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熊谷めぬまグライダーフェスタ 2014

2014/ 02/ 28
                 
第19回風と遊ぼう! 熊谷めぬまグライダーフェスタ2014


第54回全日本学生グライダー競技選手権大会が、3月2日(日)から9日(日)の8日間、熊谷市妻沼グライダー滑空場で開かれます。
 3月1日(土)の正午から開会式が行われ、14時から大会出場選手の紹介があります。
 その時間を前後して、9時30分から15時の間、「第19回風と遊ぼう! 熊谷めぬまグライダーフェスタ2014」が開催されます。

↓昨年12月17日から23日の間に行われた「関東学生グライダー競技選手権大会」の最終日に撮った写真です。
妻沼グライダー滑空場①

妻沼グライダー滑空場②

妻沼グライダー滑空場③

妻沼グライダー滑空場④


グライダー体験搭乗会

飛行回数と滑空時間が共に日本一を誇る妻沼グライダー滑空場で、
グライダーの祭典が開催されます。
利根川の自然を舞台に、グライダーの体験搭乗会、模型グライダーづくり講習会など、
子どもから大人まで楽しめるイベントが盛りだくさんです。ご家族皆さんでご来場ください。

とき:3月1日(土曜)9時30分~15時 ※雨天・強風の場合は中止
ところ:妻沼グライダー滑空場(利根川河川敷)

グライダーのアクロバット飛行
グライダーアクロバットチーム「レッドフォックス2」による

アクロバット飛行が行われます。
機体は、チーム名にもなっている専用機です。
パイロットは、グライダーアクロバット世界選手権に日本代表として
出場されている梶智就(かじともなり)さんが務めます。
【午前の部】9時40分~ 【午後の部】 12時40分~
 
グライダー体験搭乗会
グライダーを見るだけでなく、乗ってみたいという皆さんにチャンスです!
大空を舞う最高の思い出を作りましょう。
この搭乗会は、めぬまグライダークラブの皆さんの協力によって行われます。(費用無料)

【午前の部】10時30分~(6人) 受付9時30分~10時 抽選10時
【午後の部】13時~(9人) 受付10時30分~11時30分 抽選11時30分


模型グライダーづくり講習会模型グライダーを作って飛ばそう
グライダー好きな子どもたちにおすすめ。
自分だけの発泡スチロール製模型グライダーを作ってみよう。(費用無料)
とき 13時~(整理券配布12時30分~)
定員 先着100人

名物「吟子鍋」の無料サービス
毎年行列ができる絶品グルメで、これを目当てにフェスタに来る方も多いとか。
冷えた体を芯から温めてくれる、郷土の味をご賞味ください。
とき 11時30分ごろ~

野外コンサート
とき・出演者
 10時15分~10時45分 えんむちゃんと仲間たち
 11時~11時30分    キッズビクス・リンリン(子どもダンススクール)

熊谷市マスコットキャラクター「ニャオざね」、熊谷市めぬま縁結びキャラクター「えんむちゃん」も登場!

第54回全日本学生グライダー競技選手権大会 大会期間 3月1日(土曜)~9日(日曜)
開会式 3月1日(土曜)12時~
※開会式は、グライダーフェスタに併せて開催
この大会は、個人戦と団体戦の優勝を競う「学生グライダー競技」の最高峰です。
広大な利根川上空を舞台に繰り広げられる学生たちの熱い戦いをご覧ください。


詳細は熊谷市ホームページ「風と遊ぼう!熊谷めぬまグライダーフェスタ2014」をご覧下さい。
http://www.city.kumagaya.lg.jp/kanko/event/maturi/gliderfesta.html

問い合せ先:妻沼行政センター 産業建設課
電話:048-588-1321(代表)内線312、316 ファックス:048-588-1326




                 
        

ワシ

2014/ 02/ 27
                 
 トビ、ワシ・タカの類の写真を初めて撮りました。
 もっと鮮明な写真を撮ろうと思った矢先に、飛び立って行ってしまいました。

 この写真の鳥は、随分と大きな個体でした。
 「ワシ・タカの図鑑」を見ました。
 冬、日本に飛来するワシも何種類もいるということが判りました。
 
 「コレダ!」と、思えるワシの名前をピックアップ出来ませんでした。


 
 ワシ①

ワシ②

 「コスモスアリーナふきあげ」から糠田橋方面へ、車で荒川花街道(サイクリング道路)を通って行けるかなと思ったのですが、工事をしていました。
 その街道に沿って、荒川河川敷に細い道が通っていましたので、行けるところまで行ってみようと思い、ゆっくり走行で、ひな祭り新会場となったコスモスアリーナを後にしました。
 ぬかるみや水たまりや倒木に気を遣いながら景色に目をやると、いろいろな被写体が目に飛び込んできました。「カラスの群れ」、「残雪を前景にした木立」、そしてこの写真の「ワシ」でした。


 ❀鴻巣市役所HPより
荒川花街道

お知らせ
荒川花街道でのコスモス・ポピーの栽培は、国土交通省による堤防強化工事のため、2013年をもって終了しました。

 【荒川花街道は、糠田から明用までの荒川堤防沿い約4.5kmにわたり、春には菜の花やポピー、秋にはコスモスが咲き誇っていました。どこまでも続く長い花街道は、散歩コースやサイクリングコースとして大勢の方に利用され、親しまれていました。】



☛ 後掲
画像を縮小しないで、前後左右をカットした写真です。(最大限の望遠倍率で撮りましたんで、かなり不鮮明ですね。)
ワシ③




                 
        

鴻巣パンジーハウス

2014/ 02/ 26
                 
パンジーハウス⑨パンジーハウス看板 花⑪

花⑩ 花⑫



鴻巣農産物直売所 パンジーハウス

所在地:〒365-0071埼玉県鴻巣市寺谷165-3
            (鴻巣フラワーセンターとなり)
     TEL048-596-8122 FAX048-596-5181
     E-mail:narisawa@pansyhouse.com
敷地面積:8000㎡ 施設面積:3000㎡

パンジーハウス⑫出入り口 花②

花⑮ 花⑭


営業時間:9:00~18:00 年中無休 駐車場100台
取扱品目:園芸植物(鉢花・花苗・洋らん・切花・観葉・野菜苗・花木・種苗) 、園芸資材(用土・肥料各種、テラコッタ・鉢類各種他)
農産物(野菜全般・米・小麦・梨・苺・豆類他)


併設施設(パンジーハウス敷地内)

地域食材供給施設 店名:本館 地産地食堂 てらや
パンジーハウス⑩てらや 花③ 花⑥ 花⑨


              別館 鴻巣うどん  てらや
パンジーハウス⑦別館てらや 花④ 花⑦ 花①

営業内容:本館てらやは、地元産米、野菜をふんだんに使用した米食中心の中華風食堂。別館てらやは、鴻巣産小麦粉(農林61号)を自家精麦・製粉・製麺のオール自家製うどん店。両館共に「地産地消」をモットーとし、安心安全の食材供給を行っております。
メニュー:本館は、てらやラーメン480円、唐揚定食580円、野菜ラーメン680円、炒飯680円~etc...、別館は、ぶっかけうどん280円、かけ・もりうどん330円、人気の田舎うどん380円~etc...

営業時間:本館11:00~18:00、別館10:00~17:00 年中無休 
所在地:(本館てらや)鴻巣市寺谷167-1TEL048-596-6500
      (別館てらや)鴻巣市寺谷146-1TEL048-578-4021


<小麦粉加工施設 店名:ベーカリー オリーブ> 
パンジーハウス⑧ベーカリー 花⑤

花⑬ 花⑧


 安心手づくり焼きたてのパンをお楽しみいただくお店です

営業内容:地産地消をめざした小麦粉加工品「パン」を美味求心しており、季節商品、人気定番商品他、新規企画商品を開発中です。現在、焼きたてのパンを店内外ですぐに食べていただく、イートインコナーを設けており、好評をいただいております。お手頃美味しいコーヒーも人気です!!

営業時間:8:00~18:00頃 火曜定休 
所在地:鴻巣市寺谷146-1 TEL048-597-1117


大雛雌雄⑤ 花⑲

花⑱ 花⑯








                 
        

鴻巣ひな祭り・ひな壇の工夫

2014/ 02/ 24
                 
ピラミッド
 エジプトのピラミッドは、四角すいの形をしています。
 「鴻巣びっくりひな祭り&同時開催ひな祭り・ひなまつり」の会場は、市内の6か所で開催されています。
 市役所のメイン会場はピラミッド(日本一の高さ7m、31段)ひな壇となっています。
 エルミ会場は5角すい型ひな壇、
 コスモスアリーナふきあげの会場は8角すい型ひな壇、
 ひなの里会場は大びな&川幅飾りと鴻巣歴史びな、
 花久の里会場は6角すい型ひな壇、
 そしてパンジーハウス会場は3面ピラミッド型ひな壇と、
それぞれ独自の趣向を凝らしています。



コスモスアリーナふきあげ
 昨日は、今年初めて登場した吹上会場の「コスモスアリーナふきあげ」のお雛様をみてきました。

8角すい型ひな壇
 8角すい型ひな壇 「鴻巣びっくりひな祭り」10周年を記念して、初登場です。

会場入り口 雌雛雄雛
 雌雛、雄雛が出迎えてくれました。

見どころスポット
 5月のポピー花畑、10月のコスモス花畑、見ごろのときに是非お越しください。
 すぐ近くには、荒川の上を日本一長い水管橋が通っています。

日本一長い水管橋
 1,101メートルの水管橋です。
 ☛ facebookの友達から、今日、モーターパラグライダー(MPG)、or パワードパラグライダー(PPG)で、この上空をフライトしたら、雪が全て溶けていたよ。というメッセージをfacebook上に貰いました。エンジン付きのパラグライダーですが、エンジンの重さは、35kgもあるそうです。


八角すいのそれぞれの面に牛車が配置されています。さりげなくココロニクイ演出です。
牛車① 牛車②

牛車③ 牛車④


牛車⑤ 牛車⑥

牛車⑦ 牛車⑧







                 
        

『竹取物語』池田理代子-シリーズ最終配本

2014/ 02/ 21
                 
 マンガ 古典文学

 ベテラン大作家たちが豪華に競作!
 古典名作が魅力を増して甦る新シリーズ!!


 シリーズ最終配本:2014年2月27日頃発売予定!! 
 『竹取物語』 池田理代子 巻末寄稿:ドナルドキーン 作品解説:関谷浩
 『源氏物語』に「物語の出で来はじめの祖(おや)」とある『竹取物語』。
 空想や虚構だけではなく、リアリズムとユーモアに富み、また、かぐや姫は絵本等とは全く異なる冷酷さもみせる。
 『ベルサイユのばら』の池田理代子が日本最古の物語を、堂々漫画化!


