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ゆく年くる年

2012/ 12/ 31
                 
良い年をお迎えください


 日々の暮らし
                 
        

豚の角煮

2012/ 12/ 30
                 
定番料理の一つ

 豚の角煮
豚の角煮 スダチ添え
 ・ スダチを添えました


 ①豚三枚肉(バラ肉)、1kgのブロック2本
 ②キビ砂糖・ハチミツ・本ミリン
 ③根ショウガ・ネギの葉ッパ・昆布
 ④濃口醤油・日本酒(あれば紹興酒)
 ⑤スダチ 


❀父から教えてもらった豚の角煮の作り方では、ハチミツと本ミリンは使いません。砂糖も白砂糖を使っていました。
 今年は、2度目の豚の角煮作りですが、いずれもキビ砂糖を使いました。年によって、使う砂糖の種類を変えて、料理の味加減の違いを見るようにしています。
 今回は、肉が型崩れしないようにするためと、ちょっと照りをつけるために、ハチミツほどほどと、本ミリンほどほどを加えました。それぞれ加えた分、砂糖を減らします。
 調理の基本、「サシスセソ」ということに変わりはありませんが、ハチミツと本ミリンは最初から入れないで、調理の後半になってから入れるようにします。
 何でかと申しますと、最初から入れるとみが硬くなってしまい、照りが強すぎてしまいます。
 今回は型崩れしない程度のほど良さ加減に使うようにして、持ち運び出来るようにしました。
 ❀調理のポイント
 ☆まずは.ブロック肉を、必要分の固まりに切り分け、フライパンを使い四面に火を通します。
 ☆それから.肉だけをボイルして十分に火を通してください。鍋からいったん全て引き上げて肉を冷ましてください。鍋のお湯は入れ替えてから次の調理の段取りに入ってください。)
 ☆それから.火加減は、湯が沸きたつまでは強火、ある程度火が通るまでは弱火、ジワジワと肉に旨みが伝わるような時間帯に入ったらとろ火。という手順になります。
 ☆それから.調理時間ですが、表面で3時間、肉を返して2時間で、だいたいは、ほど良い柔らかさになります。
 私の場合は、とろ火の時間が多いので、表裏、もっと時間をかけています。
 それから.上記の時間の中に入りますが、私の場合は、ある程度肉が柔らかくなったら、いったん火を止めて、冷蔵庫に一晩寝かせて、翌日、あらためて表面45分から1時間ほど、ひっくり返して20分から30分ほど、とろ火にかけて出来上がりとなります。
 それから.アクは出ますのでツド取り除いてください。いったん冷ますと油の固まりが出来ますが、これも思い切って取り除いてください。それぞれニオイ成分が入っていますので、取り除くことによって、美味しさが倍加します。
 ❀追記一口メモ
 その1.根ショウガは、味に深みをもたせること、そして肉のニオイ消しのために使います。
 その2.ネギは香りづけと、こちらも肉のニオイ消しのために使います。
 その3.ということで、まずスライスした根ショウガを入れてから肉を重ならないように敷きつめ、肉を覆いかくすようにしてネギを加え、昆布(言わずもがなですが、旨み成分の宝庫です。ダシがくどくならない前に引き上げてください)をのせます。
 その4.中国料理では、あと二つの食材を入れて味を調えますが、今住んでいるところは東京ではありませんので、スーパーマーケットで一般に手に入るものだけで調理しました。

❀「クラフトフェアまつもと2011」で手に入れた「陶房 窯八」の焼き〆の大皿の上に、出来上がった角煮全てをドーンとのせた写真を掲載し、今年の調理のフィナーレを飾ろうと思ったのですが、大切にしまいすぎたようで、ちょっと出てきません。
 今回顔を出した「窯八」は、出来上がった角煮を3つのせた皿、砂糖、塩を入れる器、根ショウガをのせた皿です。


豚の角煮 この状態で出来上がり
 ・ゆっくりととろ火で時間をかけましたが、随分と水の量が減りました。これで出来上がりとなります。


豚三枚肉ブロック2本計約2kgフライパンでブロックのまま焼きます

周りを焼いたらいったん取り出します食べやすい大きさに切り分けます

あらためて鉄板で四面焼きます四面焼きあがったら取り出します

キビ砂糖
塩を入れる容器にしたいと思います

根ショウガ・しょうゆ・日本酒
ネギ(葉の部分)
昆布


具材を鍋に入れる
鍋に蓋をして煮込む
鍋二つを使っています

冷めて脂が固まった状態
脂を取り除いて温めた状態


                 
        

上尾友の会忘年会

2012/ 12/ 29
                 
今日は何度目かの忘年会です

 上尾友の会 初めて参加しました。
 上尾市在住の人たちの忘年会です。
 私は元上尾市の住民ということで押しかけました。
 今日は、当初、16名参加ということでしたが、急遽1名不参加となりました。
 この1年間の振り返りと、来年はどんな年にするかという一人ひとりのメッセージに、その人となりを感じました。
 私は、友の会に顔を出せたことを今年の締めくくりの思い出として、会員の皆様にその喜びをお伝えし、そして来年以降も引き続き友の会に参加したいことをあっちの話、こっちの話などとり入れ、熱心にお話し申し上げました。


 中華料理 馬場


背番号55


上尾友の会第10回忘年会


朝焼け
❀朝焼けの空 [さきたま古墳公園から撮影 2012年12月28日、午前6時50分過ぎ頃]
                 
        

十色

2012/ 12/ 27
                 
朝な夕な

 遠方から撮る朝の山肌は、きめ細やかさに欠けます。
 空気がすみわたっていてもシャープな映像をとらえることが出来ません。
 35ミリフィルムを使っていた当時、朝の風景写真は色温度の違いにより、ぼやけた色合いにならざるをえないというように聞いていたのを思い出し、デジカメで撮っても同様な現象が起きるのかシラン・・・と思ってもみたりしています。

 2012年12月27日、田舎の家の庭の南天、千両、寒椿、山茶花の花の写真を撮りました。
 先日、赤城山と榛名山の写真を撮りましたが、イマイチ画面がぼやけていましたので、どこかで撮り直そうと思っていました。
 前回は日の出でしたので、今回は日の入りで、二つの山を撮ってみました。
 明日は満月です。


❀南天
南天の実のイロ
南天の実


❀千両
千両の実のイロ
千両の実


❀寒椿
寒椿の花のイロ
寒椿の花


❀山茶花
山茶花の花のイロ
山茶花の花


❀夕日のイロ
夕日のイロ


❀榛名三題
榛名山①
榛名⑥
榛名山③


❀赤城三題
赤城山①
赤城山②
赤城山③





                 
        

赤城と蜈蚣

2012/ 12/ 26
                 
赤城と蜈蚣

何時の頃からか赤城の神は其の姿を表わす時は蜈蚣の形を示すと信ぜられるようになった。定めしずっと昔は赤城の神は蛟竜(みずち)の姿をしていたと信ぜられる。赤城神社は山神であると共に、水神であるからである。しかるにいつの頃からか蜈蚣に代った。
 二荒山の神と赤城の神とが今の中禅寺の湖を奪い合いして男体は大蛇に、赤城は百足になって戦ったという神話は有名である。そして双方の戦った場所が今の戦場ヶ原だという。赤城神は初め優勢であったが男体神が猿丸という獵師の祖神の助を得て蜈蚣は大怪我を負い、片品川の渓谷を逃れて来て、そこに湧き出ていた温泉に浴して傷を医したという。二荒神は其処迄追って来たが赤城神の傷が癒えれば戦に勝つのがむずかしくなるので、引き返したという。それでその湯の沸く処を追い神といったという。今の老神温泉である。
 赤城の山上には又何時頃からか蜈蚣を祀った社があった。赤城神社の摂社の中に蜈蚣神社というのが『上野国志』には記されている。麓で伝説だけに信ぜられていた許りではなかったのである。

