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伊豆の踊子 川端康成

2014/ 09/ 30
                 
 映画伊豆の踊子 (川畑康成原作)

 OB会秋の旅行は、伊豆、下田方面への一泊二日のバスの旅でした。

 踊子(14歳)と、一高生の私(20歳)が登場する短編小説、川畑康成原作の「伊豆の踊子」の舞台となった伊豆を、久方ぶりに訪れることが出来ました。

映画伊豆の踊子①

 テレビドラマやアニメーションなどでも「伊豆の踊子」は上演されていますが、映画だけを拾ってみると、今まで6本が上映されています。昭和8年(1933年)2月2日公開、田中絹代と大日方傳の主演映画は、白黒でサイレント映画(五所平之助監督、松竹)でした。
 その後はカラー映画となっています。
 昭和29年(1954年)3月31日公開の映画(野村吉太郎監督、松竹)は、美空ひばりと、石浜朗。
 昭和35年(1960年)5月13日公開の映画(川頭義郎監督、松竹)は、鰐淵晴子と、津川雅彦。
 昭和38年(1963年)6月2日公開の映画(西河克己監督、日活)は、吉永小百合と、高橋英樹。
 昭和42年(1967年)2月25日公開の映画(恩地日出夫監督、東宝)は、内藤洋子と、黒沢年男。
 そして、一番直近の映画は、昭和49年(1974年)12月28日に、東宝系で公開(監督は、西河克己)されたときは、山口百恵さんと、三浦友和さんでしたネ。今さらながらとはなりますが、ご夫妻となられていること、ご存知の通りです。

伊豆の踊子映画②

それ以来、平成の世になってからも、「伊豆の踊子」は(映画というジャンルにおいて)とんとご無沙汰になっています。これもご時世といったところでしょうか。


追補:1963年公開の、吉永小百合の時の映画監督は、日活の西河克己が務めています。それから11年後、山口百恵の時も西河克己が映画監督をやっていますが、こちらは東宝系で上映されています。

 川端康成(1899年〈明治32〉6月14日-1972年<昭和47>4月16日)の小説「伊豆の踊子」は、1926年に発表されました。川端はその8年前の1918年に伊豆を訪れています。
 彼の遺文をみると、自分の実体験に基づいた小品で、ほとんど装飾をしていないありのままを小説にしたと述べています。
 彼が39歳になる年に、吉永小百合の踊子を観て、川端が19歳の当時の踊子薫の面影を吉永小百合にみた、とも伝えられています。
 (「小説「伊豆の踊子」に書かれている年齢は、数え年となっていますので、念のため申し添えさせて頂きます。)



 




                 
        

林芙美子 「匂い菫」

2014/ 09/ 29
                 
林芙美子 匂い菫


林芙美子 「下町」角川文庫 (匂い菫) 


 全103ページの角川文庫版の「下町」には、同小説のほか、「匂い菫」、「軍歌」、「折れ蘆」、「御室の櫻樹」の四篇の短編小説が載っています。
 アマゾンを通して注文したこの文庫版は、昭和33年5月20日 三版発行となっていました。きょう届いたとのことでしたので、家に着く早々、早速紐解きました。
 「匂い菫」は31ページの小作品です。その最後のページに「空也の最中」が出てきました。

 ・・・ ・・・ ・・・
 うめはそう云って、男のようにあはあは笑った。賴子はぞつとして炬燵に顔を伏せた。柔らかな絹の匂いが鼻をついた。廣い神棚には、新しい眼無達磨が二つ並んでいる。空襲にも燒け殘つた家は、安手な普請と違ってどつしりしていた。六畳の部屋の隅に水屋がしつらえてあり、水屋の流しのところに、子供の頭ほどもある林檎が二つ置いてあった。
 窓ぎわには二棹の箪笥。女の部屋とも思われぬほど、こざっぱりした装飾のない部屋だつた。女中が空也の最中(もなか)を運んで來た。熱い茶をよばれ、最中を食べて、
 「じやァ、一寸、映畫でも観て來ますから……。今村の話ね、私、冗談でこんな事云つてるンじやないンですのよ。考えといて戴けませんかしら……。慾も得もないのよ。時々、御観察にに本家の方から坊ちやんが見えるし、費用が大變かゝるつて小言おつしやるのよ……。私、どうも今村の長男つて蟲が好かないのよ。筍生活(たけのこせいかつ)なンだからつて、念を押されるンだけど、あの長男だつていゝかげんな商賣して食つてるンですもの……。兎に角、もう、私、いる氣ないンですのよ」
 つたはそう云って、また、歸りに寄らせて貰いますと云って、賴子と外へ出て行つた。本格的に雪が降つている。銀座へ出ると、それでも人通りは割合多かった。つたは傘を持つて來てよかつたと思つた。四圍は昏くなりかけている。賴子はフードで頭をかくしていた。つたは家へ歸る氣もしなかつたし、晩の食事に間にあうような、おかずを見たてる氣もいまはすつかり忘れてしまつていた。藥屋があれば、乾いた懐爈灰も買いたかつた。
 「さて、映畫に這入る前に、お母さん、一寸、眼鏡買うンだから、見て頂戴」
 「あら、老眼鏡なの?」
 「そう、お母さんも、とうとう、老眼鏡の御厄介になるようになつたは」
 つたは千疋屋(せんびきや)の近くで、眼鏡の店をみつけた。螢光燈で水の底のように光つた店のなかへ、賴子の腕に凭(もた)れるようにして、つたは眼鏡を買いに這入って行つた。



