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ヒヨドリ

2013/ 01/ 27
                 
ピィーヨ ピィーヨ、ピルル

 鵯、ひよどり、ひよ。
 
 人のする絶叫なるを鵯もする 相生垣瓜人

 
 雌雄同色。灰褐色で、胸に縦斑がある。頭には赤褐色がみられ、下尾筒は灰褐色。淡色の羽緑が特徴。
 雑食。狩猟鳥。
 国内では普通に見ることが出来ます。木の実が熟す頃になるとわが家の庭に訪れます。
 キウイフルーツの実は勿論のこと、先日は万両の赤い実を啄ばんでいました。
 白椿の蜜もよく吸っています。
 分布がほぼ日本に限られるため、海外のバードウオッチャーにとっては、観察したい野鳥の一つとなっています。


ヒヨドリ⑦
ヒヨドリ:わが家の庭の訪問者
                 
        

スズメ

2013/ 01/ 26
                 
 
 「雀」という語が入っていて、季語になるのは、「雀の子」「雀の巣」です。
 営巣、産卵は春ばかりではありませんが、4月頃に始まる巣作りが一番目立つので、春を表す季語となっています。
 「雀」だけでは季語となりません。一年中最も身近に見ることが出来る野鳥だからでしょう。
 昔から身近な鳥として親しまれていますので、「語彙」「家紋」「落語」「説話」「民話」「童話」「童謡」など、あちこちに「雀」の名前が刻まれています。
 徳川家御指南番柳生氏の家紋は「地楡に雀(われもこうにすずめ)」。戦国時代から名高い、上杉氏、伊達氏の家紋はもともと勧修寺家の「雀の丸」。後に竹で囲った「勧修寺笹」の流れを受け、それぞれ「宇和島笹」「仙台笹」を継いでいます。
 「雀の恩返し」(譚)、「舌切り雀」(民話)、「腰折雀」(説話)、「抜け雀」(落語)、「雀」(童謡)、「雀のお宿」(童謡)、「雀の学校」(童謡)、欣喜雀躍(四文字熟語)。
 「すずめ刺し」は、調理の名前ですが、「すずめ焼き」は、将棋の戦法の一つです。

 スズメ⑦

 スズメ⑧
スズメ:わが家の庭の訪問者

                 
        

シジュウカラ

2013/ 01/ 25
                 
暫くは四十雀来てなつかしき 高浜虚子

 俳句の季語としては秋の野鳥です。
 里山から移動してくる暮れに入ってから、わが家の庭に訪れます。
 黒い頭と白い頬。胸にネクタイのような黒い模様がありますが、太いのがオスで、細いのがメスです。
 「ツピー、ツピー、ツピー(ツィピー、ツィピー、ツィピー)」と地鳴きします。

 先日、栃木のゴルフ場で、山雀と日雀を数羽ずつ見ることが出来ました。


シジュウカラオス①

シジュウカラオス②

四十雀メス①

四十雀メス②

シジュウカラ:わが家の庭の訪問者 (上2枚が同じオスの個体。下2枚が同じメスの個体。)
                 
        

メジロ

2013/ 01/ 24
                 
「さえずり」「地鳴き」

 ウグイスのオスのさえずりは「ホーホケキョ、ホーホケキキヨ、ケキョケ キョケ キョ… …」と鳴きます。ちなみに「ホーホケキョ」が接近する他の鳥に対する縄張り宣言で、縄張りに侵入した者への威嚇が「ケ キョケ キョ」だそうです。
 地鳴きは「チャッ チャッ」となります。

 メジロもオスだけがさえずります。
 古来、日本人はメジロの鳴き声を愛で、歌にも詠みこまれてきました。さえずるのはオスですので、オスのみが重宝されてきたというそういう過去の一端をも持ち合わせているメジロ。
 メジロは雑食性ですが、花の蜜を好むことから、地方によっては「はなすい」「はなつゆ」とも呼ばれています。
 「チー、チー」という地鳴きが聞こえたら、あたりの様子をうかがってみてください。あれ、こんなところにもメジロがいるんだ。と、きっと驚かれると思います。 
 
 メジロはその容姿に似合わず、ことのほか縄張りや順位に煩く、仲間はもちろんのこと、シジュウカラ、ジョウビタキなど他の小鳥たちが近寄ってきてもすぐ追い散らします。相手に飛びかかって嘴をバチッ、バッチと鳴らしたり、カタカタと鳴らして威嚇します。そのするどい嘴に突っつかれ時にはけがをするものもいるやに聞きます。
 私のみた範囲では、つがいの場合、いつも強いのはメスの方です。
 メスとオスの個体の違いが判るの?・・・と、素朴なクェッションが湧いてくるかも知れませんね・・・。

メジロ⑦
メジロ:わが家の庭の訪問者
                 
        

立ち止まる日常

2013/ 01/ 22
                 
瀬下梓 日本画展

 瀬下梓さんの作品と初めて出会ったのは、昨年の6月10日、東京松屋銀座店で開催された、ELEVEN Girls Art Collection の初日でした。
 宏有さんから、猫や犬など小さい動物たちが描かれた作品を特に丁寧に見てきてねと申し付かったこともあって、画家の皆さんともお話しする機会を得ることが出来ました。
 その中の一人が瀬下梓さんでした。
 
 昨年暮れに、ELEVEN Girls Art Collection が、広島で開かれましたが、その時に瀬下さんが出展したうちの一つ、猫の作品〔見てるよ。〕が宏有さんの目に留まりました。
 機会があれば実物を目の当たりにしたいと言っていましたので・・・。


 朝日新聞、2013年1月22日(火)朝刊、【埼玉マリオン】
 ◆瀬下梓 日本画展 

 瀬下梓 日本画展①


伊勢丹浦和店
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 シジュウカラ⑦
                 
        

信濃の国

2013/ 01/ 19
                 
善光寺平

姥捨SAより善光寺平を望む(2013.01.19)
2013.01.19善光寺平

姥捨SAより善光寺平を望む(2012.11.15)
2012.11.15 善光寺平



松本平

安曇野より松本平方面を望む(2013.01.19)
安曇野より松本平を望む(2013.01.19)

安曇野より松本平方面を望む(2012.11.15)
安曇野より松本平を望む(2012.11.15)