 「赤城の神」より
 
 蜈蚣:むかで
 百足:むかで
 獵師:猟師
 蛟竜:みづち:みずち:蛟・虬・虯・螭:蛇に似て角と四脚とを具え、毒気を吐いて人を害するという想像上の動物。蛟竜(きょうりゅう)の類。※広辞苑第一版第十二刷による
                 
        

赤城の神

2012/ 12/ 25
                 
竜神伝説

赤城山⑤
 利根大堰より赤城山を望む

 ときに昔話は、伝承としてのその地方の歴史を物語り、それはまた史実として解き明かす鍵になるロマンそのものかも知れません。
 「赤城の神」の「沼姫考」の冒頭、赤城山には大沼、小沼という二つの湖がその山頂にあります。その小沼には古くから沼姫の言い傳えが語られています。・・・と記述が始まっていますが、世間に言う赤城山の竜神伝説は世人の知るところです。
 ・・・その家に四月八日の仏涅槃の日に不思議な赤ん坊が生まれました。それは両方の腋の下に各々一枚ずつ鱗の形のある女の子だったのです。不思議には思ったけれど、何しろたった一人の女の子故、それこそ蝶よ花よと大切に育てたという事でした。そして次第に大きくなり、朝夕鏡を眺めて髪を梳けずるようになると姫は窓から見える赤城山を鏡に映したり又直接窓辺によって眺める事が常になったといいます。そして十六になった年の四月八日の事でした。姫は俄かに母なる人に今日は赤城へ登りたいと申し出したというのです。四月八日は赤城の山開きの日で若い男女は皆登山する日です。母は早速父に相談しました。空のよく晴れた日だった相です。・・・

 「あかぎの神」の著者は、はしがきで、本書は多少民俗学的な方法を借りては居るが、正系統の民俗学の研究ではない。昔の郷土研究というやり方に民俗学の匂いを少しつけた程度のもので、・・・とことわりがきをしています。

 その「沼姫考」では、・・・ここで直ちに思いつく事は榛名の沼姫の事です。榛名にも恰度赤城と似たような沼姫伝説があり、その主人公は・・・と言葉が続きます。
 赤城の竜神伝説は世人の一人として聞きかじっていましたが、榛名の沼姫のことは本書で初めて知りました。

 この「赤城の神」の作者は、帰納的に、そして演繹的に、遠近法の如く、今は昔を様々な資料を重ね、推考しながら断定は避けながらも、その事実の辿り着くところにに思いを馳せています。

はしがき
赤城信仰の変遷
赤城のから社
沼姫考
赤城のから社(再び)
戸神考
赤城のから社(三たび) 
赤城雑纂
 赤城神社の移建について一言
 赤城と猪谷氏
 赤城の鳥居と登山道
 赤城と蜈蚣
 赤城と茨
 大沼と納鏡(一)
 大沼と納鏡(二)
附載 赤城の地名図及び其の多少の説明 
 赤城の地名について
あとがき

赤城の神      昭和49年3月20日発行
著者 今井善一郎  発行所 株式会社煥乎堂


榛名山⑥
利根大堰より榛名山を望む
                 
        

利根大堰より

2012/ 12/ 24
                 
山の写真

 日の出は、また撮りに来ようと思います。
 利根大堰から360度見渡せます。
 上毛三山
 日本二百名山
 日本百名山
 それぞれに名を連ねている山々を撮ることができましたが、やはりパノラマすべてが快晴ということにはなりませんでした。めげずに次のシャッターチャンスを狙います。


富士山 (日本百名山 標高3,776m) 武蔵大橋より望む
富士山 20121224


赤城山 (上毛三山、日本百名山 標高1,828m)
赤城山 20121224


榛名山 (上毛三山 日本二百名山 標高1,449m)
榛名山 20121224


妙義山 (上毛三山 日本二百名山 日本3奇勝 標高1,104m)
妙義山 20121224


甲武信岳 (日本百名山 標高2,475m)
甲武信岳


武甲山 (日本二百名山 標高1,295m)
武甲山 20121224


日光白根連山・奥白根山 (日本百名山 標高2,578m)
日光白根連山・奥白根山 20121224


男体山 (日本百名山 標高2,484m)
男体山 20121224


筑波山 (日本百名山 標高 877m)
筑波山 20121224


利根大堰より霊峰富士を望む
富士山② 20121224
                 
        

天皇誕生日

2012/ 12/ 23
                 
天皇陛下お誕生日に際し(平成24年)


 宮内記者会代表質問 
問1 東日本大震災から約1年9か月がたちましたが,復興への道のりは険しく,古里に帰れない被災者が今も多いのが実情です。一方で,国民を勇気づけるような明るいニュースもありました。皇室では,皇太子ご夫妻の長女・愛子さまがご両親の付き添いなしで小学校に通われるようになり,秋篠宮家ではお子さま方が留学や進学準備を迎えるなど節目の年となりました。この1年を振り返り,社会情勢やご公務,ご家族との交流などで印象に残った出来事をお聞かせください。

天皇陛下
今年は2月に心臓の手術を受け,多くの人々に心配を掛けました。誕生日に当たり,当時記帳に訪れてくれた人々を始め,今も私の健康を気遣ってくれている多くの人々に対し,感謝の気持ちを伝えたく思います。

東日本大震災から1年9か月がたち,被災地に再び厳しい冬が巡ってきています。放射能汚染によりかつて住んでいた所に戻れない人々,雪の積もる仮設住宅で2度目の冬を過ごさなければならない人々など,被災者のことが深く案じられます。震災時の死者行方不明者数は1万8千人余と報じられましたが,その後,2千人以上の震災関連の死者が生じたため,犠牲者は2万人を超えました。地震や津波を生き抜いた人々が,厳しい生活環境下,医療などが十分に行き届かない状況の中で亡くなったことは誠にいたわしいことと感じています。また,被災地の復興には放射能汚染の除去や,人体に有害な影響を与える石綿が含まれるがれきの撤去など,危険と向き合った作業が行われなければならず,作業に携わる人々の健康が心配です。放射能汚染の除去の様子は福島県の川内村で見ましたが,屋根に上がって汚染を水流で除去するなど,十分に気を付けないと事故が起こり得る作業のように思いました。安全に作業が進められるよう切に願っています。

社会の問題として心配されることは,高齢化が進んでいることであります。特に都市から離れた地方では大変深刻な問題になっていると思います。平成23年度の冬期の雪による死者は130人以上に達し,多くが除雪作業中の高齢者でした。私自身近年山道を歩く時,転びやすくなっていることを感じているので,高齢者が雪国で安全に住めるような状況が作られていくことを切に願っています。若い時には高齢のため転びやすくなることなど考えてもみませんでした。

1年を振り返ると様々なことがあった年でした。明るいニュースとしてはロンドンオリンピック,ロンドンパラリンピックでの日本選手の活躍が挙げられます。ロンドンオリンピックで日本が獲得したメダル数は,これまでのオリンピックの中で最多でした。また,ロンドンパラリンピックでは,車いすテニスの国枝選手がシングルスで北京大会に続いて2連覇を達成するなど,日本の選手は様々な分野で活躍しました。金メダルをとったゴールボールの試合も映像で楽しく見ました。研ぎ澄まされた感覚でボールを防ぐ姿には深い感動を覚えました。脊髄損傷者の治療として英国で始められた身体障害者スポーツが,今日ではすっかりスポーツとして認められるようになったことに感慨を覚えます。

