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ひと口メモ 鉄面皮 太宰治  厚顔無恥 面の皮の千枚張り

2021/ 02/ 07
                 

  鉄面皮厚顔無恥に上乗せしお面の皮が千枚張りと


 護法神像奈良栃尾観音堂1
  円空仏:護法神像奈良栃尾観音堂


 「鉄面皮」は、中国の故事に出典を求めることができますが、「厚顔無恥」、「面の皮が〈又は(面の顔の)〉千枚張り」の語源の由来はどこからきているのでしょうか。

何の脈絡もなく、太宰治のことが思い浮かんできました。

 護法神像奈良栃尾観音堂2
  円空仏:護法神像奈良栃尾観音堂


鉄面皮
 ~『連環画 中国の故事名言』〈昭和58年4月10日初版第1刷発行〉~
〔意味〕 厚かましいこと。恥知らず。
〔解説〕 進士の王光遠は、有力者に近づこうとしてせっせと挨拶回りをし、鞭で門前払いを食わされてもあきらめようとしなかった。そこで当時の人々が、「光遠(こうえん)の面(つら)の皮は十枚重ねの鉄の甲(かぶと)のようだ」と言った故事からできたことば。
〔出典〕 時人云ウ、「光遠、顔厚キコト十重(じゅうちょう)ノ鉄甲(てつこう)ノ如シ」ト。〈『北夢瑣言(ほくぼうさげん)』〉



厚顔・・・
「厚顔無恥」で使われている「厚顔」は、中国に語源を持つ単語です。中国最古の詩集である『詩経』にその由来があり、「巧みな言葉を用いて外面よくふるまい、内面の醜さを隠す」という一節で「厚顔」という表現が使われたのがはじまりとされています。その後、日本でも内面の醜さ・内面の恥という意味で定着したそうです。




鉄面皮 太宰治

 安心し給(たま)え、君の事を書くのではない。このごろ、と言っても去年の秋から「右大臣実朝」という三百枚くらいの見当の小説に取りかかって、ことしの二月の末に、やっと百五十一枚というところに漕(こ)ぎつけて、疲れて、二、三日、自身に休暇を与えて、そうしてことしの正月に舟橋氏と約束した短篇小説の事などぼんやり考えていたのだけれども、私の生れつきの性質の中には愚直なものもあるらしく、胸の思いが、どうしても「右大臣実朝」から離れることが出来ず、きれいに気分を転換させて別の事を書くなんて鮮(あざ)やかな芸当はおぼつかなく、あれこれ考え迷った末に、やはりこのたびは「右大臣実朝」の事でも書くより他(ほか)に仕方がない、いや、実朝というその人に就(つ)いては、れいの三百枚くらいの見当で書くつもりなので、いまは、その三百枚くらいの見当の「右大臣実朝」という私の未完の小説を中心にして三十枚くらい何か書かせてもらおう、それより他に仕方がなかろうという事になったわけで、さて、それに就いてまたもあれこれ考えてみたら、どうもそれは、自作に対する思わせぶりな宣伝のようなものになりはしないか、これは誰しも私と同意見に違いないが、いったいあの自作に対してごたごたと手前味噌(みそ)を並べるのは、ろくでもない自分の容貌をへんに自慢してもっともらしく説明して聞かせているような薄気味の悪い狂態にも似ているので、私は、自分の本の「はしがき」にも、または「あとがき」にも、いくら本屋の人からそう書けと命令されても、さすがに自慢は書けず、もともと自分の小説の幼稚にして不手際なのには自分でも呆(あき)れているのであるから、いよいよ宣伝などは、思いも寄らぬ事の筈(はず)であるが、けれども、いま自分の書きかけの小説「右大臣実朝」をめぐって何か話をすすめるという事になったならば、作者の真意はどうあろうと、結果に於(お)いては、汚い手前味噌になるのではあるまいか、映画であったら、まず予告篇とでもいったところか、見え透いていますよ、いかに伏目(ふしめ)になって謙譲の美徳とやらを装(よそお)って見せても、田舎(いなか)っぺいの図々(ずうずう)しさ、何を言い出すのかと思ったら、創作の苦心談だってさ、苦心談、たまらねえや、あいつこのごろ、まじめになったんだってね、金でもたまったんじゃないか、勉強いたしているそうだ、酒はつまらぬと言ったってね、口髭(くちひげ)をはやしたという話を聞いたが、嘘(うそ)かい、とにかく苦心談とは、恐れいったよ、謹聴々々、などと腹の虫が一時に騒ぎ出して来る仕末なので、作者は困惑して、この作品に題して曰(いわ)く「鉄面皮」。どうせ私は、つらの皮が厚いよ。
 鉄面皮、と原稿用紙に大きく書いたら、多少、気持も落ちついた。子供の頃、私は怪談が好きで、おそろしさの余りめそめそ泣き出してもそれでもその怪談の本を手放さずに読みつづけて、ついには玩具(おもちゃ)箱から赤鬼のお面を取り出してそれをかぶって読みつづけた事があったけれど、あの時の気持と実に似ている。あまりの恐怖に、奇妙な倒錯が起ったのである。鉄面皮。このお面をかぶったら大丈夫、もう、こわいものはない。鉄面皮。つくづくと此(こ)の三字を見つめていると、とてもこれは堂々たる磨(みが)きに磨いて黒光りを発している鉄仮面のように思われて来た。鋼鉄の感じである。男性的だ。ひょっとしたら、鉄面皮というのは、男の美徳なのかも知れない。とにかく、この文字には、いやらしい感じがない。この頑丈の鉄仮面をかぶり、ふくみ声で所謂(いわゆる)創作の苦心談をはじめたならば、案外荘重な響きも出て来て、そんなに嘲笑されずにすむかも知れぬ、などと小心翼々(よくよく)、臆病無類の愚作者は、ひとり淋(さび)しくうなずいた。
 昭和十一年十月十三日から同年十一月十二日まで、一箇月間、私は暗い病室で毎日泣いて暮していた。その一箇月間の日記を、私は小説として或る文芸雑誌に発表した。わがままな形式の作品だったので、編輯者(へんしゅうしゃ)に非常な迷惑をおかけした様子である。HUMAN LOSTという作品だ。すべて、いまは不吉な敵国の言葉になったが、パラダイス・ロストをもじって、まあ「人間失格」とでもいうような気持でそんな題をつけたのであって、その日記形式の小説の十一月一日のところに左のような文章がある。
実朝をわすれず。

