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東寺(敎王護国寺)

2014/ 01/ 30
                 
 初弘法
 1月21日は、弘法大師の命日です。
 東寺〔敎王護国寺〕の大師堂で、御影供が営まれます。
 当日は、千数百もの露店が、境内の内外に立ち並びます。

 京の三弘法めぐり
 弘法大師縁の三つの寺を、「弘法さん」の命日である21日に巡る習わしです。
 東寺では発弘法、神光院では、大師が厄除け修行をしたという境内で、山伏による大護摩焚きと火渡りが行われ、仁和寺では三弘法巡りの納めとして、裏山の御室八十八か所霊場を巡ります。
 当初は、この三つの寺を急ぎ足で見て回ろうと思っていましたが、時間の都合があり、仁和寺と神光院は次回の機会にゆずることにしました。


 八坂神社前のバス停から、東寺の前を通るバスに乗りました。
 ふとバスの窓ガラスをみると、雨粒です。
 いつのまにか小雨が降っていました。

 東寺
 東寺の五重塔の高さは55メートルあり、日本一の高さです。
 1月21日の、露店の賑わう人込みをかきわけかきわけ、写真を撮ろうと思っていましたが、雨が降ってきたということもあったのでしょうけれど、御影供の時刻も過ぎた後、人影もほどほどという境内になっていました。

 五重塔
 小雨のけぶる五重塔は、古都のたたずまいをみせていました。
 東寺 五重塔

 慶賀門から入りました。
 東寺 慶賀門

 露店です。(撮りましたという記念写真としてみてください。)
 東寺 露店①  東寺 露店②

 東寺 露店③  東寺 露店④

 東寺 露店⑤  東寺 露店⑥

 東寺 食堂
 東寺 食堂① 御坊様

東寺 食堂② 

 食堂〔千手堂〕は昭和5年に火災に遭いました。

  食堂の四天王像 平安時代(昭和5年焼失)
 木造像高 (焼失前)
 多聞天(たもんてん)      306.0
 持国天(じこくてん)      312.0
 広目天(こうもくてん)    321.0
 増長天(ぞうちょうてん)  312.0
  (※高さの単位が記入されていませんが、「cm」と認識しています。)

 この四天王像は、食堂の本尊千手観音像(現在宝物殿安置)の脇侍です。食堂は、昭和5年12月21日(終い弘法)の失火により焼失し、堂内の千手観音像と四天王像は焼失・大破しました。四天王像はその損傷が激しかったため、国宝(旧国宝)指定を解除されました。その後、本尊の千手観音像は、昭和43年に修理が完了し、宝物殿に安置されましたが、四天王像については未修理のままでした。そこで、四天王像は、炭化した表面に樹脂補強工事をおこなうことになり、多聞天、持国天は平成5年から平成7年まで、広目天、増長天は平成7年から平成8年まで作業を行い、完了しました。四天王像の一日も早い、完全修理がのぞまれています。

 東寺 四天王像四体
  
 東寺 四天王像①  東寺 四天王像②

 東寺 四天王像③  東寺 四天王像④


 帰り道は、近鉄駅の「東寺前駅」を利用しました。
 南大門は、東寺の正門です。
東寺 南大門 正門

 東寺 外郭から五重塔を望む 修行僧一人

 
 
                 
        

ぜんざい

2014/ 01/ 29
                 
 今日のゴルフ、NP三階建てをとることができました。
 プレー終了後のコンペ会場で、Wさんが美味しそうに何か食べているのをみて、何だろうと椀の中をのぞいたら「ぜんざい」でした。
 私も「ぜんざい」を頼みました。

 ・・・    ・・・    ・・・
 

 城南宮の湯立神楽をより身近で撮影するための席を取るために、早くから出向きました。
 動かないでじっとしていると、寒さが足元から伝わってきます。
 クライマックスの一コマも終わり、集まっていた善男善女も三々五々家路につきました。
 今日のはやお昼は小豆粥と精進料理ということもあり、なおかつ、体が冷えているということもあり、何か温かいものが食べたいなと思い出したのが、来る途中の道の角で見かけた、喫茶・軽食の店。
 「ぜんざい」という文字が紙に書かれていたのを思い出し、お店の扉を開けました。
 「行くときにみたのですけれど、ぜんざいはまだ食べられますか?」とわたし。
 店の中から「お入りやす。ぜんざいありますよ。」と、女性の声。
 注文してしばしの後に、京都のぜんざいを初めて味わうことができました。

 喫茶・軽食 和 
 京都市伏見区竹田東小屋ノ内町120
 〒612-8424 TEL 075-603-2080

喫茶・軽食 和 ①ぜんざい

喫茶・軽食 和 ②ぜんざい  喫茶・軽食 和  ③ぜんざい


ぜんざい 
 三省堂 国語辞典によると、「ぜんざい」 〔善〈哉〕(名)[「よいかな」「よきかな」と読める漢語を音(オン)で読んだもの] ㊀〔文〕仏などが、人間のよいおこないをほめるときに言うといわれることば。 ㊁つぶしあんをまぶしたもち。しるこのようにおわんに入れて食べる。 ㊂〔関西で〕つぶしあんのはいったしるこ。いなかじるこ。と、あります。
 「ぜんざい」という食べ物について、関西や関東との違いなど、もうちょっと何かないかなと思い、あちこち紐解いてみました。
 
 ウィキペディアでは、次のように記述されていました。
 
 ぜんざい
甘味であるあんみつとぜんざい
 ぜんざい(善哉)は、主に小豆を砂糖で甘く煮て、この中に餅や白玉団子、栗の甘露煮などを入れた日本の食べ物である。

一般的には小豆の粒が存在するものを指して用いられる用語である。

関東では、汁気のない餡を用いたものをぜんざいと呼ぶが、関西では粒餡の小豆汁に餅や白玉団子等を入れた汁物をぜんざいと呼ぶ
 (汁気のない餡を用いたものは、関西地方では「亀山」や「小倉(小倉餡)」と呼ぶ。


語源[編集]
ぜんざいの語源は主に2説ある。

 1つは仏教用語である「善哉(ぜんざい・よきかな)」を由来とする説である。一休宗純が最初に食べたとされ、この食べ物の美味しさに「善哉」と叫んだ事から名称とされた。「善哉」とは仏が弟子を褒める時に使う言葉であり、サンスクリット語の素晴らしいを意味する「sadhu」の漢訳である。

 もう1つは、出雲地方の神事「神在祭」で振る舞われた「神在餅」を由来とする説である。「神在餅」の「じんざい」が訛り、「ぜんざい」へと変化したと言われている。島根県松江市鹿島町の佐太神社のホームページにはこのような記載がある。

【 11月25日は神々をお送りする神等去出(からさで)神事が執り行われます。この日はカラサデさんといわれ、神前に供えていた餅と小豆を一緒に煮て小豆雑煮を作り再び供えていました。これを「神在餅(じんざいもち)」と呼び、今も宮司宅では家例としてこの日に小豆雑煮を作り、屋敷内の祖霊社、稲荷社、邸内の歳神にお供えいたします。昔は里人の間でもこの日の朝に餅をつ搗き参拝する慣わしがあり、参拝するものは必ず一重ねのオカガミ(餅)をもって参った後、小豆を入れた雑煮餅を作って家の神棚に供えてから銘々も頂く風習があったようです。この「神在餅」が転化して「ぜんざい」になったといわれているのです。 】

— 『ぜんざい発祥の地』佐太神社
 松江藩の地誌『雲陽誌(うんようし)』佐陀大社の項に「此祭日俚民白餅を小豆にて煮家ことに食これを神在餅といふ出雲の国にはしまる世間せんさい餅といふはあやまりなり」とあります。その他、いくつかの古文献にも「神在餅」についての記述があるところから当社は「ぜんざい発祥の地」であるといわれています。」と書かれており、実際に出雲地方の正月に食べる雑煮は小豆汁の雑煮であるなど小豆との関係が強い。神前に供えた餅自体が「善哉」であり、この餅を食べる為の小豆を使用した食事をも善哉と呼ぶようになったとする説。

 ※ほかに「沖縄のぜんざい」などが記述されています。







                 
        

八坂神社

2014/ 01/ 28
                 
 うちわ祭で名高い熊谷八坂神社は、京都の八坂神社から文禄年間〈1592~〉に勧請・・・ ・・・と、熊谷八坂神社HPで紹介されています。

 七年前の京都では、門の前を素通りでした。
 その八坂神社に初めて訪れました。
 朱色の門がとても艶やかに見えました。
 南楼門は工事中でした。
 
 祇園祭のときは、いかばかりの賑わいになるのかという境内になるのでしょうけれど、1月の八坂神社は、静謐のときをゆるやかに刻んでいるたたずまいをみせていました。

八坂神社①

八坂神社②


八坂神社③

八坂神社④

八坂神社⑥

八坂神社⑦

八坂神社⑧








 
 


                 
        

城南宮 湯立神楽

2014/ 01/ 28
                 
 何人もの人たちが装束を身につつむと、厳かさがいやまします。
 あの笛の音は、あの太鼓の音は…、記憶の糸を辿る、村の鎮守様の笛、太鼓の音色とは異質の世界に入っていきます。

 城南宮の湯立神楽は、例年1月20日、午後2時から催されます。
 巫女たちの立ち居振る舞いも、神楽ならではの厳粛さを醸し出していきます。
 
 祓神楽を奉納し、いよいよ湯立が始まります。
 たすきを掛けた巫女が、柄杓で天の水をすくって大釜の湯にそそぎ入れる仕種をして釜を清め、沸騰した湯の中に、白米、お神酒を入れます。笛、太鼓の音に合わせ舞う巫女が、両手に笹の束を持ち、神がかりになったように舞いながら、笹の葉で釜の湯を散らして邪気を払います。
 無病息災、願望成就を祈願します。

 京都市伏見区中島鳥羽離宮町7
 電話 075-623-0846



城南宮 笛・太鼓

城南宮 巫女

城南宮 湯立


城南宮①  城南宮②

城南宮③  城南宮④

城南宮⑤  城南宮⑥







城南宮の七草粥 <2月11日 午前10時―午後4時>
セリ・ナズナ・スズナ・スズシロなど春の七草を神前に供え、参拝者は熱
々の七草粥を食べ、植物のみずみずしい力を体内に摂りいれ、1年間の無
病息災、延命長寿を祈願します。春先に若菜を贈り息災を願う風習は『源
氏物語』若菜の巻にも見られ、自然と一体になって四季を過ごした日本人
の素朴な信仰に根ざしています。城南宮では、旧暦の正月7日に近い、2
月11日に毎年行い、大勢の参拝者で賑わいます(1膳500円)。 
                 
        

食事五観文 (しょくじごかんもん)

2014/ 01/ 27
                 
 沙羅双樹の寺 東林院 (とうりんいん)

 食事五観文
 禅寺では食事の前に『般若心経』と『食事五観文』などを唱えて、自分を戒め、万物に感謝の気持ちを表します。この『食事五観文』は食事に対する心掛けや作法にについて、厳しくも分かりやすく解かれたものです。

1 一つには、功の多少を計り、彼(か)の来処(らいしょ)を量る。
 食事にはいかに多くの人の手数と労力が費やされているか、その苦労を思い、天地自然の恩恵を忘れてはならない。

2 二つには、己が徳行の全欠をはかって供(く)に応ず。
 自分の人格の完成を目指し、また自分の務めを成しとげるために食事をする。

3 三つには、心(しん)を防ぎ、過貧等(とがとんとう)を離るるを宗(しゅう)とす。
 食べ物に対して不平や不満を抱かず、飲み過ぎ、食べ過ぎの貧る心を起こさないよう、食事は心の修行である。

4 四つには、正に良薬を事とするは、形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為なり。
 食事は、飢えや渇きをいやし、心身の枯死を免れる良薬と思って、決しておろそかに食べないという心、平和な心持で食する。

5 五つには、道業(どうぎょう)を成(じょう)ぜんが為に、将(まさ)にこの食(じき)をうくべし。
 人として正しく生きることを成就するための食事であることに対して、反省と感謝の心を持ち、新たな誓いを心に持ち行うこと。


 小豆粥で初春を祝う会
最初に通されたのが本堂です。
 「福茶と祝菓子」を頂きました。

福茶と祝菓子 東林院
 福茶と祝菓子のいわれ
福茶 : 元旦「若水」で点てた茶に梅干、昆布、山椒などを入れて、家族全員で頂くと一年中の邪気を払い万病を除くと云い伝えられている。
茶礼 : 禅寺では、和合のため一堂に会して茶菓を頂く礼式を茶礼という。 朝の茶礼には茶菓を用いず、当山では梅湯(糖)を用います。
梅湯 : 梅干に白湯をそそいだものを梅湯と云います。 口中の汚れを清め、心身の邪気を払うと共に保健のために最もよいと云われている。
梅干 : 梅は寒中に開花し、雪や寒さにも決して節操を曲げないとして、古くから尊ばれている。梅干も老人の呼び名にもなっているところから長寿を表すものとして喜ばれています。
 祝菓子
松の雪 : 主菓子、小倉あん、大豆きんとん製
結び笹 : 干菓子、和三盆製、松と共に縁起ものです。
昆 布 : 古くは「ヒロメ」と呼ばれ広布と書く、広くなるという意で現代の喜びに通ずるものです。
柿 :   嘉来に通じ万物をかき集めるという目出度い意です。
豆 :   厄払いの意と共にマメであることを感謝(祝)し、健康に暮らせるようにの意味です。
くわい : 良い芽が出ますようにとの願いです。
みかん : (橙)代々つづき栄えるの意です。