山中伸弥教授のノーベル医学生理学賞受賞も誠にうれしいニュースでした。特に再生医療に結び付く大きな成果は,今後多くの人々に幸せをもたらすものとなることと期待しています。

今年は英国女王陛下の即位60周年に当たり,御招待を受け,私も皇后と共にその行事に出席いたしました。この行事には,各国の君主が招待されましたが,戴冠式とこの度の60周年のお祝いに重ねて出席できたのはベルギーの国王陛下と私の二人で,戴冠式の時は18歳と19歳でした。若くして臨んだ戴冠式での様々な経験が懐かしく思い起こされます。

問2 陛下は今年2月,心臓の冠動脈バイパス手術を受けられました。現在のご体調はいかがでしょうか。最初に心臓のご病気をお知りになった時,手術をお受けになると決められた時,無事に手術を終えられた時の心境と,今後の体調管理で留意されている事柄についてお聞かせください。退院後も胸に水がたまるなど陛下に治療が続いた時も,ずっと支えられた皇后さまをはじめ,ご家族とのエピソードについてもお聞かせください。

天皇陛下
手術の後はその影響があり,テニスをしても走って球を打つという何でもない動作がうまくいきませんでしたが,最近は以前のように球を打てるようになったような気がしています。リハビリテーションというものが実に重要なものだと感じています。農業や漁業で体を動かして仕事をしている高齢者が被災生活で体を動かさなくなった時に体を壊すという話が実感されました。心臓の病気は検査で知りました。手術を受けることを決めたのは,心筋梗塞の危険を指摘されたからでした。時期については,東日本大震災一周年追悼式に出席したいという希望をお話しし,それに間に合うように手術を行っていただきました。手術が成功したことを聞いた時は本当にうれしく感じました。執刀をされた天野順天堂大学教授を始め,この手術に携わった関係者に深く感謝しています。体調管理としては筋力を衰えないようにすることが大事だと考え,これまでどおり早朝の散歩を続けるほか,できるだけ体を使う運動に努めています。入院中,皇后は毎日病院に見舞いに来てくれ,本当に心強く,慰めになりました。手術後のリハビリテーションの一環として病室の近くの廊下を一緒に歩く時にはいろいろな音楽をかけてくれ,自分も楽しそうに歩いていました。家族の皆がそれぞれに心を遣ってくれていることを,うれしく思っています。

問3 陛下は心臓手術後も以前と変わらないペースで公務に取り組まれていますが,来年80歳となられるのを機に一層のご負担軽減が必要との指摘があるほか,一定の年齢に達すれば,陛下には国事行為に専念,あるいは国事行為と最小限の公的行為だけなさっていただき,それ以外は皇族方が分担するという考え方を取り入れるべきとの意見も出ています。現行制度のままでは陛下のご活動をお支えする皇族方が減ってしまう現状の下で,今後のご公務に関する皇族方との役割分担についてどのようにお考えでしょうか。

天皇陛下
天皇の務めには日本国憲法によって定められた国事行為のほかに,天皇の象徴という立場から見て,公的に関わることがふさわしいと考えられる象徴的な行為という務めがあると考えられます。毎年出席している全国植樹祭や日本学士院授賞式などがそれに当たります。いずれも昭和天皇は80歳を越しても続けていらっしゃいました。負担の軽減は,公的行事の場合,公平の原則を踏まえてしなければならないので,十分に考えてしなくてはいけません。今のところしばらくはこのままでいきたいと考えています。私が病気になったときには,昨年のように皇太子と秋篠宮が代わりを務めてくれますから,その点は何も心配はなく,心強く思っています。


関連質問

陛下は皇后さまと共に11月に沖縄県を訪問されました。皇太子御夫妻の時代から数えると9回目となります。今回,8年ぶりに沖縄県に行かれた御感想,また,特に印象に残ったことをお聞かせいただけますでしょうか。


天皇陛下
8年ぶりに沖縄県を訪問したわけですけれども,今度行きました所は,今までに行ったことのない所が含まれています。沖縄科学技術大学院大学ですね,恩納村には行きましたけれどもそこは行きませんでしたし,万座毛も初めてでした。それから久米島がやはり初めての所です。戦没者墓苑は,これは毎回お参りすることにしています。そのようなわけで,毎回お参りしている所と新しい所があって,沖縄に対する理解が更に深まったように思っています。万座毛という所は,歴史的にも琉歌で歌われたりしていまして,そこを訪問できたことは印象に残ることでした。殊に恩納岳もよく見えましたね。久米島の深層水研究所も久米島としては水産上,重要な所ではないかと思っています。多くの沖縄の人々に迎えられたことも心に残ることでした。沖縄は,いろいろな問題で苦労が多いことと察しています。その苦労があるだけに日本全体の人が,皆で沖縄の人々の苦労をしている面を考えていくということが大事ではないかと思っています。地上戦であれだけ大勢の人々が亡くなったことはほかの地域ではないわけです。そのことなども,段々時がたつと忘れられていくということが心配されます。やはり,これまでの戦争で沖縄の人々の被った災難というものは,日本人全体で分かち合うということが大切ではないかと思っています。

会見年月日:平成24年12月19日 会見場所:宮殿石橋の間



この1年のご動静

天皇陛下には,本日,満79歳のお誕生日をお迎えになりました。

陛下は,昨年2月に冠動脈造影検査により冠動脈狭窄きょうさくが認められたため,その後,薬剤ご内服による治療をお受けになっていましたが,それまでのご生活の維持と更なる向上を目指して,今年2月に東京大学医学部附属病院に入院され,約4時間に及ぶ冠動脈バイパス手術をお受けになりました。ご手術後もしばらくは胸水が溜たまる症状がおありでしたが,リハビリテーションをお続けになる中で少しずつご体調を回復されました。陛下のこの1年は,東日本大震災の被災者やその復興状況に絶えずお心を寄せつつ,ご病気の克服とご体調の回復にお努めになる中で,可能な限りお務めを果たされた1年でありました。

昨年の東日本大震災から1年を迎えた今年3月,陛下は,ご退院1週間後に開催された東日本大震災一周年追悼式に皇后さまと共にご臨席になりました。また,今年5月に宮城県仙台市で開催された日本学術会議共催による国際会議の開会式に臨席された折に同市の応急仮設住宅を訪問されたほか,7月には東日本大震災の翌日に発生した長野県北部地震により甚大な被害を受けた長野県栄村を訪問されました。さらに,10月には福島県川内村と田村市を訪問され,川内村で放射能除染作業をご視察になったほか,皇后さまと共にそれぞれの地の被災者を見舞われ,支援者をお労ねぎらいになりました。その前後に関係者から6回にわたり復興状況,支援活動や放射能除染活動状況等についての説明をお聴きになりましたが,東日本大震災に関してご説明をお受けになった回数は通算で39回となりました。

陛下は,ご手術によるご入院のため2月17日から4月10日までの間,皇太子殿下に国事行為を委任されましたが,この期間を除くほぼ毎週2回,国事行為として,内閣から上奏のあった725件の書類にご署名やご押印をされました。また,儀式や行事として,国務大臣始め101名の認証官任命式,新任外国大使34名の信任状捧呈式,勲章親授式(大綬章,文化勲章)及び勲章受章者の拝謁などに臨まれました。授賞式や記念式典には18回ご臨席になりました。御所や宮殿では文化勲章受章者及び文化功労者,日本学士院会員,日本芸術院会員,新認定重要無形文化財保持者,青年海外協力隊帰国隊員の代表,シニア海外ボランティア及び日系社会(青年・シニア)ボランティアの代表,国際交流基金賞受賞者,ロンドンオリンピック及び同パラリンピック入賞選手等にお会いになり,その労をねぎらい励まされました。その回数は28回を数えました。各省庁の事務次官,日本銀行総裁,外務省総合外交政策局長等からのご進講は12回お受けになりました。このほか,行幸啓や行事に関するご説明は36回に及び,新嘗祭の献穀者や勤労奉仕団として皇居に来られた方々には55回お会いになりました。