伊豆の海の白く立ち立つ浪がしら。
塩の花ちる。
うごくすすき。

蜜柑(みかん)畑。

 くるしい時には、かならず実朝を思い出す様子であった。いのちあらば、あの実朝を書いてみたいと思っていた。私は生きのびて、ことし三十五になった。そろそろいい時分だ、なんて書くと甚(はなは)だ気障(きざ)な空漠たる美辞麗句みたいになってつまらないが、実朝を書きたいというのは、たしかに私の少年の頃からの念願であったようで、その日頃の願いが、いまどうやら叶(かな)いそうになって来たのだから、私もなかなか仕合せな男だ。天神様や観音様にお礼を申し上げたいところだが、あのお光(みつ)の場合は、ぬかよろこびであったのだし、あんな事もあるのだから、やっと百五十一枚を書き上げたくらいで、気もいそいその馬鹿騒ぎは慎しまなければならぬ。大事なのは、これからだ。この短篇小説を書き上げると、またすぐ重い鞄(かばん)をさげて旅行に出て、あの仕事をつづけるのだ。なんて、やっぱり、小学生が遠足に出かける時みたいな、はしゃいだ調子の文章になってしまったが、仕事が楽しいという時期は一生に、そう度々(たびたび)あるわけでもないらしいから、こんな浮わついた文章も、記念として、消さずにそのまま残して置こう。
 右大臣実朝。
承元(じょうげん)二年戊辰(つちのえたつ)。二月小。三日、癸卯(みずのとう)、晴、鶴岳宮(つるがおかぐう)の御神楽(みかぐら)例の如し、将軍家御疱瘡(ほうそう)に依(よ)りて御出(ぎょしゅつ)無し、前大膳大夫(さきのだいぜんのだいぶ)広元朝臣(ひろもとあそん)御使として神拝す、又御台所(みだいどころ)御参宮。十日、庚戌(かのえいぬ)、将軍家御疱瘡、頗(すこぶ)る心神を悩ましめ給ふ、之(これ)に依つて近国の御家人等(ごけにんら)群参(ぐんさん)す。廿九日、己巳(つちのとみ)、雨降る、将軍家御平癒(へいゆ)の間、御沐浴(もくよく)有り。(吾妻鏡(あずまかがみ)。以下同断)
 おたずねの鎌倉右大臣さまに就いて、それでは私の見たところ聞いたところ、つとめて虚飾を避けてありのまま、あなたにお知らせ申し上げます。
 というのが開巻第一頁だ。どうも、自分の文章を自分で引用するというのは、グロテスクなもので、また、その自分の文章たるや、こうして書き写してみると、いかにも青臭く衒気(げんき)満々のもののような気がして来て、全く、たまらないのであるが、そこがれいの鉄面皮だ、洒唖々々然(しゃあしゃあぜん)と書きすすめる。ひょっとしたら、この鉄面皮、ほんものかも知れない。もともと芸術家ってのは厚顔無恥の気障(きざ)ったらしいもので、漱石がいいとしをして口髭(くちひげ)をひねりながら、我輩は猫である、名前はまだ無い、なんて真顔で書いているのだから、他は推して知るべしだ。所詮(しょせん)、まともではない。賢者は、この道を避けて通る。ついでながら徒然草(つれづれぐさ)に、馬鹿の真似をする奴は馬鹿である。気違いの真似だと言って電柱によじのぼったりする奴は気違いである、聖人賢者の真似をして、したり顔に腕組みなんかしている奴は、やっぱり本当の聖人賢者である、なんて、いやな事が書かれてあったが、浮気の真似をする奴は、やっぱり浮気、奇妙に学者ぶる奴は、やっぱり本当の学者、酒乱の真似をする奴は、まさしく本物の酒乱、芸術家ぶる奴は、本当の芸術家、大石良雄の酔狂振りも、あれは本物、また、笑いながら厳粛の事を語れと教える哲人ニイチェ氏も、笑いながら、とはなんだ、そんな冗談めかしたりして物を言う奴は、やっぱり、ふざけた奴なんだ、という事になって、鉄面皮を装う愚作者は、なんの事はない、そのとおり鉄面皮の愚作者なのだ。まことに、身も蓋(ふた)も無い興覚(きょうざ)めた話で、まるで赤はだかにされたような気持であるが、けれども、これは、あなどるべからざる説である。この説に就いては、なお長年月をかけて考えてみたいと思っているが、小説家というものは恥知らずの愚者だという事だけは、考えるまでもなく、まず決定的なものらしい。昨年の暮に故郷の老母が死んだので、私は十年振りに帰郷して、その時、故郷の長兄に、死ぬまで駄目だと思え、と大声叱咤(しった)されて、一つ、ものを覚えた次第であるが、
「兄さん、」と私はいやになれなれしく、「僕はいまは、まるで、てんで駄目だけれども、でも、もう五年、いや十年かな、十年くらい経(た)ったら何か一つ兄さんに、うむと首肯(しゅこう)させるくらいのものが書けるような気がするんだけど。」
 兄は眼を丸くして、
「お前は、よその人にもそんなばかな事を言っているのか。よしてくれよ。いい恥さらしだ。一生お前は駄目なんだ。どうしたって駄目なんだ。五年? 十年? 俺にうむと言わせたいなんて、やめろ、やめろ、お前はまあ、なんという馬鹿な事を考えているんだ。死ぬまで駄目さ。きまっているんだ。よく覚えて置けよ。」
「だって、」何が、だってだ、そんなに強く叱咤されても、一向に感じないみたいにニタニタと醜怪に笑って、さながら、蹴(け)られた足にまたも縋(すが)りつく婦女子の如く、「それでは希望が無くなりますもの。」男だか女だか、わかりやしない。「いったい私は、どうしたらいいのかなあ。」いつか水上(みなかみ)温泉で田舎まわりの宝船団とかいう一座の芝居を見たことがあるけれど、その時、額のあくまでも狭い色男が、舞台の端にうなだれて立って、いったい私は、どうしたらいいのかなあ、と言った。それは「血染(ちぞめ)の名月」というひどく無理な題目の芝居であった。
 兄も呆れて、うんざりして来たらしく、
「それは、何も書かない事です。なんにも書くな。以上、終り。」と言って座を立ってしまった。