 小豆粥と精進料理
 「小豆粥と精進料理」は、書院で配膳ということです。
 奥に通されました。

小豆粥・精進料理 東林院
 膳にのって出てきたのが、坪椀の黒豆、木皿の蛇腹昆布、香は塩昆布とくき大根の二種、木皿で畑菜の辛子味噌和合、小皿のひじきしぐれ。丸大根と揚豆腐の炊いたのには粉山椒がかけられていました。そして、しばしの後に、平椀の中に餅一つ入った小豆粥です。こちらの膳は、所謂「お品書き」は添えられてませんでした。

 小豆粥は、餅粥ともいい、七草粥と同じように、新年に食すると、一年中の邪気を払い万病を除く……と言い伝えられています。

「さば、お願いします」と言われ、何のことかと思ったら、「施食」のことでした。椀から少量の粥をとり、まとめて庭の野鳥に施すという、禅宗ならではのものです。
「さば」 東林院


東林院 福茶・祝菓子② 東林院 福茶・祝菓子① 東林院 小豆粥・精進料理① 東林院 小豆粥・精進料理②




 青苔に映える千両・万両の庭、枯山水・蓬莱の庭の水琴窟(一壺天)の音と共に、禅寺ならではの新春風情を楽しみました。

お庭 東林院

千両 東林院

万両 東林院

東林院 門





                 
        

何必館・京都現代美術館

2014/ 01/ 26
                 
 京都・近江



 何必館・京都現代美術館 に、1月21日お邪魔しました。
 [京都市東山区祇園町北側271. 電話 075-525-1311]

 「山口薫展」 --没後45年 詩魂の画家-- 
 2013.11/23(土・祝) ― 2014.1/26(日)
 10:00~18:00(入館は17:30まで)月曜休館(但し、12/23、1/13は開館)
 ※ 年末年始 12月30日~1月6日、休館
 ●入館料 一般1,000円/学生800円
 ●記念出版「詩魂の画家 山口薫」3,000円

 山口薫展は今日までの開催期間となっていました。
山口薫展 何必館・京都現代美術館11.23~2014.1.26


 何必館(かひつかん)・京都現代美術館は、民営の美術館です。
 北大路魯山人(1883-1959)の作品は、地下1階で常設展示されています。
 特別展を催していないときは、日本画家の村上華岳(1888-1939)、洋画家の山口薫(1907-1968)の作品が季節を変え作品の数々が展示されています。


 『「山口薫全作品集 全1巻」 ―東京美術倶楽部「カタログ・レゾネ」シリーズ 第一弾』のパンフレットからの山口薫(やまぐちかおる)のプロフィールの一端です。
< ・監修/東京美術倶楽部. ・構成/掲載図版点数 ●油彩篇 約1000点(カラー、1頁6点掲載) ●水彩篇 約400点(カラー、1頁12点掲載) ●素描篇 約2000点(モノクロ、1頁12点掲載) ・資料/年譜・展覧会歴・文献目録など詳細データ ・体裁/A4版 上製本 総640ページ >

洋画家。 1907年、群馬県群馬郡箕輪村(現高崎市)の旧家の11人姉弟の末っ子として生まれる。中学のとき、姉に買ってもらった油絵具で絵を描き始める。 1925年、東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科に入学。在学中から、帝展に、国画会展にと、こだわりなく出品を続け入選する。 1930年、卒業後にフランスに渡り、3年後に帰国。生涯の住処となる、東京・世田谷上北沢に居をかまえる。 ― ― ― - - 1964年、東京藝術大学教授就任。このころ体調をくずし手術や治療のために入院を繰り返すが、制作は止むことはなかった。 1968年5月19日、胃癌のため死去。享年60歳。


 山口薫の姉は、私の父方の祖母です。昭和18年11月9日没と家系譜に記されている通り、祖母の存命中、私の兄弟姉妹では姉だけが会えた可能性があります。
 その姉も、一昨年十七回忌を迎えています。


 大叔父山口薫に一度だけ挨拶できました。52年前の昭和36年4月、祖父の葬儀のときでした。
 父に紹介してもらいました。
 
 父たちの学生時代に、樺太、北海道、東北を旅しています。
 北大を卒業し、道庁に勤めていた父の叔父が迎えてくれました。
 父の兄、箕輪金敷の叔父たち(父の母の兄弟たち)との一行でしたが、そのメンバーの一人が、山口薫でした。










                 
        

石原裕次郎の墓

2014/ 01/ 25
                 
 JR鶴見駅を出てほど近く、曹洞宗大本山の總持寺があります。
 以前、鎌倉の「かさぎ画廊」を訪れたときの往き道で立ち寄りました。
 お墓の前に、「裕次郎」と書かれた石柱の入口があります。
 
 美しきものにはほほえみを
 淋しきものに優しさを
 たくましきものにさらに力を
 すべての友に思い出を
 愛するものに永遠を
 心の夢醒めることなく
  石原まき子

 墓の一隅に裕次郎の奥様北原三枝の詩碑が建っています。


 昨日のブログに「曹洞宗(そうとうしゅう)」には、流派がないと書きました。
 北陸にある「永平寺」は、全国津々浦々に知られている古刹ですが、横浜にある「總持寺」もまた、曹洞宗の大本山の一つです。
 曹洞宗の教えに基づいて流派を持っていませんが、それはまた後ほど機会がありましたら述べることにします。
 ここでは曹洞宗の理解のためのHPから引用させて頂きました。

 曹洞宗には、大本山が2つあります。
 ひとつは大本山永平寺(福井県吉田郡永平寺町)です。
 ひとつは大本山總持寺(横浜市鶴見区鶴見)です。
 これを両大本山といいます。
 両大本山は曹洞宗寺院の根本であり、信仰のみなもととなっています。


 何故、總持寺を訪れたかといいますと、「あなたの家は何宗ですか・・・」と、問われた先に曹洞宗がありましたので、一度はその禅寺の大本山を目の当たりにしたいと思い立ったからです。
 總持寺も、もとは北陸にありました。このことも、機会があれば後ほど述べたいと思っています。


 日本人は、「神様も仏様も一緒に拝んでいるのは何故?!」と、問われることがあります。田舎の家にも仏壇と神棚が供えてありました。
 神社のことについても、盛りだくさんの思い出があります。小学四年生だったとき、「木曾神社」の初詣のことを書いた作文は、郡の作文コンクールに出場した作品に仕上がりました。
 木曽神社もブログで綴っていきたいと思いはじめています。

木曾三社神社①


 昨日、京都のお宅と渋川のお宅に、「京都・大津の写真」をお送りしましたが、書き忘れたことがありましたので、この場をお借りしましてちょっと一筆。・・・お相手の方はイタリアの人で、「鎌倉の建長寺で結婚式…」とお話ししましたが、「鎌倉の鶴岡八幡宮で結婚式」でした。
 



 

 
                 
        

禅宗

2014/ 01/ 24
                 
 妙心寺山内に東林院があります。
 四十六の塔頭寺院が点在している広大な山内をどれほど歩いたでしょうか、ようやく東林院の入り口が見えてきました。


 禅宗は、臨済宗(りんざいしゅう)と黄檗宗(おうばくしゅう)、それに曹洞宗(そうとうしゅう)があります。
 禅宗の流れでみると、臨済宗と黄檗宗の流れと、曹洞宗の流れに分けられます。
 曹洞宗には流派という概念はありませんが、臨済宗は流派があります。
 妙心寺は、臨済宗妙心寺派大本山です。
  
 臨済宗と黄檗宗の宗旨について書かれたHPで、「禅宗」の理解を深めることに致しましょう。

宗旨

仏心宗、達磨宗とも呼ばれる、いわゆる禅宗は中国で起こり、発展し、やがて日本に伝来された仏教の一宗です。日本に伝わった禅宗には、臨済宗 や黄檗宗 、そして曹洞宗 があります。わが宗門は、その中で、臨済宗と黄檗宗の流れです。
 臨済宗や黄檗宗は、お釈迦さまの正しい教え(正法)をうけつがれた達磨大師(初祖)、臨済禅師(臨済宗祖)や、隠元禅師(黄檗宗祖)、さらに禅を日本に伝来された祖師方、そして日本臨済禅中興の祖・白隠禅師 [はくいんぜんじ] から今日にいたるまで、「一器の水を一器へ」移すがごとく伝法された一流の正法を教えとし、我々に本来そなわる尊厳で純粋な人間性(仏性[ぶっしょう])を、坐禅・公案・読経・作務などの修行を通して、自覚(見性)することを旨とする宗派です。
 宗祖臨済禅師には、
「赤肉団上 [しゃくにくだんじょう] に一無位 [いちむい] の真人 [しんにん] あり。常に汝等諸人 [なんじらしょにん] の面門 [めんもん] より出入す。未だ証拠せざる者は、看 [み] よ看よ」
という言葉があります。臨済宗の宗旨は、我々に本来そなわる、この一無位の真人を自覚することです。この臨済禅師の言行録は『臨済録』として伝えられ、語録の王と言われます。




 妙心寺

妙心寺①

妙心寺②

妙心寺③

妙心寺④

妙心寺⑤
このずっと先まで歩いて行き、塀にあたったら左に曲がります。その先方が目的地の「東林院」です。

 東林院のお目当ては、小豆粥と精進料理です。



                 
        

近江の海 京の都

2014/ 01/ 23
                 
 いつもブログみていただきありがとうございます。


 冬の京都と近江を訪れました。
 言葉を添えて写真を載せていこうと思います。
 
 京土産のご指定は、「漬物」でした。



ヒヨドリ
「ヒヨドリ」ガラス戸越し「家の庭にて


ツグミとスズメ
「ツグミ・スズメ」ガラス戸越し:家の庭にて


キジバトツガイ
「キジバトツガイ」ガラス戸越し:家の庭にて



 米原を過ぎたころから雪景色に変りました。
 新幹線の車窓からの眺めです。
雪景色(車窓より眺める)



 京都では、ほんのりと雪が残っているかどうかの景色に変わっていました。
 「東林院にて」
東林院庭



                 
        

京の三弘法めぐり

2014/ 01/ 19
                 
 
 初弘法
 1月21日(火)は、東寺(教王護国寺)の、初弘法です。
 弘法大師の命日にあたるこの日に、大師堂で御影供が営まれ、千数百以上の露店が立ち並びます。
 東寺の五重塔の高さはおよそ55メートルあり、現在の塔は、寛永21年(1644年)に建てられました。



 京の三弘法めぐり
 弘法大師の命日である1月21日に、弘法さんゆかりの三つの寺を巡る習わしです。
 東寺(とうじ)→神光院(じんこういん)→仁和寺(にんなじ)の順に回るのだそうです。
 東寺は、初弘法です。
 神光院では、大師が厄除け修行をしたという境内で、山伏による大護摩焚きと火渡りが行われます。
 仁和寺では、三弘法周りの納めとして、裏山の御室八十八箇所を巡ります。
 仁和寺の五重塔は、およそ36メートルで、この塔も寛永21年(1644年)に建てられたものです。


 

 ・・・     ・・・     ・・・
 パソコン オーバーホールに出しますので、暫しの間、ご猶予ください ・・・

 お休みなさい ・・・




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大寒

2014/ 01/ 18
                 
 
 大寒やなだれて胸にひヾく曲 ・・・ 石田 波郷

 今年の大寒は1月20日です。
 冬のうちでは最も寒気が激しい期で、俳句一つひとつに「大寒」がしみこんでいます。
 大寒や転びて諸手つく悲しさ ・・・ 西東 三鬼
 大寒の一人につくる卵焼 ・・・ 諸橋 和子
 大寒の地にめり込んで深廂 ・・・ 林 翔
 大寒のくらさのゆゑか文字細る ・・・ 目迫 秩父
 

 
 城南宮 湯立神楽

 その1月20日(月)の午後2時から京都の城南宮で、一年一回一日の「湯立神楽」が行われます。

 祓神楽を奉納した後、たすき掛けした巫女が、柄杓で「天の水」をすくって大釜の湯に注ぎ入れる所作をして、釜を清めます。
 湯にお米をいれ、酒を注ぎ込みます。

 笛、太鼓の音色に合わせて舞う巫女が、両手に笹の葉の束を持ち、神がかりになったように舞踊り、笹の葉で釜の湯を散らして邪気をお祓いします。
 無病息災、願望成就を祈願します。



日の出








                 
        

ちちははのひとこと

2014/ 01/ 15
                 
 利根川を渡る手前の休憩所の電話ボックスから、郷里に電話しました。
 「これから、行くよ」

 「ムッちゃんも一緒でしょ」
 電話口に出た、ははのひとことでした。


 「悲しいか」
 ちちのひとことです。

 母から既に聞いていたのでしょう。父は、挨拶する私を見て、「悲しいか」と、問うてくれました。


 
 ご近所のKさんの奥様が、豆柴の幼犬とのお散歩の帰り路、私の家の前を通りました。

 「こんばんは。お名前は?」

 「コロスケです」

 「クッキーは? 」

 「4か月前に・・・」


 Kさんの家には、新しい家族が迎えられていました。
 


或る日の雀
  

 

 




 



 

 
                 
        

上毛かるた わ

2014/ 01/ 14
                 
 父は、「群馬県和算研究会」に入っていた時期があります。
 かなり長いあいだの会員だったようです。

 先ほど、インターネットで検索しましたところ、あちこちに父の名前が出てきました。
 「・・・ 本解法は、群馬和算研究会会報第20号に載っているIG氏の解法を参考にした。昭和59年(1984年)8月13日の解法」なども出てきました。