                 
        

益子新そば祭り

2014/ 09/ 28
                 

 今年の益子新そば祭りは、11月22日(金)から24日(日)の3日間開かれるということを、「そば処炉庵」で支払いを済ませた折、お店の人に聞きました。
 益子ひまわり祭りで、町の観光協会の職員の方から、「十割そば」がお奨めという進言に従がって、炉庵では十割のもりそばを食べました。お品書きの一番最初に、「手打ち十割そば」と書かれていました。
 お昼のサービスとしてカレーがつくということなので、ご飯を極端に少なくしてもらって、そばを頂いた後に口に運びました。

炉庵十割そば ① 
「炉庵」の十割そば

炉庵 ランチサービスのカレー
 「炉庵」ランチサービスのカレー


 益子参考館近くの「そば名水」。ここでもおしながきの一番最初に載っている、もりセットの「そば+かき揚げ(小海老・小柱・三つ葉)」を注文しました。こちらのそばは二八です。

名水の二八そばセット
 「名水」の二八そばセット
 
 当然のこととはいえ、同じ日に、ほんのちょっとの間を置いて二つのそば屋をはしごして、片や十割、片や二八です。ツユの味も違えば、そばの見た目、味、食感、もろもろ全て違っています。
 食べてみてこそのそばの味です。



 蕎麦一句
 蕎麦畑のなだれし空の高さかな  沢木欣一

益子そば畑 ②


 蕎麦の花一句
 そばの花山傾けて白かりき  山口青邨

益子そば畑①





                 
        

けさの雲

2014/ 09/ 27
                 
 けさの雲

 きみはどうしてますか


けさの雲 ①
 (けさの雲)




                 
        

再び益子町へ

2014/ 09/ 26
                 
  ひまわり祭りを見にいった折は、益子の町では、昼食にそば屋の暖簾を一軒くぐっただけでした。
 街中は素通りでした。

 きょうは、濱田庄司の作品を常設展示している、「(公益財団)益子参考館」と、《生誕120年記念 濱田庄司七十七盌展》を11月16日(日)まで開設している、「益子陶芸美術館」に行ってきました。

参考館入口
 「益子参考館」入口

濱田庄司記念館
 「濱田庄司記念館」


益子陶芸美術館
 「益子陶芸美術館」入口

陶芸メッセ益子入口
 「陶芸メッセ益子」入口


 前回行ったそば屋は「そば割烹 木乃香」。今回行ったそば屋は、「そば処 炉庵」と、「そば名水」。何れも、ひまわり祭りの折に、益子町観光協会の職員さんに奨められたそば屋です。
 これで心残りがなくなりました。

 きょうの益子町詣出の一番の目的は、そばの花畑の写真を撮ることです。
まずは、七井地区のそば畑に。その後、小泉地区のそば畑へ。
このあたりかなと思って、その都度、道行く人に「おはようございます。そば畑を探しているのですが・・・」と、声をかけますと、皆さんどなたも、親切に受け答えして頂きました。おかげさまで、両地区の広々としたそば畑に、辿り着くことが出来ました。

                 
        

棚田の秋

2014/ 09/ 24
                 
 棚田の秋

棚田の秋 ①


 ひまわりが咲いています。彼岸花が咲いています。黄金色に輝く稲を刈り取っています。お彼岸。棚田の秋です。

 赤城の麓の農産物直売所で、地元野菜を買い込みました。
 袋一つひとつに生産者の名前がついています。
1. だいこん1本:110円
2. さつまいも(紅あずま)3本:250円
《紅あずまは関東で人気の品種です。皮の色は少し紫がかった濃い赤色で、果肉の色が黄色く粉質で、繊維質が少なく、蒸したり焼くとホクホクとネットリの中間タイプのサツマイモです。
焼き芋にした時は、果肉の色が黄色く、見た目からとても美味しそうに見え、甘味もあり、人気があることが頷けます。》

