢さんは「これからもひたむきに、詩と向き合っていきたい」とのコメントを出した。
 賞は今回が25回目で、224点が選考対象になった。



 中原中也賞に水沢なおさんの「美しいからだよ」 現代詩人の登竜門
2/8(土) 19:54配信  毎日新聞

 現代詩人の登竜門、第25回中原中也賞(山口市主催)の選考会が8日、山口市であり、東京都の会社員、水沢なおさん(24)=本名非公表=の「美しいからだよ」が選ばれた。小説に近い物語性を持つ作品など13編を収録。選考会では「若い世代の社会風俗をとらえた。詩のプロからすると『薄すぎる』かもしれないが、若い人にはものすごく読みやすい」など、将来の可能性が評価された。水沢さんは「地層を掘り起こすようにしてうまれた詩集です。これからもひたむきに、詩と向き合っていきたいと思います」とコメントした。【祝部幹雄】



 山口・中原中也賞に水沢なおさん
yab山口朝日放送
最終更新:2/8(土) 18:14

優れた詩集に贈られる「中原中也賞」の受賞作品が発表され静岡県出身水沢なおさん(24)の作品が選ばれました。中原中也賞は山口市出身の詩人中原中也の業績をたたえ、新鮮な感覚を持ち優れた詩集に贈られます。今回は全国から224点の応募がありました。選考の結果静岡県出身水沢なおさんの作品「美しいからだよ」が受賞しました。会話体で詩が書かれていて小説に近い作品になっています。選考委員の佐々木幹郎さんは「軽いタッチながらも現代における自己の存在を浮かび上がらせる作品。若い人にとっても詩への入り口になるのでは」と講評しました。水沢さんは「これからもひたむきに詩と向き合っていきたいと思います」とコメントしています。

                 
        

木下サーカス四代記 読売新聞書評 戌井昭人  サーカス 中原中也

2019/ 03/ 04
                 
 
 小学生の頃と30代半ばに、木下サーカスを観に行ったことがある。大人になって空き地に建てられたテントの中に入った瞬間、かって感じた、あやしくもワクワクした気持ちが蘇り、子供の自分と大人の自分が繋がった。と、「木下サーカス四代記」(山岡淳一郎著.東洋経済新報社)の書き出しで始まった戌井昭人氏の書評。

   木下サーカス四代記.


 
 小学生のころ

 小諸市立野岸小学校に転校してきた男の子。
 担任の先生の紹介の後、家族でサーカスにいます。しばらくいますので見に来てくださいと短い言葉で挨拶。
 先生が、仲よくしてください。と再び皆にひとこと声をかけた後、学級委員の私の隣の席に座らせました。
 遊びに行っていい!?と、私。
 いいよ・・・と、彼。
 
 その彼は、午後早引けして、翌日からはずっと学校に来ませんでした。
 学校の休みの日。
 空き地にサーカスがテントを張っています。
 
 出入り口で、男の子の名前を伝えたら、しばらく経ってから彼が姿を現しました。
 遊びに来たよ。と、私。
 今、忙しいから・・・と、彼。
 その彼が木戸銭番をしている大人に、ひとこと。
 学校の友だちだから。中に入れて、と。

 私は木戸銭を払わずにサーカスをみることができましたが、あの時交わした言葉を最後にして、その後、学校でもどこでも、彼の姿をみることはありませんでした。



 当時の日本四大サーカスのうち、キグレ(New)サーカスは2010年10月に倒産(本業を停止)し、団員たちはテントを置いて夜逃げしました。(「ザ・ノンフィクション 倒産ピエロ ~夢の終わり。そして…~」 2012年7月8日(日) 14:00~14:55 フジテレビ)
木下(大)サーカスもご多聞に漏れず浮き沈みがありながらも存続の危機を乗り越え、今、年間120万人の観客動員数を誇っています。
 木下サーカスの四代にわたる軌跡が記された本書(『木下サーカス四代記』)。百年以上も家族経営で続いているということに凄まじさを感じる。経営の本質がココにあるかどうかわからないが、人間の本質が濃密に詰まっていた。と、戌井昭人氏は書評末尾に書き記しています。



 サーカスのこと

  そもそも「サーカス」という外来語が日本に定着するのは、昭和8年(1933年)にドイツから「ハーゲンベック・サーカス」がやってきて、日本全国を巡演したときからであったと言われています。〈最初に日本にサーカスが紹介されたのは、元治元年(1864年)にアメリカからやってきたサーカス団が横浜で公演したときで、「曲馬団」と翻訳されて広まりました。〉


 「サーカス」というと、中原中也の詩を思い出します。
 この詩は「生活者」(倉田百三主宰の文芸雑誌)に掲載された時(昭和4年〈1929年〉10月号)は「無題」でした。(「サーカス」の初稿は1925年から1926年の間に書かれたと推定されていますが、中原中也がこの詩に「サーカス」と名付けたのは、『山羊の歌』編集期の1932年4月~6月のことだと推定されています。
 「サーカス(曲馬団)の唄」〈西条八十(やそ)作詞、古賀政男作曲・編曲、歌手・松本晃〉は、「ハーゲンベック・サーカス」が初来日した1933年5月にコロムビアレコードから発売されていますが、この時代になっても「サーカス」には「(曲馬団)」という注記が必要とされていました。
 初出時、そのタイトルを「曲馬団」とせず、「無題」としたのは、中也の心情として当然にそうなのでありましょう。
かにかくに申し述べましたが、何れにせよ、サーカス団が日本にやってくる1年前に詩のタイトルを「サーカス」と名付けたことに、中也の詩性が伝わってきます。



サーカス


幾時代かがありまして
  茶色い戦争ありました

幾時代かがありまして
  冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして
  今夜此処での一(ひ)と殷盛(さか)り
    今夜此処での一と殷盛り

サーカス小屋は高い梁(はり)
  そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒(さか)さに手を垂れて
  汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆゃゆょん

それの近くの白い灯が
  安値(やす)いリボンと息を吐き

観客様はみな鰯(いわし)
  咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆょーん ゆゅゆょん

    屋外(やがい)は真ッ闇(くら) 闇(くら)の闇(くら)
    夜は却々と更けまする
    落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルヂィアと
    ゆあーん ゆょーん ゆゃゆょん



 (※追補:

 この詩は「朝の歌」と共に、自信のあった作品である。歌い易く出来ていて、中原に始めて会った人間は、大抵朗誦を聞かされたものである。「ゆあーん ゆょーん、ゆゃゆょん」のオノマトペを、中原は仰向いて眼をつぶり、口を突出して、独特に唄った。
 ・・・
 「サーカス」の道化は、むしろダダの系統のものであり、童謡は十八歳の中原に自然な口調だったに過ぎないと思われる。中原には何処か大人になる暇がなく歳を取ってしまったようなところがあったから、童謡調はずっと彼の詩についてまわり、中原独特の形に完成されて行ったと考えたい。

 と、大岡昇平は、自著『中原中也 なかはらちゅうや』(昭和49年発行.発行所角川書店)で書き表しています。)