外国との関係については,両陛下は5月16日から20日まで英国を訪問され,女王陛下ご即位60周年記念午餐会並びにチャールズ皇太子殿下及びコーンウォール公爵夫人主催の晩餐会に出席されました。現地では,東日本大震災支援に携わった英国の日本関係者を招いてお会いになり,協力への感謝をお伝えになりました。国賓の接遇としては,今年3月にクウェート国首長殿下とご会見(ご退院後間がなかったことから,歓迎行事と宮中晩餐は皇太子殿下が御名代としてお務めになりました)になったほか,10月にはマレーシア国国王陛下及び王妃陛下のご来日を歓迎され,ご会見,宮中晩餐を催されました。また,バーレーン国国王陛下,ペルー国及びスロバキア国の大統領閣下及び同令夫人を公式実務訪問賓客としてお迎えしてご会見,午餐を催されました。パラグアイ国大統領閣下,アルメニア国大統領閣下,アフガニスタン国大統領閣下,ザンビア国大統領閣下及び同令夫人,リベリア国大統領閣下,パナマ国大統領閣下及び同令夫人,ハイチ国大統領閣下及び同令夫人とご会見になったほか,マレーシア国上院議長夫妻,英国首相,ロシア国モスクワ・全ルーシ総主教,ノルウェー国首相夫妻,ベトナム国国会議長をご引見になりました。さらに,シンガポール国前首相府内閣顧問,スウェーデン国国王陛下及び王妃陛下,ベルギー国皇太子同妃両殿下を御所でのご夕餐に,リヒテンシュタイン国皇太子殿下,ダニエル・イノウエ米国連邦議会上院仮議長夫妻,スペインのサラマンカ大学学長を御所でのお茶に,第4回日本・メコン地域諸国首脳会議に出席する各国首脳等5名,第6回太平洋・島サミット首脳会議に出席する各国首脳夫妻等23名を宮殿での茶会にお招きになりました。

在京の外交団との関係では,この1年間に着任後間もない32か国の大使夫妻をお茶に,着任後3年経過した20か国の大使夫妻を午餐にお招きになり,離任する13か国の大使夫妻にご引見を賜りました。日本から赴任する50か国の大使夫妻にも出発前にお会いになり,帰国した63か国の大使夫妻をお茶に招いて任地の話をお聴きになりました。

この1年の両陛下の公的な地方行幸啓は,9府県(宮城県,山口県,長野県,新潟県,岐阜県,山梨県,福島県,沖縄県,京都府)15市,2町,3村に及び,岐阜県には2回お出ましになりました。前述した東日本大震災関連の行幸啓以外では,全国植樹祭(山口県),国民体育大会(岐阜県)及び全国豊かな海づくり大会(沖縄県)へのご臨席,恩賜林「武田の杜保健休養林」ご視察(山梨県),明治天皇百年式年に当たり明治天皇陵及び昭憲皇太后陵ご参拝(京都府)にお出ましになり,その折に併せて地方事情を視察されました。このうち,8年ぶり9回目のご訪問となった沖縄県では,ご到着の日に沖縄平和祈念堂で拝礼された後,同所で,ひめゆり学徒隊と同じく看護要員として活躍し犠牲となった沖縄県立第二高等女学校学徒隊を慰霊する白梅之塔の関係者と懇談され,慰霊の花束を託されました。国立沖縄戦没者墓苑では供花,拝礼された後,ご遺族始め関係者を労ねぎらわれました。両陛下は,沖縄県を訪問されたときは毎回必ず行幸啓の初日に戦争犠牲者の慰霊施設(沖縄平和祈念堂及び国立沖縄戦没者墓苑は,最初2回のご訪問時には建立されていませんでした)をお訪ねになっています。今回の行幸啓では初めて久米島まで足を伸ばされました。山梨県への行幸啓は,当初は昨年11月に予定されましたが,御不例のため恩賜林御下賜100周年記念大会には皇太子殿下を差し遣わされ,今年10月に改めて恩賜林「武田の杜保健休養林」をご視察になりました。また,岐阜県については,9月末の国民体育大会への行幸啓の折に非常に強い台風17号が接近し,関係者がその備えに専念できるようにとの両陛下のお考えから,やむなく大垣市ご訪問のご日程をお取りやめになりましたが,12月の京都府行幸啓のお還かえりにお立ち寄りになりました。

都内及び近郊への公的なお出ましは41回を数えましたが,国会開会式,全国戦没者追悼式,恒例となっている日本国際賞,日本芸術院賞,日本学士院賞等の授賞式や各種周年記念式典等へのご臨席のほか,国際幹細胞学会10周年記念セレモニーへのご臨席(神奈川県),企業や敬老の日にちなむ施設へのご訪問(埼玉県)などでありました。

御用邸へは,皇后さまとおそろいで葉山御用邸に3回,那須御用邸に1回お出ましになりました。那須町では例年どおり農家を訪問されたほか,陛下のお考えを踏まえてご即位20年の機会に宮内庁から環境省に移管された御用邸用地の利用状況等をご視察になるため,昨年の「那須平成の森」フィールドセンターへのお立ち寄りに続き,今年は那須高原ビジターセンターをご覧になりました。8月下旬は,軽井沢,草津でお過ごしになりました。

宮中祭祀については,明治天皇百年式年祭など17回の祭典にお出ましになりました。天長祭の儀,大正天皇例祭の儀,歳旦祭の儀,祈年祭の儀,春季皇霊祭の儀・春季神殿祭の儀,神武天皇祭の儀はご不例によりご欠席になり,掌典長及び掌典次長によるご代拝となりました。また,今年の新嘗祭は,「夕の儀」,「暁の儀」ともにお出ましの時間を短縮され,儀式の半ばより出御されました。

今年6月6日に寬仁親王殿下が薨こう去され,両陛下はお悲しみのうちに5日間の喪を服され,ご遺族と悲しみを共にされました。薨こう去の直後4回にわたり寬仁親王邸を訪問されたほか,斂葬の儀及び百日祭の儀の後に拝礼のため豊島岡墓地に行幸啓になりました。また,憲仁親王十年式年に当たり,高円宮御墓所を参拝されました。

ご研究については,陛下は「日本産魚類検索-全種の同定」の第一版(平成5年)からハゼ類の項目に関わってこられましたが,今年も昨年同様に第三版の改訂作業が行われており,皇居内の生物学研究所で編集者である京都大学教授及び生物学研究所の職員らを交えてハゼの分類に関するご検討を行っているほか,御所では顕微鏡による観察研究をされています。国立科学博物館本館で開催された魚類分類研究会には2回ご出席になりました。

また,平成20年に国立科学博物館研究報告として論文「皇居におけるタヌキの食性とその季節変動」を共同執筆されましたが,その後も皇居に棲せい息するタヌキの食性についてのご研究を継続されています。

陛下は今年も例年どおり,皇居内生物学研究所の田で種籾たねもみのお手まき,お田植えをなさり,お手刈りをなさいました。また,陸稲と粟あわをお子様及びお孫様方とご一緒に種をまかれ,刈り取られました。粟あわは新嘗祭の折にお手刈りになった水稲とともにその一部をお供えになりました。また,神嘗祭に際しては,お手植えになった根付きの稲を神宮にお供えになりました。