 あるとき、なにかの折に、さりげなく「和算研究会を退会したよ」と言ったことを思い出しています。

 本棚にたくさんの和算、算額に関する書物が並べられています。
 「山形の和算」の本が発刊されたということを、私が全国紙の一隅に見つけ、新聞社に著作者の連絡先を聞き、父に伝えたことがあります。
 しばらくして、田舎の書棚を見ましたところ、その一冊が、他の和算の本と一緒に、ずっと以前からそこにあったかのように並んでいました。
 発行部数が限定される典型的なジャンルの本ですが、父の熱意が伝わったのでしょうね。


 わ ・・・ 和算の大家 関孝和

 
 上毛かるたでは、「せきこうわ」と覚えたつもりですが、あちこちを検索してみると「せきたかかず」と表示しています。(両方併記しているのもありました。)

 田舎の書棚には、勿論、関孝和に関する書籍本が置かれています。
 「算額を訪ねて」という企画も魅力あるのでしょうけれど、残念ながら私は上州でさえも、一度もその機会を得ていません。

 1992年に、数学者・関孝和の生誕350年を記念して、記念切手(62円)が発行されています。


 関孝和の生誕の地については、諸説ありますが、何れの表記でも生年については不詳と書かれています。
  
 次に、「国立国会図書館のhp」より、関孝和の業績を紹介します。
 関の業績は多彩でありましたが、中でも後世への影響が大きかった事柄は、独自の記号法(傍書法)の開発と、それを用いて自由自在に数式を表現し、天元術を格段に飛躍させたこと(解伏題之法)が挙げられます。傍書法は、簡単に述べるならば数字と文字を1つの式の中に表現できるように工夫したもので、和算の数式としての表現力を向上させました。

 これによって天元術も応用が加えられました。中国から最初に伝わった天元術は方程式といっても未知数が1個の場合にしか対応できませんでしたが、傍書法による数式を導入したことで、複数の未知数を1つの式に表現することができ、そこから数式の処理が簡単になりました。現代数学の用語を用いていえば、連立方程式の未知数消去が容易になったということになります。関はこの天元術の応用を様々な分野の問題に適用し、例えば正三角形から正20角形までの正多角形それぞれについて、その面積を計算する実例を『括要算法』で実践しています。

 関孝和による新しいタイプの数学の出現によって、後世の和算家は多大な恩恵を受けました。数式表現が非常にシンプルになったこと、問題解法の見通しが立てやすくなったこと、各種の新しい公式が開発されたことなどです。18世紀も後半になると関孝和のことを俳句の松尾芭蕉(俳聖)や茶道の千利休(茶聖)に倣って「算聖」と呼ぶこともあったほど、彼の名前は和算家の間で普及していきます。関孝和の系列に連なる和算家たちが自らの集団を「関流」と自称するようになるのも、18世紀後半以降のことになります。


 次に、「藤岡市役所のhp」より、「関孝和」を紹介します。
 関孝和は、算木を使って高次方程式を解く天元術に改良を加えて筆算式の高等代数学である点竄術を発明し、数学の多くの分野における理論的研究を行い、体系化を試みるなど卓越した業績を残されました。その業績により我が国では「算聖」と呼ばれ、さらに同世代に出たイギリスのニュートン、ドイツのライプニッツとともに世界三大数学者として尊称されています。

 関孝和(せきたかかず)は、近世日本数学を代表する数学者ですが、関孝和の生涯を知る資料は余りにも少ないのが現状です。
 孝和は、内山七兵衛永明の第二子として生まれました。その生年は定かではありませんが、寛永19(1642)年、もしくはその数年前と推測されています。その生地についても上州藤岡あるいは江戸の2説があります。20代にいたって関五郎左衛門の養子となり、関孝和と名乗ることになりました。関孝和の幕府における勘定吟味役は今日の会計検査官のような職務であり、御納戸組頭も将軍家の財産管理を司る管理職でした。このように見ると関孝和はその生涯を財政関係の職務に捧げたことが分かります。


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2014/ 01/ 13
                 
 キウイフルーツの実がつかなくなりましたので、毎日ミカンを出しています。

 毎年キウイフルーツの実を食べに来るのが、メジロとヒヨドリです。
 いつもは、ヒヨドリがメジロを追っ払うのですが、今年はキウイフルーツの実がつかないということもあるのでしょうか、例年みたいに、ヒヨはメジロを脅していないみたいです。

 そういう目で見ているせいもあるかもしれませんが、よくよくヒヨドリの顔を覗き込んでみると、どうでしょう・・・愛くるしい目をしているのです。
 枝に止まった姿も、何かしら品位を漂わせるような雰囲気を醸し出しています。

 例年来るヒヨとは、違うヒヨが今年は来ているのでしょうか。そういえば、以前、巣立ったばかりのヒヨが、水浴びをしに毎日のように来ていたことがありました。
 きっと、そのヒヨが、もう一羽を連れて、いまこの時期、我が家に顔を出しているに違いありません。

 「ヒヨ」・・・「メジロ」をいつもいじめるというイメージを払拭する、今日この頃の我が家の庭の光景です。


ヒヨちゃん⑩



ヒヨドリ①  ヒヨドリ②

ヒヨドリ③  ヒヨドリ④

 
ヒヨドリ⑧

ヒヨドリ⑨






                 
        

上毛かるた らりるれろ

2014/ 01/ 13
                 
 ら ・・・ 雷とから風 義理人情
 り ・・・ 理想の電化に 電源群馬
 る ・・・ ループで名高い 清水トンネル
 れ ・・・ 歴史に名高い 新田義貞
 ろ ・・・ 老農 船津伝次平


 昨年暮れ、船津伝次平のお墓の横の道を車で通りました。
 そのときは「上毛かるた」をブログに載せようと思っていなかったので、ちょっと立ち寄っておけばよかったかなと、いま、思い返しているところです。



船津伝次平
(1832~1898)は日本三老農の一人です。養蚕の基本である桑の栽培の研究をし、「桑苗簾伏法」を出版したのをはじめ、農業全般の近代化に貢献し、駒場農学校(現東京大学農学部)の教官となりました。
 ・所在地 : 前橋市富士見町原之郷乙539
 ・見学 : 墓参り可能
 ・問合せ : 前橋市文化財保護課 TEL 027‐231‐9875
 ・交通 : JR両毛線前橋駅からバス約20分 関越自動車道前橋I.Cから約20分
 (群馬県hpより)



老農 船津伝次平
 上毛かるたに「老農 船津伝次平」と詠われている船津伝次平翁。
 群馬県での知名度は抜群に高い有名人物ですが、どんな人物だったか知っている人は少ないのではないでしょうか。

 船津伝次平は日本三大老農の一人。「老農」とは、農業を研究し、それに体験を重ねて高い農業技術を身に付けた農業指導者のことを言います。

 天保3年(1832年)、勢多郡原之郷(現:富士見村)の名主の家に生まれました。
伝次平が生まれた船津家には「田畑は多く所有すべからず、又多く作るべからず」という家訓があり、寄生地主化への道は意識的に選ばず、養蚕を軸とした商業的農業を営むなかで、和算、漢学、俳諧といった文化に積極的に関わり、寺子屋を開設するなど、地域文化の核としての役割を果たしていました。

 そのような環境の中で、地域の農民の教育や農業改良普及に尽力した伝次平は父親の死後、若くして名主を継ぎ、広く村民に愛されるようになりました。その名声は明治政府にまで届き、請われて駒場農学校の教官になりました。

 駒場農学校では西洋農法と日本農法のよいところを併せ持つ混同農法(船津農法)を生み出します。
さらにその後、農事試験場技師に就任し、全国を駆け巡りながら新しい農法を普及し、日本農業の近代化に大きく貢献しました。

 明治31年(1898年)6月15日、郷里で亡くなりました。享年66歳。
お墓(県指定史跡)は富士見村原之郷にあります。
 (グッドぐんま 2007年9月20日付 hpより)



 小学校6年生のときの一泊バス旅行は、江ノ島・鎌倉でした。
 バスの車内で、Kちゃんが手元のメモ用紙を見つめながらガイド役をつとめ、一緒に歌ったのが、あの「鎌倉」の一節です。


 
鎌倉
 作詞=芳賀矢一 (文部省唱歌)

 1 七里ケ浜(しちりがはま)のいそ伝(づた)い
      稲村ケ崎(いなむらがさき) 名将(めいしょう)の
      剣(つるぎ)投(とう)ぜし古戦場(こせんじょう)

 2 極楽寺坂(ごくらくじざか)超(こ)え行けば
      長谷観音(はせかんのん)の堂(どう)近く
      露座(ろざ)の大仏(だいぶつ)おわします

 3 由比(ゆい)の浜(はま)べを右に見て
      雪の下村(したむら)過ぎ行けば
      八幡宮(はちまんぐう)の御社(おんやしろ)

 4 上(のぼ)るや石のきざはしの
      左に高き大銀杏(おおいちょう)
      問(と)わばや遠き世々(よよ)の跡(あと)

 5 若宮堂(わかみやどう)の舞(まい)の袖(そで)
      静(しず)のおだまきくりかえし
      かえせし人(ひと)をしのびつつ

 6 鎌倉宮(かまくらぐう)にもうでては
      尽(つ)きせぬ親王(みこ)のみうらみに
      悲憤(ひふん)の涙わきぬべし

 7 歴史(れきし)は長き7百年(しちひゃねん)
      興亡(こうぼう)すべてゆめに似て
      英雄墓(えいゆうはか)はこけ蒸(む)しぬ

 8 建長円覚古寺(けんちょうえんがくふるでら)の
      山門(さんもん)高き松風に
      昔の音(おと)やこもるらん


 文部省唱歌、芳賀矢一作詞の「鎌倉」の第一番に、「…名将…」と謳っているのは、「新田義貞」です。
 郷土かるたにうたいこまれている人物が、 何気なく歌っていた歌詞の中に入っているとは、恥ずかしながら、それまで存じ上げていませんでした。
 勢多郡北橘村の小学校に通っていたときに、「上毛かるた」を覚えました。
 転校して前橋市の小学校に通っていたときは、「上毛かるた」は、これっぽっちも話題にもなっていませんでした。
 先生の影響か何だったかどうか判るすべもありません。何れにせよ校内での「かるた会」というものはありませんでした。
 江ノ島・鎌倉旅行のバス内でY先生から、「名将とは、新田義貞のことだよ」と言われた時に、私は文字通り、両手を使って合点!したのですが、クラス仲間の反応は、「ヘェー…」という程度の軽いものでした。




☆伝説!龍神に祈った新田義貞☆
 由比ヶ浜と七里ヶ浜を分ける稲村ヶ崎は、新田義貞の鎌倉攻めの際の古戦場。

 新田義貞が海に黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈願すると、潮が引き、海上の北条軍もはるか遠くに流されたため、稲村ヶ崎を突破できたという伝説がある。

 新田義貞の伝説は、尋常小学校の唱歌「鎌倉」にも「七里ヶ浜の磯づたい稲村ヶ崎名将の剣投ぜし古戦場」と歌われている。

 ※稲村ヶ崎は、源頼朝が落馬した地ともいわれている(参考:旧相模川橋脚)。

☆新田義貞☆
 新田義貞は、足利尊氏と同じく源義家(八幡太郎義家)の子義国を祖とする源氏。
 現在の群馬県新田庄を領したことから「新田氏」を名乗る。
 新田氏は、鎌倉御家人として仕えていたが、源頼朝の鎌倉幕府成立に非協力的であったことから、足利氏と比べるとその地位は低かった。
 1333年(元弘3年)5月8日、後醍醐天皇の綸旨を受けて、新田庄生品神社で討幕の挙兵をする。
 挙兵時は150騎程度だったといわれているが、軍を進めるに従いその数を増し、次々に幕府軍を破り進軍した。
 5月22日、大潮に乗じて稲村ヶ崎を突破し鎌倉に攻め入った義貞は、北条高時ら一族を東勝寺においての自刃に追い込み、鎌倉幕府を滅ぼした(参考:鎌倉幕府の滅亡)。
 しかし、後醍醐天皇の「建武の新政」は、長くは続かず、足利尊氏を棟梁としての武家による政治が望まれるようになると、尊氏と義貞は敵対し、義貞は敗れて越前で最期を遂げた。
 (「鎌倉手帳」hpより)



