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木のいのち木のこころ(天)(地)(人) 発行株式会社草思社 思うこと…

2021/ 08/ 16
                 

 聞き書きに人のぬくもり知らずうち甍の波間飛鳥飛び立つ

 宮大工鵤工舎後継の人育てゆく道程はるか


 木のいのち木のこころ天西岡常一


とりとめもなく、あれやこれやを思い出す年ごろとなっているようです。

 1天目次1ページ.

斑鳩で飛鳥の時を想う。
名古屋工場で現場実習していたのは僅か3カ月でしたが、休みになると、奈良〈1人で〉、和歌山〈1人で〉、京都〈1人で〉、三重〈数人で〉、大阪〈数人で〉まで足を運びました。

斑鳩の里の寺院で、お坊様のお話を聞いている人たちの中に交じって、背筋を伸ばしてじっと聴き入っている女性が目に留まりました。
私よりもちょっと若いか同じ年ごろの人のように感じました。
私の視線に気がついたのでしょうか、ふっと、こちらに目を向けました。

皆が席を立ちました。
私もちょっと遅れて、席を離れました。
一呼吸おいて、その佳人も席を立ちました。
これからどちらへ・・・と、私。
一呼吸おいてから、短い言葉が返ってきましたが、二人の間がちょっと離れていたせいなのかどうか、聞き取ることができませんでした。

良い旅を!と、私。
彼のひとは、微笑みで返してくれました。

 2天目次2ページ

東京時代。
とりとめもなく思いだしています。
当時、渋谷区にあった草思社が創立して間もない頃、原宿駅から歩いて一度訪れたことがあります。
何のために出向いたのか今となってははっきり思いだせませんが、何れにせよ、「本」に関してのことだったように記憶しています。

 3天目次3ページ

草思社発行の本は、今でも幾つかありますが、「木のいのち木のこころ(天)」〈🄫西岡常一〉、「木のいのち木のこころ(地)」〈🄫小川光男〉、「木のいのち木のこころ(人)」〈塩野米松〉、も、本棚に置いてあります。

 あらためて手に取って読み直している、この頃です。



 『木のいのち木のこころ(天)』
  著者🄫西岡常一.聞き書き🄫塩野米松.発行㈱草思社

まえがき
 〈・・・ 私らが相手にするのは檜です。木は人間と同じで一本ずつが全部違うんです。それぞれの木の癖を見抜いて、それにあった使い方をしなくてはなりません。そうすれば、千年の樹齢の檜であれば、千年以上持つ建造物ができるんです。これは法隆寺が立派に証明してくれています。
 法隆寺を造り守ってきたのは、こうして受け継がれてきた木を生かす技です。この技は数値ではあらわせません。文字で本にも書き残せませんな。それは言葉にできないからです。技は人間の手から手に引き継がれてきた「手の記憶」なのです。そして、この手の記憶のなかに、千三百年にわたって引き継がれてきた知恵が含まれているのです。 ・・・〉

あとがき
〈・・・ 塩野さんは、大工の技と知恵の伝承を聞き書きするのであれば、私が育てた唯一の内弟子、小川光夫に私の考えや技がどう伝わっているか、小川が何を考え、どんな気持ちで学んでいったか、いまどのような心づもりで、どんな仕事をしているかを小川自身が語った本も一緒に出版したらおもしろいといってくださり、同じ題名で、私の「天」と小川の「地」篇ができることになりました。
 こうして塩野さんには平成三年の春から奈良に一年半ほど通ってもらい、薬師寺の仕事場や私の自宅、時には入院先の病室ではなしを聞いてもらいました。小川も参加しての昔ばなしは和やかで、とても楽しいものでした。 ・・・〉


                 
        

体重9㎏減、ウエスト9cm減。鎌田式「スクワット」と「かかと落とし」

2021/ 07/ 04
                 

 ありましたいつも見ているブログさん右に同じのダイエット本


 スクワットとかかと落とし


なんと、3年間で体重9キログラム減、ウエスト9センチメートル減。
毎日実行してこその結果と、肝に銘じることに致しましょう。



                 
        

ジニ係数とかエンゲル係数とか

2021/ 04/ 01
                 

 このところ食費出金目立ちます係数知るや財布紐閉じ

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  〈元荒川桜並木〉

 何を見るジニ係数の先行きに民を導く覚悟如何と

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  〈元荒川桜並木・JR高崎線〉


ご存じ、「エンゲル係数」。
このところ食関係の出費ばかりとなっています。
まあ、エンゲル係数を気にしなくても良い年頃にはなっているのでしょうか。

 13元荒川新佐賀橋.
  〈元荒川新佐賀橋〉


ところで、「ジニ係数」をご存じですか。
 ジニ係数の説明の仕方はいろいろありますが、ここでは、3月28日(日曜日) 讀賣新聞朝刊一面を拝借して、理解を深めることにいたします。