陛下は,今年2月17日に東京大学医学部附属病院に入院され,翌日18日に冠動脈バイパス手術をお受けになりました。ご手術は予定どおりに進み,術中の出血もほとんどなく,術後の麻酔からのお目覚めも順調でした。ご手術後は胸水が溜たまるなどのご症状がおありでしたが,3月4日にご退院になりました。皇后さまは,陛下のご入院中は病院にほぼ隔日お泊まりになりながら,毎日病院に通われて陛下にお付き添いになりました。陛下のお見舞いのために皇居等に記帳に訪れた人は約10万人に上りました。陛下からは,手術の成功を願ってくれた多くの人々に感謝の気持ちを伝えるようにとのご指示がありました。

ご退院後しばらくの間はご回復が思うように進まず,3月に2度にわたり穿刺せんしによる胸水の排液が行われました。ご運動を通じてのリハビリテーションにより少しずつご体調を回復され,10月中旬には胸水の量はごく僅かに認められる程度に減りました。陛下は,皇后さまとご一緒に毎朝のご散策と定期的なご運動を続けられていますが,夏前頃からは短時間ながらテニスを再開されました。陛下のご運動は,術後のリハビリテーションのために,また,前立腺がんの再発予防としてのホルモン療法による副作用を防止するためにとても大事なことになっています。

陛下は,来年,満80歳の傘寿を迎えられます。

お時間がおありのときは,魚類等の研究をなされるほか,読書をされたり,チェロを弾かれたりしています。いつまでもお元気でお過ごしいただくためには,ご健康面で細心のお支えをするとともに,お年にふさわしいお過ごしをしていただけるよう配慮していくことが大切になっています。

12月23日のお誕生日当日は,午前中は御所で侍従職職員から祝賀をお受けになった後,宮殿で皇族方を始め宮内庁職員等による祝賀を5回にわたりお受けになります。また,この間に3回にわたり長和殿ベランダに立たれて国民の参賀にお応えになります。午後からは内閣総理大臣,参議院議長,最高裁判所長官の祝賀をお受けになった後,皇族方もお加わりになって,三権の長,閣僚,各界の代表等との祝宴に臨まれます。その後,外交団を招かれての茶会,元側近奉仕者等との茶会,次いでご進講者等との茶会に臨まれます。夕刻には敬宮さま始め未成年の内親王,親王殿下方のご挨拶をお受けになり,夜にはお子様方ご夫妻とお祝御膳を囲まれます。












                 
        

ムッちゃん 19

2012/ 12/ 22
                 
左肩にフッと・・・

 ソファーの上から、私の左肩に、彼はそっとあごをのせてきました。
 絨毯に座ってテレビを見ていた時、後方から温かくふんわりとした雰囲気が私をフッとつつみました。
 ムッちゃんがわが家に来てからどのくらい経った頃だったでしょうか。
 
 玉原高原に行く車中、運転していた私の後方から、フッとした動きが伝わってきました。
 彼が私の左肩の上に、そっとあごをのせていたのでした。
 
 そのころ(わがやの家族の一員になり始めの頃)、ムッちゃんは後部座席を自分の席としていましたが、車前方の景色を眺めることがよほど嬉しいのでしょうか、いつのまにか、彼が助手席に、宏有さんが後部座席に座るようになりました。
 最初の頃は、宏有さんに随分と気兼ねして助手席に座っていましたが、その後はすっかりお気に入りの指定席になっていました。

 車のドアを開けると、彼はサッと飛び込んで、すぐ助手席に座ります。
 そしてすぐフロントガラスの方に顔を向けて、早く出発しようと私を急かせます。
 宏有さんはいつもの通りで、外出するとき手間取ります。
 「ムッちゃん おばちゃんを呼んできて!」と3回私が彼に声をかけると、助手席からポォーンと跳び降りて、すぐさま玄関口から中に入って、宏有さんを呼びに行きます。
 そしてすぐもどってきて、あっという間に指定席に座り、じっと前を見続けるのです。
 
 彼はドライブが大好きです。ということもあるのでしょうが、車に乗ると、峰の原高原、玉原高原など、ふんだんに遊び回れるところに行くことが判っているので、嬉しくてしょうがないのです。

 旅行で数泊お泊りして、帰路わが家の近くの武蔵水路沿いの道路にたどり着くと、彼は何回も、時には十数回も前足を使って握手を求めます。
 とても楽しかったよという意思表示と、わがやに戻れるという安心感をキチンと意思表示するのです。

 旅の嬉しさを分かち合ったことへのありがとうの気持を表し、わが家に帰ってきたことの安堵と、そして地元でまたともだちと一緒に遊べるという喜びを、彼はいつもの自然体で体で表現してくれます。
 このとき、彼は一声も吠えません。目と動作で私たちに伝えるのです。
 
                 
        

夜業 (よなべ) 補足

2012/ 12/ 21
                 
漢字の読み方と意味

 歳時記として後世に残すことの意味深さを感じながら、そこに書き込まれた言葉のあれこれが、説明を加えることにより、更に身近なものになるなあ。と、昨日の「夜業」(「習俗歳時記補修再版 七十四」)を書き写して感じています。

新村出(しんむらいずる)編、「広辞苑」(昭和39年1月15日第1版第12刷発行)により、幾つかの漢字の読み方、意味を並べました。

 ・四方山(よもやま):②諸方。世間。天下。

 ・繩綯(なわない):狂言。各流。主の博奕のかけ物となった太郎冠者が、他家にやられて働かず、戻るとき繩を綯いながらその家の悪口をいい、家の主人から怒って追われる。(原文のママ) ❀「なわない」という言葉の意味としての説明は書いてありません。

 ・莚織り(むしろおり):①藺(い)、蒲(がま)、藁(わら)、竹などで編んだ敷物の総称。 むしろおり[莚織]①莚打に同じ。 むしろうち[莚打]莚を編むこと。また、それを業とする人。

 ・蓑(みの):茅または管などの茎葉を編んで作った雨具。

 ・草履(ぞうり):藁・竹皮・灯心・藺(い)などを編んでつくり、緒(を)をすげたはきもの。

 ・草鞋(わらじ):藁で足形に編み、爪先にある二本の藁緒を左右の縁と後端の乳(ち)とに通し、足に結びつける履物。わらんじ。

 ・蔟(まぶし):【蚕簿・蔟】(前項の義より転じて)蚕具の一。藁などを束ねて作り、よく成長した蚕を写し入れて繭を作らせるたよりとするもの。かいこのすだれ。えびら。
 [前項の義:まぶし【射翳】①鳥獣を射るために、柴などを折って猟夫が身を隠す装置。

 ・箒(ほうき):【箒・帚】(「ははき」の転)塵を掃除する道具。羽箒、棕梠、草箒、竹箒などの種類がある。

 俵(たわら):藁を編んで造った袋。穀類・芋類・食塩・石炭・木炭などを入れるに用いる。

 ・掃立(はきたて):②養蚕で、孵化した毛蚕(けご)を、蚕卵紙から掃き取って他の紙または蚕座へ移すこと。

❀「蔟」、「掃立」は、なんのことやらさっぱり判りませんでした。養蚕の折りの身近な言葉の一つひとつだったのですね。
                 
        

夜業  (よなべ)

2012/ 12/ 20
                 
冬至

 12月21日は冬至です。
 [冬至]・・・北半球では、正午における太陽の高度は一年中で最も低い。また、日照時一年中で最も短く夜が最も長く、南半球ではこれに反する。・・・と、広辞苑(第一版第十二刷発行)に書かれています。