 けれどもこの時の兄の叱咤は、非常に役に立った。眼界が、ひらけた。何百年、何千年経っても不滅の名を歴史に残しているほどの人物は、私たちには容易に推量できないくらいに、けたはずれの神品に違いない。羽左衛門の義経を見てやさしい色白の義経を胸に画いてみたり、阪東妻三郎が扮(ふん)するところの織田信長を見て、その胴間声(どうまごえ)に圧倒され、まさに信長とはかくの如きものかと、まさか、でも、それはあり得る事かも知れない。歴史小説というものが、この頃おそろしく流行して来たようだが、こころみにその二、三の内容をちらと拝見したら、驚くべし、れいの羽左、阪妻が、ここを先途(せんど)と活躍していた。羽左、阪妻の活躍は、見た眼にも綺麗(きれい)で、まあ新講談と思えば、講談の奇想天外にはまた捨てがたいところもあるのだから、楽しく読めることもあるけれど、あの、深刻そうな、人間味を持たせるとかいって、楠木正成(くすのきまさしげ)が、むやみ矢鱈(やたら)に、淋(さび)しい、と言ったり、御前会議が、まるでもう同人雑誌の合評会の如く、ただ、わあわあ騒いで怨(うら)んだり憎んだり、もっぱら作者自身のけちな日常生活からのみ推して加藤清正や小西行長を書くのだろうから、実に心細い英雄豪傑ばかりで、加藤君も小西君も、運動選手の如くはしゃいで、そうして夜になると淋しいと言ったりするような歴史小説は、それが滑稽(こっけい)小説、あるいは諷刺(ふうし)小説のつもりだったら、また違った面白味もあるのだが、当の作者は異様に気張って、深刻のつもりでいるのだから、読むほうでは、すっかりまごついてしまうのである。どうもあれは、趣向としても、わるい趣向だ。歴史の大人物と作者との差を千里万里も引き離さなければいけないのではなかろうか、と私はかねがね思っていたところに、兄の叱咤だ。千里万里もまだ足りなかった。白虎とてんとう虫。いや、竜とぼうふら。くらべものにも何もなりやしないのだ。こんど徳川家康と一つ取っ組んでみようと思う、なんて大それた事を言っていた大衆作家もあったようだが、何を言っているのだ、どだい取組みにも何もなりやしない、身のほどを知れ、身のほどを、死ぬまで駄目さ、きまっているんだ、よく覚えて置け、と兄の口真似をして、ちっとも実体の無い大衆作家なんかを持出してそいつを叱りつけて、ひそかに溜飲(りゅういん)をさげているんだから私という三十五歳の男は、いよいよ日本一の大馬鹿ときまった。
(前略)あのお方の御環境から推測して、厭世(えんせい)だの自暴自棄だの或(ある)いは深い諦観(ていかん)だのとしたり顔して囁(ささや)いていたひともありましたが、私の眼には、あのお方はいつもゆったりしていて、のんきそうに見えました。大声挙げてお笑いになる事もございました。その環境から推して、さぞお苦しいだろうと同情しても、その御当人は案外あかるい気持で生きているのを見て驚く事は此(こ)の世にままある例だと思います。だいいちあのお方の御日常だって、私たちがお傍(そば)から見て決してそんな暗い、うっとうしいものではございませんでした。私が御所へあがったのは私の十二歳のお正月で、問註所(もんちゅうじょ)の入道さまの名越(なごえ)のお家が焼けたのは正月の十六日、私はその三日あとに父に連れられ御所へあがって将軍家のお傍の御用を勤めるようになったのですが、あの時の火事で入道さまが将軍家よりおあずかりの貴(とうと)い御文籍も何もかもすっかり灰にしてしまったとかで、御所へ参りましても、まるでもう呆(ほう)けたようになって、ただ、だらだらと涙を流すばかりで、私はその様を見て、笑いを制する事が出来ず、ついクスクスと笑ってしまって、はっと気を取り直して御奥の将軍家のお顔を伺い見ましたら、あのお方も、私のほうをちらと御らんになってニッコリお笑いになりました。たいせつの御文籍をたくさん焼かれても、なんのくったくも無げに、私と一緒に入道さまの御愁歎(ごしゅうたん)をむしろ興がっておいでのその御様子が、私には神さまみたいに尊く有難く、ああもうこのお方のお傍から死んでも離れまいと思いました。どうしたって私たちとは天地の違いがございます。全然、別種のお生れつきなのです。わが貧しい凡俗の胸を尺度にして、あのお方の事をあれこれ、推し測ってみたりするのは、とんでもない間違いのもとでございます。人間はみな同じものだなんて、なんという浅はかなひとりよがりの考え方か、本当に腹が立ちます。それは、あのお方が十七歳になられたばかりの頃の事だったのですが、おからだも充分に大きく、少し、伏目になってゆったりとお坐りになって居られるお姿は、御所のどんな御老人よりも分別ありげに、おとなびて、たのもしく見えました。
 老イヌレバ年ノ暮ユクタビゴトニ我身ヒトツト思ホユル哉(かな)
 その頃もう、こんな和歌さえおつくりになって居られたくらいで、お生れつきとは言え、私たちには、ただ不思議と申し上げるより他に術(すべ)はありませんでした。(後略)
 あまり抜書きすると、出版元から叱られるかも知れない。この作品は三百枚くらいで完成する筈であるが、雑誌に分載するような事はせず、いきなり単行本として或る出版社から発売される事になっているので、すでに少からぬ金額の前借もしてしまっているのであるから、この原稿は、もはや私のものではないのだ。けれども、三百枚の中から五、六枚くらい抜書きしても、そんなに重い罪にはなるまいと考えられる。他の雑誌に分載されるのだったら、こんな抜書きは許すべからざる犯罪にきまっているが、三百枚いちどに単行本として出版するんだから、まあ、五、六枚のところは、笑許、なんて言葉はない、御寛恕(ごかんじょ)を乞(こ)う次第だ。どうせ映画の予告篇、結果に於いては、宣伝みたいな事になってしまうのだから、出版元も大目に見てくれるにきまっていると思われる、などとれいの小心翼々、おっかなびっくりのあさましい自己弁解をやらかして、さて、とまた鉄仮面をかぶり、ただいまの抜書きは二枚半、ついでにもう二枚ばかり抜書きさせていただく。