新田義貞 【にった・よしさだ】

 生年: 正安3 (1301)
  没年: 暦応1/延元3.閏7.2 (1338.8.17)
  南北朝時代の武将。新田朝氏(朝兼)の長子,小太郎を称する。文保1(1317)年ごろに家督を継ぎ,上野国(群馬県)新田荘を本拠地とする新田一族の惣領となる。
 正慶1/元弘2(1332)年,河内(大阪府)の楠木正成攻めの幕府の動員令に応じたが,病気を理由に中途で帰国した。翌元弘3(1333)年4月,執権北条氏の守護国である上野国で,楠木合戦の戦費調達のための有徳銭の徴集使として得宗被官の紀出雲介親連と黒沼彦四郎入道が新田荘世良田宿に入部してきた。
 義貞はその過酷な徴集をとがめ,親連を捕らえ,黒沼を斬った。この事件は幕府に対する公然たる反抗に映じた。幕府による誅伐の機先を制して,5月8日に義貞は荘内一井郷の生品明神で挙兵し,東山道を西進して越後(新潟県)の新田一族や上野・信濃の諸士を八幡荘(高崎市)に糾合し,翌9日鎌倉街道を武蔵に進撃した。
 一方,12日に同じ新田荘の世良田で,紀政綱,世良田満義らに擁されて足利尊氏の子千寿王(4歳)が蜂起し,義貞軍と合流した。
 ここに,新田・足利連合軍が形成され,尊氏の六波羅攻めと相呼応する形で,分倍河原(東京都府中市)合戦で北条軍を撃破したのち,稲村ケ崎を突破した義貞は,22日に鎌倉を攻め落として北条高時以下を自尽させ鎌倉幕府を滅亡させた。
  後醍醐天皇の建武政府のもとで,義貞は越後・上野の国司に任ぜられ,左兵衛佐(のちに左近衛中将),従四位上の官位を得た。建武2(1335)年,南北朝内乱が開始されると,南朝方の侍大将として,箱根竹ノ下合戦,播磨の赤松則村攻め,兵庫湊川合戦,京都合戦などに転戦したが,戦い利あらず天皇を擁して比叡山に立てこもった。
 3年8月,両朝の一時的和睦の際,恒良親王を擁して越前(福井県)に下向して金ケ崎城,黒丸城などに拠り,越前守護斯波高経らと抗争していたが,藤島城付近の燈明寺畷で不慮の戦死を遂げた。
 南朝方一筋に転戦に次ぐ転戦の末の最期であった。安養寺明王院(新田郡尾島町)に葬られる。
 <参考文献>尾島町編『尾島町誌』通史編上
 (「kotobank」hpより)


 父に所望され、父母と三人で、新田義貞が挙兵の折に成就祈願した「生品神社」に行ったことがあります。
 群馬県太田市新田市野井町645

新田荘遺跡(生品神社境内) ※国指定史跡(遺跡地・平成12年11月1日指定)
 元弘3年(1333)5月8日、新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて、鎌倉幕府を滅ぼすための兵を挙げたところです。「太平記」には「五月八日ノ卯刻ニ、生品明神ノ御前ニテ旗ヲ挙、」(巻第十)と記載されています。神社に参集した軍勢は150騎に過ぎませんでしたが、兵を進めるに従い数を増やしていったということです。
 生品神社境内は、昭和9年(1934)に「生品神社境内新田義貞挙兵伝説地」として国指定史跡に指定されましたが、平成12年(2000)に「新田荘遺跡生品神社境内」として、面積を広げて指定されました。境内には義貞が旗を挙げたと伝えられる「旗挙塚」や陣を構えたと伝えられる「床几塚」があり、神社拝殿の前には義貞が軍旗を掲げたと伝えられるくぬぎの木の古木が保存されています。
 現在では、毎年5月8日に「鏑矢祭」が行なわれています。これは、義貞が旗挙げの際に鎌倉に向かって矢を放ったという故事にならったもので、生品小学校の6年生の児童が鎌倉に向かって矢を放つ行事です。
 (太田市hpより)


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上毛かるた や ゆ よ

2014/ 01/ 12
                 
 ちょっと遠出のピクニックです。

 まだ関越自動車道が通っていなかったときのことです。

 貫前(ぬきさき)神社の一隅でシートを広げて、ランチです。

 MUCCHANは、大はしゃぎです。
 嬉しくってしょうがありません。
 ごはんをグイグイ飲み込むようにして食べます。
 
 ピョンピョン飛び跳ねます。
 オカズをグイグイ飲み込みます。
 きみは嬉しくってしょうがありません。
 
 きょうは、遠出のピクニックです。
 上野(こうずけ)一ノ宮に、MUCCANと、宏有さんと、私の三人で、初めて訪れたときのことです。
 
 きみは、ピクニックがますます大好きになりました。
 貫前神社のあのときの、きみのはちきれそうな笑顔が思い出されます。


 や ・・・ 耶馬溪しのぐ 吾妻峡
 
 ゆ ・・・ ゆかりは古し 貫前神社

 よ ・・・ 世のちり洗う 四万温泉



 貫前神社 :
 安閑天皇元年(535年)の草創といわれ、上野一ノ宮として崇拝されています。建物は国の重要文化財に指定されています。
 門に入った先、眼下に神社の本殿が見えるという、不思議な境内の作りになっていたので、吃驚しました。


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氷が張って

2014/ 01/ 12
                 
 野鳥たちの水飲み場(水浴び場)に、毎日氷が張るようになっています。

 毎朝、水をとりかえます。
 ミカンも日替わりにしています。

 おととい、ジョウビタキとムクドリが今年初めて顔を見せました。

 きのうは、シジュウカラと、メジロと、スズメが入れ替わり立ち代りやってきました。

 今朝も、水を変えました。
 洗濯物を乾そうとして、ガラス戸越しに外を見たら、キジバトが水を飲んでいました。
 しばしみとれていたら、次々と野鳥が水を浴びたり、水を飲んだりというように、やってきました。

 ツグミです。 
 ヒヨドリです。
 そして、ジョウビタキです。 ジョウビタキの水を飲むさまは、初めて見ました。
 二羽のメジロが来ました。
 スズメたちが、何かついばんでいます。
 
 野鳥たちの訪問が一段落した後、ようやく洗濯物を太陽光に当てることが出来ました。

 そういえば、きょうは、シジュウカラをまだみていません。



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上毛かるた まみむめも

2014/ 01/ 11
                 
 
 ま ・・・ 繭と生糸は 日本一
 み ・・・ 水上、 谷川 スキーと登山
 む ・・・ 昔を語る 多胡の古碑
 め ・・・ 銘仙織出す 伊勢崎市
 も ・・・ 紅葉に映える 妙義山



神秘の糸に出逢う里
 群馬県立日本絹の里
 〒370-3511 群馬県高崎市金古町888-1
 ☎027-360-6300

~hpより~
群馬県立日本絹の里は、繭や生糸に関する資料や群馬の絹製品などの展示、絹を使った染織体験などにより、多くの人々が集い、伝統ある群馬県の蚕糸絹業の足跡と天然繊維であるシルクのすばらしさを紹介します。

第28回企画展「ちりめん創作人形展 ~故郷にあそぶ~」
開催期日 平成25年12月14日(土)〜2月23日(日)
開館時間 9:30~17:00
観覧料 一般:400円(320円)
大・高生:250円(200円)
中学生以下及び身体障害者手帳等をお持ちの方とその介護者1名様は無料
※( )内は20名以上の団体割引料金です。
入館料は税込みです。
休館日 毎週火曜日(但し、祝祭日の場合は翌日) ※臨時休館日有り。



 上野〈こうずけ〉三碑(または上毛〈じょうもう〉三碑)と呼ばれる古碑が、群馬県にあります。
 昭和29(1954)年、国の特別史跡に指定されました。
 多胡碑は、建郡(多胡郡)を記念して和銅4年(711)年に、山上碑は、墓碑で天武天皇10(681)年に、金井沢碑は、供養碑で神亀3(726)年に、それぞれ建てられました。
《後述:①「白雉(はくち・650-654)の後、「朱鳥(しゅちょう・すちょう・686の1年だけ)まで、年号はありません。》 ②「山上碑」に、「辛巳(かのとみ・しんし)歳」とあり、60年1サイクルの十干十二支(じっかんじゅうにし)に当時のサイクルを当てると「天武天皇10(681)年の年に該当します。
  (・ウィキぺディアでは、「山上碑」の説明文の「辛巳歳」を「已・イ」と書き込んであるように見えます。)




 多胡碑記念館
 群馬県高崎市吉井町池1085番地
 ☎ 027-387-4928

~高崎市のhpより~
 多胡碑は、奈良時代初期の和銅4(711)年に当時の群馬県では14番目の郡の多胡郡が誕生したことを記す記念碑で、日本三古碑の一つです。当時の三つの郡から三百戸を分割し、新しく多胡郡を設けたことが記されています。その優れた書体は今も多くの書家達に愛好され、多胡碑記念館では、中国等の拓本等も展示されています。周囲は緑あふれるいしぶみの里公園として人々の憩いの場ともなっています。

 ・利用時間 9:30~17:00(入館16:30マデ)
 ・休館日  月曜(月が祝祭日の場合は翌日)、12月28日~1月4日
 ・観覧料  大人200円、大学生100円、高校生以下無料。※満65歳以上無料(証明書提示)。


書道史上の価値
書道史の面から見ると、江戸時代に国学者高橋道斎によってその価値を全国に紹介され、その後多くの文人、墨客が多胡碑を訪れている。筆の運びはおおらかで力強く、字体は丸みを帯びた楷書体である。北魏の雄渾な六朝楷書に極めて近く、北魏時代に作成された碑の総称である北碑、特にその名手であった鄭道昭の書風に通ずると言われる。清代の中国の書家にも価値が認められ、楷書の辞典である『楷法溯源』に多胡碑から39字が手本として採用された。
《ウィキペディアによる》

✩後述:日本三古碑 ・那須国造碑(700年建碑、国宝、栃木県大田原市) ・多胡碑(711年建碑、国指定特別史跡)、 ・多賀城碑(762年建碑、国重要文化財)


 金井沢碑
 群馬県高崎市山名町金井沢2334


 山上碑
 群馬県高崎市山名町神谷2104



陶房窯八作



✩後述:十干十二支
 

 十干
 10を周期とする十干ですが、 十干の「干」は木の幹を語源として、陰陽五行説と結びついて、甲(こう)、乙(おつ)、丙(へい)、丁(てい)、戊(ぼ)、己(き)、庚(こう)、辛(しん)、壬(じん)、癸(き)の漢字であらわします。
 つまり、五行説の木、火、土、金、水がそれぞれ陽と陰、兄と弟に分かれて十干になります。
 兄(え)と弟(と)なので「えと」となります。


五行 陰陽 十干
木 陽 甲 木の兄=きのえ
陰 乙 木の弟=きのと
火 陽 丙 火の兄=ひのえ
陰 丁 火の弟=ひのと
土 陽 戊 土の兄=つちのえ
陰 己 土の弟=つちのと
金 陽 庚 金の兄=かのえ
陰 辛 金の弟=かのと
水 陽 壬 水の兄=みずのえ
陰 癸 水の弟=みずのと

 十二支
 
 十二支の「支」は幹の枝をあらわしています。
 古代中国では天空の方角を12に分け、それぞれの方角の記号として動物の名をつけたという説があります。子(ね、し)、丑(うし、ちゅう)、寅(とら、いん)、卯(う、ぼう)、辰(たつ、しん)、巳(み、し)、午(うま、ご)、未(ひつじ、び)、申(さる、しん)、酉(とり、ゆう)、戌(いぬ、じゅつ)、亥(い、がい)をいいます。

 この「十二支」と「十干」を組み合わせていくと、次の表に示すような60種の組み合わせができます。これを「六十干支」または「十干十二支」または単に「干支」(えと)といいます。甲子(きのえね)→乙丑(きのとうし)と順に進み、壬戌(みずのえいぬ)→癸亥(みずのとい)で一巡して最初の甲子にもどります。一巡には日にあてはめると60日、年にあてはめると60年かかることになります。