信濃の国

作詞 浅井 洌(れつ/きよし)
作曲 北村 季晴(すえはる)
1.
信濃の国は十州じっしゅうに 境さかい連つらぬる国にして
聳そびゆる山は いや高く  流るる川は いや遠し
松本 伊那 佐久 善光寺  四つの平たいらは肥沃ひよくの地
海こそなけれ 物さわに  万よろず足たらわぬ事ぞなき
2.
四方よもに聳そびゆる山々は  御嶽おんたけ 乗鞍のりくら 駒ヶ岳
浅間あさまは殊ことに活火山  いずれも国の鎮しずめなり
流れ淀まず ゆく水は  北に犀川さいがわ 千曲川ちくまがわ
南に木曽川 天竜川 これまた国の固かためなり
3.
木曽の谷には真木まき茂しげり  諏訪すわの湖うみには 魚うお多し
民たみのかせぎも豊かにて  五穀の実らぬ里やある
しかのみならず桑とりて  蚕飼こがいの業わざの打ちひらけ
細きよすがも軽かろからぬ  国の命を繋つなぐなり
4.
尋たずねまほしき園原そのはらや  旅のやどりの寝覚ねざめの床とこ
木曽の棧かけはし かけし世も  心してゆけ久米路橋くめじばし
くる人多き筑摩つかまの湯  月の名に立つ姨捨山おばすてやま
しるき名所と風雅士みやびおが  詩歌しいかに詠よみてぞ伝えたる
5.
旭将軍義仲よしなかも  仁科にしなの五郎信盛のぶもりも
春台しゅんだい太宰だざい>先生も  象山ぞうざん佐久間先生も
皆みな此この国の人にして  文武の誉ほまれ たぐいなく
山と聳そびえて世に仰あおぎ  川と流れて名は尽つきず
6.
吾妻あずまはやとし 日本武やまとたけ  嘆なげき給たまいし 碓氷山うすいやま
穿うがつ隧道トンネル二十六  夢にもこゆる汽車の道
みち一筋に学びなば 昔の人にや劣おとるべき
古来山河の秀ひいでたる国は偉人のある習い
                 
        

繪本 平家物語

2013/ 01/ 18
                 
安野光雅 1926年、島根県津和野に生まれる。
 1974年度芸術選奨文部大臣賞、ブルックリン美術館賞(アメリカ)、BIB金のリンゴ賞(チェコスロバキア)、ボローニア国際児童図書展グラフィック大賞(イタリア)、1984年国際アンデルセン賞、昭和63年紫綬褒章など、内外の数多くの賞を受賞。
 主な著書に、『ABCの本』『旅の絵本』(福音館書店)、『安野光雅の画集』『歌の絵本Ⅰ・Ⅱ』『読書画録』『黄金街道』『みちの辺の花』(講談社)、『算私語録』全3巻『イタリアの丘』(朝日新聞社)、『空想工房』『空想書房』(平凡社)、『安曇野』(文藝春秋)、『ZEROより愛をこめて』(暮らしの手帖社)、『エブリシング』(青土社)、『安野光雅・文集』全6巻(筑摩書房)など。編著に、『燐寸文学全集』(筑摩書房)など。

繪本 平家物語  
著者 安野光雅
発行所株式会社講談社


 作者が 『平家物語』とわたし――あとがきにかえて と題した6ページに及ぶ後段に、次のように述べている。
 ・・・つまり、ほとんどの人物は差引ゼロという感じになっている。実際の世の中の人間像もおよそそんなもので、人間は独裁者でさえも歴史の中に埋没していく。この物語の英雄たちも、しょせん物語という大きな時代の流れの脇役にすぎないと思う。
 武田泰淳の『滅亡について』(岩波文庫)のなかに、武田泰淳が鈴木大拙に「諸行無常の無常とは、常に変り、瞬時も同じことはない、ということではないでしょうか」という意味のことを聞き、そうだと言われて我が意を得るくだりがある。わたしはその意味で「無常」という言葉が好きである。
「おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
 たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」
 とはよく言ったものである。
 亡びることは、はかない。しかし亡びることは、新しいものを生みだすことでもある。歴史は滅亡と新生の繰り返しなのだから、詠嘆は、心をとりなおすために必要な、浄化の手段なのかもしれない。・・・


 木曾最後 きそのさいご

 木曽は丹波路へ向かうとも、また、竜花越(りゅうげごえ)を行って北国へ向かおうとも考えたが、やはり今井のことが気にかかるため勢田への道をとる。
 今井四郎兼平(かねひら)は勢田を固めていたが、主のことを思い、旗を巻いて都へとって返した。
 二者は、運よく大津の打出(うちで)の浜で出会った。共に戦い共に死のうと契(ちぎ)った主従である。この偶然に心をとりなおし、巻いた旗をほどいて散った兵を集めれば、義仲の妻、巴御前(ともえごぜん)も馳せ参じた。
 巴は色白く、髪は長く、美しい上に一騎当千の兵者(つわもの)で、これまでも鎧(よろい)をつけ大太刀(おおだち)を持って戦った度々の高名には、ならぶものがないほどであった。
 木曽軍は戦列を立て直して最後の戦いをいどむが、いかにも多勢に無勢である。
 凄惨な戦いとなり、兼平の味方は僅か五騎となった。しかし、この戦いの折り巴御前は勇将御田八郎師重(おんだのはちろうもろしげ)を組みふせ、首をとった後、鎧を脱ぎ捨てて東の方へ落ちていった。
 今井四郎は「わたしが防いでいるうちに、かの松林にかくれて自害なされ」と義仲に進言するが、その甲斐もなく、疲れた馬が深田にはまったとき、三浦の石田の次郎為久(ためひさ)という武者に射られて落命する。
 これを知った今井四郎は最後の名乗りをあげ、太刀の鋒(さき)を口に含み、馬から飛んで自害した。


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平家物語

2013/ 01/ 17
                 
義仲忌

 陰暦正月二十日。源平争乱期の武将、源義仲、俗にいう木曾義仲の忌日。
 この日、大津市の義仲寺で忌を修する。
 治承4年(1180)、26歳のとき、信濃の木曾で平氏討伐の兵をおこし、京都に入る。後白河法皇と意を異にし、その御所を焼き討ち。
 寿永3年(1184)、征夷大将軍に任ぜられ、朝日将軍と称したが、同年、源頼朝の命を受けた、源義経・源範頼率いる連合軍との戦いによって、近江琵琶湖畔粟津で戦死。
 享年31歳。

 人に逢へぬ帰途の追風義仲忌 原子公平


 例年1月21日、大津市の兼平庵において、今井四郎兼平墓前祭開催。




平家物語 ~巻第九

(一)
 木曾殿は信濃より、巴(ともゑ)・山吹とて、二人の美女を具せられたり。山吹は労(いたは)りあつて、都にとどまりぬ。なかにも巴は、色白く髪長く、容顔まことにすぐれたり。ありがたき強弓(ゆよゆみ)精兵(せいびやう)、馬の上、徒歩(かち)立ち、打ち物持つては鬼にも神にも会はうどいふ一人当千のつはものなり。究竟(くつきやう)の荒馬乗り、悪所落とし、いくさといへば、札(さね)よき鎧着せ、大太刀・強弓持たせて、まづ一方の大将には向けられけり。度々(どど)の高名、肩を並ぶる者なし。さればこのたびも、多くの者ども落ち行き討たれけるなかに、七騎がうちまで巴は討たれざりけり。
 