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 〈元荒川桜並木〉

地球を読む」所得格差の拡大 ~米中で強まる不公平感

 所得不均衡は、これまでも繰り返し、様々な観点から問題提起されてきた。
 所得格差を示す最も有名な指数が「ジニ係数」である。1人の王様が所得を独占し、他の人は全員ゼロなら係数は1になる。一方、全員が同額の所得を得ていれば係数は0だ。つまり、1に向かって係数が上がるほど、所得格差が大きいことを示す。

 19元荒川桜並木道 -
 〈元荒川桜並木〉


 ジニ係数はここ20年、ほとんどの国で上昇した。日本でもやや上がったが、世界の2大「経済大国」の米中は顕著に上昇した。
 今世紀の初頭、欧州や日本、東南アジアのジニ係数が0.25から0.35だった時代に、米中では既に0.4を超えていた。
 社会的システムでは、スペクトラム(分布)の両端にあると思われた米中が、所得格差で同じ傾向を見せたのは意外だった。
 

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地球を読む1面1ー1

 17紫の花 - コピー.

地球を読む1面1 - 2

  15 蝶々 - コピー

 地球を読む1面1 - 3

  14タンポポ - コピー

 地球を読む2面の1

 ・・・   ・・・   ・・・   ・・・   ・・・

 渡辺博史氏

 讀賣新聞題字

                 
        

女性セブン2021年3月18日号 野菜その名は「ほうれんそう」「こまつな」「きくな」「ちんげんさい」

2021/ 03/ 09
                 

  目に留まるこのご時世に野菜の名上手に料理女性にお鉢


 後姿のキジバト


「ほうれんそう」は「報告・連絡・相談」。
「こまつな」は「困ったら・使える人に(仕事ができる人に)・投げる(任せる)」。
「きくな」は「気にせず休む・苦しいときは言う・なるべく無理しない」。
「ちんげんさい」は「沈黙する・限界まで言わない・最後までがまん」。



五輪組織委会長騒動 「女性にお鉢が回ってくるのは手詰まりのとき」 
   3/4(木) 19:05配信   「オバ記者」こと野原広子

抜粋 〈 ・・・ 昔はよく「会社や組織では“ほうれんそう(報告・連絡・相談)”が大切だ」なんていわれていたけど、イマドキは「こまつな」や「きくな」なんだってね。「こまつな」は「困ったら・使える人に(仕事ができる人に)・投げる(任せる)」。「きくな」は「気にせず休む・苦しいときは言う・なるべく無理しない」。  そうそう、これよ。しょせん、おじいさんたちが尻に帆をかけて逃げ出した大役だよ。上手にアピールしながら、気張らず、やりたいようにやればいいんだって。  橋本さんはプライベートでも大変だと思う。9才上の夫と6人の子供がいる。これ、大変なことでね。現職国会議員で妊娠を発表したのは2人目で50年ぶりだったというけれど、考えてもみてよ。人から絶えず見られている国会議員でありながら、家に帰れば、先妻の子を交えた大家族の喧騒──そんな毎日、並の神経じゃもちませんって。    でも、これって大組織の長、っていうか、ビッグマザーの素質充分ってことじゃない?  たしかにね、チュー写真はいただけないけど、一連の騒動を見ているうちに、気がついたら私はすっかり聖子ファンになっていたの。  そうそう、「こまつな」や「きくな」のほかに、「ちんげんさい」っていうのもあるんだってね。「沈黙する・限界まで言わない・最後までがまん」──そんなの、絶対にダメ。 ・・・ 〉



                 
        