 ・ 六十干支・・・   読み1・・・・     読み2・・・     年代   
1・ 甲子・・・・・    きのえね・・     かっし・・・     1984
2 ・乙丑・・・・・    きのとうし・・    いっちゅう・・・   1985
3 丙寅・・・・・・    ひのえとら ・・   へいいん・・・   1986
4 丁卯・・・・・・    ひのとう・・     ていぼう・・・    1987
5 戊辰・・・・・・    つちのえたつ・・   ぼしん・・・     1988(昭和63年)
6 己巳・・・・・・    つちのとみ・ ・   きし・・・     1989(平成元年)
7 庚午・・・・・・    かのえうま ・・   こうご・・・     1990
8 辛未・・・・・・    かのとひつじ ・・  しんび・・・     1991
9 壬申・・・・・・    みずのえさる・・   じんしん・・・    1992
10 癸酉・・・・・・   みずのととり・・   きゆう・・・     1993
11 甲戌・・・・・・   きのえいぬ・・    こうじゅつ・・・・・1994
12 乙亥・・・・・・   きのとい・・     いつがい・・・    1995
13 丙子・・・・・・   ひのえね・・     へいし ・・・    1996
14 丁丑・・・・・・   ひのとうし・・    ていちゅう・・・  1997
15 戊寅 ・・・・・・  つちのえとら・・   ぼいん ・・・    1998
16 己卯・・・・・・   つちのとう ・・   きぼう・・・     1999
17 庚辰 ・・・・・・  かのえたつ ・・   こうしん・・・    2000
18 辛巳 ・・・・・・  かのとみ ・・    しんし ・・・    2001
19 壬午・・・・・・   みずのえうま ・・  じんご ・・・    2002
20 癸未 ・・・・・・  みずのとひつじ ・・ きび ・・・ 2003
21 甲申・・・・・・   きのえさる ・・   こうしん・・・ 2004
22 乙酉 ・・・・・・  きのととり・・    いつゆう・・・ 2005
23 丙戌・・・・・・   ひのえいぬ・ ・   へいじゅつ・・・ 2006
24 丁亥・・・・・・   ひのとい・・     ていがい ・・・ 2007
25 戊子 ・・・・・・  つちのえね ・・   ぼし・・・ 2008
26 己丑 ・・・・・・  つちのとうし・・   きちゅう・・・ 2010
27 庚寅・・・・・・   かのえとら・ ・   こういん・・・ 2010
28 辛卯・・・・・・   かのとう・・・    しんぼう・・・ 2011
29 壬辰 ・・・・・・  みずのえたつ・・  じんしん・・・ 2012
30 癸巳・・・・・・   みずのとみ ・・   きし・・・ 2013
31 甲午 ・・・・・・  きのえうま・ ・   こうご ・・・ 2014
32 乙未・・・・・・   きのとひつじ・・   いつび・・・ 2015
33 丙申・・・・・・   ひのえさる ・・   へいしん・・・ 2016
34 丁酉 ・・・・・・  ひのととり・・    ていゆう・・・ 2017
35 戊戌 ・・・・・・  つちのえいぬ・・   ぼじゅつ・・・ 2018
36 己亥 ・・・・・・  つちのとい・・    きがい・・・ 2019
37 庚子 ・・・・・・  かのえね・・     こうし ・・・ 2020
38 辛丑・・・・・・   かのとうし・・    しんちゅう・・・ 2021
39 壬寅 ・・・・・・  みずのえとら・・   じんいん・・・ 2022
40 癸卯・・・・・・   みずのとう ・・   きぼう・・・ 2023
41 甲辰 ・・・・・・  きのえたつ ・・   こうしん・・・ 2024
42 乙巳 ・・・・・・  きのとみ ・・    いつし・・・ 2025
43 丙午・・・・・・   ひのえうま ・・   へいご ・・・ 2026
44 丁未・・・・・・   ひのとひつじ・・   ていび ・・・ 2027
45 戊申・・・・・・   つちのえさる・・   ぼしん・・・ 2028
46 己酉 ・・・・・・  つちのととり ・ ・ きゆう ・・・ 2029
47 庚戌・・・・・・   かのえいぬ ・・   こうじゅつ・・・・ 2030
48 辛亥・・・・・・   かのとい・・     しんがい ・・・ 2031
49 壬子・・・・・・   みずのえね・・    じんし ・・・ 2032
50 癸丑・・・・・・   みずのとうし・・   きちゅう・・・ 2033
51 甲寅 ・・・・・・  きのえとら・ ・   こういん・・・ 2034
52 乙卯・・・・・・   きのとう・ ・    いつぼう・・・ 2035
53 丙辰・・・・・・   ひのえたつ・ ・   へいしん・・・ 2036
54 丁巳・・・・・・   ひのとみ ・・    ていし ・・・ 2037
55 戊午 ・・・・・・  つちのえうま ・・  ぼご ・・・ 2038
56 己未 ・・・・・・  つちのとひつじ・・  きび・・・ 2039
57 庚申 ・・・・・・  かのえさる ・・   こうしん・・・ 2040
58 辛酉・・・・・・   かのととり・ ・   しんゆう ・・・ 2041
59 壬戌・・・・・・   みずのえいぬ・・・  じんじゅつ・・・ 2042
60 癸亥・・・・・・   みずのとい・ ・   きがい ・・・ 2043

 2014年(平成26年)の十干十二支は、甲午(きのえうま・こうご )の年です。

参考: 旧暦で読み解く日本の習わし
日本史小百科 暦


                 
        

上毛かるた はひふへほ

2014/ 01/ 10
                 
 

 は ・・・ 花山公園 つつじの名所
 ひ ・・・ 白衣観音 慈悲の御手
 ふ ・・・ 分福茶釜の 茂林寺
 へ ・・・ 平和の使い 新島襄
 ほ ・・・ 誇る文豪 田山花袋



 埼玉の行田や羽生を舞台にした小説「田舎教師」や、「蒲団」などの作者で知られる、田山花袋(1872年1月22日―1930年5月13日)は、館林出身です。
 群馬県立つつじが岡公園は、上毛かるたに花山公園としてうたわれています。
 分福茶釜の茂林寺も、花山公園も館林市にあります。


 ゴルフで栃木方面に行くとき、「茂林寺」、「向井千秋記念こども科学館」、「正田醤油株式会社・正田記念館」の表示板を左右に見ながら、館林市内の道路を通ります。


群馬県立つつじが岡公園
:・群馬県館林市花山町3181. ・総合事務所☎0276-74-5233. ・「つつじまつり」以外の時期は、フルオープン、駐車場無料。 ・「つつじまつり」開催期間:4月中・下旬~5月中旬.・期間中の入場時間7:00~18:00.・期間中の駐車場料金600円程…?。


「茂林寺」
:・群馬県館林市堀工町1570. ・☎0276-72-1514. ・入場9:00~16:00. ・木曜不定休. ・宝物(分福茶釜など)拝観料 おとな300円.こども150円。


向井千秋記念こども科学館
:・群馬県館林市城町2番2号. ・☎0276-75-1515. ・開館時間9:00~17:00.・休館日月曜・祝祭日の翌日.利用料大人310円(高校生以上)、中学生以下無料。


正田記念館
:・群馬県館林市栄町3番1号 (正田醤油株式会社内).・☎0276-74-8100(正田醤油㈱〈代電〉)、入館料無料.・開館時間10:00~16:00.・休館日土曜、日曜、夏季休暇、年末年始。


陶房窯八作⑤


「正田醤油株式会社」HPより
このページは正田醤油お客様相談室宛に寄せられた商品に対するご質問の中で特にお問い合わせの多かったもの、醤油に関する疑問などについて載せてあります。

Q&A 商品について

Q1 醤油の賞味期間はどれくらい?
 ・ペットボトル: こいくち:18ヶ月. うすくち:12ヶ月. しろしょうゆ:・・・・
 ・ガラスビン : こいくち:24ヶ月. うすくち:18ヶ月. しろしょうゆ 8ヶ月
 容器によって異なりますがおよそ以下のようになります。
・ 開栓前は直射日光のあたらない低温の場所に置いて頂ければ1年から1年半ぐらいは普通にお召し上がり頂けます。ただし一旦栓を開けた醤油は味や香りが落ちてきますので、なるべく冷蔵庫に保管し、1ヶ月位の間に使い切りたいものです。 

Q2 醤油は開封前、賞味期限内なら色が黒くなても大丈夫ですか?
・賞味期限内であれば色が黒ずんでいてもご使用には差し支えありません。しかしどうしても風味は落ちてきていますので、かけ醤油としてよりも他の調味料で味付けを調整できる煮物等へのご使用をおすすめします。 

Q3 開栓後の醤油に白い粒ができましたが、どうしたらよいでしょうか?
 ・ これは酵母の一種で、食品衛生的には特に問題はなく無害です。発生の程度が少量であれば漉して煮炊き等にご使用いただいても差し支えありませんが、多い場合は摂食されない方が無難です。

Q4 味噌から醤油のような液体が出ていますが…
 ・ 味噌が熟成する過程で原料が分解し発生する味噌だまりと考えられます。少量であれば特に問題はありません。

Q5 醤油、味噌は開封前ならば賞味期限を過ぎても食べられますか?
 ・ 醤油、味噌は保存食であるため、賞味期限を過ぎてすぐに腐敗したり、品質が劣化する事はありませんがおいしく召し上がって頂くために賞味期限内のご使用をおすすめします。

【醤油の雑学】
Q&A 醤油について

その1 醤油のおいしさ・香りについて
醤油は醸造によって生まれたアミノ酸などの旨み成分がたっぷり含まれており、ほどよい塩味、酸味、甘味とバランスよく溶け合っておいしさを引き出します。醤油の香りにはバラ、ヒヤシンス、パイナップルなど、花や果実の香りを代表に、約300種類もの成分が含まれています。このよい香りが醤油のおいしさをより一層もりあげているのです。

その2 醤油の種類・使い方について
・醤油には、おなじみのこいくち醤油の他にもいろいろな種類があります。
素材の味や色を生かしたい、関西風に仕上げたいときにはうすくち醤油、
お刺身や魚の照り焼きには濃厚なさいしこみ醤油やたまり醤油と、お料
理によってお醤油を使い分ければ、我が家の味のレパートリーがさらに
広がります。また、塩分の摂取量を気にされる方にはうす塩醤油や減塩
醤油をおすすめします。


その3 意外な醤油の使い方
・ 醤油は意外なところでも効果を発揮します。アイスクリームに一滴たら
すと、香りが引き立ちます。カレーライスやバターライスに入れれば、
コクが増し風味も上がります。また、肉や魚の下味に使えば臭みが消え
、ほどよい焼き色、そして香ばしさがプラスされます。これら以外にも
梅干や漬物の塩辛さをまろやかにするなど、素材の持ち味を引き立てる
、まさに魔法の調味料なのです。和風料理にはもちろん、中華、フレン
チ、イタリアン、エスニックまでどんなお料理にもお使いいただけます。

その4 醤油の効用
・主に下記6つの効用があります。
〈消臭効果〉
醤油をつけて刺身などを食べるのは、味はもちろんのこと生臭みを消す大きな働きがあるためです。日本料理の下ごしらえにある「醤油洗い」は、この効果を利用して、魚や肉の臭みを消しています。
〈加熱効果〉
すきやき、煮魚をはじめ、蒲焼き、焼き鳥など醤油を必須とする多くの日本料理は単に醤油を温めてしみこませたのではなく、各素材との間にその料理固有の新しい香味成分をつくり出します。
〈殺菌効果〉
適度な食塩分と有機酸類、その他の成分によって、大腸菌やその他の食中毒菌を死滅させ日持ちを良くする効果があります。
〈対比効果〉
一方の味が強く、他方の味がごくわずかな場合、主体の味がより強く感じられるのが対比効果です。
ご家庭で餡やおしるこをつくるとき仕上げに少量の食塩を入れることは常識となっていますが、この食塩の量を少し控えめにして、その分醤油を少々加えることをおすすめします。
〈抑制効果〉
混ぜたときに一方あるいは両方の味が弱められることが抑制効果です。塩辛いものに醤油をたらすと、塩辛さが抑えられることがあるのはこのためです。
〈相乗効果〉
醤油の無数の成分を調理で加えることは、それらの味や香りを単に加えるのではなく、相乗的にさらに深い旨みを作り出しています。

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陶房窯八作⑥


                 
        

前橋初市まつり

2014/ 01/ 09
                 
 行きたいなとは思ったのですが・・・
 高崎だるま市と同じく、来年こそは・・・



新春「前橋初市まつり」開催!1月9日(木)
 [前橋市HPより 最終更新日:2014年1月9日(木)ページ]

前橋三大まつりの一つ「前橋初市まつり」を1月9日(木)、国道50号(本町通り)を中心とする中心市街地で開催します。ぜひ暖かい格好でご来場いただき、新春恒例の伝統行事をお楽しみください!


 初市まつりは、その昔、六斎市として 毎月4と9の日に開かれていた日用雑貨や生糸の市が起源と言われています。厩橋(現在の前橋市)城主、酒井重忠侯の時代から始まった伝統ある行事です。通称「だるま市」の名で親しまれている初市は、古だるまを供養するお焚きあげや市神様の渡御行列などの伝統行事のほか、だるまや縁起物などを売るたくさんの露店で賑わいます。

【開催日時】平成26年1月9日(木)
      午前10時~午後10時
【開催場所】国道50号(本町通り)及び中心商店街
【アクセス】〔電車〕上越/長野新幹線→JR高崎駅(乗換え)→
        両毛線→JR前橋駅下車 徒歩10分
      〔車〕関越自動車道前橋ICより国道17号前橋方面へ
        約5km
【催し物】 古だるまのお焚きあげ
      渡御の儀
      国道50号(本町通り)を中心に露店
【その他】 交通規制あり(本町一・二丁目地内及び中心商店街)
      無料おまつりバス運行あり
      ※「グリーンドーム前橋第6駐車場」~「前橋テルサ前交差点
      西側朔太郎通り停留所」の間を約10分おきに往復します。
      ※平成26年交通規制案内 

  
古だるまお焚きあげ
【時間・場所】午前10時から午前11時30分まで(予定)
       八幡宮境内(本町二丁目)

 古だるまのお焚きあげは、役目を終えた古だるまを浄火するための儀式で、その浄火にあたると福の神が宿ると言われています。例年、1月9日午前10時から八幡宮境内(本町二丁目)にて行われます。


渡御の儀
【時間・場所】午前10時30分から午前11時30分頃まで(予定)
       八幡宮から中心市街地を通って本町通り仮宮まで

 メイン会場となる本町通りの東和銀行・憩いの広場に設置された仮宮に八幡宮の「市神様」を移すために「渡御の儀」が行われます。「市神様」の御神輿が八幡宮を出発し、木遣りや大獅子、華龍太鼓などを連ね、市街地を練り歩きます。


国道50号を中心に露店
露店(だるま)  露店夜
【時間】午前10時から午後10時まで(開運楽市のみ午後8時まで)
 国道50号本町通りはだるまや縁起物、日用雑貨、立川町通りの歩道では植木市や開運楽市(フリーマーケット)などの露店が出店します。夜はたくさんの露店の明かりが本町通りを埋めつくし、前橋の冬の風物詩となっています。      

無料おまつりバスの運行
【時間】午前10時から午後9時
【区間】「グリーンドーム前橋第6駐車場(無料)」から「前橋テルサ前交差点西側朔太郎通り停留所」の間を
    約10分おきに往復します。
 ※マイカー駐車は「グリーンドーム前橋第6駐車場」をご利用ください。
 ※おまつりバスはバリアフリー対応になっておりませんので、車イスご利用の方は「前橋プラザ元気21駐車場
 (有料)」をご利用ください。

交通規制案内
午前9時から午後11時まで、中心商店街を交通規制します。立川町通りは交通規制対象外です。
詳しくは、平成26年交通規制案内をご覧ください。

5カ所に避難路
初市まつり区域内で事故が発生した場合に備え、国道50号本町通りに5カ所の避難路を設けます。場所は緑色灯で表示しますので、緊急時には係員の指示に従い避難願います。

初市まつり情報番組
まえばしCITYエフエム(84.5MHz※視聴可能エリア:前橋市)では、午前10時から午後10時30分まで(予定)、初市まつりの様子や、近隣駐車場の混雑情報などを随時お知らせしていく予定です。

だるまの展示について
 ・市役所本庁舎1階ロビー【警視庁だるま返納】
 だるま展示3(市役所) だるま後
  【市役所本庁舎1階ロビーにて1月7日(火)まで展示】
 警視庁より”だるま”を返納していただきました。この”だるま”は、1年間、警視庁捜査第一課に飾られ、事件解決、治安安全・安心祈願のために頑張っていました。警視庁では、毎年年末に、この一年間で解決した事件名をだるまの背中に書き込み、本市へ返納することが恒例となっています。
 なお、返納された”だるま”は初市まつりで行われる「お焚きあげの儀」で浄化をします。
 ・前橋プラザ元気21【本町二丁目自治会 大だるま】
 ・だるま展示(元気21)
  【前橋プラザ元気21(1階)にぎわいホールにて
             1月8日(水)まで展示】
 ・本町二丁目自治会により”大だるま”を展示していただきました。
   この”大だるま”は、高さ170cm、幅150cmもあります!
    ぜひご覧ください!