(前略)私は御奉公にあがったばかりの、しかもわずか十二歳の子供でございましたので、ただもうおそろしく(中略)その時の事をただいま少し申し上げましょう。二月のはじめに御発熱があり、六日の夜から重態にならせられ、十日にはほとんど御危篤(きとく)と拝せられましたが、その頃が峠(とうげ)で、それからは謂(い)わば薄紙をはがすようにだんだんと御悩も軽くなってまいりました。忘れもしませぬ、二十三日の午剋(うまのこく)、尼御台(あまみだい)さまは御台所さまをお連れになって御寝所へお見舞いにおいでになりました。私もその時、御寝所の片隅に小さく控えて居りましたが、尼御台さまは将軍家のお枕元にずっといざり寄られて、つくづくとあのお方のお顔を見つめて、もとのお顔を、もいちど見たいの、とまるでお天気の事でも言うような平然たる御口調ではっきりおっしゃいましたので、私は子供心にも、ドキンとしていたたまらない気持が致しました。御台所さまはそれを聞いて、え堪(た)えず、泣き伏しておしまいになりましたが、尼御台さまは、なおも将軍家のお顔から眼をそらさず静かな御口調で、ご存じかの、とあのお方にお尋ねなさるのでした。あのお方のお顔には疱瘡の跡が残って、ひどい面変りがしていたのです。お傍の人たちは、みんなその事には気附かぬ振りをしていたのですが、尼御台さまは、そのとき平気で言い出しましたので、私たちは色を失い生きた心地も無かったのでございます。その時あのお方は、幽(かす)かにうなずき、それから白いお歯をちらと覗(のぞ)かせて笑いながら申されました。
 スグ馴(な)レルモノデス
 このお言葉の有難さ。やっぱりあのお方は、まるで、ずば抜けて違って居られる。それから三十年、私もすでに四十の声を聞くようになりましたが、どうしてどうして、こんな澄んだ御心境は、三十になっても四十になっても、いやいやこれからさき何十年かかったって到底、得られそうもありませぬ。(後略)
 べつに、いいところだから抜書きしたというわけではない。だいたいこんな調子で書いているのだという事を、具体的にお知らせしたかったのである。実朝の近習(きんじゅ)が、実朝の死と共に出家して山奥に隠れ住んでいるのを訪ねて行って、いろいろと実朝に就いての思い出話を聞くという趣向だ。史実はおもに吾妻鏡に拠(よ)った。でたらめばかり書いているんじゃないかと思われてもいけないから、吾妻鏡の本文を少し抜萃(ばっすい)しては作品の要所々々に挿入して置いた。物語は必ずしも吾妻鏡の本文のとおりではない。そんなとき両者を比較して多少の興を覚えるように案配(あんばい)したわけである、などと、これではまるで大道の薬売りの口上にまさる露骨な広告だ。もう、やめる。さすがの鉄仮面も熱くなって来た。他の話をしよう。なにせ、Dって野郎もたいしたものだよ。二三年前に逢った時には、足利時代と桃山時代と、どっちがさきか知らない様子で、なんだか、ひどく狼狽(ろうばい)して居ったが、実朝を、ねえ、これだから世の中はこわいと言うんだ、何がなんだか、わかったもんじゃない、実朝を書きたいというのは余の幼少の頃からのひそかな念願であった、と言ったってね、すさまじいじゃないか、いよう! だ、気が狂ってるんじゃないか、あいつが酒をやめて勉強しているなんて嘘だよ、「源の実朝さま」という子供の絵本を一冊買って来て、炬燵(こたつ)にもぐり込んで配給の焼酎(しょうちゅう)でも飲みながら、絵本の説明文に仔細(しさい)らしく赤鉛筆でしるしをつけたりなんかして、ああ、そのさまが見えるようだ。
 このごろ私は、誰にでも底知れぬほど軽蔑されて至当だと思っている。芸術家というものは、それくらいで結構なんだ。人間としての偉さなんて、私には微塵(みじん)も無い。偉い人間は、咄嗟(とっさ)にきっぱりと意志表示が出来て、決して負けず、しくじらぬものらしい。私はいつでも口ごもり、ひどく誤解されて、たいてい負けて、そうして深夜ひとり寝床の中で、ああ、あの時にはこう言いかえしてやればよかった、しまった、あの時、颯(さ)っと帰って来ればよかった、しまった、と後悔ほぞを噛(か)む思いに眠れず転輾(てんてん)している有様なのだから、偉いどころか、最劣敗者とでもいうようなところだ。先日も、ある年少の友人に向って言った事だが、君は君自身に、どこかいいところがあると思っているらしいが、後代にまで名が残っている人たちは、もう君くらいの年齢の頃には万巻の書を読んでいるんだ、その書だって猿飛佐助だの鼠小僧だの、または探偵小説、恋愛小説、そんなもんじゃない、その時代に於いていかなる学者も未だ読んでいないような書を万巻読んでいるんだ、その点だけで君はすでに失格だ、それから腕力だって、例外なしにずば抜けて強かった、しかも決してそれを誇示しない、君は剣道二段だそうで、酒を飲むたびに僕に腕角力(うでずもう)をいどむ癖があるけれども、あれは実にみっともない、あんな偉人なんて、あるものじゃない、名人達人というものは、たいてい非力の相をしているものだ、そうしてどこやら落ちついている、この点に於いても君は完全に失格だ、それから君は中学時代に不自然な行為をした事があるだろう、すでに失格、偉いやつはその生涯に於いて一度もそんな行為はしない、男子として、死以上の恥辱なのだ、それからまた、偉いやつは、やたらに淋しがったり泣いたりなんかしない、過剰な感傷がないのだ、平気で孤独に堪えている、君のようにお父さんからちょっと叱られたくらいでその孤独の苦しさを語り合いたいなんて、友人を訪問するような事はしない、女だって君よりは孤独に堪える力を持っている、女、三界に家なし、というじゃないか、自分がその家に生れても、いつかはお嫁に行かなければならぬのだから、父母の家も謂(い)わば寓居(ぐうきょ)だ、お嫁に行ったって、家風に合わなければ離縁される事もあるのだし、離縁されたらこいつは悲惨だ、どこにも行くところがない、離縁されなくたって、夫が死んだら、どうなるか、子供があったら、まあその子供の家にお世話になるという事になるんだろうが、これだって自分の家ではない、寓居だ、そのように三界に家なしと言われる程の女が、別にその孤独を嘆ずるわけでもなし、あくせくと針仕事やお洗濯をして、夜になると、その他人の家で、すやすやと安眠しているじゃないか、たいした度胸だ、君は女にも劣るね、人類の最下等のものだ、君だって僕だって全く同等だが、とにかく自分が、偉いやつというものと、どれほど違うかという事を、いまのこの時代に、はっきり知って置かないといけないのではなかろうかと、なぜだか、そんな気がするのだがね、などとその自称天才詩人に笑いながら忠告を試みた事もある。