 木曾は長坂を経て、丹波路へおもむくとも聞こえけり。また竜花越(りゆうげごえ)にかかつて、北国へとも聞こえけり。かかりしかども、「今井がゆくへを聞かばや」とて、勢田の方へ落ち行くほどに、今井四郎兼平も、八百余騎で勢田を固めたりけるが、わづかに五十騎ばかりに討ちなされ、旗をば巻かせて、主のおぼつかなきに、都へとつて返すほどに、大津の打出の浜にて木曾殿に行き会ひたてまつる。互(たがひ)に中一町ばかりより、それと見知って、主従駒を早めて寄り合うたり。
 
(現代語訳)
 
 木曾殿は信濃から、巴・山吹といって、二人の近習の女を連れてこられた。山吹は病気の為に都に残った。巴は、色白く髪長く、容色がとても美しかった。その上にめったにない強弓の射手で、馬上でも徒歩でも、太刀を持てば鬼でも神でも相手にしようという、一人当千の女武者だった。抜群の荒馬の乗り手で、難所落としの名手であり、戦というと、(義仲は)札の堅固な鎧を着せ、大太刀・強弓を持たせて、まず一方の大将としてお向けになった。たびたびの巧妙手柄に肩を並べる者はない。それでこのたびも多くの者が敗走し討たれた中で、残り七騎になるまで巴は討たれなかった。
 
 木曾は長坂を通って丹波路へ向かうとも言われた。また竜花越えをして北国へ落ちたとも噂された。このような噂はあったが、木曾は「今井(兼平)の行方を知りたいものだ」と思い、勢田の方へ落ちていくうちに、今井の四郎兼平も、八百余騎で勢田を守っていたが、わずか五十騎ほどに討ちへらされ、従者に旗を巻かせて、主君義仲が気がかりなので、都へ引き返すところを、大津の打出の浜で、木曾殿にばったり会われた。お互いに一町ほど離れたところからそれとわかり、主従は馬を急がせて寄り合った。
  
 
(二)
 木曾殿、今井が手を取つてのたまひけるは、「義仲、六条川原でいかにもなるべかりつれども、なんぢがゆくへの恋しさに、多くの敵(かたき)の中を駆けわつて、これまではのがれたるなり」。今井四郎「御諚まことにかたじけなう候ふ。兼平も勢田で討死つかまつるべう候ひつれども、御ゆくへのおぼつかなさに、これまで参つて候ふ」とぞ申しける。木曾殿「契りはいまだ朽ちせざりけり。義仲が勢は、敵に押し隔てられ、山林に馳せ散つて、この辺にもあるらんぞ。なんぢが巻かせて持たせたる旗、上げさせよ」とのたまへば、今井が旗をさし上げたり。京より落つる勢ともなく、勢田より落つる者ともなく、今井が旗を見つけて、三百余騎ぞ馳せ集まる。木曾大きに喜びて、「この勢あらば、などか最後のいくさせざるべき。ここにしぐらうで見ゆるは、誰が手やらん」「甲斐の一条次郎殿とこそ承り候へ」「勢はいくらほどあるやらん」「六千余騎とこそ聞こえ候へ」「さてはよい敵ごさんなれ。同じう死なば、よからう敵に駆け会うて、大勢の中でこそ討死をもせめ」とて、まつ先にこそ進みけれ。
 
(現代語訳)
 
 木曾殿が、今井の手を取っていうことには、「義仲は六条河原で最後を迎えるつもりであったが、お前の行方が気がかりで、多くの敵の中を駆けわって、ここまで逃れてきた」。今井の四郎は、「お言葉まことに有難く存じます。兼平も勢田で討死いたすつもりでございましたが、お行方が気がかりで、ここまで参りました」と申し上げた。木曾殿は「死ぬなら一所で死のうという約束はまだ朽ちていなかった。義仲の軍勢は敵に押し隔てられて、山林に馳せ散ってしまい、この辺りにもいようぞ。お前が従者に巻かせて持たせている旗を上げさせよ」とおっしゃると、今井の旗を差し上げた。京より落ちのびた軍勢ともなく、勢田より落ちのびた軍勢ともなく、今井の旗を見つけて、三百余騎が馳せ集まった。木曾はだいそう喜び、「この勢力があれば、最後の一戦をせずにはすまされない。そこに集まって見えるのは誰の手勢か」「甲斐の一条次郎殿と聞いております」「兵力はどのくらいあるのだろうか」「六千余騎と聞いております」「それは格好の敵であるようだ。同じ死ぬなら、よい敵に駆け合い、大軍の中でこそ討死をしたいものだ」といい、真っ先に進んだ。
 
 
(三)
 木曾左馬頭(きそのさまのかみ)、その日の装束には、赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、唐綾縅(からあやおどし)の鎧(よろい)着て、鍬形(くはがた)打つたる甲(かぶと)の緒締め、厳物(いかもの)作りの大太刀はき、石打ちの矢の、その日のいくさに射て少々残つたるを、かしら高に負ひなし、滋籘(しげどう)の弓持つて、聞こゆる木曾の鬼葦毛(おにあしげ)といふ馬の、きはめて太うたくましいに、金覆輪(きんぶくりん)の鞍(くら)置いてぞ乗つたりける。鐙(あぶみ)ふんばり立ち上がり、大音声をあげて名のりけるは、「昔は聞きけんものを、木曾冠者、今は見るらん、左馬頭兼 伊予守(いよのかみ)、朝日将軍源義仲ぞや。甲斐の一条次郎とこそ聞け。互によい敵(かたき)ぞ。義仲討つて兵衛佐(ひやうゑのすけ)に見せよや」とて、をめいて駆く。一条次郎、「ただいま名のるは大将軍ぞ。余すな者ども、もらすな若党、討てや」とて、大勢の中に取りこめて、われ討つ取らんとぞ進みける。
 
(現代語訳)
 
 木曾左馬頭のその日の装束は、赤地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧を着て、鍬形を打ちつけた甲の緒を締め、いかめしいつくりの大太刀を脇に差し、石打ちの矢でその日の戦で射て少々残ったものを左肩に高く見えるように背負い、滋籘の弓を持って、名高い木曾の鬼葦毛という馬でとても太くたくましいのに、金覆輪の鞍を置いて乗っていた。鐙をふんばって立ち上がり、大音声をあげて名乗るには、「昔聞いたであろう木曾冠者を、今その目で見ていよう、左馬頭兼伊予守、朝日将軍・源義仲である。そなたは甲斐の一条次郎と聞く。互いに好敵である。この義仲を討って兵衛佐(頼朝)に見せるがよかろう」といい、大声で突進した。一条次郎は、「今名乗った者は大将軍である。逃がすな者ども、討ちもらすな若党、討て」といい、大勢の中に義仲を取り囲んで、われこそが討ち取らんと進んだ。
 