『古事記』〈壱〉〈弐〉 里中満知子 ・巻末寄稿:〈壱〉:竹田恒泰 〈弐〉:阿刀田高
古事記・壱 ②
・初版第1刷発行:2013年3月2日

古事記・弐 ②
 ・初版第1刷発行:2013年6月1日


『伊勢物語』 黒鉄ヒロシ ・巻末寄稿:橋本浩 ・作品解説:望月光
伊勢物語②
 ・初版第1刷発行:2013年3月30日


『方丈記』 水木しげる ・巻末寄稿:荒俣浩 ・作品解説:関谷浩
方丈記 ②
 ・初版第1刷発行:2013年4月30日


『源氏物語』〈上〉〈中〉〈下〉 花村えい子 ・巻末寄稿:瀬戸内寂聴 ・作品解説:望月光
源氏物語・上 ②
 ・初版第1刷発行:2013年6月30日

源氏物語・中 ②
 ・初版第1刷発行:2013年7月30日

源氏物語・下 ②
 ・初版第1刷発行:2013年12月30日


『徒然草』 長谷川法世 ・巻末寄稿:玉村豊男 ・作品解説:関谷浩
徒然草 ②
 ・初版第1刷発行:2014年1月28日


☆当初、『全10巻』とうたっていましたが、『かげろふの日記』(牧美也子)が、企画中止となっています。
 ☛ マンガ古典文学 源氏物語 下 2013年12月30日 初版第1刷発行の巻末に、【※「かげろふの日記」は著者都合により、企画を中止させていただきます。】と小さな字で書きこまれていました。『「マンガ古典文学」シリーズ 全9巻』となりました。







                 
        

ぐるっと鴻巣ひなめぐり 「ありがとう10周年!」

2014/ 02/ 19
                 
祝10周年
鴻巣びっくりひな祭り
 2014を開催

 鴻巣びっくりひな祭りは、歴史と伝統のある「鴻巣びな」を広く伝えることなどを目的として2005年から開催され、今年で10周年を迎えます。
 今年は、メイン会場の市役所とエルミこうのすに加え、新たに吹上会場として、コスモスアリーナふきあげでも開催することになりました。
 また、期間中は、市内公共施設等でもひな人形が飾られますのでお楽しみください。

 
 土日限定! 無料シャトルバス「ひなめぐり号」を運行

 2月16・22・23日、3月1・2・8日(土・日)に市役所から、ひなの里及びエルミこうのす(鴻巣駅)を結ぶ鴻巣駅方面循環と、市役所から花久(かきゅう)の里及びフラワーセンター(パンジーハウス)を結ぶ花久の里方面循環 の無料シャトルバスを約1時間おきに運行します。
 シャトルバスでの「鴻巣ひなめぐり」をお楽しみください。
 ※3月1日(土)はパンジーマラソン開催のため、一部経路等を変更して運行します。


①メイン会場
 今年も日本一高いピラミッドひな壇(31段・高さ7m)が登場します。
 開催期間中の土・日には、市役所敷地内で、「こうのすびっくりパーキングバザール」を開催します。
とき/2月16日(日)~3月8日(土)平日=9時~17時、土、日=9時~16時 
ところ/市役所1階ロビー

②エルミ会場
 五角すい型ひな壇と鴻巣ひな人形協会による鴻巣雛特別展示を行います。
とき/2月20日(木)~3月8日(土)10時~21時
※2月20日=10時30分~、3月8日=20時まで
ところエルミこうのすショッピングモール1階セントラルコート

NEW ③吹上会場
 新会場となるコスモスアリーナふきあげに八角すい型ひな壇を設置します。
とき/2月16日(日)~3月8日(土)9時~17時(開館は21時まで)※火曜日休館
ところ/コスモスアリーナふきあげラウンジ

④ひなの里
 鴻巣ひなの歴史とひな人形資料の展示を中心とした「ひなの里特別展」を開催中です。中庭を活用した「川幅ひな祭り」も必見です。
とき/3月16日(日)までの9時~17時※びっくりひな祭り開催期間中は毎日開館

⑤花久の里

 ひな人形と花をテーマに飾り付けを行い、サロンに六角すい型のひな壇が設置されます。地域の皆さんの作成した「つるし雛」が彩りを添えます。
とき/3月3日(月)までの9時~17時※期間中は毎日開館

⑥パンジーハウス
 3面ピラミッド型のひな壇や鴻巣産の花で装飾されたひな人形が飾られるほか、鴻巣産米麹を使用した甘酒の無料サービスや豪華なお花が当たる福引なども行われます。
とき/3月16日までの9時~17時

⑦中山道など
 びっくりひな祭り開催期間中は、中山道沿いにもひな人形が飾られます。
 また、2月26日(水)~3月4日(火)には、市民活動センターで鴻巣市文化団体連合会作品展が開催されます。

 以上、広報こうのす かがやき 平成26年2月号 №747 4・5ページより転記



各会場の住所・電話番号です。ご参照ください。

①鴻巣市役所:埼玉県鴻巣市中央1-1 ☎048-541-1321
    (昨年は98,000人を超える来場者で賑わいました。)

②エルミこうのす:・本町1-1-2   ☎ 048-540-7101 

③コスモスアリーナふきあげ:・明用636-1 ☎ 048-548-3112

④ひなの里:・人形1-4-20 ☎ 048-540-3333
 (ひなの里の蔵は、平成25年10月8日に、埼玉県の「景観重要建造物」に指定されました。)

⑤花久(かきゅう)の里:・関新田343 ☎ 048-569-3811

⑥パンジーハウス:・寺谷165-3 ☎048-596-8122
 (「鴻巣フラワーセンターとなり。敷地内に「食堂」、「うどん屋」、「ベーカリー」)

⑦中山道など:JR高崎線鴻巣駅下車。徒歩数分で中山道鴻巣宿の街並みに入ります。「ひなの里」も、この中山道沿いにあります。

❀以下の写真は、昨年撮ったものです。

P1070539_20140219141627fcf.jpg
(「花久の里」の川幅うどん)

P1070521(1)_20140219141629bab.jpg

花久の里⑤
 花久の里


P1070610(1).jpg
 ひなの里:鴻巣雛

P1070605(1).jpg
 ひなの里:川幅ひな

ひなの里⑤景観重要建造物
 ひなの里:景観重要建造物

鴻巣市役所ピラミッド型ひな壇⑤
 メイン会場:日本一高いピラミッド型ひな壇(31段、高さ7m)







                 
        

残雪

2014/ 02/ 18
                 
 峰の原高原にて


峰の原高原にて 残雪


 
                 
        

宮内庁ホームページ 2014年2月17日

2014/ 02/ 18
                 



春季宮殿特別参観の申込要領について

平成26年2月17日
宮内庁

天皇陛下には,昨年12月,傘寿をお迎えになりました。これを記念して,本年春季及び秋季の2回,宮殿特別参観を行います。
春季の宮殿特別参観を希望される方は,下記によりお申込み下さい。

1 参観日時
平成26年5月24日(土)及び25日(日)

参観回

集  合

解  散

第1回 午前 9時10分 午前11時30分頃
第2回 午後 0時20分 午後 2時40分頃
第3回 午後 3時05分 午後 5時25分頃


※参観コースは,別紙(別ウインドウで開きます)のとおりです。

2 募集定員
各回50人

3 参観できる方
18歳以上の方(参観実施日を基準とする。)

4 申込方法
参観希望者は,郵便往復はがきに次の(1)~(3)の事項を明記して,3月14日(金)(当日消印有効)までに郵送してください。

(1)往信用はがきの表面
(あて先) 〒100-0001 日本郵便宮内庁内郵便局留め
管理課宮殿特別参観担当

(2)往信用はがきの裏面
①参観希望日(5月24日又は5月25日のいずれか1日を記入)
※「未記入」,「いつでもよい」等は,無効となります。
②参観希望回(第1回,第2回又は第3回のいずれか1回を記入)
※「未記入」,「いつでもよい」等は,無効となります。
③氏名(全員分。代表者には○印を記入。)
④自宅の郵便番号(全員分)
⑤自宅の住所(全員分)
⑥性別(全員分)
⑦年齢(全員分。参観実施日時点での年齢。)
⑧電話番号(代表者のみ)

(3)返信用はがきの表面(裏面は,無記入で白紙とする。)
代表者の郵便番号,住所及び氏名
※抽選結果の通知は,郵便料金が値上げされる4月1日以降となりますので,
返信用はがきには,新料金との差額として2円分の切手を貼付願います。

(4)申込みに当たっての注意事項
①往復はがき1通につき,1~4人まで申込みができます。
②申込みは,1通限りです。
③申込みが多数の場合には,抽選を行います。
④次の場合には,無効といたします。
ア 郵便往復はがき以外での申込み。
イ 重複しての申込み。(同一の方が代表者を換えて複数の申込みをするなど
重複しての申込みはできません。)
ウ 5人以上の申込み。
エ 必要事項の記入漏れ(希望日,希望回,住所,性別,年齢ほか)。
オ 申込み期限を過ぎたもの。
⑤当選後の参観者の変更はできません。
⑥介助者が必要な方は,介助者とご一緒にお申込み下さい。

※宮内庁が,参観希望者から収集する個人情報は,「春季宮殿特別参観」実施のために利用するものであり,他の目的で利用することはありません。

往復郵便はがき記入例(PDF形式:38KB)1ページ(別ウインドウで開きます)

5 参観者の決定及び通知
(1)抽選結果は,代表者へ返信用はがきにより,平成26年4月中旬頃に通知します。
(2)当選者には,代表者あてに,後日「春季宮殿特別参観の参観要領」を郵送します。
 
6 その他
(1)当日は,皇居桔梗門(ききょうもん)前で受付の上,窓明館に移動し,窓明館において事前説明を受けた後,
バスで宮殿北車寄まで移動し,宮殿及び正門鉄橋(二重橋)等を係員の説明案内を受けながら参観していただきます。
徒歩で参観していただく時間は,1時間20分程度です。
途中からの引き返しはできません。参観終了後,宮殿東庭からバスで窓明館に移動した後,解散します。
※伏見櫓は,工事中につき仮設の覆いが設置されておりますので,あらかじめご了承願います。
(2)当日は,宮殿施設の安全管理等を目的として,携行品等の確認をさせていただきます。
(3)原則として,雨天時も実施します。
(4)参観当日は,貴重品以外は,窓明館内に置いていただきます。
なお,窓明館には,手荷物程度を収容するロッカーがございます。
(5)宮殿内の写真撮影はご遠慮いただきます。
(6)当日の服装は,クールビズで結構ですが,宮殿という特別な施設ですので,節度ある服装をお願いします。
(7)当日は,本人確認ができるもの(運転免許証など生年月日も確認できるもの)をご持参いただきます。
(8)参観は,無料です。
(9)当日は,日本語による案内となります。
(10)身体障害者補助犬を除き,動物の同伴はできません。

申込期間中は,テレフォンサービスで24時間ご案内しております。
電話番号 0180-993-222
 



⑦


                 
        

「約束の海」幻の結末

2014/ 02/ 18
                 
 山崎豊子さん絶筆

 作家・山崎豊子さんが昨年9月、88歳で亡くなる直前まで手がけていた未完の大河小説「約束の海」に、結末までの展開を記した粗筋が残されていたことがわかった。新潮社から20日、刊行される「約束の海」の単行本に、21㌻にわたり収録される。

 粗筋確認、単行本に収録へ

 「約束の海」は昨年8月、週刊新潮で「第一部」の連載を開始。1989年、主人公の若き海上自衛隊員・花巻朔太郎が乗務する潜水艦が遊漁船と衝突、多数の死傷者を出すシーンが描かれる。9月中旬、山崎さんは「第一部」の最期の場面を完成させた直後に入院。同月29日、亡くなった。20回分、400字詰め原稿用紙で約450枚分の第一部は、先月まで同紙に連載された。

 山崎さんは長編小説執筆時、小説全体を見渡すために「進行表(粗筋)」を作るのが常だった。今回も秘書の野上孝子さん(74)が清書した全体構想A3版用紙6枚分を作成、編集者にも詳細な年表を書かせていた。