棚田の稲刈り

3. じゃがいも(男爵薯)6個:120円
《男爵薯は高知県出身の川田龍吉男爵が1908(明治41)年に北海道上磯町(現・北斗市)で海外から取り寄せたアメリカが原産の「アイリッシュ・コブラー(Irish Cobbler)」という品種を試験栽培し、これを普及させたもので、当時正式な品種名が分からなかったこともあり男爵が広めた馬鈴薯という意味で男爵薯と呼ばれるようになったそうです。「アイリッシュ・コブラー(Irish Cobbler)」はイギリスでは別名「ユーリカ(Eureka)」とも呼ばれている品種です。
この品種は早生種で環境に対する適応性も高く、収量も多い上に収穫後の貯蔵性も高いと言うことで生産者にとってとてもありがたい品種として一気に広まっていったようです。
1928年にはメークインと共に北海道の優良品種に認定され生産の拡大が進み、その後全国でも栽培され現在でも国内のジャガイモ栽培面積の22%以上(H19年のデータ)を占め最も多く作られている品種となっています。
◆男爵薯の特徴
男爵薯の形は丸くややゴツゴツした形をしており、芽の部分のくぼみが深いので皮が剥きにくいという難点があります。
果肉は白っぽく粉質で、デンプン価は14~16%程となっています。加熱するとホクホクした食感が楽しめ、これぞジャガイモと感じさせてくれる香りがあります。
◆男爵(だんしゃく)薯の美味しい食べ方
粉質が強いため、ホクホクした食感に仕上がるのでジャガバターでお馴染みのベークドポテトやフライドポテト、茹でて潰してポテトサラダやコロッケなどに適しています。逆に煮ると崩れやすいので注意が必要です。》

4. とまと16個:900円(箱入り)
5. きゃべつ1個:140円
6. レタス1個:150円
7. きゅうり4本:170円
8. なす6本:130円。
9. たまねぎ9個:120円(外皮を取り除いたもの)
以上、何れも外税です。

落花生の生も、店内の三か所に並べてありました。生で買い求め出来るなんて、そうそうチャンスがあるものではありません。お土産用にしました。お値段ですか・・・
それは内緒です。

案山子と彼岸花

そういえば、地元産の蕎麦粉も、一棚にずらっと並んでいました。秋そばはこれからでしょうけれど、生産者七名の方のお名前が、一つひとつの袋に記されています。
私は、蕎麦打ちは出来ません。専ら食べるばかりです。



                 
        

ソバ畑一面に咲く白い花

2014/ 09/ 23
                 
 一面ソバの花です。ソバ畑に咲き競う、白い花を初めて目の当たりにしました。
 赤城山と榛名山を眺める絶景の地です。渋川市行幸田(みゆきだ)の南原地区の今年の「行幸田そば祭り」は、9月28日(日)、午前10時40分に開会となります。
 手打ちそばの無料試食(1,000食)、生そば、ソバ粉などの販売、そして地場産野菜などが販売されます。カーナビを使う場合は、群馬県渋川市行幸田1503近くの住所にセットしてください。
 (手打ちそば1,000食が無くなり次第、終了となります。)

行幸田のそば畑 後方赤城山
 行幸田のそば畑(後方は赤城山)


秋そばの花 後方は榛名山
 行幸田の秋そばの花(後ろにかすんでみえるのが榛名山)


そばの花に飛び交うミツバチ
 ミツバチがそばの花を求めて飛び交っていました。

秋蕎麦花畑
 秋蕎麦花畑

行幸田の秋蕎麦花畑
行幸田の秋蕎麦花畑(後方に見えるのは赤城山)



                 
        

「秋季宮殿特別参観」応募7万4000人 倍率228倍 宮内庁発表

2014/ 09/ 22
                 
msn 産経ニュース 2014.8.27 22:54 [皇室]

 宮内庁は27日、天皇陛下が80歳を迎えられたことを記念し、皇居・宮殿の内部を10月4、5日に公開する「秋季宮殿特別参観」の申し込み抽選結果を発表した。
 約7万4000人の応募があり、平均倍率は228倍。計6回(両日各3回)のうち最も人気が高い回は326倍だった。初公開となった春季特別参観は5月に行われた。

 

「宮内庁管理部管理課」発表による、春季及び秋季の「宮殿特別参観」の申込み抽選結果。

 平成26年4月22日
「春季宮殿特別参観の申込みの抽選結果について」 ―宮内庁管理部管理課―
 標記の抽選を4月22日(火)に実施しました。
抽選の結果は、下記のとおりです。
1. 当選件数及び当選人数
5月24日(土) 〈応募件数45,603件、応募人数110,555人〉
開催回 当選件数 当選人数
第1回  23件   51人
第2回  22件   50人
第3回  23件   51人
 計   68件   152人