 
(四)
 木曾三百余騎、六千余騎が中を縦さま・横さま・蜘蛛手(くもで)・十文字に駆け割つて、後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。そこを破つて行くほどに、土肥次郎実平(どひのじらうさねひら)二千余騎で支へたり。それをも破つて行くほどに、あそこでは四、五百騎、ここでは二、三百騎、百四、五十騎、百騎ばかりが中を駆け割り駆け割り行くほどに、主従五騎にぞなりにける。五騎がうちまで巴は討たれざりけり。木曾殿、「おのれは疾(と)う疾う、女なれば、いづちへも行け。われは討死(うちじに)せんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曾殿の、最後のいくさに女を具せられたりけりなんど言はれんことも、しかるべからず」とのたまひけれども、なほ落ちも行かざりけるが、あまりに言はれ奉りて、「あつぱれ、よからう敵がな。最後のいくさして見せ奉らん」とて、控へたるところに、武蔵国に聞こえたる大力(だいぢから)、御田八郎師重(おんだのはちらうもろしげ)、三十騎ばかりで出で来たり。巴、その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べ、むずと取つて引き落とし、わが乗つたる鞍(くら)の前輪(まへわ)に押しつけて、ちつとも動かさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。その後物の具脱ぎ捨て、東国の方(かた)へ落ちぞ行く。手塚太郎(てづかのたらう)討死す。手塚別当(てづかのべつたう)落ちにけり。
 
(現代語訳)
 
 木曾の三百余騎は、敵の六千余騎の中を、縦に、横に、八方に、十文字に駆け破り、敵軍の後方へつつっと抜け出たところ、味方は五十騎ほどになっていた。突破してくる途中に、土肥次郎実平が二千騎で防いでいた。それをも突破して、あちらで四、五百騎、こちらで二、三百騎、また百四、五十騎、さらに百騎を駆け破り駆け破りしていくうちに、ついに木曾主従あわせて五騎になってしまった。その五騎になっても、巴は討たれなかった。木曾殿は、「おまえは早く早く、女なのだから、どこへでも逃げていけ。自分は討死しようと思う。もし人手にかかるようならば自害しようと思うので、木曾殿が、最後のいくさに女を連れていたなどと言われては残念だ」とおっしゃった。巴はそれでも落ち延びようとしなかったが、あまりに強く言われ、「ああ、よい敵がいればよいのに。最後の戦いをしてお見せいたしましょう」と言っていたところ、ちょうど武蔵国で有名な大力の、御田八郎師重が三十騎で現れた。巴はすぐにその中に駆け入り、御田八郎の馬に押し並べ、むずと御田をつかんで引き落とし、自分の馬の鞍の前輪に押しつけて、少しも身動きをさせず、御田の首をねじ切って捨てた。そうして、巴は鎧や甲を脱ぎ捨てて、東国の方へ落ちていった。この時、木曾の家来の手塚太郎が討死した。また、手塚別当は逃げてしまった。
 
 
(五)
 今井四郎、木曾殿、ただ主従二騎になつて、のたまひけるは、「日ごろは何とも覚えぬ鎧(よろひ)が、今日は重うなつたるぞや」。今井四郎申しけるは、「御身(おんみ)もいまだ疲れさせたまはず。御馬も弱り候はず。何によつてか一領の御着背長(おんきせなが)を重うはおぼし召し候ふべき。それは御方(みかた)に御勢(おんせい)が候はねば、臆病でこそ、さはおぼし召し候へ。兼平(かねひら)一人(いちにん)候ふとも、余の武者千騎とおぼし召せ。矢七つ八つ候へば、しばらく防き矢仕らん。あれに見え候ふ、粟津(あはづ)の松原と申す。あの松の中で御自害候へ」とて、打つて行くほどに、また新手(あらて)の武者五十騎ばかり出で来たり。「君はあの松原へ入らせたまへ。兼平はこの敵(かたき)防き候はん」と申しければ、木曾殿のたまひけるは、「義仲、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れ来るは、汝(なんぢ)と一所(いつしよ)で死なんと思ふためなり。所々で討たれんよりも、一所(ひとところ)でこそ討死をもせめ」とて、馬の鼻を並べて駆けんとしたまへば、今井四郎、馬より飛び降り、主(しゆう)の馬の口に取りついて申しけるは、「弓矢取りは、年ごろ日ごろいかなる高名(かうみやう)候へども、最後の時不覚しつれば、長き疵(きず)にて候ふなり。御身は疲れさせたまひて候ふ。続く勢(せい)は候はず。敵に押し隔てられ、言ふかひなき人の郎等(らうどう)に組み落とされさせたまひて、討たれさせたまひなば、『さばかり日本国に聞こえさせたまひつる木曾殿をば、それがしが郎等の討ちたてまつたる』なんど申さんことこそ口惜しう候へ。ただあの松原へ入らせたまへ」と申しければ、木曾、「さらば」とて、粟津の松原へぞ駆けたまふ。
 
(現代語訳)
 
 今井四郎と木曾殿は、たった主従二騎となり、木曾殿が言うには、「ふだんは何とも思わない鎧が、今日は重うなったぞ」。今井四郎が申し上げるには、「お体もまだお疲れになってはおりません。御馬も弱ってはいません。どうして一着の鎧を重くお思いになるのでしょうか。それは味方に軍勢がいないため、弱気となり、そのようにお思いになるのでしょう。この兼平一人ですが、他の武者千騎だとお思いくださいませ。矢が七、八本残っていますので、しばらく防ぎ矢をいたしましょう。あそこに見えるのが粟津の松原と申します。殿は、あの松の中で御自害なさいませ」、そう言って馬を進めていくと、また新手の敵の武者五十騎ほどが現れた。「殿はあの松原へお入りください。兼平はこの敵を防ぎます」と言えば、木曾殿は、「この義仲は、都で討死するはずだったが、ここまで逃れてきたのは、お前と同じ所で死のうと思ったからだ。別々の所で討たれるより同じ場所で討死しよう」と言って、馬の鼻先を並べて駆けようとした。今井四郎は馬から飛び降り、主君の馬の口に取りついて、「武士たる者は、日ごろいかに功名がありましても、最後の時に失敗をしてしまいますと、永遠の不名誉となってしまいます。殿のお体はお疲れです。従う軍勢もございません。敵に間を押し隔てられ、取るに足らない者の家来に組み落とされ、お討たれなさって、『あれほど日本国で勇名を馳せられた木曾殿を、誰それの家来がお討ち申し上げた』などと言われるのは無念でございます。今はただ、あの松原へお入りなさいませ」と申し上げた。木曾は、「それならば」と言い。粟津の松原へ馬を走らせた。
  