 粗筋によると「第二部 ハワイ編」は日米開戦時、旧日本海軍の特殊潜航艇要員として真珠湾に出撃、捕虜第1号となった朔太郎の父親の過去が明かされる。

 「第三部 千年の海」の舞台は現代。中国の原子力潜水艦が日本領海に接近する一触即発の事態に、艦長となった朔太郎が直面する。

 山崎さんは30年前に「第二部」のモデルとなった人物を知り、「いつか書きたい」と構想を温めてきた。「過去の戦争を描くだけでは若い人に伝わらない」と、親子2代の話とする方針が固まった後も「戦争の不条理を犠牲者側から描いてきた自分に、武力を持つ自衛隊を描く資格があるのかと悩み、何度も『書けない』と断念しかけた」と野上さん。「だが、<戦争をしない軍隊>のあるべき姿を考え抜こうと覚悟を決めたようだった」という。

 新潮社では、このプロットを基に、他の作家に書き継いでもらうことも検討したが、山崎さんが最後に残した小説の世界観を尊重し、そのまま収めることとしたという。

2014年(平成26年)2月18日(火曜日)  讀 賣 新 聞




鴻巣雛⑥



                 
        

木曾三社神社・パンフレット -10〈3/3〉-

2014/ 02/ 16
                 
 

   筆子の石宮   (筆塚)―左から2番目
 今井善兵衛兼明により、同地区に小学校が開校されるまで寺子屋がひらかれた。そこで学んだ生徒が奉納した。
⑪筆子の石宮(筆塚) 木曾三社神社



   末社の石宮 (菅原・神明・八幡・愛宕神社など)
⑫末社の石宮 1/2 木曾三社神社  ⑫末社の石宮 2/2 木曾三社神社




  猿田彦大神
 天孫降臨の際に先頭に立って道案内した神
 交通安全の神
⑬猿田彦大神 木曾三社神社



  芭蕉句碑
 天保7年(1836)9月
枯枝にからすのとまりけり
 秋の暮

(裏面) 高梨宣信の自句
稲の香の来たり神風
 松の風
天保7年建立
木曾三社神社
 神官高梨宣信

藍沢無満(あいざわむまん)(一七七四~一八六四)の書。前橋市上小出の人
国学・漢字・俳諧・書道
⑭芭蕉句碑 木曾三社神社




  「瀧之宮」の額 (拝殿の前面)
戸井田(といだ)研斎(幕末~明治初年)
謹厳なる書体
かっては、各所に湧水が滝をおりなしていたので、このように呼ばれた。
⑮「瀧之宮」の額 木曾三社神社



  黒田清綱の歌額 (拝殿の前面)
群馬県々社木曾神社境内に
湧出る水稀世の清泉なり

 みやしろのみかきのうちにわく水の
 清きや神のこころなるらん
        (従二位源清綱)

 徳富蘆花が愛子夫人と当社を参拝し、夫人はとてもこの歌に感銘したという。
⑯黒田清綱の歌額 木曾三社神社



  歌碑
 (貞宮)多喜子内親王の上野の勢多なる下箱田村の県社に檜幾本を寄附したる時そふる歌とて

うゑし木も神のちきのや深からん
木曽の山路の苗木那勢波
       正三位 源 素彦
⑰歌碑 木曾三社神社



 この碑はどういうものでしょうか。人名などが書いてある個所などは判読できるのですが・・・
木曾神社境内石碑その1













                 
        

木曾三社神社・パンフレット -10〈2/3〉-

2014/ 02/ 16
                 
  滝不動尊 (不動明王)
 大日如来の命令によって、悪魔や煩悩を滅ぼすたねにあらわれた明王を祭る、滝の守り仏でもある。
⑥滝不動尊(不動明王)・木曽三社神社


  厳島明社 (いつくしま・神社)
 市杵島姫命(いちきしまひめみこと)を祭り、湧玉の守りの神
↓「パンフレット」の写真デス
⑦いつくしま明社(厳島神社) 木曾三社神社 ⑦-2湧玉の守りの神〈厳島明社〉


  湧玉
 赤城山嶺で最大の湧水で、澄んだ水が砂を巻き上げる湧水口は数か所あり湧水地をっつくっている。
 渋川市の下箱田から八崎に至る利根川を宮内省の御用鮎の漁場と定め、境内の湧水を明治41年(一九〇八)に宮内省御用生洲として、鮎をここで清め、天皇に献上していた。
⑧湧玉・木曾三社神社


  セキショウ群
 湧玉は小川と湿地帯をつくり、その湿地帯には多種多様な植物が自生し、特に日本でこの地で最初に発見された「ワカナシダ」やショウブの一種で地下茎が漢方薬に使用される「セキショウ」の群落となっている。
⑨セキショウ群・木曾三社神社


  旭の滝
 清水が美しい滝をなしている。そのためか「滝の明神」とも呼ばれている。
 この滝をみつめていると、なやみが自然と解消され、心が洗われるといわれている。
⑩旭の滝 木曾三社神社





                 
        

木曾三社神社・パンフレット -10〈1/3〉-

2014/ 02/ 16
                 
 「木曾三社神社 パンフレット」は、発行日、発行所、発行者の記載がありません。
 昨年頂戴しました。
 このブログに載せるパンフレットの内容は、校訂前のものか、校訂後のものか、ちょっと気にかかっています。
 もし、完成版でなかったらゴメンナサイ。


①  社殿
 寛政元年(一七八九) 社殿が全焼
 寛政6年(一七九四) 本殿を再建
 明治4年(一八七一) 拝殿を再建
創建
 平安時代の末、木曽義仲が砺波(富山県)倶利伽羅峠(くりからとうげ)戦で平家を討って入京してから、後白河院と反目し、院の命令により源義経と源範頼に寿永3年(一一八四)に近江国(滋賀県)の粟津で討たれた後、その遺臣達(今井・高梨・町田・小野沢・萩原・諸田・串渕)らが、木曽義仲の崇敬していた、信濃国(長野県)の延喜式内社である岡田(おかだ)神社(松本市)・沙田(いさごだ)神社(まつもとし)・阿礼(あれ)神社(塩尻市)の三座を勧請して創建したので木曾三社神社と言う。
祭神
 須佐之男命(すさのおのみこと)〈素戔嗚尊〉――武軍、疫病退治の神
 彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)――山の幸の神
 宇気母智命(うけもちのみこと)――食物の神
木曽三社神社・社殿①


  手水舎と祓殿
手水舎
 手を洗い清める
祓殿
 罪や穢(けがれ)をお祓いする
木曽三社神社・手水舎と祓殿②


  御腰掛石と箱田伝説
 木曽義仲が討たれた後、遺臣達は木曽谷にのがれていたが、源頼朝の詮議がきびしくなって来たので、三社の神官の高梨南学院は、"この神を東方の安全な地に遷せ"という神託を受け、御神体を七重の箱に納め、東国へと旅立ち、山中の清い泉の所に着いた。
 そこにあった石に箱を置き、休憩をとり、出発しようとしたが、箱は石に固くついて動かなくなった。住民達が怪しんで「この箱は何か」とたずねると「只の箱田」と答えたので、この地を箱田と呼ぶようになり、この地に社殿を建てたという。
木曽三社神社・御腰掛石と箱田伝説③


  木曽遺臣像
 御神体を背負って来た、神官の高梨南学院の石像
木曽三社神社・木曽遺臣像④


  稲荷神社 (おいなりさま)
 稲または農耕をつかさどる倉稲魂神(うかのみたまのかみ)〈御饌神〈みけつかみ〉)を祭る。
 富をもたらす神である。
木曽三社神社・稲荷神社⑤







                 
        

最深積雪

2014/ 02/ 15
                 
 最深積雪

2月15日、午前7時現在の熊谷地方の積雪量は、62cm。
 1896年の統計開始以来のレコードとなりました。
 1936年2月23日、45cm、2014年2月8日、43cmの記録が、ベスト3です。
 ちなみに前橋地方の2月15日午前8時現在の積雪量は、73cmで、過去一番の積雪量として記録(統計開始は1896年)されていた1945年2月26日の37cmの、ほぼ倍となっています。

 今日も午前様にならずにすみました。
 往復三里から三里半の、歩いての道のりでした。



ヒヨドリ⑪

雪⑪ ヒヨドリ⑫

雪⑫ ヒヨドリ⑬

雪⑬ ヒヨドリ⑭

ヒヨドリ⑮ 雪⑭


甲府地方の積雪量
 1894年の統計開始以来、今までの1番は、1998年1月15日の49cmでした。
 2月15日9時現在の積雪量は、114cmですので、実に二倍以上となりました。
 ちなみに、大雪の降る主要地域の最深積雪と比較してみますと、
 ・新潟:120cm
 ・秋田:117cm
 ・山形:113cm
 となっていて、今回の積雪量は山形をも上回る結果となっています。



気象庁 hpより

雪日数 備考 a) 音声伝達では「雪の降った日数」を用いる。
b) 降雪量の基準値を明確にして「××cm以上の雪の降った日数」のように用いる。

降雪 用例 降雪がある。降雪の深さ。
備考 やや専門的な用語なので「雪が降る」などの説明を付ける。

降雪の深さ
一定の期間内に積もった雪の深さ(cm単位)。
備考 期間を明記する。府県気象情報等ではアメダスの積雪深計についても積雪の深さの差の合計を「降雪の深さ」として用いる。

降雪量
降雪の深さ(cm単位)。

積雪の深さ
積もった雪の深さ(cm単位)。

積雪
地表面などに堆積している雪やあられ。
備考 「積雪0cm」とは、観測場所周辺の地面の半ば以上を雪が覆う現象。「積雪なし」とは、観測場所周辺の地面に雪が全くないか、または半ば以上を覆っていない状態。
× 新積雪 → 降雪の深さ。

最深積雪 用例 この冬(××年)の最深積雪は××cm。
× 積雪量 備考 音声伝達でわかりにくいので使用しない。
→ 「積雪の深さ(cm単位)」を用いる。





                 
        

木曾三社神社・芭蕉句碑 -9-

2014/ 02/ 15
                 
 旅先でときおり「芭蕉句碑」をみかけます。
 全国でどれほどあるのでしょうか。
 
 木曾神社の境内には、芭蕉句碑が二つ置かれているとのことでしたので、あちこち見て回りましたが、「木曾三社神社」のパンフレットに載っている芭蕉句碑の一つを見つけるにとどまりました。


芭蕉句碑 木曾三社神社境内①
           芭蕉翁
 枯枝に烏のとまりけり 秋の暮 
             無満書

[陰]天保七季丙甲花節建立
    稲の香の来たり神風 まつのかぜ
             無満   
 ①天保七年(一八三六)九月
 ②藍沢無満社中建立
 ③藍沢無満筆
 ④勢多郡北橘村下箱田滝 木曾三社神社 
                

 田中昭三氏編による「芭蕉塚蒐」には、木曾神社境内にもう一つの句碑を載せています。
 (二つの句の記録は何れも、田中昭三氏のご子息のホームページ「草の道」より引用しておりますことを、申し添えさせて頂きます。)
 