問い合わせ先(事務局)

公益財団法人 前橋観光コンベンション協会
電話027-235-2211



パンジー⑪
                 
        

上毛かるた なにぬねの

2014/ 01/ 09
                 
 こんにゃくは全国一の生産量

 先日、NHKテレビの朝の番組で、群馬県のこんにゃく生産量は、全国一の80パーセント以上と説明していました。
 
 関東農政局による作物統計(工芸農作物)[平成24年]によると、「群馬県のこんにゃくは、全国の生産量の92パーセントを占める。」と記されていました。同じく全国一ということでは、キャベツが17パーセントの生産出荷となっています。(こちらは「平成23年野菜生産出荷統計」による)



 な ・・・ 中仙道しのぶ 安中杉並木
 に ・・・ 日本で最初の 富岡製糸
 ぬ ・・・ 沼田城下の 塩原太助
 ね ・・・ ねぎとこんにゃく 下仁田名産
 の ・・・ 登る榛名の キャンプ村




日本芸術文化振興会HP「国立劇場」の2012年トピックス欄に、
三津五郎『塩原多助一代記』塩原太助墓所にお墓参りが載っています。

8月31日(金)、10月歌舞伎公演『塩原多助一代記』で塩原多助、道連れ小平の二役を演じる坂東三津五郎が、萬年山東陽寺(足立区東伊興4-4-1)にある塩原太助の墓所に墓参しました。
実在の塩原太助は、上州沼田より江戸へのぼり、炭屋の山口屋に奉公、刻苦勉励し、一代で財を築いた江戸の大商人です。三遊亭円朝は、塩原太助の人生を綿密に取材し、傑作大長編「塩原多助一代記」を口演しました。
塩原太助墓所ははじめ浅草寿町にありましたが、関東大震災で被災し、現在の場所に移されました。東陽寺では、塩原太助の九代目の子孫にあたる塩原文雄氏が出迎え、三津五郎は足立区の登録文化財にも指定されている塩原太助のお墓に手を合わせ、公演の成功を祈願しました。
東陽寺境内には、太助が江戸で20年に渡り奉公した炭屋・山口屋(山岡家)の墓所もあり、三津五郎は主家の墓にもお参りしました。このたびの公演では、歌舞伎では演じられたことの無い「山口屋店先の場」を原作から創作し、本邦初上演することもあり、本公演にまつわる奇縁に思いを馳せました。

塩原太助のお墓に手を合わせる三津五郎山口屋(山岡家)の墓にもお参りしました.
塩原太助墓所と山口屋の墓の墓参を終え、公演に挑む気持ちを次のように語りました。

[坂東三津五郎]
“塩原多助”というと「青の別れ」が有名ですが、知識では知っていても観たことはない、詳しくは知らないという人が多いと思います。自分もそうでした。
塩原多助というのは非常にユニークな人物で、典型的な歌舞伎のヒーローとは異なるんです。命を狙われ、親友を殺され、身ぐるみ剥がされても、思いは決して復讐には向かず、明日のことを考えて懸命に生きる道を選ぶという、非常に近代的な人物として描かれています。そこがなによりも面白い。
「青の別れ」の名場面は、表情の動かない馬との場面で大変ですが、ここはお客様に一番泣いていただくところですから、馬にもしっかりお芝居をしてもらわないといけない。せっかく復活するのだから、みんなで力を合わせて良かったといわれる舞台にしたいと思っています。
今日お墓に手を合わせてしみじみ思ったのは、役者というのはつくづく不思議な職業だなと。実在の人物の生き様を追体験するなんて、イタコみたいなもので、今現在は松尾芭蕉の人生を演じていますが、次は全身全霊で塩原多助と一体化し、一人の男の人生がみえてくるようなそんなお芝居にしたいですね。

国立劇場10月歌舞伎公演「塩原多助一代記」は10月5日(金)から27日(土)まで


水上観光ガイドHPに「太助の郷」が紹介されています。

塩原太助<寛保3(1743)-文化13(1816)>
寛保3年2月3日、塩原角右衛門の子として塩原太助は生まれました。
 ある日、太助は「江戸に出て、身を立て家を興そう」と父に願いでましたが許されず、ついに、ある朝の未明、草刈りに出かけるふりをして日頃飼いならした愛馬「あお」を引いて家を出ました。
 しかし太助は、江戸に出ても奉公口を探すことが出来ず、ついに思いあまって死のうとし、神田昌平橋から身を投げようとしました。その時「早まるな」と後ろから抱き止めてくれた人が炭商山口屋善右衛門でした。
 太助はここで奉公を続け、朝は星のあるうちに起き、夜は人声が鎮まるのをまって寝ました。他の奉公人の休む隙に、はき古しのはき物の鼻緒をすげ替えておいて、急な場合の役に立たせたり、落ち散っている縄屑などを拾い集めておいて、炭俵のつくろいなどに使いました。
 このようにして、いつしか「奉公人の鑑」とまで感心されるようになりました。
 また山口屋に奉公して5年目のこと。毎日、炭荷を積んだ車を引いて通る湯島無縁坂が荒れていてひどかったので、太助は自費で改修を行いました。晩年には、中山村の反峠に渋茶の接待 所を設けたり、伊香保より榛名神社に通じる天神峠に常夜燈を建てて、旅人の便を計ったりしました。このように生涯を通じて公益事業に巨費を投じたのです。
 太助は山口屋に奉公した23年の間、真面目に良く勤め、38歳の時に独立し、本所相生町に炭屋を開業しました。「顧客は神様」という信念で、堅実にじっくりと事業の経営をしました。
 太助夫婦はともに協力し、48歳の時に広い屋敷を求めて新店舗を構え、はじめて財をなした豪商となったのです。巨万の富を築き、公儀の御用を勤める身分となって、
「本所にすぎたるものが二つあり津軽大名、炭屋塩原」
と言われるようになりました。


太助の郷ここ「太助の郷」は、新治村が生んだ江戸時代の名士「塩原太助」を偲んで作られた資料館や、村で採れた新鮮な野菜の直売所などがあります。
 資料館には、手紙や茶釜などの塩原太助が愛用した品々や当時の資料、また炭に関する資料などを展示しています。
 資料館で太助の人柄に触れた後、採れたての野菜をお土産にどうぞ。

塩原太助の資料館
塩原太助資料館 資料館の1Fは、塩原太助に関する展示コーナーになっていました。まず映像で彼の生涯について詳しく見ることができます。
 それから愛用した遺品などを見ると、より一層理解が深まると思います。
 2Fは炭焼きに関する資料の展示です。当時の炭のつくり方の詳しい展示がありました。特に興味深かったのが、いろんな材料で作った「炭」の展示です。パイナップル、バナナ、ひまわり、松ぼっくりなど、こんなものが炭に!というものまで置いてありました。
 資料館を見終わった後、物産館の方に戻ってくると、館長さんと数人の人が集まっていました。この資料館は館長さんの温かい人柄により、いつも近所の人が集う場になっているとのことでした。私も展示してある資料について質問などをしつつ、一緒に混ぜてもらってお茶をご馳走になりました。他にもいろいろおしゃべりをして、楽しいひと時を過ごすことができました。館長さんはじめ、ご近所のみなさん、どうもありがとうございました。

野菜の直売所と地域の物産の販売
炭俵新治村周辺の農産物や特産物を扱う直売所です。
 ここでは、とれたて野菜など季節の旬の農産物が、100円からと格安で購入することができます。
 いろんな商品が並んでいる中、特に目を引いたのは、棚の一角に積まれていた炭俵です。
 「太助の郷」にゆかりの塩原太助は、炭で財をなしたことから、新治村では古くから炭作りが盛んに行われていました。そこで直売所では、村の特産物として木炭や竹炭1キログラム(500円~)を販売しています。


その他にもこんなものが・・
・竹炭 新治村の桑工芸
・癒し効果が人気の竹炭 桑の工芸品

・塩原太助像
・塩原太助と愛馬「青」の像
 
塩原太助顕彰碑
塩原太助翁顕彰碑
渋沢栄一揮毫


料金 資料館:大人300円 小人150円
直売所:無料
所在地 利根郡新治村新巻497
電話番号 0278-64-1166
営業時間 9時~17時(11月~翌3月 9時~16時)
定休日 木曜日(定休日が祝日の場合は翌日休)



タンポポ⑤


                 
        

約束の海 最終回

2014/ 01/ 08
                 
 週刊新潮 1月16日迎春増大号 
 約束の海[連載小説 最終回] 山崎豊子  
 去るべきか [四)
 ・・・     ・・・     ・・・
 ・・・ 各種の書類に混じってエア・メールの消印がくっきり読み取れた。花巻は思わず、その絵葉書を手にとった。差出人はやはり小沢頼子だった。裏を返すと、教会らしき建物の写真が印刷されていた。

 カイザー・ヴィルヘルム教会にて――
 昨日、東西ベルリンを隔てていた壁の一部が、民衆によって、打ち砕かれました。渋谷でお話していたのは、まだ初夏でしたね。それが今、現実に起り始めたのです。
 平和を心から祈ります。
 ・・・     ・・・     ・・・
 ・・・ その結果、自分にどんな決断が出来るのか、今はまだ分からない。だが、西ドイツから届いた頼子からのはがきは、今後の自分の道しるべのように思えた。
 その一歩が、ハワイでの訓練、研修なのかもしれない。この先、世界がどう動くのか、何が待ち受けているのか。
 畏れを抱きながらも、揺るがぬ決断がそこから生まれる気がした。
  (第一部完結)

 《この作品は、多数の関係者を取材し、小説的に構成したもので、登場する作中の人物などは架空である。》


――〈主要参考文献・資料〉―― 
 「『捕虜第一号』 坂巻和男 新潮社」など、37の文献、資料、映像を列記。
 その最終五行には、次の通りに書かれています。

この他、朝日・毎日・読売・日経・産経・東京各紙の関連記事の他、主要週刊誌、経済誌、情報誌の関連記事。また、それ以外にも、日本政府、在日米軍、防衛省(自衛隊)等の多数の関連資料(内部資料含む)を参考にしました。国立国会図書館、国立公文書館、米国国立公文書館等に収蔵されている文書・写真等も参照しました。
その他の文献・資料と、取材協力者のお名前は単行本の巻末に明記致します。

 

 10週の連載で第一部が終わりました。第二部に入ることなく『約束の海』は出版されることになります。




パンジー⑩


 
                 
        

上毛かるた たちつてと

2014/ 01/ 08
                 
 上毛かるたを習った当時は、「力あわせる 百六拾萬」でした。
 「つる舞う形の群馬県」の当時の人口です。


 た ・・・ 滝は吹割 片品渓谷
 ち ・・・ 力あわせる 二百万
 つ ・・・ つる舞う形の 群馬県
 て ・・・ 天下の義人 茂左衛門
 と ・・・ 利根は 坂東一の川


 吹割(ふきわり)の滝・片品渓谷
 水量が豊富な時の、吹割の滝の瀑布の景観は見事です。
 渇水期、水がほとんど流れていないときは、岩畳がそこそこ広がっているという程度の景色に変わります。
 沼田市利根町にあります。

 以前、その吹割の滝より、ちょっと沼田よりの上久屋というところに住んでいたことがありました。
 今は同じ沼田市となっていますが、当時は利根郡となっていました。
 上久屋の隣は、原久屋という地名ですが、今でも時折、林檎狩りにでかけます。


 利根川
 片品渓谷に流れる片品川も、利根川の支流の一つです。
 玉原高原の奥を源とする利根川は、関東各県を回って、文字通り「坂東太郎」となって、太平洋に流れ込みます。