 
(六)
 今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、鐙(あぶみ)踏んばり立ち上がり、大音声あげて名のりけるは、「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にも見たまへ。木曾殿の御乳母子(おんめのとご)、今井四郎兼平、生年(しやうねん)三十三にまかりなる。さる者ありとは鎌倉殿までも知ろし召されたるらんぞ。兼平討つて見参(げんざん)に入れよ」とて、射残したる八筋(やすぢ)の矢を、差しつめ引きつめ、さんざんに射る。死生(ししやう)は知らず、やにはに敵八騎射落とす。その後、打ち物抜いてあれに馳せ合ひ、これに馳せ合ひ、切つて回るに、面(おもて)を合はする者ぞなき。分捕りあまたしたりけり。ただ、「射取れや」とて、中に取りこめ、雨の降るやうに射けれども、鎧(よろひ)よければ裏かかず、あき間(ま)を射ねば手も負はず。
 
 木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆けたまふが、正月二十一日、入相(いりあひ)ばかりのことなるに、薄氷(うすごほり)張つたりけり。深田(ふかだ)ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬のかしらも見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。今井が行方のおぼつかなさに、振り仰ぎたまへる内甲(うちかぶと)を、三浦の石田次郎為久(いしだのじらうためひさ)、追つかかつて、よつ引いて、ひやうふつと射る。痛手なれば、真甲(まつかう)を馬のかしらに当ててうつぶしたまへるところに、石田が郎等二人落ち合うて、つひに木曾殿の首をば取つてんげり。太刀の先に貫き、高くさし上げ、大音声をあげて、「この日ごろ日本国に聞こえさせたまひつる木曾殿を、三浦の石田次郎為久が討ち奉りたるぞや」と名のりければ、今井四郎、いくさしけるが、これを聞き、「今は誰(たれ)をかばはんとてか、いくさをばすべき。これを見たまへ、東国の殿ばら。日本一の剛(かう)の者の自害する手本」とて、太刀の先を口に含み、馬よりさかさまに飛び落ち、貫かつてぞ失(う)せにける。さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。
 
(現代語訳)
 
 今井四郎はただ一騎で、五十騎ほどの敵中に駆け入り、鐙を踏んばって立ち上がり、大音声で名乗った、「日ごろはうわさにも聞いていよう、今はその目で御覧あれ。木曾殿の御乳兄弟、今井四郎兼平、生年三十三に相成る。そういう者がいるとは、鎌倉殿(頼朝)さえも御存知であろうぞ。兼平を討ってお目にかけよ」と言って、射残した八本の矢を、つがえては引き、つがえては引き、さんざんに射た。自分の命を顧みず、たちまちに敵八騎を射落とした。その後、太刀を抜いてあちらに馳せ向かい、こちらに馳せ向かいし、切って回ると、正面から立ち向かってくる者がいない。敵の武器を多く分捕った。敵は、ただ、「射殺せ」と言って兼平を中に取り囲み、雨が降るように矢を射たが、兼平の鎧がよいので裏まで通らず、鎧のすき間を射ないので、今井は傷も負わない。
 
 木曾殿はただ一騎で、粟津の松原へ駆け入ったが、折しも正月二十一日の日没時だったので、薄氷は張っており、深田があるとも知らずに、馬をざっと乗り入れたところ、馬の頭も見えなくなった。あおってもあおっても、鞭を打っても打っても馬は動かない。今井の行方が気がかりになり、振り向いて顔を上げたその甲の内側を、三浦石田次郎為久が追いかかって、弓を十分に引き絞ってひょうと射るとふっと射抜いた。木曾殿は深手を負い、甲の正面を馬の頭にあててうつ伏せになった、そこへ石田の家来二人が駆けつけて、ついに木曾殿の首を取ってしまった。太刀の先に貫き通し、高く差し上げ、大音声で、「近ごろ日本国に名を馳せられていた木曾殿を、三浦石田次郎為久がお討ち申したぞ」と名乗りをあげたので、今井四郎は戦いの最中だったが、これを聞き、「もはや誰を守ろうとして戦う必要があろうか。これを見よ、東国の方々、日本一の剛勇の者の自害する手本だ」と言って、太刀の先を口にくわえ、馬からさかさまに跳んで落ち、貫かれて死んでしまった。こうして粟津の合戦は終わった。
  
                 
        

洋酒マメ天国 29

2013/ 01/ 16
                 
チャタレー裁判 世界大百科事典 第2版

 英文学者伊藤整が全訳した「チャタレイ夫人の恋人」が、刑法175条の猥褻文書販売罪に問われた事件。
 第二次世界大戦前には、同書の英語原版は春本の扱いを受けて、関税定率法上の輸入禁止図書とされていたが、戦後には原作者、D.H.ロレンス文学は高く評価されるようになり、1950年に出版されたこの翻訳本は、戦後期の開放的文化の風潮を象徴して広く歓迎された。それだけに、その摘発と起訴(1950年9月)は、憲法の保障した表現の自由を危うくさせる、文芸に対する国家の統制強化として、深い関心を引き起こしている。
 ※伊藤整版の「チャタレイ夫人の恋人」に関しては、最高裁で有罪が確定していますので、現在も発禁のままです。これ以降、何度も完訳本が刊行されていますが、何ら問題となっていません。
 ※なお、新潮文庫版の、伊藤整・伊藤礼の共訳本は、【共訳】という表現だけが異なりますが、内容は初版本と全く同じです。
 ※時代とともに、【猥褻物】という捉え方が変わってくるという、代表的なモデルケースといえるでしょう。

 
 洋酒マメ天国 NUDEのカクテル 29

 序章より
 ・・・ しかし、ヌードとは、もともと「人間が衣服を着ていない状態」を意味する言葉にすぎず、とくに性別はないし、またエロチックな感じもふくまれているわけではない。英語のヌード nude の語源はラテン語のヌードウス nudus であり、さらにその語源はサンスクリットのナグダ nagds であって、これは由緒正しい古い言葉なのだ。
 私の翻訳したサドの『悪徳の栄え』が発禁処分を受けて、裁判になったとき、法廷に出てきた証人のひとり(夫人矯風会のおばさんであった)が、「芸術的な裸婦なら結構なのでございますけれども、ヌード的な裸体は困るのでございます」と言ったので、私は思わず吹き出してしまったことがあった。このおばさんのように、ヌードといえば、何かいかがわしいものと決め込んでいる人も、意外に多いような気がするが、どんなものだろうか。・・・