 春なれや名もなき山の朝霞   芭蕉翁

[陰] 冬木立空さの春をまつものを  羅明
 ①慶応四年(一八六八)四月十八日
 ②根井行雄らの建立
 ③
 ④勢多郡北橘村下箱田滝 木曾三社神社


 1990年11月28日付の、田中昭三氏の「芭蕉塚について」の本文中に、近江の芭蕉句碑のことが述べられています。
 昭三氏のご子息もまた、父君の足跡を辿って、母君とともに、滋賀の義仲寺などあちこちを巡っています。

 その近江の海の畔には、義仲の乳飲み子兄弟であり、そして義仲の四天王として名高い、今井四郎兼平の墓があります。兼平庵では、毎年今井兼平墓前祭が1月21日に開かれています。今年も大津市の職員の方もお見えになっていました。

 知る人ぞ知る「兼平餅」。
 今年は旅の途中という事もあり、リクエストしていなかったのですが、箱田のご夫妻よりそんなにかさばるものでもなし、一堂に会した記念に・・・という温かいお言葉をかけてもらいましたので、有難く頂戴致しました。

兼平餅⑤

亀屋廣房

兼平餅 由緒前段

兼平餅 由緒後段



                 
        

木曾三社神社・敷島公園ばら園 -8-

2014/ 02/ 14
                 
 群馬県営敷島公園内にある県営野球場あたりから、敷島桜並木と称する国体道路を通り、国道17号線「下箱田」信号にクロスする手前まで、桜並木が延々と続いています。総延長はどのくらいになるのでしょうか。
 木曾神社にお参りするときなど桜が満開の時に、車でこの道路を通っていくと、桜の花の中に埋め込まれていくような錯覚を覚えるほどです。

 県営敷島公園に隣接する前橋市営敷島公園ばら園内に、萩原朔太郎の詩碑(「帰郷」の一節)があります。
 [ばら園管理事務所:群馬県前橋市敷島町262 電話027-32-2891]
 以前は県営敷島公園内にありましたが、1983年9月に、現在地に移設しました。
 (詩碑は、1955年5月13日に設置されています。)
 
 
 朔太郎詩碑「帰郷」

          朔太郎
わが故郷に帰れる日
 汽車は烈風の中を突き行けり
 ひとり車窓に目醒むれば
 汽笛は闇に吠え叫び
 火焔(ほのほ)は平野を明るくせり
 まだ上州の山は見えずや



帰郷

昭和四年の冬、妻と離別し二児を抱へて故郷に帰る
わが故郷に帰れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
夜汽車の仄暗き車燈の影に
母なき子供等は眠り泣き
ひそかに皆わが憂愁を探(さぐ)れるなり。
鳴呼また都を逃れ来て
何所(いづこ)の家郷に行かむとするぞ。
過去は寂寥の谷に連なり
未来は絶望の岸に向へり。
砂礫(されき)のごとき人生かな!
われ既に勇気おとろへ
暗憺として長(とこし)なへに生きるに倦みたり。
いかんぞ故郷に独り帰り
さびしくまた利根川の岸に立たんや。
汽車は曠野を走り行き
自然の荒寥たる意志の彼岸に
人の憤怒(いきどほり)を烈しくせり。

[詩篇小解]
帰郷昭和四年。妻は二児を残して家を去り、杳(よう)として行方を知らず。我れ独り後に残り、蹌踉(そうろう)として父の居る上州の故郷に帰る。上野発七時十分、小山行高崎廻り。夜汽車の暗爾(あんじ)たる車燈の影に、長女は疲れて眠り、次女は醒めて夢に歔欷(きよき)す。声最も悲しく、わが心すべて断腸せり。既にして家に帰れば、父の病とみに重く、万景悉く蕭条たり。

 ・前橋市内には、萩原朔太郎の詩碑が、この「帰郷」のほか、6か所に設置されています。
 ・詩碑 ○「広瀬川」:厩橋下流広瀬川畔 ○「月夜」:諏訪橋際広瀬川畔 ○「才川町」:才川公園 
      ○「新前橋駅」:新前橋駅前広場 ○「利根の松原」:前橋こども公園内
 ・碑   ○大渡橋の碑:大渡橋上



朔太郎詩碑帰郷遠景
 朔太郎詩碑「帰郷」

萩原朔太郎記念館
 萩原朔太郎記念館


敷島公園ばら園入口
 敷島公園ばら園入口 [正面に見える山は「武尊山」(ほたかさん・ほたかやま)、標高2,158m。日本百名山、新花の百名山の一つ。沖武尊山の山頂付近と、前武尊山には山名の由来となっている、「日本武尊」の像が設置されています。]


敷島公園①
 敷島公園

敷島公園②
 敷島公園 [池後方に見える山は「赤城山」(あかぎやま・あかぎさん)、標高1828m。日本百名山、日本百景の一つ。




                 
        

木曾三社神社・前橋~渋川間チンチン電車 -7-

2014/ 02/ 14
                 
 路面電車は「電気軌道」という呼称が正しいようです。
 警笛を鳴らす音が「チンチン」と聞こえることから、チンチン電車という呼び方が定着したようですね。
 
  
 下箱田付近
  下箱田付近(橘山裾)を通るチンチン電車


 昭和29年3月1日に、前橋と渋川をつなぐ電気軌道路線は廃止になりました。
 (「東武鉄道ポータルサイト」:・昭和2年10月1日、伊香保軌道線<前橋~渋川間、高﨑~伊勢崎間、48.3kmを、東京電灯(株)から((東武鉄道が))買収。・昭和29年3月1日、前橋~渋川間廃止)
 それからは、木曾神社にお参りするにも、箱田の家に行くにも東武バスを利用しました。
 東武バス路線はいつから運転開始されていたのでしょうか。大型トレーラーバスに乗ったことも、懐かしい思い出の一つとなっています。木炭バスもまだ走っていましたよ。



電気軌道  「高松吉太郎の路面電車の歴史2」による。


36  前橋電気軌道  
明治23年開業した前橋-渋川の上毛馬車鉄道は、42年に至り高崎水電の電化工事に対抗して社名を前橋電気軌道と改め、全線電化の工事を急ぎ43年10月9日から電車運転に切換えた。
 これより約12年利根川をはさんで前記の高崎水電と派手な競争を演じたようである。
 大正10年に両社が合併してからの成行は前項<34.35>に記したから省略する。



34  高崎水力電気
高崎-渋川間の交通機関としては、すでに明治26年群馬馬車鉄道会社より高崎駅前より渋川町長塚に至る20.1キロに馬車鉄道が運転されていた。
 これは元碓氷馬車鉄道の設備をそのまま譲受けたもので、軌間610ミリ、在籍車20両となっている。
 41年10月高崎水力電気に合併され42年10月から電化工事と軌道改良に着手し、43年9月23日より全線電車となった。
 軌間1,067ミリ、平凡な4輪単車もマッチ箱のような馬車にゆられていた地元の人達の眼には、非常に新式なものに映ったらしい。
 大正2年渋川-伊香保間の伊香保電気軌道を合併し、同10年には競争相手であった前橋-渋川間の利根発電とともに東京電燈株式会社に合併し、東京から伊香保温泉に通ずる唯一の交通機関として活況を呈していたが、国鉄上越線の延長とともに次第に影が薄くなり、さらにバスの進出によってその地盤は年々蚕食されていった。
 昭和2年10月1日に東武鉄道に買収されてからも設備の改善という点ではなんら見るべきものなく、昭和28年には高崎-渋川間、次いで前橋-渋川間、31年には最後の渋川-伊香保問が廃止となり、上州名物”がたくり電車”も遂に地上から姿を消したのである。


35  伊香保電気軌道
 伊香保温泉の有力家木暮武太夫氏らの発起で明治42年12月9日特許を得、43年着工同年10月16日より渋川新町-伊香保間の運転を開始した。
 伊香保温泉は渋川より500メートルの高所にあるため日本には珍らしい登山電車として誕生したわけであるが、後年開通した箱根登山電車にくらべると設備万端誠に貧弱なもので、急勾配線用の電車としてよく許可になったものだと思う。
 軌間1,067ミリ、シングルトロリー式で、下りの時はポールを使用せず隋力によって運転した。
 以後の変遷については高崎水電の項を参照願いたい。



                 
        

木曾三社神社・参拝 -6-

2014/ 02/ 13
                 
 木曾神社停車場 
 まだチンチン電車が通っていた頃にも、箱田の家に何日も泊りがけしていました。この時、耳を悪くし、伯父に連れられて、治療のため前橋の耳鼻科の先生のところに通ったときに、路面電車に乗ったことを覚えています。
 当時は「木曽神社停車場(旧道)」という名称でしたが、バス路線に変って「木曽神社入口(国道17号)」になり、いま、17号の信号の標識をみると「下箱田」になっています。

 木曾三社神社停車場・大正時代頃の写真
  ・大正時代頃の「木曾神社停車場」

 下箱田信号②
  ・国道17号線「下箱田信号」。前方に「城山」が見えます。・左手の利根川べりで、夏の風物詩ヤナ漁で名高い「坂東簗」が夏オープンしています。


 木曾神社道
 アクト坂に入ると、道の左端に三つの石が置かれています。その一つが「木曾神社道」の道標です。
 アクト坂に並行して、急斜面に沿って棚田が上にどんどん伸びています。
 (「木曾神社参道」は、いま、県道下箱田線となっています。)