七十四 夜業 (よなべ)
 冬至には冬至唐茄子と南瓜を食べますが、その冬至の頃は全くの夜長で、毎晩囲炉裏の端が楽しい時期でした。始終焼き芋の匂いもただよっていましたし四方山の話は常に耐えませんでした。彼岸後は夜なべの時期でしたがとりわけ十二月から二月頃まではその本時期でした。繩綯い、莚織りが毎晩行われました。蓑、草履、草鞋等も作られました。蔟、箒、俵等も作られるのでした。
 先年の更生計画中は特に農用品準備品評会というものが出来まして、各農家の耕地、利用山林、掃立養蚕等に応じて之等の製品を冬季の各月に割当てて巡回検査をしたことがありました。そのためこの夜業の時間は自ら増大して来ました。
 冬の夜おそく繩綯い機械の喧しい音が止むといつの間にか静かな雨の音など聞くのもこの夜業の後でした。
 その後戦争が終えてから農業が衰退し、従って夜業も自ら消滅しました。
  習俗歳時記(補修再版)より

❀「よなべ」を辞書で引くと、漢字では出てきません。三省堂国語辞典第三版(中型版」では、「夜なべ」とあり、「よるにする仕事。よるに仕事をすること。夜業(ヤギョウ)。夜仕事(ヨシゴト)。と書かれています。


 人去って冬至の夕日樹に煙り  桂信子

冬至
 ☆東京ではこの日、昼間は9時間45分で日没となる。
 ☆昔から粥を食べたり、南瓜を食べたり、柚子湯を立てて入る習慣がある。
                 
        

南方熊楠

2012/ 12/ 18
                 
南方熊楠

 今、平野レミさんの御父君、平野威馬雄の著、「くまくす外伝」(発行所誠文図書)を手元に置いています。昭和57年8月7日第4刷発行となっていますから、30年前に読んだであろうと思われます。(初版は昭和47年7月10日)
 あとがきに作者が次のように記しています。・・・だが、まだまだ、とても書き足りない。このような本を十冊以上もそのために費やさなければだめだ。それほど偉大で底知れぬ人なのだ。日本が嘗て生んだ最もすぐれた人であり、同時に、今後、このような人はちょっと現われそうもない。それなのにあまり知られていないのだから、はがゆくてたまらない。・・・

 私が名古屋工場に単身赴任していた当時、宏有さんと一緒に和歌山を旅行したことがあります。那智の滝や、熊野川下りを楽しんだり、鯨料理や海鮮料理を堪能したりなど、つかのまの休日でしたが、一番の目的は、熊楠記念館を訪れることでした。
 「ここは私道ですので、一般の方の使用を禁じます」と、立札があった先が、記念館でした。
 他に行く道はないかと、尋ねたところ、「研究者の方ですか、道はここだけです。何か不都合があったようで、今は、閉じられているようですよ」と、地元の方が親切に教えてくださいました。

 それから20数年ほど経ったある時、鈴鹿に2週間ほど滞在する機会がありましたので、休日を利用して久方ぶりに和歌山詣でしました。
 前日、記念館の電話番号を調べて問い合わせしたところ、「入館は4時半までです。お出でをお待ちしています」という言葉が返ってきました。オープンしていることが判りました。
 さて、当日、和歌山に行き、鯨料理を頂いたまでは良かったのですが、行くこと叶わず。という結果になってしまいました。今回は鯨料理はさておいて、先ずは記念館に!と、目的をしっかりと定めておけばよかったと後悔したのがアトノ祭り。
 こっちもあっちもという、日帰りプランでは無理の時程でした。やはり最低でも一泊二日が必要のようです。
 
 一度は訪れてみたい 南方熊楠記念館 です。

 人物叢書145 南方熊楠 笠井清著 吉川弘文館 昭和42年9月25日初版発行
 南方熊楠随筆集 筑摩書房 118 1969年1月25日初版第2冊発行
 十二支考1 著者南方熊楠 東洋文庫215 平凡社 校訂者飯倉照平 昭和47年8月10日初版第1冊発行
 ちょっと探してみたところ、幾つか見覚えのある表紙が出てきました。

 来年の干支は蛇でしたね。
 この十二支考1の、蛇に関する民俗と伝説から、「十 蛇の変化」の一節を書き写してみてもお判りの通りですが、
 ・・・『和漢三才図絵』に「ある人、船に乗って琵湖(びわこ)を過ぎ、北浜に著いてしばらく納涼す。時に尺ばかりの小蛇あって遊(およ)ぎ来たり、蘆梢に上って廻舞し、下って水上を遊ぐこと十歩ばかり、また還って足梢に上ること初めのごとし。数次にしてようやく長じて丈ばかりとなる。けだし、これ升天の行法ならんか。ここにおいて黒雲掩うこと闇夜のごとく、白雨(ゆうだち)降ること車軸に似たり。竜は天に升(のぼ)り、わずかに尾を見る。ついに太虚に入って晴天となる」。誰も知るごとく、新井白石が河村瑞軒の婿に望まれた折、かようの行法に失敗して刃に死んだ末成の竜の譚を引いて断わった。・・・
 誰も知るごとくということも知りませんし、話題があっという間に場面転換してあらゆる方面にとんでいくという機智たるや凡人には及びもつかないといったところです。 

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習俗歳時記

2012/ 12/ 14
                 
くねゆい

 農家の一年の仕事の終ったものは家の垣根の修理をいたします。くねゆいと云って正月の支度でもあります。藪の生竹の先を順に曲げて繩でエボについた垣根や赤城山から取って来た篠の垣根、利根川原の萩で作った垣根等いずれも充分の風情があります。早く垣根作りをする事は早く仕事が片付したしるしですから、なるたけ早いのを誇りとする風習があります。
 七十三 くねゆい  「補修習俗歳時記」より
                 
        

煤掃き

2012/ 12/ 13
                 
歳時記

 昨日、'12年12月12日の午後6時45分頃から、NHK東京第一放送を聞くともなく聞いていましたら、長野県佐久地方の「十日夜(とうかんや)」のことを伝えていました。

 旧暦の十月十日に、稲や農作物を守ってくれるという神様が山に帰る日、収穫に感謝し、来年の五穀豊穣を祈る伝承行事の一つです。
 アナウンサーの話し声の合間を縫って、子どもたちの大きな響き渡る声と、藁鉄砲の音がマイクを通して聞こえてきます。
 「とうかんや、とうかんや、とうかんやのわらでっぽう。ゆうめしくって、ぶったたけ」
 「十日夜、十日夜、十日夜の藁鉄砲。夕飯食って、ぶっ叩け」

 同じ佐久地方でも子供たちの囃子言葉に違いがあるようです。
 「ソーレ、トーカンヤ、トーカンヤ。アサノソバキリニ、ヒルダンゴ。ユウメシクッテ、ブッタタケ」
 朝は蕎麦を食べ、昼は団子を食べ、そして夕食を食べる。昔は「夕餅食って」だったそうです。

 箱田の家の十日夜は以前にも書いています。
 「十日夜 十日夜 十日の晩には ねえらんねえ」
 「十日夜はいいもんだ 朝蕎麦切に 昼団子 夕めし食っちゃ ぶったたけ」