5月25日(日) 〈応募件数26,451件、応募人数65,447人〉
開催回 当選件数 当選人数
第1回  18件  50人
第2回  21件  52人
第3回  22件  53人
 計   61件  155人


  平成26年8月27日
「春季宮殿特別参観の申込みの抽選結果について」 ―宮内庁管理部管理課―
 標記の抽選を8月27日(水)に実施しました。
抽選の結果は、下記のとおりです。
2. 当選件数及び当選人数
10月4日(土) 〈応募件18,449、応募人数43,218人〉
開催回 当選件数 当選人数
第1回  25件   54人
第2回  24件   54人
第3回  23件   55人
 計   72件   163人

10月5日(日) 〈応募件数13,079件、応募人数31,213人〉
開催回 当選件数 当選人数
第1回  22件  54人
第2回  22件  54人
第3回  24件  55人
 計   68件  163人




                 
        

備忘メモ

2014/ 09/ 21
                 
 
 薪能 vs 雅楽

 日曜日の「県南版」の見出しに目をとめました。
 「屋外の能楽堂で 幽玄な世界堪能」
 来年行って見たいなと思いましたので、新聞記事とあわせ、「こしがや能楽堂」のメモをとりました。
 

 埼玉県内では、武藏一宮の氷川神社境内に能舞台を特設して演ずる「大宮薪能」が有名です。今年は、5月23日と24日に上演されました。


 その氷川神社の舞殿で、10月の十三夜に、「観月雅楽演奏会」が、午後6時から開催されます。
 


 「屋外の能楽堂で 幽玄な世界堪能」 ―讀賣新聞 2014年(平成26年)9月21日(日曜日)―
 県内でただ一つの屋外の能楽堂「こしがや能楽堂」(越谷市花田)で20日夜、薪能が上演された。約450人の観客が訪れ、能楽界の重鎮である関根祥六氏の解説に続き、仕舞や狂言、舞囃子が披露された。
 最後の演目として上演された能「安達原」では、まきのはぜる音と虫の音だけが響く幽玄な世界が広がった。近くに住む主婦(58)は「静寂の緊張感は能楽堂ならでは。来年は娘を連れて来たいですね」と満足そうだった。

「こしがや能楽堂」
 こしがや能楽堂は、日本建築の粋を集めた建物で、隣接する日本庭園「花田苑」と調和した姿は日本文化の美と心が象徴されています。
 (能楽・邦楽・日本舞踊・詩吟・茶道・華道等の伝統芸術の拠点施設)

・住所: 〒343-0015 埼玉県越谷市花田6-6-1
・電話: 048-964-8700
・開館時間: 午前9時~午後9時30分
・休館日: 毎週水曜日、年末年始

〈アクセス〉
・南越谷駅北口発「花田・越谷市立図書・越谷駅東口」行バス
「花田苑入口」下車 徒歩3分 
・越谷駅東口発「花田循環・越谷市立図書館」行バス
「花田苑入口」下車 徒歩3分
・越谷駅東口発「市立病院」「いきいき館」「増林地区センター・総合公園」「吉川車庫」行バス
「市立病院前」下車 徒歩10分
・北越谷駅東口発「ゆめみ野東・エローラ」行バス
「花田3丁目」下車 徒歩10分



「大宮薪能」
大宮薪能は、金春、観世、宝生流の3つの流派を中心に、2,000年以上の歴史を持つといわれている武蔵一宮氷川神社の境内に能舞台を特設して行なわれ、観る者を幽玄の世界に誘うことから、国内屈指の薪能として高い評価を得ています。

 昭和57年の東北・上越新幹線の開業を記念して始まった大宮薪能も本年で33回目を数え、今回も金春、観世、宝生のシテ方演者と狂言には和泉流を迎えて、2日間に渡り開催されます。

 ご神木に抱えられるように鎮座する能舞台、薪の割れる音が響き渡るほど、しんと静まり返った境内に響く笛や鼓の音。そして、かがり火の幻想的な炎に映し出され、代々受け継がれてきた面と装束。最高のロケーションと一流の演者によって創り出される幽玄の世界を体感します。