序 章
第1章 セミ・ヌードの時代
第2章 ヌード・プロフェッショナル
第3章 紅毛・碧眼の美女たち
第4章 オンナ・部分の追究
第5章 昭和元禄の若いハダカ
 写真
 稲村 隆正
 秋山庄太郎
 中村 正也
 細江 英公
 篠山 紀信

洋酒マメ天国第29巻    昭和43年10月30日発行
著者 渋沢 龍彦      発行所サントリー株式会社


洋酒マメ天国 29

 
                 
        

藪入りと千疋粥

2013/ 01/ 15
                 
雪の影響は、如何でしたか。 陣中お伺い申し上げます。

 今日も、ウグイスが顔を出しました。
 おそらく、毎日来ているのでしょう。
 一度は、ピントの合った写真を撮りたいと思っています。
 これからはもうちょっと熱心に庭に訪れる皆さんの動静をキャッチしようと思います。



二十二 藪入りと千疋粥

 十六日は昔から閻魔様の日だと云います。私の家では小正月としてただ休むだけですが、昔は藪入りと称して奉公人は家に帰って一泊してくるのでした。私の家では大正月の中に数日休みがありましたが百姓仕事をしている人達と女衆(昔は女中さんの事を女衆と呼びました)は早く宿入りして家に戻りましたが、お店の(質屋をしていたのです)小僧さんはやはり藪入りを行い十六日帰り二晩泊まってきました。
 十六日には又厩肥を出す日でもありました。そしてその日は大豆を煮て馬にやり又藁苞にのせ、村の三本辻に出して牛馬に供養する日でした。これを千疋粥というのでした。

習俗歳時記(補修再版)より


P1020023.jpg
                 
        

2013/ 01/ 14
                 
今年初めて ウグイスが我が家の庭を訪れました。

 あっというまの出来事でしたので、写真におさめることは出来ませんでした。

 2013年1月14日、今日は成人式です。
 雪の降り注ぐ午後のひと時、二羽のメジロが、庭のキウイフルーツの実を食べていました。


メジロ 20130114-1

メジロ 20130114-2


二十 小正月の行事


 十四日の朝は若水を汲んで献燈献茶、七ツ鉢で御飯を上げる。すべて神仏に対して大正月と同様にするのであります。夕方は御燈明をあげ茶碗で蕎麦を上げます。これがすんでから御炊きあげというのを行います。雄炊きあげは年男が白米をといで小さな釜で之を炊き素木の鉢に盛り之にハラミ箸というオツカドで作った中を太く両端を細く削った箸を十二本この飯の上に真直ぐにさします。この箸の直立した不思議な飯がおたきあげであります。之を繭玉を沢山さしたボクの下へ上げるのであります。してみるとこれは養蚕の豊穣を祈る為の行事の様にも解せられますが、やはり孕むという語から出たいろいろの物の豊作を願うものだと思はれます。その故は十五日にボク片づ
けをしてもこのおたき上げは二十日正月までその上の棚にある御霊様にあげておくのです。
 十五日の朝は若水献茶、その後小豆粥をたきます。
 粥がやや煮えた頃、粥掻き棒というやはりオツカドなどで作った二本の棒でこの粥をかきまぜます。この棒は十三日に作って置くので二本あります。長さは四十センチ位いっぽうを尖らせ一方は四つ割に割り目を入れておきます。その割け目に餅の小切をはさんでその餅が落ちる迄粥をかきまわすのであります。この棒の先についた粥の粒で豊凶を占うとかいいまして沢山つく方がよい由です。粥かき棒はそのまま保存しておいて春の苗代の水口に立てるのです。
 十五日の夕刻にボクを片づけます。ハナはそのままにして二十日までおきます。
 小豆粥は少量残しておいて十八日に之を煮なおして又食べます。そしてその一部を水で量を増やして家の周囲一まわりまきます。
 これは蛇、百足の入らない呪です。

 習俗歳時記(補修再販)より
                 
        

里山の野鳥たち

2013/ 01/ 13
                 
冬の訪問者

 わが家の庭に訪れた、ジョウビタキ(雌)です。[ Phoenicurus auroreus ]
 フエィジュアの枝に止っているところを撮ることが出来ました。

 羽の色や鳴き声から、ヒッカタ、モンツキと、それぞれの地方で呼ばれています。
 


 ジョウビタキ(雌)

                 
        

千夜一夜 ①

2013/ 01/ 12
                 
純と愛 NHK連続テレビ小説

 自らを世捨て人と名乗る客の天野(佐藤二朗)は、純に励まされても生きる希望がないと再び部屋に閉じこもってしまう。純は天野に部屋から出て希望を持ってもらおうと、部屋の前で様々なことを試すが、ことごとく失敗する。天野の生き別れの娘から、小さい頃に本をいっぱい読んでくれたことが良い思い出だと聞いた純は、部屋の前であらゆる童話の本を読み聞かせ始める。そこへ宿(「里や」)の女将の上原サト(余貴美子)、板前の藍田忍(田中要次)、客室係の天草蘭(映美くらら)、従業員の宮里羽純(朝倉あき)、琉球舞踏家元の金城志道(石倉三郎)、欄の長男が集まってくる。
❀追補:[念のため] 純のパートナーの待田愛(まちだいとし・風間俊介)は、このシーンの最初から登場しています。


 
 きょうの「純と愛」の筋書きの一コマですが、純が童話の本をあれやこれや読み進めるさまをみて、サトが、「まるで アラビアンナイトだよね」とコメントします。 「ナニ ソレ?」と、羽純が聞き返し、サトが、「知らないの?」と答えます。

 アラビアンナイトは、1001話から成り立っていますが、原典となる写本が存在しない有名な話に、「アラジンと魔法のランプ」、「アリババと40人の盗賊」があります。

 イギリス人やフランス人等が、写本を元にして訳したのが世に広まっていきましたが、その元となる本のタイトルは、「アラビアンナイト」という文字ではありません。
 訳すると「千夜 一夜」という言葉になるとのことです。

 その摩訶不可思議な世界にどのようなアプローチで迫っていくことになるのか・・・


千夜一夜 中央公論社版
 ・「千夜一夜」 ・発行所中央公論社 ・第1巻 昭和4年12月25日発行 ・第12巻 昭和5年12月15日発行 ・訳者代表 大宅壮一

 
❀ 別の機会にゆずろうかとも思いましたが、手塚治虫のプロデュース、構成、脚本により、1969年に公開されたオトナムケ「アニメーション」、『千夜一夜物語』をここに載せておくことに致します。