 信州と上州と、州の違いはあれ、お隣どうし、伝承行事、歳時記としての重みが伝わってきます。


七十二 煤掃き   「六十四 十日夜」に続き、「習俗歳時記(補修再販)」より
 十二月十三日は大掃除の日と定まっていました。大体春の四月下旬と十二月と二回大掃除はあります。最近では十三日は単に形式にする日として、今少し早く実施する様になりました。
 形式的にやる煤掃きは、竹の青葉のついた箒を作って天井や神棚の辺をはきます。それから神棚の障子をはりかえるのです。
 十三日の夜から神棚と向いの棚にあるオミタマ様に御燈明をあげるのです。之等の行事から見て、十三日の煤掃きはお正月を迎える第一の行事であったかも知れませぬ。
 現在の気持は一年中の跡片付けの気持がするのです。扨て実際の煤掃きの模様を記します。大体一部屋位臨時に(早く掃除をすませておいて)残す部屋を作ってそこへ家中の道具を運んで居きます。煤掃の日は家中、手伝いの人も共に一斉に、疊建具を持出します。私共は比較的家具類が少なくて畳だけが手間どります。家財が出し切ると家中の雨戸を全部閉します。それから煤取りが始まります。元来萱葺の二階家なのですが年中大火をたいて、いろりから絶えず煙が上がっていますから、二階は全部使用にたえません。昔養蚕の時使用したと言いますが、現在では煤の堆積にまかせてあります。従ってその煤ほこりというものは大変なもので家中まっ黒になってしまいます。全部の掃きたてて下におとします。それから縁の下をはきます。二階よりは縁の下の方がむしろずっとよごれていません。これらの煤を払ってから床板を掃除し天井を掃除します。前日から片付けて置いても畳を入れると夕刻になります。煤掃きが終ると一同手顔を洗ってから湯豆腐を一丁食べるのが例でした。
 今はパンや菓子類になりました。
                 
        

鯨料理

2012/ 12/ 12
                 
健康食 低カロリー、低脂肪、高タンパク

・栄養分比較 <資料:科学技術庁資源調査会編「5訂日本食品標準成分表」より(100g当たり実測値)>

1.エネルギー(kcal) 
・鯨肉 106
・牛肉 317
・豚肉 150
・鶏肉 138

2.コレステロール(mg)
・鯨肉 38
・牛肉 72
・豚肉 61
・鶏肉 77

3.タンパク質(g)
・鯨肉 24.1
・牛肉 17.1
・豚肉 22.7
・鶏肉 22.0

4.脂質(g)
・鯨肉  0.4
・牛肉 25.8
・豚肉  5.6
・鶏肉  4.8

クジラのパワーの源「バレニン」  
 今、クジラの持っているアミノ酸物質「バレニン」が、栄養源として注目されています。
鯨は死ぬまで子供を産み、生殖能力に老化がありません。鯨の多くは、半年間エサ場となる冷たい海で過ごし、繁殖期になると暖かい海に移動します。この時、鯨はほとんどエサをとらずに絶食状態で子育てをし、さらにそのまま数千キロも離れたエサ場へ、眠ることなく泳ぎ続けて戻っていくのです。このような驚きのパワーは、鯨が大量に持つ「バレニン」という、アミノ酸物質に源があると考えられています。
・「バレニン」含有量(mg/100g)
・マグロ類 赤身   不検出
・カツオ  赤身   痕跡有
・ナガスクジラ 赤身 1,466
・ミンククジラ 赤身 1,874
・マゴンドウ  赤身   553
・ウシ     筋肉    ~2
・ブタ     筋肉   ~48
<資料:阿部広喜、2005「魚の科学事典」より>


鯨から期待されるマリンビタミン


1.肝機能改善・体力増強・活力回復 ⇒[たんぱく質・アミノ酸](バレニン、アンセリン・カルノシン、L-カルチニン)

2.血圧低下 ⇒[たんぱく質・アミノ酸](ペプチド)

3.美肌効果  ⇒[たんぱく質・アミノ酸](コラーゲン)

4.痴呆症予防・ガン予防・コレステロール低下・学習機能向上・視力改善・中性脂肪低下・肥満予防 ⇒[脂質](DHA)

5.肥満予防・中性脂肪低下・血栓防止・血液改善 ⇒[脂質](EPA) 

6.疲労改善・不定愁訴改善・更年期障害改善 ⇒[脂質](コエンザイムQ10)

7.体調改善  ⇒[ビタミン]

8.貧血予防 ⇒[ミネラルFe]

9.骨強化 ⇒[カルシウム]

10.眼精疲労回復・抗酸化・美肌効果  ⇒[たんぱく質・アミノ酸](コンドロイチン) 

 (財)日本鯨類研究書編 南極海鯨類のPCB、総水銀濃度
1.PCB濃度(ppm湿重当り)
・ミンククジラ(脂皮)… 0.00018ppm
・魚介類の暫定的規制値…0.5ppm
2.総水銀濃度(ppm湿重当り)
・ミンククジラ(筋肉)… 0.027ppm
・魚介類の暫定的規制値…0.4

❀日本捕鯨協会編より
                 
        

洋酒マメ天国 27

2012/ 12/ 11
                 
洋酒マメ天国 架空会見記 27

 第1章 釈迦
 第2章 クレオパトラ
 第3章 成吉思汗
 第4章 徳川家康
 第5章 リンカーン
 第6章 高杉晋作
 第7章 キュウリ―夫人
  カット・和田誠


洋酒マメ天国第27巻     昭和43年2月30日発行
著者 池島信平        発行所サントリー株式会社

洋酒マメ天国27
 
                 
        

勇魚 (いさな)

2012/ 12/ 10
                 
鯨料理

 鯨の登美粋

鯨の登美粋-築地場外市場-公式ホームページ


・刺身
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・カツ
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・大和煮
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・竜田揚げ
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・鯨刺身定食と鯨カツ
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・築地場外市場入口
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・築地西通り (場外市場入って最初の横丁)
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・登美粋 (通りに面したところが売店、奥が食堂)
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・鯨メニューお値段
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・鯨単品料理お値段
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皇居東御苑

2012/ 12/ 08
                 
皇居東御苑

 久しぶりに訪れました。
 12月の紅葉も見事です。

 旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部が、宮殿の造営に合わせて皇居付属庭園として、整備されました。
 1968年(昭和43年)から公開されています。
 出入り門は、大手門、平川門及び北桔橋門の三つです。
 今日は、東京メトロ東西線竹橋駅で降り、平川門から入りました。
 入園料は無料です。
 11月1日から翌年2月末の公開時間は、午前9時~午後4時。午後3時半までの入場となっています。

 お昼は築地で鯨料理を頂きました。
 午後2時から、毎日ホールで開催のオランダ在住女流画家、吉屋敬さんの講演を聴きました。
 毎日新聞本社1階のアートサロン毎日で、白扇書道会選抜展が開かれていましたので、かえりがけにちょっとのぞいてきました。どうでもいいことかもしれませんが、作品の一つに「井上靖の詩」と添え書きに書くところを、「井上清の詩」となっていましたので、ついつい受付の女性の方に、?・・・を、お伝えしてしまいました。

 吉屋敬さんのこと、鯨料理のことは、ページを改めて載せたいと思います。



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ムッちゃん18

2012/ 12/ 06
                 
誕生日

 生誕26年。
 ムッちゃんは、1986年12月6日生れです。
 彼との一緒の生活は、1988年6月4日から2000年6月3日までの12年間でした。
 この地の住人になって早や26年経ちました。
 ブログ装い新たにしました。


 じゅんこさん 如何お過ごしですか。

 ムッちゃんの思い出の中にじゅんこさんとの生涯たった一日の在りし日のことが偲ばれます。


いがまんじゅう
 定住26年目にして初めて「いがまんじゅう」を頂きました。
 昨夜、Aさんに2つのお店の場所を詳しく教えてもらい、今日のお昼としました。
 一つのお店は、こしあん、もう一つのお店は、つぶあんが中に入っています。
 何れもほどよい甘さですが、つぶあんのほうが甘さがそれなりに口の中に残ります。
 まんじゅうの皮であんを包み、その外側をお赤飯で包み込んでいます。
 不思議な食べ物です。
 大きいので一つ食べただけで、あっというまにお腹がいっぱいになってしまいました。