【時間】 17時00分 開場 17時40分 開演(主催者挨拶、素謡、火入れ式など) 18時20分 演能開始 21時30分 終演予定 ※雨天の場合は、会場が『市民会館おおみや(さいたま市大宮区下町3-47-8)大ホール』に変更
■演目
・5月23日(金) 素謡(金春流) 翁(おきな) 金春安明 能 (金春流) 半蔀(はしとみ)本田光洋 狂言(和泉流) 成上り(なりあがり) 野村萬斎 能 (観世流) 猩々(しょうじょう) 武田友志
・5月24日(土) 素謡(金春流) 翁(おきな) 金春憲和 能 (宝生流) 羽衣(はごろも) 宝生和英 狂言(和泉流) 鐘の音(かねのね) 野村万作 能 (金春流) 殺生石(せっしょうせき) 金春安明


武藏一宮 氷川神社
 さいたま市大宮区高鼻町1-407
 048-641-0137
 秋の開場は、5:30~17:00までですが、観月雅楽演奏会開催の折は、終演時刻まで境内の出入りが出来ます。


「平成26年観月雅楽演奏会」
日時:平成26年10月6日(月)十三夜 18:00開演
演目
人長舞
浦安舞
雙調 胡飲酒破
雙調 酒胡子
迦陵頻
納曽利

観覧は無料で自由席(約300席)。(未就学児童の入場は出来ません)





                 
        

続々と行田新名物に!

2014/ 09/ 21
                 
 読売新聞朝刊の県南版に、二日連続して「行田市」の新たな名物をとりあげています。9月19日の金曜日は「さきたま古墳 行田古代米カレー」、そして、その前日の18日が「行田に巨大『わらアート』高さ10メートル 12月お披露目」という見出しでした。

 50メートルの展望タワーから見下ろす「田んぼアート」。今が見ごろとなっています。
 「行田市公式ページ」より
田んぼアート 行田市公式ページより
  ~煌びやかに古代への誘い~
中央に光り輝く『国宝:金錯銘鉄剣』を掲げる仲睦まじい古人、
その後方には世紀の大発見の舞台となる『稲荷山古墳』、
さらに右側には全国唯一の出土品で行田市郷土博物館所蔵の
『重要文化財:旗を立てた馬形埴輪』を縁起の良い“左馬”で、
そして左側は古代ロマンが可憐に花開く『天然記念物:行田蓮』

田んぼアートは、『古代蓮の里』の東側の田んぼで実地しています。
『古代蓮の里』内にある“古代蓮会館”には高さ50mを誇る展望タワーが併設されており、田んぼアートをご覧頂くなら展望タワーに昇って頂くことをおススメします。
なお、展望タワーに昇る際には入館料(高校生以上400円、小・中学生200円)が必要です。






「行田に巨大『わらアート』 高さ10メートル 12月お披露目
 ―2014年(平成26年)9月18日(木曜日) 読売新聞朝刊(県南版)

 行田市は、稲わらを材料にした巨大なオブジェ「わらアート」の制作を行う。市制65周年事業の一環で、12月には、同市小針の「古代蓮の里」で「わらアートまつり」を初開催する。
 古代蓮の里近くの水田では2008年度から、色の異なる稲で巨大な絵を描く「田んぼアート」が行われている。オブジェの制作は田んぼアートの稲刈り後に出るわらを活用して行う。
 新潟県などでわらアートの制作実績がある武蔵野美術大(東京都小平市)も全面的に協力。行田市内から出土した国指定重要文化財「旗を立てた馬形埴輪」と「マンモス」の2作品に挑む。高さは10メートル前後とする計画で、「日本最大のわらアートになる」(同市)という。
 25日に農業関係者らによる実行委員会が発足し、10月には、同大学の学生らと一緒に制作にあたるボランティアを公募する。作業は12月上旬から本格化し、同21日のまつりで作品をお披露目する。展示は、来年2月末まで続ける予定。
 市では、来年度以降も継続し、田んぼアートに続く市の名物に育てたい考え。市環境経済部は「行田の魅力を市内外にPRし、観光客の誘致につなげたい」としている。
                 
        

行田新名物!

2014/ 09/ 20
                 
 昨日の新聞朝刊に載っていた「古代米カレー 香る街」のタイトル。
 よくよく見ると、サブタイトルに「行田中心に17店 競作」とありました。

 紹介記事4段目の中ほどに、「各店のカレーの写真を撮影し、地図もつけたチラシ約2万枚を作成。今月3日から、各店のほか、同市役所や忍城、古代蓮などの観光地で配布を始めた。『ものつくり大学』の協力でロゴマークやのぼり旗も制作し、10月中には完成する予定。」とありました。

早速、チラシを手に入れようと思って、行田市役所に電話しようと思いましたが、本庁舎は日曜日の午前中は開いていますが、土曜日は一日閉館です。それでは、ということで、古代蓮会館に電話したところ、昨日も読売新聞に載っていたということで問い合わせがありましたけれど、チラシはまだ手元に届いていません。との返事でした。ということは、郷土博物館にもまだ置いていないのではないかな、とも思いましたが、念のため電話して尋ねたところ、しばらくたって、あります。という言葉がかえって来ました。これから頂きにあがりますといって電話を切り、そそくさと忍城に向かいました。