 ・制作総指揮」手塚治虫、・監督:山本暎一、・脚本:手塚治虫、深沢一夫、熊井宏之、・美術監修:やなせたかし、・音楽:冨田勲、・テーマ曲:アルデインのテーマ、・演奏:ザ、ヘルブフルツウル、・歌:チャールブ、チェー、・ジュニオ、ナカハラ、・制作:虫プロダクション、・配給:日本ヘラルド。というそうそうたるお名前があがっていることもさることながら、その声優陣の豪華キャストにはただただ目を瞠るばかりです。

 『声の出演』
 ・アルディン:青島幸男
 ・ミリアム・ジャリス:岸田今日子
 ・バドリー:芥川比呂志
 ・マーディア:伊藤幸子
 ・ジュ―:加藤治子
 ・カマーキム:小池朝雄
 ・女性奴隷市の野次馬:遠藤周作(友情出演)
 ・女性奴隷市の野次馬:北杜夫(友情出演)
 ・女性奴隷市の野次馬:吉行淳之介(友情出演)
 ・女性奴隷市の野次馬:小松左京(友情出演)
 ・女性奴隷市の野次馬:筒井康隆(友情出演)
 ・元老院議員:大宅壮一(友情出演)
 ・元老院議員:佐賀潜(友情出演)
 ・元老院議員:大森実(友情出演)
 ・競馬シーンのダフ屋:大橋巨泉(友情出演)
 ・競馬シーンの観客:前田武彦(友情出演)
 ・競馬シーンの観客:立川談志(友情出演)
 ・競馬シーンの観客:野末陳平(友情出演)
 ・ヤブ医者:木崎国嘉(友情出演)
 ・女護が島の女:安藤孝子(友情出演)
 ・文野明子
 ・高木均
 ・名古屋章
 ・有馬昌彦
 ・渥美国泰
 ・内田稔
 ・新村礼子
 ・スマイリー小原


❀これからみるチャンスはあるのでしょうか・・・






                 
        

七草

2013/ 01/ 07
                 
小寒 二十四節気の一つ。今年は一月五日が小寒。この日から寒の入りで、寒明け(節分)までの約三十日間を寒の内といい、年間を通して最も寒さの厳しい日々を迎える。寒に入って四日目を寒四郎、九日目を寒九という。


 七種や今を昔の粥の味 太田鴻村
 

 一四 七草  
 
 七日はやはり朝早く起きます。若水を汲み御燈明を神仏にささげ、茶を立てて供えます。それから七草の行事を行うのです。大概家の者が起きない中にやるのが常でした。子供の時は同じく小学生であった若い叔父達と共に、更に後には弟と一緒にやったのですが、今は子供達が二、三十才になって三人揃ってこれを受けついでいてくれます。お正月の色々の行事の中これは特に大声を発するものであるだけに気恥しい仕事ですが、やがて成長してくるであろう孫達の正月生活をより豊かにさせ得る事と思って簡単にしながらもこの事を今もやり続けているのです。
 年神棚の下に一枚のウスベリを敷きその上に小桶を置き上に俎をのせます。その俎の前と左右に年男と外の子供達が座るのです。俎の上には火箸(これは囲炉裏で用いる太い長い鉄の火箸です)とスリコギ及び鉋丁とがこの俎の上に置かれます。五日に採ってきて年神様に供えてあったセリとナヅナは笊ごとおろされて小桶の中に入れられます。このセリ、ナヅナを少量ずつ俎の上に取り出して三人して三つの道具でこれをうつのです。庖丁は大体初めにこまかく切った後はミネを用いるのです。よく打てて柔かくなると別の小皿にためて又一度年神様に供え七草粥の中へ入れるのです。
 この三人してナヅナ、セリを打つ時、次のうたをうたいます。大声で家中のもののねむりをさますのです。

 七草なづな
 唐土のとりが
 日本の土地へ
 渡らぬ先に
 何 たたく
 セリたたく

 七草粥は右のセリ、ナヅナの他に人参、大根、昆布を入れて煮るのです。所謂春の七草とは実物は転化して居ります。これを七つ鉢に盛って神仏に進ぜます。
 夕方は燈明と御飯を供えます。
 七草の日に門松をやすめます。門楢はそのまま立てて置いて松だけのぞくのです。尤も松の芯だけは丁度山初めの時と同じにもとの根元に残して立てられるのです。
 神棚のお棚松も同様に、この時松の芯だけお棚に残します。これが七草の朝の仕事です。

 収蔵歳時記(補修再販)より


 ・若水=わかみず=年中行事の一。立春の日の早朝、後世は、元旦に初めて汲む水。一年の邪気を除くという。 ・御燈明=おとうみょう=灯明=灯火。神仏に供える灯火。
 ・年神=としがみ=五穀を守るという神。また、五穀の豊年を祈る神。
 ・ウスベリ=薄縁=縁をとったござ。
 ・俎=まないた。
 ・笊=ソウ=ザル、竹製の器物の名
 ❀「笊」:「明解漢和辞典(新版)」 編集者長澤規矩也 発行所株式会社三省堂 昭和36年10月20日 第21刷発行による。
 ❀「若水」、「灯明」、「年神」、「ウスベリ」、「俎」:「広辞苑」編者新村出 発行所株式会社岩波書店 昭和39年1月15日 第1版第12刷発行による。
 ❀「鉋丁」を「包丁」、「ホウチョウ」と呼んでいいのでしょうか。5種類の辞典をあたってみましたが、該当する文言は見当たりませんでした。 
                 
        

ムッちゃん 20

2013/ 01/ 05
                 
オイタをした夜

 ヒイーッ、ヒイーッ・・・と悲しい鳴き声が、彼のノドからしぼり出るように出てきます。
 ムッちゃんが、昼間、オイタをして、おじちゃんかおばちゃんに叱られた夜、彼は寝ながら昼間の事を思い出しているのです。
 彼がワルサをするときは、いつもその場ですぐ叱るようにしています。彼はその時々で様々な表情をして私たちを見つめるのです。
 ある時は私に叱られると、宏有さんの方をみて助けを求め、ある時は宏有さんにたしなめられると、平気の平左という顔をします。
 そいうった晩、彼が寝入って間もなく、私たちは、ヒイーッ、ヒイーッ・・・という小さな叫び声が彼の口元から出てくるのを聞くのです。

 ちっとは反省しているかと思った矢先、彼はまたまた私たちの顔をしかめさせることをしでかすのです。
 今度は、川の水ジャブジャブのし放題。
 お風呂場、シャンプーで身を包み、シャワーで水洗い、そして仕上げはバスタオルで丁寧に水けをふきとります。 バスタオルに包まれながら、彼は活きいきした顔で、私の口周りをなめまわします。