アクト坂  棚田・アクト坂に並行して

木曾神社道③


 坂道と棚田は続きます。
 県道渋川大胡線に入る左手前に、木曾神社の林が見えてきます。

神社近くの棚田

 木曾神社入口の狛犬が出迎えます。

木曾神社狛犬②  木曾神社狛犬①


木曾神社参拝
 木曽三社神社 参拝のしおり
当社は、後鳥羽天皇の御代元暦元年(一一八四)の創立と伝えられる。延喜式内信濃筑摩郡の三座、岡田神社、沙田(いさごだ)神社、阿礼神社の三社は、木曽義仲があつく崇敬した神社であるが、元暦元年正月、義仲没落に及んで、その遺臣、今井、高梨、町田、小野沢、萩原、諸田、串淵等が神託を奉じて、この地に遷しまつったものである。
木曽神社の遷宮について次のような伝説がある。
木曽義仲の没後、その遺臣らは一時木曽の谷にいたが、頼朝の詮議が厳しいので、木曽は決して安全な隠れ場所ではなくなった。この時、木曽氏の信仰していた三社の神社の神官であった高梨南学院という人は、三夜続けて不思議な夢をみた。それは早くこの神を東の方の安全な地に遷せよという神託だった。そこで遺臣らが相談した結果、神体を七重の箱におさめて東国へと旅立つことになった。和田碓氷の峠を越えて利根川の辺までたどり着いた時、ある平和な村があった。そこに神をまつろうとすると土地の人が怪しんで「その箱は何だ。」と尋ねると、「只の箱だ。」とのみ答えた。今、その土地を箱田と言う。しかし、神の御告は更に今一度ここを立ち去るようにと下だった。そして、また人々は旅に出たが今度は半日にして利根川東岸の山中のある清い泉の所に着いた。ここで人々は一憩したが、その時、御神体の箱をとある石の上に降ろした。すると不思議なことに人々が再び出かけようとすると箱は石に固く着いてしまって動かなくなった。大騒ぎして持ちあげようとしたが無駄だった。ここにまつられたのが木曽神社である。今でも神社の前に高梨氏の石像と、御腰掛石とがある。遺臣たちはここに土着して四方に広がっていった。
爾来、今日に至るまで木曽一族の祈願所であるは勿論、所縁ある武将の崇敬もあつく、観応年間、管領上杉憲顕社外の田を寄進し、後、上杉謙信は武運長久の誓書を奉り、白井城主長尾氏も又厚く崇敬したという。徳川幕府となっても、領主の尊崇は変わらず、社地の御修復と称して、前橋城主は代々公費を以って営繕をしていたが、寛政元年六月、火災にあった時、領主松平氏は武州川越にあり移封の説もあった為、造営の沙汰も遷延してしまった。よって同六年、氏子信徒相謀って社殿を建築した。
文化七年、前領主酒井氏は播州姫路から重臣を遣わし、鉾一口、及び金若干を献じた。同十年、更に従四位下雅楽頭忠道は自筆の神号額その他を献納した。前橋城主松平氏も又崇敬厚く、入城の当時、たまたま拝殿再建の際であったので金二十両を寄進し、落成式の後、明治三年、従五位大和守直方社参して、弓矢を奉納し、続いて伯爵松平基則は信徒として弦料金若干を献じた。
同二十九年六月、県社に列せられた。
同三十一年九月、貞宮多喜子内親王殿下より幣帛料に掛物一幅を添え、木曽桧七株御下賜。
同三十四年八月、北白川宮能久親王妃殿下、成久王殿下、輝久王殿下及び二荒芳之伯御参拝、幣帛料金二千疋お納め、かつ社頭に若松一対お手植えになった。
同三十五年八月、有栖川宮威仁親王妃慰子殿下、戴仁親王妃実枝子殿下より幣帛料二千疋。
同三十六年、有栖川宮威仁殿下より幣帛料四千疋の御進納があった。
明治三十六年九月、社域に宮城遥拝所設置のことが明治天皇の叡聞に達し御内意を以て黒田待従を御差遣になり、更に三十九年十二月には神饌幣帛料供進指定となった。
大正十三年八月、山階宮菊暦王妃常子殿下御参拝、幣帛料一千疋御納めあり、かつ桧一対をお手植えになった。
昭和十七年六月、大東亜戦争御祈念のため、今上陛下より金二十円也御下賜あらせられた。
戦争終了後、昭和二十一年二月、法令改正により県社の社格改正され、神社本庁の所管となる。



 2014年2月10日、雪が残っている晴れた日の午後、木曾三社神社を訪れました。
 木曾三社神社鳥居 20140210
 ・社殿側から見た、神社入口方面。雪が積もった後に、足跡が見えません。







                 
        

木曾三社神社・境内 -5-

2014/ 02/ 12
                 
 箱田の家より頂いた「木曽三社神社」のパンフレット。①から⑰まで写真入りです。
 木曾三社神社シリーズに掲載の、「渋川北群馬神社要覧」も最近頂きました。
 「橘陰郷土かるた」は、復刻した年に頂戴しています。

≪表面≫
①社殿
②手水舎と祓殿
③御腰掛石と箱田伝説
④木曽遺臣像
⑤稲荷神社(おいなりさま)
⑥滝不動(不動明王)
⑦厳島〈いつくしま〉明社(神社)
⑧湧玉
⑨セキショウ群
⑩旭の滝

≪裏面≫
⑪筆子の石宮(筆塚)
⑫末社の石宮(菅原・神明・八幡・愛宕神社など)
⑬猿田彦大神
⑭芭蕉句碑
⑮「瀧の宮」の額(拝殿の前面)
⑯黒田清綱の歌額(拝殿の前面)
⑰歌碑



木曽神社パンフレット表面右上部分
 ・木曾三社神社パンフレット(表面・右上部分)

木曾三社神社パンフ表左上
・木曾三社神社パンフレット(表面・左上部分)

木曽神社アクセス
 ・木曾三社神社:群馬県渋川市北橘町下箱田1番地
 [関越自動車道の渋川・伊香保IC下りて、国道17号線に。利根川に架かる坂東橋を渡る。下箱田信号を左折して県道下箱田線に入り「アクトザカ」を上る。県道渋川大胡線手前左手に鳥居が見えてくる。近隣に「聖酒造」、「たちばなの郷城山(宿泊・飲食)」、「温泉・ばんどうの湯」がある。 







                 
        

木曾三社神社・渋川北群馬神社要覧 -4-

2014/ 02/ 11
                 
第六十二回伊勢神宮式年遷宮記念
   渋川北群馬神社要覧

 編集後記

 平成十八年二月二十日、渋川市・伊香保町・小野上村・子持村・赤城村・北橘村の一市一町四村が合併し、新渋川市が誕生しました。この平成の市町村合併により、群馬県神社庁も支部を再編し、平成十九年三月十六日、旧赤城村と旧北橘村が加わり、新たな渋川北群馬支部が結成されました。

 また、日本国民の総氏神である伊勢の神宮では、平成二十五年十月に千三百年前から二十年ごとに、神様のお宮を造り替え、大御神をを神殿にお遷りを仰ぐ式年遷宮が行われます。

 そこでこれを記念して、今まで渋川北群馬支部内の神社を紹介する冊子がなかったので、支部神職会では、宗教法人として登録されている支部管内七十六社の概要をまとめ、『渋川北群馬神社要覧』を出版することとしました。これを世に出すことにより、各神社の御神徳をご理解いただき、敬神の念を高め神社を参拝していただければ幸甚です。
 ・・・   ・・・   ・・・
 編集責任者 木曾神社 宮司 今井 郁男


 
 木曾三社神社  (きそさんしゃじんじゃ)  〈木曾神社(きそじんじゃ)〉
 渋川市北橘町下箱田一番地

 祭神
 須佐之男命(すさのおのみこと) 〈素戔嗚尊〉 ・・・ 疫病退治の神
 彦火火出見命(ひこほほでみのみこと) 〈日子穂々手見命〉 ・・・ 山の幸の神
 宇気母智命(うけもちのみこと) 〈保食神〉 ・・・ 食物の神

例祭日
 一月一日(歳旦祭)、二月第三日曜日(新年祭)、四月十五日(例祭)、六月第四日曜日(夏越祭)、十月十五日(例祭)、っ十一月第三日曜日(新嘗祭)、十二月第三日曜日(大祓祭)

由緒
 平安時代の末、寿永三年(一一八四)木曾(源)義仲が戦死した後、その遺臣達がこの地に逃れ、義仲が崇敬していた信濃(長野県)の延喜式内社である岡田・沙田・阿礼の三社を勧請して創建したので木曾三社神社という。

 以来、室町時代には関東管領上杉氏や白井城主長尾氏、、江戸時代には前橋城主酒井・松平氏、明治以降皇族の崇敬が篤かった。

 昨今は病気平癒の祈願の参拝客が多い。ニ・四ヘクタールの境内は大木が茂り、清水が湧きいで、セキショウやワカナシダの群落があり、群馬県の自然環境保存地域や自然探勝地に指定されている。旧県社。

境内社
 稲荷神社、菅原神社ほか十社

神事
 人形流し(夏越祭・大祓祭)

宝物
 神主免訴状(市指定重要文化財)ほか三十数点。


                            宮司 今井 郁男





2014年2月10日撮影木曾三社神社⑧
 ・拝殿を眼下に望む
 (繰り返して段々を下がり続けます。そしてまた更に鳥居をくぐった先に、突然眼下に拝殿を見ることになるので、初めて訪れた方は、その造形に驚かれると思います。更に急な階段がどんどん下に延びています。手すりを上手に使って下り上りに気を付けて参拝ください。)

木曾三社神社本殿⑤
 ・拝殿横から本殿を見る

木曾三社神社本殿拝殿⑤
 ・背後から本殿・拝殿を見る





                 
        

木曾三社神社・紋章 -3-

2014/ 02/ 11
                 
 笹竜胆 (ささりんどう)

 木曾三社神社拝殿の幕には、義仲の紋章である笹竜胆が染められています。彫り笹竜胆も拝殿庇下に納められています。
 

笹竜胆②

 
 笹竜胆①
 






                 
        

木曾三社神社・郷土かるた -2-

2014/ 02/ 11
                 
 橘陰郷土かるた (キタタチバナムラかるた)は、「郷土いろはかるた」です。
 その「い」の一番。

 泉湧玉 瀧の宮

 
橘陰郷土かるた ①

橘陰郷土かるた い 

 
 「橘陰郷土かるた」は、昭和8年に群馬県北橘村の今井善一郎氏によって制作されたものである。その後昭和12年に今井は、かるたの解説書ともいうべき「橘陰郷土読本」を編んでいる。この「橘陰郷土かるた」および「橘陰郷土読本」は昭和60年に北橘村教育委員会によって復刻されているが ・・・ と、「郷土かるたの全国的動向 -その社会科教育論的考察ー 群馬大学教育学部紀要 人文社会科学編 第44巻 225-254頁中の232頁に、原口美貴子(群馬大学大学院教育学 研究科) 〔平成6年9月9日受理:山口幸男(群馬大学教育学部社会科教育講座)]が、述べています。

 ※群馬県北橘(きたたちばな)村は、現在の群馬県渋川市北橘(しぶかわしほっきつ)町。




                 
        

木曾三社神社・湧玉 -1-

2014/ 02/ 10
                 
 湧玉

 ☛画面中央の〔 ▶ ]を左1回クリックしてください。
☛☛「高画質を視聴」をクリックすると、オプションの「視聴料金」が生じる手順に入りますので、留意ください!。
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木曾三社神社
 群馬県渋川市北橘町下箱田1番地

 木曾三社神社 本殿①
                 
        

2014/ 02/ 09
                 
日の出① 20140209 糠田橋より
日の出

日の出② 20140209 糠田橋より
 日の出

朝焼け 20140209 糠田橋より
 朝焼け



雪① 20140209 
 




ヒヨドリ① 20140209
ヒヨドリ


 昨日の夜は往生しました。
 外出先の駐車場から出るまで30分かかりました。
 シャベルを車に積んでいたので助かりましたが。

 自宅近くで、またまた大往生です。
 シャベルで前輪、後輪のタイヤの前後の雪を取り除き、前進、後進を繰り返しましたが、埒があきません。
 スタッドレスタイヤの新品を装着しています。
 雪の嵩が車のボディの高さを超えていますので、ラッセルするような状態になるのですが、雪の重みはいかんともし難いです。
 同じことを何度繰り返したことになるのでしょう。
 タイヤと車のボディの内側に雪が詰まってしまってニッチモサッチモいかなくなってしまいました。
 これではいけません。
 詰まった雪をていねいに取り除いた後、シャベルであらためて後方の道の雪を取り除きました。
 バックして今来た道を戻るという作戦に切り替えました。
 ホッとしました。動き出しました。
 一時間ちょっとの悪戦苦闘劇とはなりました。
 大きな道まで戻り、公園の横の公衆電話ボックスの入口で車を停めました。
 
 自宅に戻ったのが、午後11時45分。
 いわゆる午前様にならずに、帰還することができました。

 今日は今日はで、早起きしました。
 雪の積もった景色の中から、お日様が顔を出すところを撮るためです。
 糠田橋から、日本一の川幅(2,537m)の近くに架かっている御成橋方面をみやるという構図でしたが。
 イメージ通りにはいかないものですね。
 次のチャンスを待つことにします。