いま、(発起人の)田中さんが帰られたばかりですよ。といって受付の女性の方が、開封したばかりのチラシの束を見せてくれました。

 古代蓮会館も、郷土博物館も入館するためには料金が生じますが、受付におっしゃっていただければ、「チラシ」をお渡しいたします。とのことでした。
 OB会秋の一泊旅行がありますので、その折参加の皆さんに、「さきたま古墳 行田古代米カレー」のチラシを配ろうかなと思っています。

パンフ -1-



 「古米カ代レー 香る街」 行田中心に17店競作
   ―2014年(平成26年)9月19日(金) 読売新聞朝刊(埼玉県南版)

 行田市産の古代米(黒米)を5%以上混ぜ込んだご飯を前方後円墳の形に盛り付け、地元産の食材を1品以上使ったカレーを新名物にしようと、同市などのレストランやカフェ、食堂などが「さきたま古墳・行田古代米カレーの会」をつくり、提供する店を載せたチラシの配布を今月から始めた。地域の食として定着させ、観光客の増加につなげることを狙っている。
 同市長野のイタリア料理研究家、田中利幸さん(57)は2012年春、料理教室の講師を務めている群馬県高崎市で、同市内に多く残る古墳にあやかって、カレーを古墳形に盛った「古墳カレー」を飲食店が連携して提供していることを知った。
 行田市も埼玉古墳群など歴史的遺産に恵まれていることから、古代のロマンを感じさせる古代米を使ったカレーで街おこしを目指すことにした。古代米を混ぜたご飯はもちもちしてカレーによく合った。レストランやカフェ、食堂などに協力を呼びかけ、当初は不審がられたが、夏から協力店が現れ始めた。
 今年6月には約35人で同会を設立。ご飯の盛り付けに使う型枠を市内にキャンパスのある「ものつくり大学」で作ってもらい、各店に配った。加須、羽生市の店も参加し、8月には計17店にまで輪が広がった。各店が工夫して味を競っているため「グレードが高い」のが自慢だ。
 13年春から参加したという行田市小見のレストラン「ラ・セーヌ」のオーナーシェフ増田隆さん(63)は「新メニューとして一からカレーを作るのは大変だが、これを目当てに来る人もいる。話題になっていると感じる」と話す。
 各店のカレーの写真を撮影し、地図もつけたチラシ約2万枚を作成。今月3日から、各店のほか、同市役所や忍城、古代蓮の里などの観光地で配布を始めた。「ものつくり大学」の協力でロゴマークやのぼり旗も制作し、10月中には完成する予定。
 田中さんは「将来は古代米カレーを食べるために行田に来てもらえるようにしたい」と張り切っている。