 ムッちゃんは、叱られることによって、私たちに愛情を注がれているということに気づいたのでしょうか。
 勿論、真夏の川遊び、シャワーの冷たい水に全身がそそがれ、柔らかいバスタオルに身を包まれる感触、それらの全てが楽しく、嬉しく、満足なことだったのでしょう。
 そして思うのです。ボクハアイサレテル。
 
                 
        

洋酒マメ天国 28

2013/ 01/ 04
                 
洋酒マメ天国 私設名画館 28

 洋酒マメ天国シリーズ、28巻目を迎えました。
 それなりの以前となりましたが、サントリーがお酒に関したマメ本を世に出すということで、お酒を飲めない前から心待ちにしていたシリーズです。
 いまから思うと、装幀はステキでしたが、製本がイマイチだったことが悔やまれます。
 印刷所は凸版印刷となっていますが、マメ本を手掛けるのは、これが初めてだったのでしょうか。
 
洋酒マメ天国36巻用専用本棚


 閑話休題

 28巻は、私設名画館、29巻は、NUDEのカクテル、30巻は、巷説百人一首 と、続きます。
 大人の読み物という感じが、そのタイトルを見てもプンプン漂ってきますね。
 全36巻となっていますので、この巻も含めてあと9巻でフィニッシュを迎えることになります。


 第1章「ベッドがなければはじまらない」より
 映画をつくるのに、一番大事なものは「ベッドである」といえそうだ。なぜなら、映画の主題は、多くの場合ベッドの上にあるからだ。

 第1章 ベッドがなければはじまらない
 第2章 女・おんな・オンナ
 第3章 キッス・CHU・キッス
 第4章 オールドファン諸君!
 第5章 さむらいとガンマン
 第6章 男・おとこ・オトコ
 ❀写真=永島一朗/雑誌「スクリーン」

洋酒マメ天国第28巻   昭和43年5月30日発行
著者 古波蔵保好     発行所サントリー株式会社


洋酒マメ天国 28


                 
        

鴻巣の日本一

2013/ 01/ 03
                 
8つの日本一

 鴻巣市に住み始めてから今年で27年目に入ります。
 昨年はデジカメを手にしたということもあり、市内のあちこちに被写体探しに出かけました。
 そして見つけたのが、日本一。
 
 ・1分あたりの尺玉以上の花火打上数日本一 (1分間平均約75.5発。平成23年10月8日打ち上げられた「鳳凰乱舞」で、約4分間に尺玉300発、三尺玉2発の計302発の打上。平成24年の「日本一ネット」催事・行事に掲載)

 ・ひな人形で飾る日本一高いピラミッドひな壇 (31段、7.0m。平成24年の「日本一ネット」催事・行事に掲載)

 ・水管橋の長さ日本一 (1,100.95m)

 ・ポピーの栽培面積日本一 (12.5ヘクタール。平成20年の「日本一ネット」に掲載)

 ・荒川の川幅日本一 (2,537m)

 ・サルビアの出荷量日本一 (年間90万本/平成18年度)

 ・プリムラの出荷量日本一 (年間272万本/平成18年度)

 ・マリーゴルドの出荷量日本一 (年間138万本/平成18年度)


鴻巣花火大会2012.09.29
❀2012年9月29日撮影 (画面左上に見えるのがお月様)

鴻巣市役所 ピラミッド雛壇
❀2012年2月14日撮影

水管橋長さ 1,100.95m 
❀2012年10月24日撮影 (コスモス畑の奥に小さく見えるのが水管橋)

ポピー花畑
❀2012年5月20日撮影

御成橋 川幅日本一
❀2013年1月1日撮影 (富士山が写っていますが判りますか。画面右上に見えるのがお月様)



                 
        

イングリット・フジコ・ヘミング

2013/ 01/ 02
                 
ブラボーコール

 昨年の12月5日で77歳になったフジコさん。
 その月の26日にソロコンサートがありました。
 ブラボーコールは、バッハのプレリュード第1番と、ベートーベンのテンペスト第3楽章よりでした。

 ラ・カンパネラの演奏が終わりいったん楽屋にもどったフジコサン。
 いつもの通り、拍手がなりやまず、花束を受けてまた楽屋に戻り、そしてまた拍手にこたえるために舞台に現われたりを繰り返した後。
 マイクを片手にして、体調がこのところ思わしくないということと、皆にありがとうの感謝の気持ちを伝えてから、2つの曲を演奏しました。

 前半はラフマニノフ、ムソルグスキーの作品を演奏。
 心なしか、音を探しながら弾き続けている状態がずっと続いていたようなタッチと感じました。が、休憩をはさんだ後の、シューマン、ショパン、そしてリストの二つの曲目に入りますと、いつものフジコ・ヘミングのタッチとなっていました。

 こんな感想を言ってはいけないのかもしれませんが、どうも、「ノル曲」、「ノラナイ曲」が、彼女にしてあるのではないのかシランとついつい思ってしまってみたりします。
 何故かと申しますと、今回に限らず、以前も、その前も、そしてそれ以前も、同様な感じがこちら側に伝わってきているからです。

 皆の前にいつまでもお元気な姿を見せてほしいと願っています。
 (私自身は自らを追っかけとは思ってませんが、「追っかけモドキ…程度かな…」)
 帰り、バス停前でタクシーをようやく拾うことが出来ました。
 ご一緒したご婦人は、車中、フジコさんが今まで演奏してきた会場の一つひとつと、次回の日程と会場までスラスラとお話しなさっていました。私たちが出向いたのと全く同じ日程、会場でしたので、話が弾みあっという間に駅に到着致しました。


演奏曲目 2012.12.26

                 
        

新しい年を迎えました

2013/ 01/ 01
                 
初日の出

 川幅日本一(2,537メートル)の、荒川にかかる御成橋から眺めた「初日の出」です。
 川幅日本一は、鴻巣市の8つある日本一のひとつで、川幅日本一にちなんで、地元ならではの「川幅うどん」などの創作に取り組み、地域の振興に一役かっています。

 初日の出 御成橋から眺める①

初日の出 御成橋から眺める②

初日の出 御成橋から眺める③

川幅日本一 お月様




日の出

 さきたま古墳公園から眺めた「日の出」(2012年12月28日撮影)です。
 行田市の地名、埼玉(さきたま)は、埼玉県名の発祥の地といわれています。
 丸墓山古墳は、日本最大の円墳といわれています。
 稲荷山古墳から1978年に出土された「金錯銘鉄剣」は、歴史を紐解く115文字の銘文が刻まれています。
同古墳から一緒に出土された副葬品とともに1983年に国宝(埼玉に四つある国宝の一つ)に指定されました。

日の出 さきたま古墳公園から眺める①

 日の出 丸墓山古墳から眺める②

日の出 さきたま古墳公園から眺める③

丸墓山古墳