このごろ私は、自分の駄目加減を事ある毎に知らされて、ただもう興覚めて生真面目(きまじめ)になるばかりだ。黙って虫のように勉強したいなどというてれくさい殊勝げの心も、すべてそこのところから発しているのだ。先日も、在郷軍人の分会査閲に、戦闘帽をかぶり、巻脚絆(まききゃはん)をつけて参加したが、私の動作は五百人の中でひとり目立ってぶざまらしく、折敷さえ満足に出来ず、分会長には叱られ、面白くなくなって来て、おれはこんな場所ではこのように、へまであるが、出るところへ出れば相当の男なんだ、という事を示そうとして、ぎゅっと口を引締めて眥(まなじり)を決し、分会長殿を睨(にら)んでやったが、一向にききめがなく、ただ、しょぼしょぼと憐憫(れんびん)を乞うみたいな眼つきをしたくらいの効果しかなかったようである。私は第二国民兵の、しかも丙の部類であるから、その時の査閲には出なくてもよかったらしいのであるが、班長にすすめられて参加したのだ。服装というものは不思議なもので、第二国民兵の服装をしていると、どんな人でも、ねっからの第二国民兵に見えて来るもので、職業、年齢、知識、財産などのにおいは全然、消えてしまって、お医者も職工さんも重役も床屋さんも、みんな同年配の同資格の第二国民兵に見えて来るものである。まずしい身なりをしていても、さすがに人品骨柄いやしからず、こいつただものでない、などというのは、あれは講談で、第二国民兵の服装をしているからには、まさしくそのとおり第二国民兵であって、そこが軍律の有難いところで、いやしくも上官に向って高ぶる心を起させない。私はその日は、完全に第二国民兵以外の何者でもなかった。しかも頗(すこぶ)る、操作拙劣の兵である。私ひとり参加した為に、私の小隊は大いに迷惑した様子であった。それほど私は、ぶざまだった。けれども、実に不慮の事件が突発した。査閲がすんで、査閲官の老大佐殿から、今日の諸君の成績は、まずまず良好であった。という御講評の言葉をいただき、
「最後に」と大佐殿は声を一段と高くして、「今日の査閲に、召集がなかったのに、みずからすすんで参加いたした感心の者があったという事を諸君にお知らせしたい。まことに美談というべきである。たのもしい心がけである。もちろん之(これ)は、ただちに上司にも報告するつもりである。ただいま、その者の名を呼びます。その者は、この五百人の会員全部に聞えるように、はっきりと、大きな声で返辞をしなさい。」
 まことに奇特な人もあるものだ、その人は、いったい、どんな環境の人だろう、などと考えているうちに、名前が私の名だ。「はあい。」のどに痰(たん)がからまっていたので、奇怪に嗄(しわが)れた返辞であった。五百人はおろか、十人に聞えたかどうか、とにかく意気のあがらぬ返事であった。何かの間違い、と思ったが、また考え直してみると、事実無根というわけでもない。私はからだが悪くて丙の部類なのだが、班の人数が少なかったので、御近所の班長さんにすすめられて参加する事になったのだ。枯木も山の賑(にぎ)わいというところだったのだが、それが激賞されるほどの善行であったとは全く思いもかけない事であった。私は、みんなを、あざむいているような気がして、浅間(あさま)しくてたまらなかった。査閲からの帰り路も、誰にも顔を合せられないような肩身のせまい心地で、表の路を避け、裏の田圃路(たんぼみち)を顔を伏せて急いで歩いた。その夜、配給の五合のお酒をみんな飲んでみたが、ひどく気分が重かった。
「今夜は、ひどく黙り込んでいらっしゃるのね。」
「勉強するよ、僕は。」落下傘(らっかさん)で降下して、草原にすとんと着く、しいんとしている。自分ひとり。さすがの勇士たちもこの時は淋しいそうだ。新聞の座談会で勇士のひとりがそう言っていた。そのような謂わば古井戸の底の孤独感を私もその夜、五合の酒を飲みながらしみじみ味った事である。操作きわめて拙劣の、小心翼々の三十五歳の老兵が、分会の模範としてほめられた事は、いかにも、なんとしても心苦しく、さすがの鉄面皮も、話ここに至っては、筆を投じて顔を覆わざるを得ないではないか。
(前略)そうして、この建暦(けんりゃく)元年には、ようやく十二歳になられ、その時の別当定暁僧都(じょうぎょうそうず)さまの御室に於いて落飾(らくしょく)なされて、その法名を公暁(くぎょう)と定められたのでございます。それは九月の十五日の事でございましたが御落飾がおすみになってから、尼御台さまに連れられて将軍家へ御挨拶に見えられ、私はその時はじめて此の禅師さまにお目にかかったというわけでございましたが、一口に申せば、たいへん愛嬌(あいきょう)のいいお方でございました。幼い頃から世の辛酸(しんさん)を嘗(な)めて来た人に特有の、磊落(らいらく)のように見えながらも、その笑顔には、どこか卑屈な気弱い影のある、あの、はにかむような笑顔でもって、お傍の私たちにまでいちいち叮嚀(ていねい)にお辞儀をお返しなさるのでした。無理に明るく無邪気に振舞おうと努めているようなところが、そのたった十二歳のお子の御態度の中にちらりと見えて、私は、おいたわしく思い、また暗い気持にもなりました。けれども流石(さすが)に源家の御直系たる優れたお血筋は争われず、おからだも大きくたくましく、お顔は、将軍家の重厚なお顔だちに較べると少し華奢(きゃしゃ)に過ぎてたよりない感じも致しましたが、やっぱり貴公子らしいなつかしい品位がございました。尼御台さまに甘えるように、ぴったり寄り添ってお坐りになり、そうして将軍家のお顔を仰ぎ見てただにこにこ笑って居られます。
 その時将軍家は、私の気のせいか少し御不快の様に見受けられました。しばらくは何もおっしゃらず、例の如く少しお背中を丸くなさって伏目のまま、身動きもせず坐って居られましたが、やがてお顔を、もの憂そうにお挙げになり、
 学問ハオ好キデスカ
 と、ちょっと案外のお尋ねをなさいました。
「はい。」と尼御台さまは、かわってお答えになりました。「このごろは神妙のようでございます。」
 無理カモ知レマセヌガ
 とまた、うつむいて、低く呟(つぶや)くようにおっしゃって、
 ソレダケガ生キル道デス