 ≪古墳にコーフン協会公式ブログ 2014年1月14日》
 「古墳のまち行田に新名物『古代米カレー』形はどれも前方後円墳/埼玉

9基の大型古墳が集中する埼玉(さきたま)古墳群で知られる行田市。最近、市内の飲食店に前方後円墳をかたどった「さきたま古墳群・古代米カレー」が続々と誕生している。現在は市内8店舗で提供され、2店舗が準備中。発案者でイタリア料理研究家の田中利幸さん(57)は「行田の新名物に定着させたい。まちおこしにもなれば」と期待を込める。
■店主らを口説く
田中さんは同市出身。音楽大学卒業後、オペラ歌手として活動。本場のオペラを学ぶため、29歳でイタリアのミラノに留学。もともと料理好きで、独学で料理の勉強も続けた。友人たちに振る舞うイタリア料理が評判を呼び、自宅で料理教室を開くことに。37歳で帰国後、料理教室やコンサートを開き、イタリア料理研究家や声楽家として活動する。
古代米カレーの発端は2012年3月。群馬県立近代美術館(群馬県高崎市)内のレストランが古墳の多い群馬をPRしようと、「古墳カレー」を開発。同カレーは古代米を前方後円墳の形に盛り付け、周囲にキーマカレーを加えたもの。田中さんは同レストランで料理教室を開いており、考案者のオーナーから「古墳が多い行田でも作ってみてはどうか」と提案された。
田中さんは「古墳のまち行田をアピールできる」と古墳カレーの推進を決意。自ら飲食店に出向き、古墳カレーのメニュー化を薦めた。加盟料は無料としたが、当初は「加盟料が取られるのでは」などと怪しまれ、思うように進まなかった。だが、何度も店に通い、「まちの活性化になる」と店主たちを口説いた。
■各店で独自の味
12年9月に「ビストロふじやま」が初の協力店に加盟。加盟店が増えると、徐々に受け入れられるようになった。古墳カレーは既に商標登録されていたため、「さきたま古墳群・古代米カレー」と名称を変更した。
古代米カレーの条件は、行田産の古代米をはじめ、店独自のカレーや地場産食材を使うこと。古代米は木製の前方後円墳の型を使って盛り付ける。型は地元のものつくり大学に製作してもらった。
古代米カレーは各店が試行錯誤の末に完成させた一品で、それぞれが独自の工夫を凝らす。カレーの種類はキーマ、グリーン、ビーフ、スープなど。「カフェそれいゆ」は行田在来青大豆、「高澤記念館カフェギャラリー」は自家製ハーブを使用。ビストロふじやまはハンバーグを稲荷山古墳出土の金錯銘(きんさくめい)鉄剣に見立てる。
「Qガーデンカフェ」ではカレーのメニューはあったが、古代米カレーに切り替えたところ、売り上げが増えたという。オーナーの斉藤利子さん(51)は「ほとんどのお客さんが形に驚く。評判はいいので、これからも続けたい」と笑顔を見せる。
■本家上回る勢い
高崎市の古墳カレー提供店は3店。行田は本家を上回る勢いで提供店が増えている。田中さんは「提供店が10店舗以上になれば、市と協力してスタンプラリーをしたい。市外の人が行田を訪れ、各店を食べ比べしてもらえれば。いずれは古代米カレーサミットもやりたい」と話した。
現在の古代米カレー提供店は、ビストロふじやま、レモンカフェ、カフェそれいゆ、Qガーデンカフェ、スープカリーネコ、ラ・セーヌ、日和カフェ、高澤記念館カフェギャラリー。加盟店も募集中。
                 
        

鴻巣おおとりまつり

2014/ 09/ 18
                 
 鴻巣市制施行60周年記念と銘打った秋のイベントは、目白押しです。
 来月開催される「鴻巣おおとりまつり」、今年で何回目を迎えることになるのでしょうか。
 フラワープレゼントセールは、17日、18日、19日と続きますが、メイン会場の、JR高崎線鴻巣駅東口周辺の中山道では、19日のお昼から歩行者天国となって、さまざまなイベントが催されます。

歩行者天国とき:10月 19日(日) 12:00~20:30
会場:〈JR高崎線鴻巣駅東口下車〉中山道(日本最長級 約3kmの歩行者天国)
催し:端から端までもりだくさん!!
• こうのとり伝説パレード
• 民謡流し
• 屋台おはやし競演
• 街頭パフォーマンス
• ひな市(フリーマーケット)も開催!
交通: JR高崎線鴻巣駅東口徒歩5分
駐車場: 300台

おおとりまつり②
 鴻巣市観光協会公式ページより

広報かがやき 鴻巣おおとりまつり
 広報かがやき 9月号 -2-




                 
        

秋の夜を彩る花火大会

2014/ 09/ 17
                 
「市制施行60周年記念」と銘打ったイベントが、目白押しです。その一つ「第13回こうのす花火大会」。見どころは、日本一の認定を受けたラストスターマイン「鳳凰乱舞(おおとりらんぶ)」。尺玉300連発に正三尺玉と世界一の大玉「正四尺玉」を盛り込んだ名実ともに日本を代表するプログラムです。ラストを飾る正四尺玉は、川幅日本一の鴻巣市だからこそ打ち上げられる大輪の華です。色鮮やかな色彩や迫力満点の音と振動をぜひ会場で体感してください。

 とき/10月11日(土) 18時開会 ※雨天時は10月12日(日)に順延
 ところ/糠田(ぬかだ)運動場(〒365‐0059.鴻巣市糠田1073‐1)及び荒川河川敷
 ラジオ放送/フラワーラジオ(FM76.7MHZ)で実況中継します。
 問い合わせ/鴻巣市商工会青年部(✆ 048-596-0965)

 昨年40万人の人出だったということもあり、今年の会場設営は、多くの変化点があります。一つ、有料観覧会場(鴻巣駅西口から徒歩35分)と無料観覧会場(鴻巣駅西口から徒歩20分、御成橋近く)と明確に区分したこと。二つ、駐輪場を会場近くに5か所設置したこと。三つ、こうのす花火大会のオフィシャル駐車場として、荒川対岸の吉見総合運動公園内(比企郡吉見町今泉141)に、2000台パーキング(am9:00から開場.1,000円/1台1日)できる仮駐車場を公設したこと。四つ、同じく吉見総合運動公園内に、無料観覧会場をオフィシャル会場としてご案内したこと。などがあげられます。

 こうのす花火概要  http://kounosuhanabi.sakura.ne.jp/gaiyo.html

かがやき 9月号



                 
        

きょうは、また、一段とのびやかでしたね !

