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遊民シリーズ 江戸屋虎五郎 三河生まれの侠客…

2019/ 10/ 17
                 
 七十名墓石に刻む親分名

 3-2江戸屋虎五郎墓石台


 モデルがいたともいなかったとも言われている、信州沓掛宿の博徒、沓掛時次郎(くつかけときじろう)、上州の駒形茂兵衛(こまがたもへえ)、安中草三郎(あんなかそうざぶろう)。〈※註:他に呼び名、いろいろあり。〉
 新国劇、歌舞伎、落語、講談、浪曲、そして映画、テレビ(「新国劇」、「映画」の放送)と、ひところは随分と持て囃された時代があったのです。


 江戸屋虎五郎は江戸時代実在の上州侠客の一人でしたが、今の時代に入りますと知る人ぞ知る人物となっています。(※註:虎五郎の生まれは三河国と言われていて、上州生まれではなかったようです。)

 偶々境内で、大道寺の奥様と思われる方とご挨拶を交わすことができ、墓地の中の江戸屋虎五郎の墓前まで案内していただきました。
 新しいお墓は侠客の皆さんが建てたこと、このところ関係する方のどなたもお見えにならないことなどを、説明してくださいました。
 ご親切、大変ありがとうございました。


 3-3江戸屋虎五郎の新しい墓


 戒名は「宝松院梅誉樹林居士」。三人連記の中央に刻まれています。文化11年(1814年)1月5日に生まれ、明治28年(1895年)10月22日、83歳で没。紋は下がり藤。国定忠治よりも4歳遅く生まれましたが、忠治よりも45年も長生きした人物です。

 3-1江戸屋虎五郎の墓正面

 
 上州在の侠客の中にあってもことのほか人望が厚く、県内のみならず栃木、埼玉などの任侠世界に生きる親分などなど、七十名あまりの名(「田嶋要吉」、「村山玉五郎」、「吉田藤太郎」、「関口力太郎」などの親分の名前が見てとれます。)が墓石台にビッシリ刻み込まれていることでも、往時の様子を窺い知ることができます。
 国定忠治と違って、後世に喧伝されることが少なかったのは、虎五郎の世間を渡る生き様がドラスティックなものではなかったが故ということがいえるのかも知れません。
が、時には罰を犯した罪で子分と一緒に伊豆へ島流しされたこともあったと、語り伝えられています。



 3-6大道寺門

大道寺
群馬県館林市本町2-4-11
Tel 0276-72-1988
(境内裏手道路から駐車場に入れます。)

 3-5大道寺
                 
        

遊民シリーズ 大笹街道 上州から信州へ 国定忠治

2019/ 10/ 16
                 
 逃れ行く大笹の道忠治跡


 1-1峰の原高原
  (「峰の原高原を眼下に眺む」)


 峰の原高原で、忠治の逃避行を標す石塔を見たのは、いつだったでしょうか。
 当時の記憶を呼び覚まそうとはするのですが、高原のどのあたりだったか覚束ないのが口惜しく思います。
 菅平、峰の原を通る大笹街道は一気に須坂まで下って行きますが、その下る手前の高原の道筋に国定忠治の足跡を標す石柱がありました。
 石柱の高さはとても小さくて、せいぜい60~70cmほどだったかと思います。
 道筋には、江戸時代大笹街道で遭難した人を供養する小さな石仏が幾つか点在していました。


 1-2菅平高原
  (「菅平高原」)



 先日の台風19号の影響を受けて、菅平から須坂(仙仁温泉)までの間の国道406号線は交通止めとなっています。
 「現状復旧のめどが立っていません。」と、2019年10月12日の長野県須坂建設事務所の「通行止め状況」に記載されていました。


 1-3菅平高原
  (「菅平高原」)


 須坂市上町の寿泉院の山門手前右側にある地蔵は国定忠治の像といわれています。
 嘉永3年(1850年)に造られていますが、元々は野沢温泉にあり、中風除け忠治地蔵として親しまれていたそうです。須坂市の公式サイトによると、昭和25年(1950年)、訳あって寿泉院に安置された。・・・国定忠治は、大笹街道の抜け道を通ったことでも知られている。と、彼の足跡を記しています。


〈※注:嘉永3年12月21日、国定忠治は上州吾妻郡大戸で処刑されましたが、その三日後に「忠治地蔵」が建てられています。〉