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底本:「太宰治全集6」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(平成元)年2月28日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月から1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:はやしだかずこ
2000年6月6日公開
2004年3月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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ひと口メモ 門を開いて盗(とう)に揖(ゆう)す 養虎遺患(ようこいかん)

2021/ 01/ 22
                 

  仁王像阿吽の呼吸知らざる哉呉越同舟その先如何


 ~仁王阿吽「円空45歳〈延宝4年・1676年〉.荒子観音寺〈愛知県名古屋市〉」~

 5-1仁王像吽1-1   5-2仁王像吽1-2

 6-1仁王像阿1-1 6-2仁王像阿1-2


 いかがお過ごしですか。
 久しぶりに安岡正篤(やすおかまさひろ)に接しました。

 一燈照隅行(いっとうしょうぎゅうぎょう) ―萬燈遍照行(ばんとうへんじょうぎょう― 安岡正篤
 〈内外の状況を深思しよう。
  このままで往けば、日本は自滅する外は無い。
  我々はこれをどうすることも出来ないか。
  我々が何とかする外無いのである。
  我々は日本を易えることが出来る。
  暗黒を嘆くより一燈を点(つ)けよう。
  我々は先ず我々の周囲の暗(やみ)を照す一燈になろう。
  微(かす)かなりとも一隅を照そう。
  手の届く限り、至る処に燈明を供えよう。
  一人一燈なれば、萬人萬燈である。
  日本は忽(たちま)ち明るくなる。
  是れ我々の一燈照隅行、即、萬燈遍照行である。
  互いに真剣にこの世直し行を励もうではないか。 〉