聖林寺から観音寺へ 白洲正子 日本の名随筆別巻㉑ 巡礼 早坂暁編

2021/ 02/ 18
                 

 
 聖林寺幾度の旅か巡礼地白洲正子のエッセーに酔う


 ~~~ 白洲次郎役を伊勢谷友介〈少年時高良健吾.晩年時神山繁〉が演じ、樺山正子〈結婚後白洲正子〉役は中谷美紀が演じた『ドラマスペシャル・白洲次郎』は、2009年2月28日から全3回にわたって、NHKで放送されました。

 ちょっと寄り道をしますが、正子の実家樺山家は伯爵の家柄であり、祖父は陸軍大将です。母方の川村家もまた伯爵の家柄であり、祖父もまた陸軍大将でした。ちなみに爵位ですが、上位から並べてみますと、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵となります。読み習わし方としては、「公侯伯子男(こうこうはくしだん」」として小さいころに教わった記憶があります。多額のお金を国に寄付すると一代男爵となれることなど日本ならではの制度も思い出しました。なお、華族令は昭和22年(1947年)3月に廃止されています。
 また、正子は、大正から昭和にかけての4年間、アメリカの女子校に学び卒業しています。当時として女子の海外留学はとても珍しかったといえましょう。
ということはさておきまして、

時折画面の中に出てくる二人の英語での会話が、何か今でも印象深く記憶に残っています。〈どんなことを話していたかなどは何一つ覚えていませんけれど〉
 このテレビドラマは、平成21年度(第64回)文化庁芸術祭賞優秀賞(テレビ部門・ドラマの部。第1回「カントリージェントルマンへの道」に対し)、および2009年度(第14回)アジア・テレビジョン・アワード審査員奨励賞(シリーズドラマ部門)を受賞しています。 ~~~


  2十一面観音 -



 聖林寺から観音寺へ  白洲正子

 はじめて聖林寺をおとずれたのは、昭和七、八年のことである。当時は今とちがって、便利な参考書も案内書もなく、和辻哲郎氏の『古寺巡礼』が唯一の頼りであった。写真は飛鳥園の先代、小川晴暘氏が担当していた。特に聖林寺の十一面観音は美しく、「流るる如く自由な、さうして均整を失はない、快いリズムを投げかけゐる」という和辻氏の描写を、そのまま絵にしたような作品であった。聖林寺へ行ったのは、それを見て間もなくの事だったと記憶している。


 桜井も今とはちがって、みすぼらしい寒村の駅であった。聖林寺と尋ねても、誰も知っている人はいない、下(しも)という字(あざ)にあると聞いたので、寺川にそって歩いていくと、程なくその集落へ出た。村の人に聞くと、観音様は知らないが、お地蔵さんなら、あの山の上にあるという。お寺へ行けばわかると思い、爪先上りに登って行くと、ささやかなお堂につき当った。門前には美しいしだれ桜が、今を盛りと咲き乱れていた。

 案内を乞うと、年とったお坊さまが出て来られた。十一面観音を拝観したいというと、黙って本堂の方へ連れて行って下さる。本堂といっても、ふつうの座敷を直したもので、暗闇の中に、大きな白いお地蔵さんが座っていた。「これが本尊だから、お参り下さい」といわれ、拝んでいる間に、お坊さまは雨戸をあけて下さった。さしこんで来るほのかな光の中にこんな美しいものがあるのかと、私はただ茫然とみとれていた。

 観音さまは本尊の隣の部屋に、お厨子ともいえない程の、粗末な板がこいの中に入っておられた。その為に膝から下は見えず、和辻さんが賛美した天衣の裾もかくれている。が、そんなことは少しの妨げにもならなかった。私が呪縛されたように動かずにいるのを見て、住職は後の縁側の戸を開けて下さった。

 くずれかけた縁へ出てみると、後側からは全身が拝めた。私はおそるおそる天衣の裾にさわってみて、天平時代の乾漆の触感を確かめてみた。それは私の手に暖かく伝わり、心の底まで深く浸透した。とても鑑賞するなどという余裕はなく、手さぐりで触れてみただけである。それが十一面観音とのはじめての出会いであった。

      *

 住職はお茶を入れて下さり、しばらくそこでお話をした。

 聖林寺は今でこそ小さな山寺にすぎないが、その創立は和同五年(712)、藤原鎌足の息、定慧が、父の菩提を弔う為に建てたと伝えている。その後、談山神社の別院として栄えたが、度々の火災に会い、衰微していたのを、鎌倉時代に、三輪の大御輪寺の長老、慶円上人の助力によって再興した。現在のお堂は、徳川時代の建築というから、その後もしばしば災害に見舞われたのであろう。土地の人々が「お地蔵さん」としか知らなかったのは、貧しい民衆によって、辛うじて支えられて来たことがわかる。