 雪かきして、体が悲鳴をあげています。
 家までの道路、車で通れるようになりました。
 熊谷地方の積雪43cmは、観測史上2番目の記録だそうです。


 東京は45年ぶりの積雪27cmというニュースが流れていました。
 昭和44年(1969年)、大雪の日(3月12日〈水〉、積雪30cm。3月としては観測史上第1位の記録)の東京を思いだしています。
 書研仲間の皆(念のためですが、みんな男性です)と、あの大雪の日に会ったのは、どんな理由だったけかな。マージャン? それとも・・・。
 KTは、どうしているかな。四年の春の合宿で顔をあわせてこの方、ご無沙汰だね。書研同期の女性の方と、卒業後、お互いがそれぞれ結婚した以降も、年賀状のやりとりをしていたことを伺いました。
 45年前の大雪の日を思い出した途端、同期会やりたいなとあらためて思っています。
 彼の連絡先、誰か知っていませんか。





 
                 
        

歌会始 お題への気遣い

2014/ 02/ 08
                 
 天皇陛下
 皇室 ダイアリー №234

 年頭恒例の歌会始、来年のお題は「本」になった。読みは「ほん」以外でも構わないが、通常「本」の文字を和歌に詠むことになる。今回、宮内庁は、本を表す内容であれば「本」の字がなくてもよい、と追加発表した。お題を見られた天皇陛下から、出来るだけ和歌を作りやすくするようにとお話があったという。
 本には、「中心になるもの」など10種類ほど意味があるが、書籍ととらえれば基本「読む」もの。変化がつけにくい。読書を通じた心のひだを詠むには「本」がない方が良い場合もあるのではと陛下が配慮されたのだと思う。応募作は例年ほぼ2万首を超える。この陛下の気遣いで、歌の世界はぐっと広がった。
 ・・・
 2014年(平成26年)2月2日(日曜日)    讀 賣 新 聞




 雪が降り続いています。
 外出時には、防寒対策に合わせ、積雪、路面の凍結対策も準備万端怠りなしでどうぞ。

ヒヨドリ 2014年2月8日雪の日の午後 雪の日 ヒヨドリ 20140208




                 
        

鴻巣びっくりひな祭り

2014/ 02/ 07
                 
P1070650(1).jpg
 2013年3月3日撮影(鴻巣市役所本庁舎にて)


お雛様の木
 お雛様の雛壇には、向かって左に橘、右に桜が置かれています。
 もともと雛人形は、天皇・皇后、両陛下のお姿に擬して作られたものと言われています。
 京都御所の紫宸殿の前庭には、右近の橘、左近の桜が植えられています。
 倭橘(やまとたちばな) は、永遠に香っている果実という意を込めて、「非時香果(ときじくのかぐのこのみ)」と言われました。
 万葉集(4226)に、「この雪の消殘る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む」とあります。
 この歌に詠まれている「山橘」は、いまでいう「藪柑子」ということのようですので、「倭橘」とは、異なるのでしょうか。

 橘といえば、倭建命=古事記(日本武尊=日本書紀)の妃、弟橘比賣命=古事記(弟橘媛=日本書紀)の名が思い起こされます。



鴻巣びっくりひな祭り
 「鴻巣びっくりひな祭り」は、歴史ある鴻巣雛のまちとして「ひな人形のふるさと~鴻巣~」を広く宣伝すること、12万市民全員でひな祭りが楽しめること、市外から多くの観光客をお迎えし、まちを明るく元気にすることを目的に2005年から開催され、今回で10回目を迎えます。

 2013年には、31段7mの「ひな人形で飾る日本一高いピラミッドひな壇(nippon-1.net認定2012)」が、メイン会場の鴻巣市役所に登場し、98,000人を超える来場者でにぎわいました。
•開催期間  ◦メイン会場 / 鴻巣市役所  ・中央1-1 tel 048-541-1321
         平成26年2月16日(日曜日)午前11時から3月8日(土曜日)午後4時まで
         月曜日から金曜日は午前9時から午後5時まで、土曜日・日曜日は午前9時から午後4時まで

◦エルミ会場 / エルミこうのすショッピングモール ・本町1-1-2 tel 048-540-7101 
         平成26年2月20日(木曜日)午前10時30分から3月8日(土曜日)午後8時まで
         毎日午前10時から午後9時まで

◦吹上会場  / コスモスアリーナふきあげ ・明用636-1 tel 048-548-3112
❀10周年記念の新会場 八角錐型ひな壇が登場します。乞う ご期待!         
平成26年2月16日(日曜日)から3月8日(土曜日)まで(火曜日休館)
         午前9時から午後5時まで(開館は午後9時まで)         
 〔鴻巣市役所HPより]


昨年の「鴻巣びっくりひな祭り」には、「ひなの里」と「花久の里」が一緒に載っていました。あれっ、今年はどうなのかなと思って、あちこち探してみましたら、別のところに、ありました、ありました。


鴻巣市産業観光館「ひなの里」
・人形1-4-20 tel 048-540-3333
ひなの里特別展のお知らせ
日時:平成26年2月6日(木)~3月16日(日)

 鴻巣びっくりひな祭り関連イベントとして「ひなの里特別展~大雛&川幅飾りと塚本コレクション~」を開催します。
  大雛飾りは、等身大享保雛をはじめとする鴻巣産 特大サイズのひな人形がお目見えします。また、常設展示のひな人形とあわせて、古い雛道具と貴重な古今雛も見どころです。
 ・屋外では、好評の「川幅飾り」を実施します。川幅日本一2537mの100分の1の長さで、ひな人形を展示します。  ・各地から集められた郷土玩具「塚本コレクション」もございます。皆様のご来場をお待ちしております。


花と音楽の館かわさと「花久の里」  ・関新田343 tel 048-569-3811
花久の里ひなまつり2014

 ・花久の里では、サロンに六角すい型十七段を設置してひな人形を飾ります。
 ・茶室には、地域の皆さんが作成した『つるし雛』も飾られます。

 ・開催期間は、 2月7日(金)~3月3日(月)  9時~17時

 ・期間中は、定期休館日(火曜日)も開館します。 ぜひお出かけください。



                 
        

きみのこと

2014/ 02/ 06
                 
 春になるね 
 きみをおもいます
 
 きみと一緒の日々がよみがえります


 木曾三社神社での写真が一枚出てきましたよ。
 引き綱をはずしてしまいましたね。(スミマセン)
 自由に動き回ることが出来ると、一層、活き活きするのでしょうね。
 木曾三社神社にて③

 

 レンゲの花が咲いていましたね。
 あれは、いつの頃で、どこでしたっけ。
 引き綱がついていませんね。(ゴメンナサイ)
 やんちゃ盛りが、一層、目立つことになるのでしょうね。
レンゲの花に囲まれて ⑤




 
                 
        

九州というと

2014/ 02/ 05
                 
 立春の翌朝、ヒヨドリが一羽、庭木の枝にとまって、あたりを見わたしていました。
 昨夜の雪が屋根に積もっています。
 水飲み場の氷も張りつめています。
 ミカンも外皮だけが枝に残っているだけです。
 一声、二声鳴いて、飛び立っていきました。

ヒヨドリ③

ヒヨドリ④


 いつもブログ見てます。それなりにお元気な様子とお見受けしていますが、暫く会っていないということが、遠くの友達に気持ちを向けるという昨今ともなっています。
 三寒四温、体調には十分ご留意してお過ごしください。
 
 振り返ってみると、(いま思いだした範囲では)九州に4回行っています。
 私ごとで1回、会社関係で3回です。

 1月の京都、滋賀行の延長で、長崎と鹿児島にもと思いましたが、悠々自適の友達の顔をみただけでの行脚ではやはり、勿体ないですね。
 その後(いつの時点からの「その後」なのか、ということもありますが)、「行く行く」と言っていながら実現していない九州行です。折角の遠路ですから、鹿児島、長崎、そして現役で活躍している友達の住んでいる、福岡、熊本まで足をのばしたいなと欲張るのもまた、人の心ゆえということになるのかもしれません。

 最初はどこからにしようか、鹿児島からか・・・

黒桜島
本坊酒造株式会社
本社鹿児島県鹿児島市南栄3―27 電話099-210-1210
 ・津貫工場 鹿児島県南さつま市加世田津貫6594 電話0993-55-2001

芋焼酎 黒桜島① 本坊酒造㈱

芋焼酎 黒桜島② 本坊酒造㈱



工場見学 

[薩摩郷中蔵・GALLERIA HOMBO]
鹿児島県 焼酎蔵
 鹿児島県鹿児島市南栄3-27 電話099-822-7011 ・10:00-15-30
 ・焼酎、梅酒、ワイン、ウイスキー、無料試飲できます。

[屋久島伝承蔵]
鹿児島県屋久島 焼酎蔵
 鹿児島県熊毛郡屋久島町安房2384 電話0997-46-2511 
 ・9月―3月 13:00-16:30 ・4月―8月 9:00-16:30
 ・無料試飲できます。

[信州マルス蒸留所]
長野県上伊那郡宮田村4752-31 電話0265-85-4633
 ・ウイスキー、ビール、ワイン、梅酒
 ・9:00-16:00
 ・ウイスキーの無料試飲できます。(一部ウイスキーと地ビールなどの有料の試飲があります。)

〔山梨マルスワイナリー]
山梨県笛吹市石和町山崎126 電話055-262-1441
 ・8:30-17:00
 ・無料試飲できます。(一部有料の試飲があります。)



                 
        

2014/ 02/ 04
                 
 「謡曲」。
 あるところを紐解くと、シテ方に、観世流、宝生流、金剛流、金春流、喜多流の五流派、ワキ方に、下掛宝生流とあります。
 また、あるところを検索すると、シテ方に、観世流、梅若流、宝生流、金剛流、金春流、喜多流、ワキ方に、宝生流、高安流、福王流とあります。
 いわゆる主な流派の外にも、幾つかの流派があるのだなというように理解しましたが、あとどんな流派があるのかななどと、思いを膨らませることにもなりました。

 そもそも「謡」とは何なのかということで、あちこち探してみました。

 

「謡」  ――ウイキペディア――

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この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2008年4月)

謡(うたい)とは能の声楽に当たる部分のこと。またそれのみを謡うこともいう。大和田建樹によると、「うたう」という動詞の名詞形であるが、詠歌や小唄などと区別するため「うた」でなくて「うたい」と読ませたという[1]。江戸時代までは「謡」とだけ言い、謡曲という言葉が使われ始めたのはそれ以降である[1]。

能は本来舞・謡・囃子の三要素から成り立っている。謡は登場人物の台詞と地謡(じうたい)とよばれるコーラス部分を含めた、能において言語で表現される部分の総称ともいえるが、能の場合にはこれに特殊な台詞回しや節が付加されており、独立した芸能として鑑賞することが充分に可能であるために、室町末期ごろから能の舞台以外の場所で主に素人の習い事、娯楽として謡が盛んに行われた。これを「素謡」(すうたい)とも称する。

能および謡は身分の別無く愛好され、この風潮は町人に猿楽が禁じられた江戸時代中期以降になってもまったく衰えることなく、実際の能としては上演されない素謡専用の曲が新作されるほどであった。愛好家たちは謡の師匠について稽古し、謡宿(うたいやど)と呼ばれる会場で謡うことを楽しみ(町人でも謡だけなら大目に見られた)、能役者の側も積極的に謡の師匠としての活動を行うようになる。江戸中期ごろまで地謡がワキ方の所管であったために、当初各地の謡の師匠はワキ方の役者であることが多かったが、徐々にこれはシテ方に移行した。