  

 門開盗揖(もんかいとうゆう)
 
・株式会社小学館・上海人民美術出版社 「連環画 中国の故事名言」
〔意味〕 わざわざ門を開けて泥棒に「さあ、いらっしゃい」とお辞儀をする。自分から禍を招くことのたとえ
  〔出典〕 『三国志』呉書・孫権伝
   況ヤ今、奸究(カンキュウ)競イテ逐(オ)イ、豺狼(サイロウ)、道ニ満ツ。乃(チ)親戚ヲ哀レマント欲シ、礼制ヲ顧ミル。是レ猶ヲ門ヲ開キテ盗(トウ)に揖(ユウ)スルガゴトシ。未ダ以ッテ仁(ジン)トナスベカラザルナリ。


・コトバンク「故事成語」を知る辞典の解説
 「門を開きて盗(とう)に揖(ゆう)す」:自分から進んで災難を招くことのたとえ。
[由来] 「三国志・書(しょ)―孫(そん)権(けん)伝」に見える話から。二世紀、後漢王朝末期の混乱の時代。呉という地方を支配していた孫(そん)策(さく)という武将が若くして亡くなり、弟の孫権が後を任されました。しかし、孫権は兄の死に泣いてばかり。そこで、ある家臣がこんなことを言いました。「豪族たちが激しい勢力争いをくり広げているこの状況で、親族の死を悲しんで涙を流しているのは、『猶(な)お門を開きて盗に揖するがごとし(まるで屋敷の門を開けっ放しにして、泥棒に入ってくださいとお辞儀をしているようなものです)』。そんなものは情の深さではありません」。そうして、孫権に喪服を着替えさせ、馬にまたがらせて、軍隊の視察に出かけさせたということです。



 養虎遺患

敵である者を許してしまい、後に災いを残すことの喩え。
司馬遷は『史記』にて「敵に改心の情がないときは後の憂いを断つためにも何らかの処分をすべきだ」と書き残している。
「虎を養いて患(うれ)いを遺(のこ)す」と訓読みする。


                 
        

ひと口メモ 焚書坑儒(ふんしょこうじゅ) 2021年1月20日(日本時間21日)

2021/ 01/ 21
                 

 遊行僧たずね行く先円空の刻む5千の仏今あり


 3荒神像音楽寺愛知県江南市
 〈円空「荒神像」音楽寺像(愛知県江南市)〉


第46代アメリカ合衆国大統領に就くジョー・バイデン氏と、副大統領カマラ・ハリス氏の就任式は、2021年1月20日(日本時間21日)に行われます。
新大統領の任期がスタートするのは、20日正午(日本時間21日午前2時)で、お二方はその直前に就任宣誓する予定となっています。


 内憂外患の中での新大統領、新副大統領の船出。
 長きにわたり経済大国ナンバー1であるUSA。
 ちなみに、現在のところ日本はナンバー3の位置にあります。
 ナンバー2に、そしてナンバー4にそれぞれの行く先が、当初の想定よりも加速度的に早まっていて、そんなに遠くない先に見えているとのことですが、先ずは目の前の難題に両国はどのように対処するのでしょうか。開門揖盗。
 

 「焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)」

・ダイソー ミニ辞典シリーズ⑭ 「四字熟語辞典」
 〈学問、思想などを弾圧すること。〉
  〔説〕 中国・秦の始皇帝が政治批判を抑制するために、一部の実用書を除いたすべての書物を燃やし、儒者を生き埋めにしたという故事から。
  〔典〕 『史記』

・株式会社小学館・上海人民美術出版社 「連環画 中国の故事名言」
  〔意味〕 言論・思想を弾圧すること。
  〔解説〕 秦の始皇帝が行った儒教に対する弾圧政策。宰相李斯(さいしょうりし)の「儒者は、学問にしがみつき、皇帝の政治を批判している。これを放っておいては皇帝の権威が傷つくから、断固取り締まるべきである」との献言を受け入れ、実用書以外のすべての書物を焼き、儒者460余人を穴うめの刑に処した。
  〔出典〕 秦ノ始皇帝、先代ノ典籍ヲ滅シ、書ヲ焚(ヤ)キ、儒ヲ抗スルニ及ビテ、天下ノ学士難ヲ逃レテ解散ス。(孔安国『古文尚書』序一)

・小学館 デジタル大辞典の解説
前213年、秦の始皇帝が行った、主として儒家に対する思想言論弾圧。民間にあった医薬・卜筮(ぼくぜい)・農事などの実用書以外の書物を焼き捨て、翌年、始皇帝に批判的な学者約460人を坑(あな)に埋めて殺したといわれる。転じて、学問や思想に対する弾圧をいう。

・小学館 日本大百科全書(にっぽにか)の解説
中国、秦(しん)の始皇帝による思想言論弾圧事件。始皇帝の天下統一から8年後の紀元前213年に、博士淳于越(じゅんうえつ)が古制に従って子弟を封建するよう建議したのに対し、丞相(じょうしょう)の李斯(りし)は、学者たちが昔の先例を引いていまの政治を批判するのを禁止せよと上奏した。始皇帝はその主張をいれて、『秦記』(秦国の史官の記録)および医薬、卜筮(ぼくぜい)、種樹(しゅじゅ)(農業)の書物以外は、『詩経』『書経』や諸子百家の書を民間で所蔵することを禁止し、すべて焼き捨てることを命じた。さらに翌年、始皇帝を批判した疑いのある方士(ほうし)、儒生460人余りを検挙し、都の咸陽(かんよう)で「坑(あなうめ)」の刑に処した。旧中国における第一の思想言論弾圧事件とされるもので、とくに焚書令による文化的損失は大きかったが、その後10年もたたぬうちに秦帝国は滅亡した。
[小倉芳彦]