 磔(はりつけ)茂左衛門(もざえもん) 
 時の大名の悪政で農民が困窮しているのを座視できず、江戸幕府に直訴して磔刑になった杉木茂左衛門を、上毛かるたでは「天下の義人茂左衛門」とよみこんでいます。
 一蓮托生になる百姓一揆という手段を選ばず、巧妙な「恐れながら・・・」の遣り口に、実在とは異なる物語性を感じるという説もある磔茂左衛門です。
 当時、定められた合法的手続きを踏まず、直接権力者に訴えることを直訴(越訴)といいますが、これは御法度で厳しく断罪されます。事の成否にかかわらず訴願人は処刑されました。
 通常「直訴」は、一般農民→庄屋→大庄屋→代官・郡奉行→家老・藩主→幕府老中・将軍という順序を辿りますが、 茂左衛門は第5代将軍徳川綱吉に真田信直の悪政をやめさせるべく江戸へ直訴に出向きます。
 しかし、江戸城では門前払いされました。それもそのはずです。将軍が一農民の話に取り合うはずもありません。
 以下、「茂左衛門地蔵尊由来記」に託します。

 ( 茂左衛門地蔵尊千日堂 : 群馬県利根郡みなかみ町月夜野491 tel 0278-62-2380 【 ・身代わり地蔵、民衆を救おうと一身を犠牲にし妻子と共に刑に処せられた。・病気平癒、厄除、安産等の祈願などで仁愛と家族愛に深い地蔵として親しまれております。 ・月夜野八木節会による「磔茂左衛門」を題材にした八木節の歌詞と踊りが奉納されています。(春分の日、秋分の日)・茂左衛門地蔵尊縁日:・春分の日/秋分の日(年2回)・初詣・だるま市・節分豆撒
※露店が約200軒出店しにぎわいます。当日は臨時駐車場もあります。ご家族でお越しください。~群馬県hpより~ 】 )


茂左衛門地蔵尊由来記
 千日堂(JR後閑駅から徒歩約10分)に、由来の表示版が立っています。

 今から凡そ300余年前のこと。上州沼田領3万石の城主真田伊賀守信直は華美放漫の政治をした為に藩の財政は窮乏したのでこれが立直しの為領民の苦境をも考えず、寛文年間再度に亘り無理な検地をして3万石を約5倍にあたる14万4千余石とし、その上、凶年続きで困苦のどん底にあえいでいる百姓から苛酷な取立てを行い滞納者には残酷な刑罰に処した。この惨状を見るにしのびず利根、吾妻、勢多の3郡177ヶ村の領民のために一命を捨てる覚悟で立ち上がったのが月夜野の百姓茂左衛門である。茂左衛門は姓を杉木と言い義気に富んだ中流の百姓であった。天和元年(1681)正月、領主真田伊賀守の非行、領民の惨状をしたためた訴状を懐にひそかに江戸に上り、上野輪王寺宮から将軍家へ巧妙な方法で直訴に成功した。時の将軍(家綱)は取り調べの結果、罪状明確なので伊賀守は改易沼田城破却の運命となった。茂左衛門は本望を遂げたのを見届けたのでひそかに郷里に帰り妻に別れを告げ自首を決意して江戸へ向かうところを小袖坂で幕吏に捕らえられ江戸送りとなり、取調べの上所成敗となり天和2年12月5日月夜野竹の下河原で磔刑に処せられた。領民はその死をいたみ刑場あとに地蔵尊を建て供養を続けその遺徳をしのびきたが大正11年旧領地をはじめ各地の篤志家からの浄財によってここに茂左衛門を祀る千日堂が建立されたのである。
 茂左衛門地蔵尊大祭 春秋彼岸中日 平成7年6月吉日 
 茂左衛門地蔵尊千日堂運営委員会

 刑場跡
 千日堂の下、無料駐車場に「刑場跡」があります。


 嶽林寺
(上毛高原駅の裏手にある。千日堂から徒歩で小一時間かかります)

 嶽林寺は茂左衛門の菩提寺です。同寺には茂左衛門と妻の位牌が安置されています。
 茂左衛門の磔の彫刻が立っています。


「磔茂左衛門」像 関有雅作
  茂左衛門は月夜野の出生で、時の城主の施政に義憤を感じ、沼田領177ヶ村領民の為に一身を犠牲にして刑場に露と消えた義人である。この像は刑場の石積みに立てられた礫柱台上の茂左衛門で処刑を前にした最後のその姿は神々しいまでに輝き静かな表情をたたえている。彫刻化石有が氏は昭和11年群馬県利根郡新治村に生まれ昭和35年頃から数本のノミを持ち師を持たず独学で彫刻の道を修めた方である。鎌倉全美展にて神奈川新聞社賞、東京都美術館新構造展に於いて奨励賞等を受賞された。この像は昭和60年に作られた関氏の元に秘蔵されていたものであるが、この度供養の為茂左衛門の菩提寺である当山に奉納されたものである。平成11年10月 嶽林寺37世代


茂左衛門一代記(千日堂で無料で配布しています)
 茂左衛門一代記




パンジー⑨
                 
        

上毛かるた さしすせそ

2014/ 01/ 07
                 
 八木節   群馬県

アヽヽアー 又も出ました 三角野郎が
四角四面の やぐらの上で 音頭とるとは
おゝそれながら 国の訛りや 言葉の違い
許しなされば 文句にかかるが
オヽイサネ

アヽヽアー ここに名高き 国定忠治
国は上州 アノ 佐波郡音に聞こえた
国定村の親の名前を
忠兵衛というて 二番息子が忠治でござる
生まれついての任侠肌で 音にきこえた
国定村の 人のためなら けんかもなさる

アヽヽアー 人もうらやむ 大貸元で
頃は弘化の 三年九月 今日もあしたも
あしたも今日も 今日もあしたもあしたも
今日も勝負勝負で其の日を送る

アヽヽアー もっとこの先よみたいけれど
上手で長いはまたよけれども 下手で長いは
おんざの邪魔よ やめろやめろの声なきうちに
ここら当りで 段切まするが オヽイサネ


上毛かるた
 そ ・・・ そろいの支度で 八木節音頭

ご存知八木節。
 その起源、由来は諸説あります。
 諸説あるということは、シンプル イズ ベスト。と、スパッと割り切れないところに、歴史性を感じます。

 きょうは、上毛かるたの「さしすせそ」

 さ ・・・ 三波石(さんばせき)と共に名高い 冬桜
 し ・・・ しのぶ毛の国 二子塚
 す ・・・ 裾野は長し 赤城山
 せ ・・・ 仙境尾瀬沼 花の原
 そ ・・・ そろいの支度で 八木節音頭


 尾瀬は、何回か行きました。
 最初に行った時は、遊覧船もボートもありました。
 東京から来た叔母と一緒に、家族皆で尾瀬の夏を泊まり込みで満喫しました。

 赤城山はいつも日帰りです。
 最初の頃は有料道路となっていました。
 その有料道路に入る手前で、焼きトウモロコシを売っています。
 甘くてホクホクして香ばしくて、夏の風物詩そのものでした。
 冬場でも、スキー客、スケート客が、行き帰りに立ち寄って、湯気を立てているトウモロコシに食らいついていました。
 今でも同じところで、焼きとうもろこしを売っています。
 一本の焼きとうもろこしの値段、当時と変わらないのでは…と、昨年立ち寄った時に思いました。


 上州、上毛の古墳、あちこち点在しています。
 父がサラリーマン生活を退いたあと、古墳発掘で、しばらくの間熱心に現場に通っていました。
 そういえば、発掘調査研究に来ていた群大の女子学生とお見合いをしたらどうかといわれたのも、この頃でした。
 三十歳前は、お見合いの話が星が降りそそぐようにあったのが、大台に乗ったとたん、(周りから想坊はその気はないんだと思われてしまい?) ピタッと見合い話が途絶えました。


 冬桜は見に行ったことがありません。
 発祥の地での八木節も見に行ったことがありません。
 「上毛かるた」にうたわれている「八木節」の起源(越後=新潟)、発祥・由来に、両毛(上毛説=群馬説と、下毛説=栃木説)に、その諸説があります。

 群馬県人、栃木県人でないと、八木節発祥の地はドコか、イズコか・・・などというのは興味のないことでしょうけれど、ウィキペディアの「八木節」の項を参考に載せました。
 あちこちを引き合いに出しながら、苦労して、工夫して文をまとめている努力のあとが、垣間見えている一章となっています。


八木節
伊勢町祭りの八木節
八木節(やぎぶし)は、現群馬県伊勢崎市境中島で生まれ、育まれた民謡である。

八木節の歴史[編集]
八木節の発祥については諸説あるが、通説は現在の栃木県足利市にあった八木宿において、 初代堀込源太(本名渡辺源太郎)が歌っていた歌がそのルーツであると考えられている。八木節の名称は、八木宿にちなむ。当初は渡辺の名から「源太節」と呼ばれてきたが、1914年(1913年説あり)に日本蓄音機商会でレコーディングされる際に命名された。

群馬県側では、八木節の起源は八木宿と同じ例幣使街道にある木崎宿で歌われてきた木崎節であるという。『日本民謡集』(町田嘉章、浅野建二)はこの説をとっている。このほか、江戸時代末期に流行した口説節が起源という説もある。

群馬県佐波郡境町在中島の桶職だった柿沼庄平が、商売でしきりに八木宿方面に出ていて源太を知り、庄平の世話で中島村の尾島長松の家に百姓番頭に来た。養蚕の日雇い稼ぎが主で、毎年夏場半年ぐらいは、中島村にはたらいていたが、それから十年ほど、源太の中島時代があったわけである、 源太は。一時馬方などやっていた、生来の唄好きで、よく馬子唄などをうたっていか、中島に来てからは、その唄好きによって口説きを唄いだしたが、もって生まれた美声と、抑揚に富んだ節調の上手は抜群で、毎晩のように村々の盆踊りに出かけたり、喚ばれて唄って歩いたが、中島の囃子連中と出場すると必ず入賞で一反流しを手にし、「中島の源太」として大いに名を上げたのである。源太三〇歳から三五歳ごろで、 源太の口説きは大変な評判になった。とこらが源太は、間延びした口説きのうたい方を、自分で創意工夫して調子のよいうたい方に変えた、 こそれは軽いリズムこ乗った調子のよいもので、その調子のよさは、一度に聞くものを圧倒させたのである。 その軽い節調は、上州人特有の好奇心を見事にとらえて、大いに評判になり「源太節」と呼ばれ盛行することになる。 しかし、源太節の初めは、囃子方がなかった。源太と一緒にいた小林半七さんの話には、はじめはただ一人で、囃子なしで唄ったのであるが、暫くたって中島の連中が工夫して、樽やカネ、笛をこれに合わせて囃子方をつくると、源太節は一世を風靡することになる。 いわゆるチャカポコ、チャカポコという軽いリズムの囃子方は中島の連中がつくったわけである。 もともと源太は、いわゆる粋な男で、源太一座の髪床師で一緒に興行してあるいた、桜井さんという老婆の話には、とても男前のいい芸人肌だったので、どこへ行っても女がつきまとったそうである。 八木節はますます盛んになったが、その八木節の発祥は境町在中島村である。その囃子方も中島村人によって創意工夫され、ここで十年間ほどうたわれた「源太節」がもとになったわけで八木節は上州に生まれたのであるが、八木節の名称によって、発祥の地がわからなくなってしまったのである。 その元流は口説き節で、元禄のころからの遺物である。木崎には木崎節、境町では「赤わん節」と呼ばれ、玉村には「横樽音頭」などと呼ばれた、 上州の口説き節が、越後から伝わったのは聞違いなく、明治初年、前橋民政局の達しに「古来より盆踊りと申事、当国に於ては右様賎敷き 風俗無之筈の処、近来越後辺より。。。。云々」とある。 なを、中島村は江戸時代のはじめ慶長六年に稲垣平左衛門の領地となり元和二年前橋酒井雅楽頭領、寛永十四年酒井忠能が分家領有して伊勢崎領、 寛文二年三月また前橋領、天和二年ふたたび伊勢崎酒井忠寛が領有して、明治にいたるまで伊勢崎藩が領有していた。明治元年四月明治政府のもとに 伊勢崎藩となり、翌二年伊勢崎県の支配、同四年十月伊勢崎県を廃して群馬県の支配となった。ついで熊谷県となり、明治九年また群馬県となった。 中島は大名領一給地で、古くから柿沼弥右衛門が名主を世襲していた。 今の柿沼十二家だが、寛政六年に名主年番制を定めた。村役人は名主が一人、組頭二人で、三人の村役人が、その以後は一年交替で名主と組頭を勤めるわけである。村役人源右衛門は柿沼了三家である。  天和二年のときの家数は四十二軒、人数は二百十七人で、慶応元年には家数六十七軒、人数三百四十四人、昔から農業も盛んだったが、舟頭稼業が多かった。また中島河岸から伊勢崎へ通じる道を駄賃馬道と呼んでいる。男が舟頭渡世だったので、馬子には女が多く、姉さんかぶりの女馬子がいい声で馬子唄をうたいながら馬を曳いたと古老が伝えている。  明治八年村内薬師堂に中島小学校が開校され、町田金十郎が初代校長となった。明治十二年四月中島、小此木、境の聯合戸長役場となる。 そして二十二年四月の剛志村合併となり、昭和三十年境町と合併となる。以上の事から、 八木節の発祥は境町在中島村「現群馬県伊勢崎市境中島」で、源太と関わりのあった方々の墓石も有り又、子孫も健在で検証する事が可能であり、 柿沼、尾島家の家系も正確であることから従来の木崎節起源説と口説節起源説とは矛盾が少なく妥当で正確な近世歴史の証となる。