 十一面観音は、三輪神社の神宮寺に祀ってあったのを、明治の廃仏毀釈の際に、ここへ移されたと聞いている。住職は当時のことをよく覚えていられた。発見したのはフェノロサで、天平時代の名作が、神宮寺の縁の下に捨ててあったのを見て、先代の住職と相談の上、聖林寺へ移すことに決めたという。その時住職は未だ小僧さんで(たしか12歳と聞いた)、荷車の後押しをし、聖林寺の坂道を登るのに骨が折れたといわれた。三輪には、観音様といっしょに、地蔵菩薩も祀ってあり、一旦はここに移したが、聖林寺には本尊がいられるので、そちらの方は先代住職の兄弟弟子がひきうけ、法隆寺へ移転した。今でも法隆寺の金堂には、本尊の裏側(北側)に、この地蔵様が祀ってあるが、檜の一木造りの堂々とした彫刻である。錫杖を持たない所から、神像かも知れないといわれるが、受ける感じはやはり地蔵以外のものではない。

 法隆寺の金堂といえば、戦前に見た壁画の中にも、十一面観音があった。今はもう焼けて、見ることは出来ないが、その当時でもあまり状態はよくなかった。勿論、彫刻と絵画では、比較することは困難だが、聖林寺の観音とよく似ていたような印象がある。そういう縁故もあって、地蔵菩薩は金堂の中に安置されたのではなかろうか。

   十一面観音菩薩立像33

 住職は、フェノロサのこともはっきり覚えていられた。穏やかなおじいさんで、観音様を移した時には、終始荷車のわきへつきそっていたという。光背の断片も一つ一つ新聞紙にくるんで運んだ。その光背は大きな箱の中に、元の形がわかるように並べてあったが、所々に金箔が残る宝相華や唐草文はみごとなもので、十一面観音がこの光背を背に立っていた時は、どんなに美しかったであろうと想像された。

 おいとまする時住職は、このようなことをいわれた。――若いうちによく見ておきなさい、「子たち」が出来ると、中々こんな所へは来られないから、と。私は既に結婚しており、子供もいたが、羞しいので黙っていた。その後二、三べん伺ったと思うが、そのうち戦争になり、住職もお亡くなりになった。考えてみれば、ずいぶん古い話だが、桜井駅のごたごたした町並みも、田圃づたいの小道も、満開の桜も、昨日のことのように思い出される。

 観音さまからうけた感動を静めようとして、私はしばらく桜の木の下にたたずんでいた。ちょうど日が落ちる時刻で、紅色の桜が一段と濃く染り、大和の青垣山が、夢のように霞んでいる。その中に、ひときわ秀れて立つ三輪の神奈備(かんなび)は、今見たばかりの十一面観音の姿に似ているように思われた。いつしか私の心の中で、観音と三輪山としだれ桜は重なり合い、一つの「風景」として育って行った。そうして四十年の年月が流れた。

     *

 戦後に行った時は、葉桜の頃で、桜が健在なことをしって、私は安心した。その時か、その次の時か、山の上の方に、新しい観音堂が建った。下からも光ってみえるのが、あたりの景色とそぐわなかったが、アルミニュームで出来ているとかで、雷が落ちないという話を、新しい住職から伺った。

 11お堂.

 新築のお堂の中で眺める十一面観音は、いくらか以前とは違って見えた。明るい自然光のもとで、全身が拝める利点はあったが、裸にされて、面映ゆそうな感じがする。前には気がつかなかった落剝が目立つのも、あながち年月のせいではないだろう。いくら鑑賞が先に立つ現代でも、信仰の対象として造られたものは、やはりそういう環境において見るべきである。またそうでなくては、正しい意味の鑑賞も出来ないのではないか。

 だが、そういう利点だか欠点だかを超越して、なおこの十一面観音は気高く、美しい。後世になると、歴然とした動きが現れて来るが、ここには未だそうしたものはなく、かすかに動き出そうとする気配がうかがわれる。その気配が何ともいえず新鮮である。蕾の蓮華で象徴されるように、観世音菩薩は、衆生済度のため就業中の身で、完全に仏の境地には到達していない。いわば人間と仏との中間にいる。そういう意味では過渡期の存在ともいえるが、この仏像が生れた天平時代は、歴史的にいっても律令国家が一応完成し、次の世代へ遷ろうとする転換期に当っていた。「咲く花の匂うが如き」時代は、また咲く花が散りかかろうとする危機もはらんでいた。そういう時期に出現したのが十一面観音である。だから単に新鮮というのは当らない。そこには爛熟と頽廃のきざしも現れており、泥中から咲き出た蓮のように、それらの色に染みながら、なおかつ初々しいのがこの観音の魅力ともいえる。一つには、乾漆という材料のためもあると思うが、どこか脆いようでいて、シンは強く緊張している。女躰でありながら、精神はあくまでも男である。その両面をかねているのが、この観音ばかりでなく、一般に十一面観音の特徴といえるかも知れない。

 もともと十一面観音には、そうなるべき素質と過去があった。 ~以下、後継~