                 
        

ひと口メモ 薪抱火救(ほうしんきゅうか) 薪を抱きて火を救う

2021/ 01/ 20
                 


  十二万 円空刻む 仏像(ほとけぞう) 大願成就 今の世に問う

 1-1円空の初期像 建穂観音堂
  ~円空が刻んだ初期像〈建穂寺(たきょうじ)観音堂.静岡県静岡市~


 中国で秦の始皇帝を扱った国営中央テレビのドラマ「大秦賦」が、2020年12月から始まりました。
 全78話となっています。


 「薪抱火救 薪を抱きて火を救う」
『史記』魏世家 ・・・ 且(か)ツ夫(そ)レ地(ち)ヲ以(もっ)テ秦(しん)ニ事(つか)エバ、譬(たと)エバ猶(なお)薪(たきぎ)ヲ抱(いだ)キテ火(ひ)ヲ救(すく)ウガゴトシ。薪(たきぎ)尽(つ)キザレバ、火(ひ)、滅(めっ)セズ。・・・

 〈 薪を手にして火を防ごうとすれば、防ぐどころかかえって火は大きくなる。それと同じで、誤った方法で禍害(かがい)を防ごうとすれば、逆にその害を大きくするということ。〉


①  戦国時代の後期、秦の国力は日一日と強大になり、遠交近攻政策によって、絶えず近い国に対して侵略を進め、自領を拡大していた。

② 紀元前276年から274年にかけて、秦は続けて3回、魏へ侵攻して魏の領土を占領し、魏軍の将兵や国民を多数殺傷した。

③ 紀元前273年、秦はまた魏へ出兵した。魏の民衆は秦を恐れて抵抗せず、魏将の段干子(だんかんし)は南陽〈河南省〉を割譲して、和を結ぶよう王に建議した。

④ この時、戦術家の蘇代(そだい)が王に意見した。「段干子の本心は王位を奪うことで、秦の狙いは魏の併合ですから、和を結んでも侵攻はやみませんぞ」

⑤ 「ですから、秦に土地を割(さ)くのは薪を抱いて火を防ごうとするようなもので、薪が無くならない限り火は消えません。土地を割くのも、これと同断です」

⑥ けれども魏王は蘇代の忠告を聴き入れず、南陽地区を秦に割譲して和を請うことにきめた。しかし秦は蘇代のことば通り侵攻をやめなかった。

⑦ それから3、40年間、秦は魏の土地を奪い続けた。魏王が死んで息子が王位につくと、秦は一挙に魏の城を20も奪って秦の東部とした。

⑧ 魏にはもう抵抗する力はなかった。秦の圧迫は、いよいよ強まり、紀元前225年、秦軍は魏の都、大梁を水攻めにし、遂に魏を滅ぼしてしまった。

~「連環画 中国の故事名言」編集著作:株式会社小学館・上海人民美術出版社.~



                 
        

ひと口メモ 傍若無人 ヒヨドリさんへ

2021/ 01/ 18
                 

 万両の実一つなしなにゆえにヒヨドリ群れる影一つなし


 ヒヨドリその2


ひよどりの傍若無人加減。

実をつけた3本の万両。
家人のひとこと。
万両の実がないよ!
ガラス戸越しに見える万両の赤色のひとつ見つかりませんでした。
庭におりました。
他の2本も見事に全ての実がなくなっていました。
その日以来、ヒヨドリの群れはわが家の庭にやってきていません。
 
 万両の実啄ばまれ1


 傍若無人 :出典〈『史記』刺客列伝〉~「中国の故事名言」昭和58年4月10日初版第1刷発行.編集著作株式会社小学館・上海人民出版社~
 高漸(こうぜん)離筑(りちく)ヲ撃チ、荊軻(けいか)和して市中ニ歌イ、相楽(あいたの)シム。已(すで)ニシテ相泣(あいな)キ、旁(かたわら)ニ人無キ者ノ若(ごと)シ。


 ~ 人前なのにもかかわらず自分勝手に行動すること。もしくは、人を人とも思わないような振る舞いをすること。
〈簡単に言ってしまえば、他人を無視して自分が好きなように振る舞い、行動することを言い、ネガティブな意味で使われる言葉となります。

では、そんな傍若無人の由来についてみていきましょう!
もともとは中国の史記が由来となり、漢文訓読では「傍に人無きがごとし(かたはらにひとなきがごとし)」という訓読みをします。
因みに、「傍」とは「そば」という意味です。
ではそんな史記について少し紹介していこうと思います。
始皇帝(しこうてい)を暗殺するための刺客である暗殺者、荊軻(けいか)のお話になります。
彼は普段真面目なのですが、お酒が入ると人が変わったかのように、音楽に合わせて歌を唄ったり、泣きわめいたりと騒ぎ立ててしまいます。
その様子を見た人たちが「まるでそばに人がいないような振る舞いをする」と言い出し、その言葉が「傍に人無きがごとし」の訳になりました。
荊軻がお酒を飲んだ後の様子が由来となり、それが転じて「傍若無人」という言葉が生まれました。・・・「ふむぺでぃあ~言葉解説ブログ ~ 」