参考文献[編集]
『謡曲百番』(『新日本古典文学大系』第57巻)-西野春雄校注(1998年、岩波書店)
脚注[編集]
[ヘルプ]
1.^ a b 『謡曲と能楽通』(通叢書 ; 第32巻) / 横井春野著 (四六書院, 1930)



②



                 
        

謡曲 巴

2014/ 02/ 03
                 
 謡曲に「兼平」「巴」があると、京都のお宅に伺った折り、教えて頂きました。
 謡曲もまた、流派があります。
 手元に置いた「巴」は、何れの流派ということになるのでしょうか。

 
 「謡曲 巴」、「義仲寺縁起」、「平家物語」と、三者三様の巴御前が描かれています。

 どの時代で作られた「巴」も、女性の理想の姿を映し出しているといわれています。
 現代においても、私たちが求める「女性像」は、いつも普遍的で、そして遠くにあるものとして、その輝きを放っているのかも知れません。


謡曲 巴
 木曽の里人二人が都に上る途中、粟津ケ原で巴御前の怨霊に出会います。

 巴       
 前シテ:里の女
 後シテ:巴御前  
 ワキ:旅の僧  
 ワキツレ:同行の僧   
 アイ:里の男

[次第]
(ワキ・ワキツレ)行けば深山もあさもよい。行けば深山もあさもよい。木曽路の旅に出でうよ。

[名ノリ]
(ワキ)これは木曾の山がより出たる僧にて候、われいまだ都を見ず候ふほどに、このたび思ひ
        立ち都に上り候。

[上ゲ歌]
(ワキ・ワキツレ)旅衣、木曾の御坂を遙々と、木曾の御坂を遙々と、思ひ立つ日も美濃尾張、
        定めぬ宿の暮れごとに。夜を重ねつつ日を添へて、行けば程なく近江路や、鳰の海とは
        これかとよ、鳰の海とはこれかとよ。

[サシ]
(シテ)面白や鳰の浦波静かなる、粟津の原の松蔭に、神を齋ふや祭りごと、げに神感も頼もしや。

「ワカ受ケ]
(シテ)けふは粟津が原のご神事にて候ふほどに、参らばやと思ひ候。あら有難や候。
        昔のことの思ひ出でられて候。

[問答]
(ワキ)不思議やなこれなる女性の、神に参り涙を流し給は、なにと申したることにて候ふぞ。
   (シテ)お僧はみづからのことを仰せ候ふか。
   (ワキ)さん候ふ神に参り涙を流し給ふ不審にて候。
   (シテ)おろかと不審し給ふや。傳へ聞く行教和尚は、宇佐八幡に詣で給ひ、一首の歌に曰はく、
       なにごとのおはしますとは知らねども、忝なさに涙こぼるると、かやうに詠じ給ひしかば、
       神もあはれとや思しめされけん、御衣の袂にみ影をうつし、それより都男山に誓ひを示し
       給ひ、国土安全を守り給ふ、愚かと不審し給ふぞや。

[掛ケ合]
(ワキ)優しやな女性なれどもこの里の、都に近き住まひとて、名にしおひたる優しさよ。
    (シテ)さてさてお僧の住み給ふ、在所はいづくの國やらん。
    (ワキ)これは信濃の国木曾の山がの者にて候。
    (シテ)木曾の山がの人ならば、粟津が原の神のおん名を、問はずはいかで知るべきぞ、これこそ
        おん身の住み給ふ、木曾義仲のおん在所、同じく神と齋はれ給ふを、拝み給へや旅人よ。
    (ワキ)不思議やさては義仲の、神と現はれこの所に、いまし給ふは有難さよと、
    (シテ)神前に向かひ
    (シテ・ワキ)手を合はせ

[上ゲ歌]
(地謡)いにしへの、これこそ君よ名は今も、これこそ君よ名は今も、有明の月の義仲の、仏と
       現じ神となり、世を守り給へる、誓ひぞ有難かりける。旅人も一樹の陰、他生の縁と思し
       めし、この松が根に旅居し、夜もすがら経を読誦して、五衰を慰め給ふべし、有難き値遇
       かな、げに有難き値遇かな。

[歌]
(地謡)さるほどに、暮れ行く日も山の端に、入相の鐘の音の、浦曲の波に響きつつ、いづれも物
       凄き折節、われも亡者の来りたり、その名をいづれとも、知らずはこの里人に、問はせ給
       へと夕暮の、草のはつかに入りにけり、草のはつかに入りにけり。

[上ゲ歌]
(ワキ・ワキツレ)露を片敷く草枕、露を片敷く草枕、日も暮れ夜にもなりしかば、粟津の原
       のあはれ世の、亡き影いざや弔はん、亡き影いざや弔はん。

[サシ]
(シテ)落花空しきを知る、流水心なうしておのづから、すめる心はたらちねの。

[ノリ地]
(地謡)罪も報いも、因果の苦しみ、今は浮かまん、み法の功力に、草木国土も、成仏なれば、
       いはんや生ある、直道の弔ひ、かれこれいづれも、頼もしや、あら有難や。

[掛ケ合]
(ワキ)不思議やな粟津が原の草枕を、見ればありつる女性なるが、甲冑を帯びする不思議さよ。
     (シテ)なかなかに巴といつし女武者、女とてご最期に召し具せざりしその恨み、
     (ワキ)執心残つて今までも、
     (シテ)君邊に仕へ申せども、
     (ワキ)恨みはなほも、
     (シテ)荒磯海の、

[上ゲ歌]
(地謡)粟津の汀にて、波の討ち死に末までも、おん供申すべかりしを、女とてご最期に、捨
      てられ参らせし恨めしや。身は恩のため、命は義による理、たれか白真弓取りの身の、最期
      に臨んで、功名を惜しまぬ者やある。

[クセ]
(地謡)さても義仲の、信濃を出でさせ給ひしは、五萬餘騎のおん勢、銜を並べ攻め上る。礪波
      山や倶利伽羅、志保の合戦においても、分捕り高名のその数、たれに面を並べ、たれに劣る
      ふるまひの、亡き世語りに、なほをし思ふ心かな。
    (シテ)されども時刻の到来、
    (地謡)運槻弓の引くかたも、渚に寄する粟津野の、草の露霜と消え給ふ、所はここぞお僧たち、
      同所の人なれば、順縁に弔はせ給へや。

[ロンギ]
(地謡)さてこの原の合戦にて、討たれ給ひし義仲の、最期を語りおはしませ。

「中ノリ地]
(シテ)頃は睦月の空なれば、
    (地謡)雪は班消えに残るを、ただ通ひ路と汀をさして、駒を知るべに落ち給ふが、薄氷の深田
      に駆け込み、弓手も馬手も鐙は沈んで、下り立たん便りもなくて、手綱に縋つて鞭を打てど
      も、引くかたも渚の濱波、前後を忘じて控へ給へり、こはいかにあさましや。

[歌」(地謡)かかりし所にみづから、駆け寄せて見奉れば、重手は負ひ給ひぬ。乗り替へに召させ参ら
      せ、この松が根におん供し、はやおん自害候へ。巴も共にと申せば、その時義仲の仰せに
      は、汝は女なり、忍ぶ便りもあるべし、これなる守り小袖を、木曾に届けよこの旨を、背か
      ば主従、三世の契り絶え果て、長く不孝と宣へば、巴はともかくも、涙にむせぶばかりなり。

[中ノリ地]
(地謡)かくてご前を立ち上がり、見れば敵の大勢、あれは巴か女武者、餘すな漏らすな
      と、敵手繁く掛かれば、今は引くとも逃るまじ、いでひと戦嬉しやと、巴すこしも騒がず、
      わざと敵を近くなさんと、薙刀引き側め、すこし恐るる気色なれば、敵は得たりと斬つて掛
      かれば、薙刀柄長くおつ取り伸べて、四方を払ふ八方払ひ、一所に当たる木の葉返し、嵐も
      落つるや花の滝波、枕をたたんで戦ひければ、皆一方に斬りたてられて、跡も遙かに見えざ
      りけり、跡も遙かに見えざりけり。

[歌」
(シテ)今はこれまでなり、
   (地謡)今はこれまでなりと、立ち帰りわが君を、見奉れば痛はしや、はやおん自害候ひて、この
      松が根に伏し給ふ、おん枕の程におん小袖、肌の守りを置き給ふを、巴泣く泣く賜はりて、
      死骸におん暇申しつつ、行けども悲しや行きやらぬ、君の名残をいかにせん。とは思へども
      くれぐれの、ご遺言の悲しさに、粟津の汀に立ち寄り、上帯切り物の具、心静かに脱ぎ置
      き、梨子打烏帽子同じく、かしこに脱ぎ捨て、おん小袖を引き被き、その際までの佩き添え
      の、小太刀を衣にひき隠し。所はここぞ近江なる、信楽笠を木曾の里に、涙と巴はただひと
      り、落ち行きしうしろめださの、執心を弔ひて賜び給へ、執心を弔ひて賜び給へ。



 「謡曲 巴」の舞台  
  ・面白や鳰の浦波静かなる、粟津の原の松蔭に、神を齋ふや祭りごと、げに神感も頼もしや。
  ・けふは粟津が原のご神事にて候ふほどに、参らばやと思ひ候。
  ・木曾の山がの人ならば、粟津が原の神のおん名を、問はずはいかで知るべきぞ、
   これこそおん身の住み給ふ、木曾義仲のおん在所、同じく神と齋はれ給ふを、拝み給へや旅人よ。
  ・これこそ君よ名は今も、有明の月の義仲の、仏と現じ神となり、世を守り給へる、・・・
 ―― 粟津に義仲寺があります。・・・冨倉德次郎校註の平家物語(中)172ページの説明書き中、『長門本に「後に聞こえけるは越後國友椙という所に落ち留りて、尼になりてけるとかや」とある。』とあります。 ――



 「平家物語」の木曽の最期は、今井四郎兼平と共の場面で終わっていますが、「謡曲 巴」では、巴御前と共にある場面となっています。
 巴御前が主役となれば、女の情念を語るがゆえに、「謡曲 巴」は木曾の最期の場面に必然として舞台に登場することになります。
 「謡曲 巴」では、巴御前は怨霊となって現れ出でます。一方義仲寺縁起では、尼僧となった巴は、義仲寺で主の霊を供養する姿を映し出しています。



ひこうき雲 ②


 巴御前は、どこに生き存えたのかということは、とても魅力的な問いかけです。
 元武蔵大学教授深澤邦弘氏の、2012年8月28日のブログ「かかわりゆくほどに…」の中で、諸本から抜粋した落ち行く先のことが書かれていましたので、その箇所を掲載させて頂きました。

 おのれは、とうく、女なれば、いづちへもゆけ…

 討死、さもなくば自害の覚悟を義仲は巴に語り、最後の合戦まで女性を伴っていた、討死させた(『百二十句本』)
などといわれることは不本意、不名誉なことと、義仲は巴に戦場からの離脱を重ねてうながすのである。

 巴は「一人当千」の活躍を義仲の前に示して落ちていった。この場面の諸本の記述を参照する。

・そのまま物具脱ぎ捨てて、泣く泣くいとま申して、東国の方へぞ落ち行きける。(『百二十句本』)

 ・此ともゑはいかゞ思ひけん、逢坂よりうせにけり、後に聞えけるは越後国友椙といふ所に落留りて、尼になりてける    とかや、(『長門本』)