一方、郷土史家の台一雄は、八木節の起源は古くから八木宿の近くの集落で古くから使われていた盆踊り歌の神子節で、これに他地域の民謡(木崎節も含む)の特徴が若干混ざったものだと主張した。台は著書『八木節 その源流をさぐる』で、従来の木崎節起源説と口説節起源説を否定している。



パンジー⑧
                 
        

六日年越 爪切り

2014/ 01/ 06
                 
 一三 六日年越 爪切り

 一月六日は六日年越といいます。馬や牛などのお正月だと言う人もありますし、鼠の年とりだとも言う人もありますが、どうもよくわかりません。
 やはり切火して献燈、若水汲んで献茶、七ッ鉢で御飯を上げます。夕方も勿論献燈、献茶、飯と三元日と同様です。
 明日の七草に使用する「セリ、なづな」は五日に採ってきておきます。それは洗って小笊に入れて神棚に上げておきます。
 六日にとることは「一夜ぜり」と云って忌まれます。山の清水などの湧く辺りの日当りのよい所に生えているセリを採って来るのです。六日になるとセリの一部を神棚から下ろしまして小さな茶碗に入れこれに水を満たします。正月らしい長閑な縁側にその茶碗をもちだしこの水をひたして爪を切るのです。足の爪は茶碗に入れるわけには参りませんからセリをつまみあげてその水で爪をぬらして切るのです。これが一年中の爪切り初めであり又何か災害を予防する意味があるのでしょう。


 習俗歳時記
 著者 今井善一郎
 発行所 株式会社煥乎堂
 発行 昭和50年10月1日



七草なづな ///// 七草なづな②
 七草なづな




                 
        

山初め

2014/ 01/ 06
                 
  一二 山初め

 正月六日は又山初めの日であります。四日の御棚探しに下ろしたお供え餅の中御蒼前様に上げてあった餅をもって年の暦により吉方の山林へゆきます。外にオサゴ(白米)とゴマメ(田作り)と白紙を持ってゆきます。山は大概雑木林へゆきます。手頃の小さな木を根元から切倒してその木のウラ(芯)を三尺許り残しこれをもとの根元に立てます。之に白紙で作った簡単な御幣を飾り、白米、田作りを供えておがむのであります。只行事だけの山初めでしたらこれで終って帰りますが、若し実際にその山を全伐する様な場合には、今少々手のこむ祭りをやります。木の芯を残して立てる事は同様ですが、この場合はこの木の芯の中央より上の部分を白紙で包んでこれを藁縄で十二ヶのエボ結びにゆわえます(簡略に七ッ、五ッ、或は三ッにする事もありますが、十二が本式)。この方法はいろいろの方式がありますが、大体一本の縄を三重に折って中の木と一緒に結えるのです。之にやはり白紙のオシメを添え、オサゴ、ゴマメ、塩等を供え、更にこの場合はお神酒をこの木の芯にそそぎかけるのです。勿論所謂山初めの一升はつきものであります。通例の正月六日の山初めは酒などないのです。
 猶この日には、十三日の小正月に使うボクの類を切ってくる事になっています。
 山の神様はこの辺では十二様と云います。私の現在の部落も字十二といって古い山神の祠がありました。これは昔私の先祖の所有の社でした。或る時代木樵であったかも知れません。
 終戦後この鳥総立(とぶさたて)の行事も殆どなくなりました。


 習俗歳時記 
 著者 今井善一郎
 発行所 株式会社煥乎堂
 発行 昭和50年10月1日



パンジー⑦

                 
        

少林山とブルーノタウト

2014/ 01/ 06
                 
 ブルーノタウトの名は、父に教えてもらいました。




少林山のホームページより、「ブルーノタウトについて」の紹介をさせて頂きます。


ブルーノ・タウトは1880年5月4日ドイツの東プロイセン・ケーニヒスブルクに生まれました。建築の学校を卒業後、当時流行ったジャポニズム、アールヌーボーに影響され、日本に関心を持ち、画家になるか迷ったこともあったが、ヘードヴィヒと結婚し、ベルリンで建築設計事務所を開き、博覧会出品作や色彩豊かなジードルンク(住宅団地)などの作品が国際的な評価を受けました。

しかし、ナチス政権の台頭により、身の危険を感じたタウトは日本インターナショナル建築会の招待状があるのを幸にエリカ・ヴィティヒと共に日本に亡命しました。

1933年5月3日敦賀に到着し、翌日の誕生日に桂離宮を訪れて深い感銘を受けたのをはじめ、伊勢神宮では自然と調和した簡潔なそして厳しい形式に共感し、また建築家に連れられて全国を旅し、また、多くの文化人や工芸家に接し日本の文化を深く理解して行ったのです。

始めは仙台の工芸指導所に勤めましたが、建築家・久米権九郎氏の紹介で高崎の井上房一郎氏の知遇を得、後に高崎の県工業試験場高崎分場に着任します。

井上氏は八幡村の大地主である沼賀博介氏が農業の普及と改良の指導をして頂く東京農大学長・佐藤寛治博士のために建てた洗心亭という建物が少林山達磨寺境内にあって空いていることを知り、100日の予定で当時の住職・廣瀬大蟲和尚にタウトの滞在を依頼したのですが、結果的には1934年8月1日から2年3ヶ月もの長期滞在になってしまいました。

高崎では家具の設計をはじめ、竹や和紙を使った作品や漆器、竹皮細工、銘仙の図案など日本独特の素材を生かし、モダンな作品の数々を作り出しました。

洗心亭での生活は、6畳と4畳半だけの狭い簡素な建物ですから不便であったと思いますが、タウトは鴨長明の方丈記や松尾芭蕉の奥の細道を読み、池大雅の十便図を是とするほど、日本特有の「わび」「さび」の心をドイツにいる頃から学び、かえって自然に囲まれた「侘び住まい」を楽しまれたように思います。

また、毎日2時間ほど鼻高の丘陵地帯を散策し、農家の家々に寄り込み大黒柱を撫で回したり、天井裏の曲がりくねった棟木を見たり、農家の家の作りやその生活ぶりを気易く見て廻りました。言葉は通じないのに時にはお茶や菓子が出され、ゆっくりすることもあったそうで、タウトはその気のおけないなごやかな雰囲気を好み、地元の人達もまたタウトさん、エリカさんと親しく声をかけました。

次ぎのような散歩の時のエピソードが日記にあります。


私たちが山下の小径を歩いていると、いつものように大勢の村童たちが私たちのあとからついて来たが、やがて私たちの歩く先に立って両側の潅木の枝を左右に押さえつけ、枝の先が私たちに触れないようにしてくれた。外人を見ようとする好奇心はあっても、実に細かい心遣いをする物だ。みな貧しい?それも極めて貧しい子供たちなのに!やはり日本なのだ。

(昭和10年3月24日の日記)

タウトは昭和10年9月25日の碓氷川の洪水で罹災した藤塚地区には沼賀氏を通して見舞金を贈り、沼賀氏は全戸に「水害見舞 ブルーノ・タウト」と書いたバケツ渡し、残金は貧困家庭に分けられました。日本では十分な生活費もなく、ドイツから持ち込んだお金を取り崩す生活をしていたのにもかかわらず、仕事や散歩で行き会う人々の惨状を見ぬふりが出来なかったのでしょう。タウトのバケツはつい最近まで保存していた家が藤塚にあったそうで、タウトの暖かい心が今だ藤塚地区には語り継がれています。

日本では本職の建築では力を発揮することは出来ませんでしたが、洗心亭を本拠地にして、おもに関西から東日本の各地を廻り、画帳『桂離宮』『ニッポン』『日本の家屋と生活』『建築芸術論』『日本文化私観』などの著作を通して、日本建築の自然と調和した美しさと日本文化の素晴らしさを世界的に知らしめた功績は、私たち高崎市民にとって誇るべきことではないでしょうか。

トルコからイスタンブール芸術アカデミー建築科教授、兼政府最高建築技術顧問としての招聘があり、後ろ髪を引かれつつも建築の仕事が出来るということで応じました。

1936年10月10日赤坂の幸楽(その年2.26事件で反乱軍の宿舎となった料亭)で送別会の挨拶でタウトは「私はもはや健康ではない、再び日本に帰ることはできないだろう。日本は遂に戦争になるだろうが、集まって下さった方々の無事生きながらえることを願うばかりだ。出来得るならば私の骨は少林山に埋めさせて頂きたい」と言われたそうです。

その年の11月11日にイスタンブールに到着するのですが、翌年、厚遇を受けた大統領ケマル・アタチユルクの死に際し、その恩顧に応えようとして、葬儀場の設計を一晩のうちに仕上げるなどの無理がたたったのか、1937年12月24日脳溢血のためにこの世を去りました。

遺体はエディルネカピ墓地に埋葬されましたが、タウトの遺志を果たすため、エリカは翌年9月15日にデスマスクを少林山に納めました。

タウトがわが故郷とした洗心亭には「ICH LIEVE DIE JAPANISCHE KULTUR」(私は日本の文化を愛す)というタウトが少林山に残した言葉の碑があります。私たち日本人は自信を持ってこのような言葉を言えるようになることが、これからの国際化時代には必要なのだと今気付き始めました。座右の言葉として大切にしたいものです。



パンジー⑥



                 
        

バードウオッチング

2014/ 01/ 05
                 
 きょうは、ツグミが訪れました。


ツグミ 20120201 ⑦
 ツグミが我が家に来るときは、いつも一羽です。
 さきたま緑道や埼玉古墳公園など、いたるところで見かけます。
 



シロハラ 20120208
 シロハラは渡り鳥です。今年我が家の庭に来てくれるでしょうか。
 写真は、昨年ガラス戸越しにようやく撮れた1枚です。



年明けは、日曜日も郵便配達するのですね。
 ブログ読んで頂いていて嬉しいです。
 facebookの友達からは、もっと外に出て野鳥を撮って!…とリクエストを貰いました。
 まずはカワセミの写真だそうです。
 以前、近所の元荒川で、散歩の折に見かけたことがあります。
 今でも、渓谷まで足を運ばなくても、お目にかかれそうな気もするのですが・・・
 さてどうなることになりますやら。









                 
        

不思議といえばという

2014/ 01/ 05
                 
 埼玉古墳公園の隅の小川が流れている土手で、宏有さんと私は土筆摘みに精を出していました。

 ふと目を上にあげたところ、ムッちゃんが、私と宏有さんの丁度真ん中あたりに、お行儀よく座っています。
 不思議といえばというほどのことでもないのでしょうけれど、春の野にいでて若菜摘む…私たちを見守っているかのように、上品にお座りしたまま二人を交互に見遣っているのです。
 春の野にいでて、思いっきりはしゃぎ回るのが大好きなきみ。
 フシギというほどのことでもないのでしょうけれど、二人が周りのことを忘れ、目の前のことに没頭している時に、きみはいつも私たちに寄り添っています。


 
 玉原高原にオバアチャン(宏有さんの母)と、泊りがけで行ってきたときのことです。

 それではちょっとひと休みということで、デッキチェアに義母が腰掛けるやいなや、ムッちゃんは、オバアチャンの隣に、お行儀よく前の両足をきちんと揃えてお座りします。
 義母が「お利口さんねえ!」と、感嘆します。
 不思議というほどのことでもないのでしょうけれど、オバアチャンはいたく感心しきりです。
 夏の高原で、思いっきりはしゃぎ回るのが大好きなきみ。
 フシギというほどのことでもないのでしょうけれど、オバアチャンと一緒の時、いとも自然体で敬意を表すのです。  そのときどき、わたしたちにいつもさりげなく寄り添うきみです。



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上毛かるた

2014/ 01/ 04
                 
 昭和22年に「遊びを通して子供たちが群馬の地理、歴史に興味を持つことで郷土、次いで国を愛する精神を植え付けたい」との思いから、読み札を公募して製作・発行された。



 【産経ニュース 2013.10.20 12:55】
 群馬文化協会は19日、前橋市内で役員会を開き、上毛かるたの著作権、商標権を県に譲渡する方針のほか、譲渡後に協会を解散することを確認した。


か ・・・ 関東と信越つなぐ 高崎市
き ・・・ 桐生は日本の 機(はた)どころ
く ・・・ 草津よいとこ 薬の温泉(いでゆ)
け ・・・ 県都前橋 生糸(いと)の市(まち)
こ ・・・ 心の灯台 内村鑑三


 高崎、桐生、草津そして前橋。
 お馴染みの名前のところですが、桐生は一度か二度くらい(途中下車しないで車で桐生市内通過は、何度もあります)しか行ったことがありません。

 群馬は温泉が多いということもあり、「上毛かるた」には、草津温泉、伊香保温泉など、温泉地がたくさん詠みこまれています。
 キリスト教徒の内村鑑三、新島襄などの著名人をはじめ、群馬に縁が深い人々の足跡を後世に伝えるために、「上毛かるた」は、その名を遺しています。

 前橋キリスト教会に、高校生時代通いました。舟喜拓生牧師の演劇指導のもとに、クリスマスイブに晴れ(?)の舞台にも立ちました。
 「 エマ エマ レバ サバケタニ  主よ! 主よ! どうしてわたしをお見捨てになったのですか 」という、セリフのところは、今でも覚えています。 1927年生まれの拓生牧師、ご健在と思います…
 追記デス:・東京の浜田山に住んでいたとき、浜田山キリスト教会に一度、足を運んだことがありました。 ・下高井戸駅で、偶然、拓生牧師に会ったことも、思い出しています。東京のとある街中で偶々顔を合わせるということって、不思議といえば不思議ですね。




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