二つのいがまんじゅう
❀左がこしあん、右がつぶあんのいがまんじゅう。

いがまんじゅうA
❀つぶあん(1個150円):田嶋製菓舗 埼玉県鴻巣市北根1639 tel 048-569-0054

いがまんじゅうB
❀こしあん(1個150円):一福 埼玉県鴻巣市広田2302 tel 048-569-0300




                 
        

遊民史

2012/ 12/ 05
                 
遊子vs遊民

遊子
 小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ
 緑なすはこべは萌えず 若草も藉くによしなし
 しろがねの衾の岡辺  日に溶けて淡雪流る
 ・・・

遊民
 ・・・   ・・・   ・・・   ・・・   ・・・
 ・・・ 遊民ではないが、遊民のもつ性格、人生観、行動に接触し交叉するものが代表的上州人の中に閃いているからこそ世評や批判の場合にやくざ的というものを特長として挙げるのではあるまいか。私は遊民こそ上州および上州人を知る一表出現象と見るのである。その意味で、遊民史を究明することによって、群馬県民性を最も具象的に考察できると考えた。要するに、歴史を通して遊民を知ることにより、演繹的に上州人を解剖しようと企てたのが一つの態度であった。
 ・・・   ・・・   ・・・   ・・・   ・・・


※遊子=家を離れて他郷にある人。旅する人。旅人。旅客。行客。
※遊民=職業もなく遊んでいる民。仕事もせずに遊んでいる人。のらくらもの。
※出典=広辞苑:昭和39年1月15日第1版第12冊発行による。


遊子で引用した詩は、島崎藤村の詩で有名な、小諸城址懐古園の詩碑、千曲川旅情の歌の前段。
遊民で引用した文は、萩原進著 「群馬県遊民史」、「序」からの抜粋。
 (昭和46年9月10日三版発行.発行所上毛新聞社)

群馬県遊民史
 第一部・総説篇
第一章  社会史的に見たやくざと武士の発生  
第二章  遊民を生む基盤と背景
第三章  分割統治の欠陥と応急補強策
第四章  集団としての考察
第五章  県民性とやくざ
第六章  上州無宿と博奕
第七章  上州やくざの社会的動向
第八章  やくざ対策の史的変遷
第九章  明治期の博徒
第一〇章 文学および芸能への影響
 第二部・やくざ列伝
第一章  江戸時代のやくざ
第二章  明治時代以降のやくざ
第三章  その他のやくざ
 第三部・雑記
 結 論 
 写真 と 表


 萩原朔太郎をテーマにした論文は立派に書きあがったことでしょう。昔のことを突如として思い出す今日この頃です。本文第十章 文学および芸能への影響 第六項、萩原朔太郎の詩『国定忠治の墓』
 近代詩人として高く評価されている前橋出身の萩原朔太郎が、昭和五年の冬に、わざわざ自転車で国定村までゆき、忠治の墓にゆき、「国定忠治の墓」という作品を遺している。近代詩人の詩想と、無頼の徒忠治が、どこに接点をもつものか、まことに興味深いものがある。詩のあとの詞書に、
  昭和五年の冬、父の病を看護して故郷にあり。人事みな落胆して、心列しき飢餓に耐えず、ひそかに家を脱し て自転車に乗り、烈風の砂礫を突いて国定村に至る。忠治の墓は荒涼たる寒村の路傍にあり。
  一塊の土塚、暗き竹藪の影にふるえて、冬の日の天日暗く、無頼の徒の悲しき生涯を偲ぶに耐えたり。我此所 を低徊して、始めて更に上州の粛条たる自然を知れり。路傍に倨して詩を作る。
とある。カラッ風の烈しい冬の日に、砂礫の道を自転車でゆきたくなった衝動はなんであったろうか。彼は上州の荒涼たる自然とその自然の落し子である国定忠治の「悲しき生涯」に自分を立たせている。朔太郎の見た、感じた忠治――それが作品の中にうたわれている。
  国定忠治の墓 
 わがこの村に来りし時
  以下、13行略   ・・・
 ・・・
 いかんぞ残生を新たにするも
 冬の粛条たる墓石の下に
 汝はその認識をも無用とせむ
             上州国定村にて 


群馬県遊民史
 ②
 ③




 





 
                 
        

洋酒マメ天国26

2012/ 12/ 03
                 
洋酒マメ天国 美女とり物語 26

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 ご存知、秋山庄太郎…といっても、知りませんという時代に入っているかもしれません…
原節子、山口淑子、藤田泰子、高峰秀子、淡島千景、角梨枝子…今でも語り継がれるお名前の数々…あっというまに読み終えてしまう洋酒マメ天国 美女とり物語 26 です。
 ・・・

第1章 幼少のみぎり
 ★ガキの頃から品定め ★ラブレターの中のサイコロ ★手の甲の記憶
第2章 性にめざめる頃
 ★性典に学ぶ ★憧れの女性原節子 ★恋の道はまわり道 ★恋愛あり失恋あり ★はじめて女に泣かれる
第3章 アマチュア カメラマンの頃
 ★喫茶トロイカの娘 ★勘当の一歩手前で ★カメラの本格修行 ★はじめて手を握る
第4章 プロカメラマンになる
 ★スタジオ設立する ★やむなく解散する ★憧れの原節子 ★女優を撮る ★思い出のスターのトップ・原節子 ★山口淑子と三船敏郎 ★藤田泰子におか惚れ ★思慮深い高峰秀子 ★淡島千景とキスマーク ★角梨枝子
第5章 美女はからだか顔か? はた心?
★ふすまの裏でオギャオギャ ★モデルとさくら紙 ★極メテ薄クの件 ★ジプシー・ローズと酒 ★女性美のゆくえは ★雰囲気美人型 ★舞台の美人 ★紅毛と日本人


洋酒マメ天国第26巻     昭和42年1月30日発行
著者 秋山庄太郎       発行所サントリー株式会社

洋酒マメ天国26
                 
        

戸惑ったこと

2012/ 12/ 01
                 
不思議なことあれこれ その1です。

 以前から思っていたことなのですが、洗濯用合成洗剤、衣料用漂白剤、台所用合成洗剤など、家庭で使う洗剤類の表示が有って無きが如く、文字が小さく見づらいですね。
 食器・野菜洗剤は、スーパーなどでは、「台所」コーナーにそれらしき種類がズラーツと並んでいますので、だいたいは間違えることなく手に取ることが出来ます。
 が、「洗濯」、「風呂」コーナーに並んでいる、洗濯用合成洗剤と衣料用漂白剤は、区分明記をしていないところがほとんどで、隣にあるからと、洗剤を手にしたつもりが、ついうっかりと、漂白剤を買い物かごにいれてしまったということが、ままありました。

 (勿論のことですが、家事のプロフェッショナルは、自分の好みのメーカーの銘柄品を使うので、予め商品を確かめてから購入するでしょうから、そういった間違いは起きないと思います。)

 初めて家事を手に染める若い人に判りやすいように。
 買い物を言いつけられて、勝手を知らない人でも、判りやすいように。
 (これから高齢化社会はどんどん進んでいきます。)
 目も不自由になり手元が覚束ないお年寄りにも判りやすいように。

 製造メーカーとしてはラベル印刷も昔からずっと同じスタイルを踏襲しているので、エンドレスユーザーのそういった戸惑いなど少しもご存知ないのでしょう。
 おそらくは、テレビなどで広告流して、商品名が浸透しているから、ネーミングで事足りているという自信に満ち溢れた結果、そうなっているのかも知れません・・・
 商売戦略、まだまだ手前勝手が多いようにもお見受けします。

 くらしの中の戸惑いが、まだまだいっぱいあります。
 今回は、日常から、その1です。


洗濯用合成洗剤

衣料用漂白剤

台所用合成洗剤