 ・粟津辺二也ニケレバ、主従五騎ニゾ成ニケル。…略…鞘絵ハ落ヤシヌラム、被打シヌラム、行方ヲ  不知一ナリニ    ケリ。 (『延慶本』)

 ・覇絵と云ふ女武者も、討たれや為ぬらん、行方を知らず。(『四部本』)

 ・…疾々忍落ちて信濃へ下、此有様を人々に語れ、敵も手繁く見ゆ、早々と宣ければ、巴遺は様々情けれ共随主命、落涙を拭つゝ上の山へぞ忍びける。粟津の軍終て後、物具脱拾、小袖装束して信濃へ下り、女房公達に角と語、互に袖をぞ絞ける。 (『盛衰記』)

 行き方しれず、東国か、越後か、あるいは信濃へと落ちていった、尼となった、『平家物語』の伝える巴の姿である。




                 
        

平家物語 巻第九 木曾最期

2014/ 02/ 03
                 
 日本古典全書 平家物語(上・中・下) 冨倉德次郎校註 監修 佐々木信綱 新村出 津田左右吉 柳田國男 山田孝雄 和辻哲郎 の三冊本が手元にあります。初版は、上巻昭和23年9月10日、中巻昭和24年2月25日、下巻昭和24年6月10日に、それぞれ発行されています。
 「平家物語」は、夥しい異本群を持っているとまえがきの上で、『本文は米澤圖書館藏、舊林泉文庫藏の「平家物語」を底本とした。そして底本は漢字主骵平假名交り文である。いまこれと同系統の寫本にして平假名書きである京都府立圖書館藏の葉子十行本及び沼澤龍雄氏藏の葉子十行本を參酌して校訂した。』と、しています。

 平家物語は、全篇13巻、185章で成り立っています。
 『「平家物語」の成立事情、従って、その成立年次については、今日なほ明確な説を立て得ない。』と、冒頭の解説で述べています。
 『平家物語を榮枯盛衰の人生相と見るときは、實に哀れぶかい人生悲劇でなくてはならない。』と解説者は述べていますが、また一方で、『その烈烈たる闘爭の氣迫は新興武人の特質の強調に外ならない。ここの「平家物語」の描く武人の新時代が見えるといへるのである。・・・「根間(ねこま)の章に見る義仲の一面愛すべきその田舎者振りなど――それらはいづれも正に新時代に躍り出た武人の新しき姿の活寫でなくてなんであろう。・・・』 『また會話は當時の口話をそのまま寫したもので、東國の武士言葉の巧妙自由な使用が目立つ。例へば、・・・猫殿のまれまれにわいたるに物よそへ(巻八猫間)  さらばよい敵でごさんなれ。同じう死なばよからう敵に懸合うて大勢の中でこそ討死をもせめ(巻九木曾最期)  そこに東國武士のきびきびした活躍ぶりが動く。』、『朗詠風の對句と和文脈の巧妙な錯綜、國語化された漢語と和語との美しき階調――ここに律語と散文とは、全き融合を見せて、語り物としての文骵の完成が見えるのである。』
とも記しています。


 木曾最期   (きそのさいご)
 木曾殿は信濃より、巴・款冬とて、二人の美女を具せられたり。款冬は勞りあつて、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長くして、容顔誠に美麗なり。有難き強弓、精兵、弓矢・打物取っては如何なる鬼にも神にもあふと云ふ一人當千の兵なり。究竟の荒馬乘り、惡所落し、軍といへば、まづさねよき鎧きせ、大太刀・強弓持たせて、一方の大蒋に向けられけり。度度の高名、肩を並ぶる者なし。されば多くの者ども落ち失せ討たれける中に、七騎がうちまでも巴は討たれざりけり。

 木曽は長坂を經て、丹波路へとも聞ゆ。龍花越にかかって、又、北國へとも聞えけり。かかりしかども、今井が行末の覚束なさに、勢田の方へ落ち行く程に、今井四郎兼平も、八百餘騎で、勢田を固めたりけるが、其の勢纔かに五十騎ばかりに討ちなされ、旗をば巻き、主の行末の覚束なさに、都の方へ取って返して上る程に、大津の打出濱にて、木曾殿に行き合ひ奉る。中一町ばかりより、互にそれと見知って、主従駒をはやめて寄り合ふたり。木曾殿、今井が手を把つて、「義仲六條河原にていかにもなるべかりしかども、所所で討たれんより、汝と一所でいかにもならんと思ふ為に、多くの敵に後を見せて、是まで遁れたるはいかに」と宣へば、今井四郎「御諚誠に忝く候。兼平も勢田にて如何にもなるべう候ひつれども、御行末のおぼつかなさに、是まで遁れ參つて候」と申しければ、木曾殿「さては契りは未だ朽ちざりけり。義仲が勢、山林に馳せ散って、此の邊にもぞひかへたるらん。汝が巻きて持たせる旗揚げさせよ」と宣へば、今井が旗を指し揚げたり。京より落つる勢ともなく、勢田より落つる者ともなく、今井が旗を見つけて三百餘騎ぞ集まる。木曾斜めならずに悦び、「此の勢あらば、などか最期の軍せざるべき。爰にしぐらうて見ゆるは、たが手やらん」「甲斐の一條次郎殿の御手とこそ承り候へ」「勢いかほどあらん」「六千餘騎とこそ聞え候へ」「さては互によい敵、同じう死ぬとも、好き敵にあうて、大勢の中にてこそ討死をもせめ」とて、眞先にぞ進んだる。

 木曾佐間頭、其の日は赤地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、いか物づくりの太刀を帯き、鍬形うつたる甲の緒をしめ、廿四さいたる石打の矢の、其の日の軍に射て少少殘つたるを、頭高に負ひなし、滋籐の弓の、眞中取って、木曾の鬼葦毛と云ふ聞ゆる名馬に、金覆輪の鞍を置いてぞ乘つたりける。鎧ふんばり立ちあがり、大音聲を揚げ、「日來は聞きけんものを、木曾の冠者、いまは見るらん、左馬頭兼伊豫守、朝日将軍源義仲ぞや。我と思わん人人は、義仲討って兵衛佐に見せよや」とて、、をめいてかく。一條次郎「唯今名乗るは大将軍ぞ、餘すな者ども、漏らすな若黨、討てや」とて、大勢の中に取り籠めて、吾討ち取らんとぞ進みける。木曾三百餘騎、六千騎が中へ懸け入り、縦樣・横樣・蜘手・十文字に懸け破って、後へつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。そこを破って行く程に、土肥次郎實平2千騎でささへたり。そこをも破って行く程に、あそこでは四五百騎、ここではニ三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中を懸け破り懸け破り行く程に、主從五騎にぞなりにける。五騎が内までも、巴は討つ¥たざりけり。木曾殿、巴を召して、「己は女なれば、是よりとうとう何ちへも落ち行け。義仲は討死をせんずるなり。若し人出にもかからずば、自害をせんずれば、木曾の最期の軍に女を具せられたりなんど、云われん事こそ口惜しけれ。とうとう落ち行け」と宣へども、猶落ちも行かざりけるが、あまりにつよう云われ奉って、「あはれ、よからう敵がな。木曾殿の最期の軍して、見せ奉らん」とて、、ひかへて敵を待つ處に、武藏國に、聞こえたる大力、おん田の八郎師重、三十騎ばかりで出で來たり。巴其の中へ懸け入り、おん田の八郎に押し双べ、むんずととつて引き落し、吾がつたりける鞍の前輪に押し付けて、ちつともはたらかさず、頸ねぢ切って捨ててんげり。其の後巴は物具脱ぎ棄て、東國へぞ落ちぞ行く。手塚太郎討死す。手塚別當落ちにけり。

 木曾殿、今井四郎、今はただ主從二騎になつて、宣ひけるは、「日來るは何とも覺えぬ鎧が、今日は重うたつたるぞや」と宣へば、今井四郎申しけるは、「それは御方につづく御勢が候はで、臆病でこそさは思し召され候ふらめ。御身も未だ羸れさせ給ひ候はず、御馬もよわり候はず。何に依ってか一領の御著背長は重うは候ふべき。兼平一騎をば餘の武者千騎と思し食され候はずや。射殘したる箭、七つ八つ候へば、暫く防ぎ矢仕り候はん。あれに見え候ふをば、粟津の松原と申す。君はあの松の中へ入らせ給ひて、靜に御自害候へ」とて、打ち行く程に、又荒手の武者五十騎ばかりで出で來たり。「兼平は此の御敵防ぎ候はん。君はあの松の中へ入らせ給へ」と申しければ、義仲「六條河原にて如何にもなるべかりしかども、汝と一所で如何にもなり候はん爲にこそ、是までは遁れたれ。一所でこそ討死をもせめ」とて、馬の鼻を並べ、既に懸けんとし給へば、今井四郎、急ぎ馬より飛び下り、主の馬の口に取り付き、涙をはらはらと流し申しけるは、「弓矢取りは年來日來いかなる高名候へども、最期の時不覺しつれば、永き瑕にて候ふなり。御身もはや、羸れさせ給ひ候ひぬ。謂ふ甲斐なき人の郎党に組み落されて、討たれさせ給ひなば、さしも日本國に聞えさせ給へる木曾殿をば、某が郎党の手にかけて討ち奉たりなんど申されん事口惜しう候へ。ただ理をまげて、あの松の中へ入らせ給へ」と申しければ、木曾殿さらばとてただ一騎粟津の松原へぞ懸け給ふ。

 今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ懸け入り、鎧ふんばり立ちあがり、大音聲をあげて、「遠からん者は音にも聞き、近からん人は目にも見給へ。木曾殿の御めのとごに、今井四郎兼平とて、生年三十三に罷りなる。さるものありとは、鎌倉殿までもしろしめたるらんぞ。兼平討って、兵衛佐殿の見參に入れや」とて八筋の矢を差しつめ散散に射、死生は知らず、やには敵八騎射落す。其の後打物のさやをはづいて、さんざんに切つてまはるに、面を合はする者ぞなき。「ただ射取れや殿原」とて、矢さきをそろへて、雨の降る樣に差しつめ、散散に射けれども、鎧好ければ裏かかず、開間を射ねば手も負わず。

 さる程に、木曾殿はただ一騎粟津の松原へ懸け給ふ。比は正月廿一日、入逢ばかりの事なるに、薄氷は張りたりけり。深田ありとも知らずして、馬を颯と打ち入れたれば、馬の首も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども動かず。木曾殿、今井が生末の覚束なさに、振り仰ぎ給へる内甲を、三浦石田次郎為久、おつかかり能つ引いてひやうどはなつ。木曾殿内甲を射させ、痛手なれば甲の眞甲を馬の首に當ててうつ俯し給へる所を、石田が郎党、二人落ち合ひて、木曾殿の頸をば終に賜つてんげり。太刀の鋒に貫き、高くさし上げ、大音聲を揚げて、「此の日來日本國に聞えさせ給へる木曾殿を三浦、石田次郎爲久が討ち奉るぞや」と名乘りければ、今井四郎、軍しけるが、是を聞いて、「今は誰を
憚はんとて、軍をばすべき。見給へ東國の殿原、日本一の剛の者の自害する手本よ」とて、太刀の鋒を口に含み、馬より倒に飛び落ち、貫かれてぞ失せにける。さてこそ粟津の軍はなかりけれ。


平家物語 上)

平家物語 (中)

平家物語 (下)


ひこうき雲


兼平庵「安置像」