2014/ 09/ 14
                 
きょうは、また、一段とのびやかでしたね !

オータムコンサート2014
オペラいいとこどり!  Vol.3
《主催:さいたまオペラ協会.後援:さいたま市、さいたま市教育委員会、埼玉県教育委員会》
2014年9月14日(日) 埼玉会館小ホール

埼玉会館 -0-
 〈秋晴れの埼玉会館〉

埼玉オペラ協会会長 笹倉 直也

雲③


~第一部~ 歌・詩・唄 
 仲田 淳也:ピアノ

雲④

 内柴 由香:・チマーラ作曲「海のストルネッロ」.・トーマ作曲《ミニヨン》より「私はティターニアよ」

雲⑤

 小道 一代:・R.シュトラウス作曲「万霊節」、「イヌサフラン」、「何も」、「ツェツィーリエ」

雲⑥

 榊原 葵:・ドニゼッティ作曲《連隊の娘》より「では、決まってしまったのね~富も栄華の家柄も」

雲⑦-2

 栗田 由起子:・北原白秋作詞/山田耕筰作曲「からたちの花」、・ベッリーニ作曲《清教徒》より「あなたの優しい声が」

雲⑧-2

 見富 文弥:・佐藤春夫作詞/大中恩作曲「しぐれに寄する抒情」、・レハール作曲《微笑みの国》より「君は我が心のすべて」

雲⑨

 菅原 千明:・若谷和子作詞/溝上日出男作曲「くちなしの花」、・ヴェルディ作曲《シチリア島の夕べの祈り》より「ありがとう、愛する友よ」

雲⑩

 渡邉 恵津子:・ロッシーニ作曲《セヴィリアの理髪師》より「今の歌声は」
渡邉 恵津子/笹倉 直也:・ロッシーニ作曲《セヴィリアの理髪師》より「それでは、私なの?」

雲⑱

関口 志津子:・J.シュトラウス作曲《ヴェネツィアの一夜》より「ほろ酔い気分」、・レハール作曲《ジュディッタ》より「くちづけより熱く」


雲①



~第二部~ ヴェルディ作曲 《仮面舞踏会》ハイライト

 ≪序曲≫
【第一幕】
 三重奏「なぜそんなに心乱れておられる?」 ・・・ アメーリア・ウルリカ・リッカルド
【第二幕】
 アリア「ここは恐ろしい野原、罪が死へと結ばれている。」 ・・・ アメーリア
 三重奏「私はあなたと一緒だ。」 ・・・ アメーリア・リッカルド
 三重奏「あなたをお守りするために来ました。」 ・・・ アメーリア・リッカルド・レナート
【第三幕・1場】
 アリア「私は死にます。でもその前にお慈悲を。」 ・・・ アメーリア
 アリア「立て!お前の息子はあそこだ。」 ・・・ レナート
 二重奏「オスカルが招待状をもって来ました。」 ・・・ アメーリア・レナート
 三重奏「今夜よろしければ舞踏会へ。」 ・・・ アメーリア・レナート・オスカル
【第三幕・2場】
 アリア「たぶん彼女は家に帰ってほっとしているだろう。」 ・・・ リッカルド
 アリア「彼がどんな格好か知りたいんだね?」 ・・・ オスカル
 二重奏「あぁ あなたがここに!  逃げて下さい!」 ・・・ アメーリア・リッカルド
 フィナーレ「私からの別れを受け取れ!】 ・・・ アメーリア・リッカルド・レナート・オスカル

雲⑪

 加藤 千恵子:アメーリア(1幕、2幕)

雲⑫

 杉下 友季子:アメーリア(3幕)

雲⑬

青柳 素晴:リッカルド

雲⑭

笹倉 直也:レナート

雲⑮


 織田 路子:オスカル

雲⑯

 小道 一代:ウルリカ

雲⑰

 松本 康子:ピアノ

雲⑲


〈埼玉会館小ホール〉
埼玉会館小ホール












                 
        

パスタのおきて

2014/ 09/ 13
                 
3つのソースを覚えれば、パスタは完璧!

「トマト」、「クリーム」、「オイル」の3つがパスタソースの基本です。
 トマトソースには1.6mmパスタの太さ、クリームソースには1.9mm。そして、オイルソースには1.4mmのパスタの太さが相性に合っています。

今まで、トマトソースとクリームソースは何度も使っていましたが、オイルソースを使ったパスタ料理は手掛けていませんでした。
 過日の宏有さんのイタリア土産の一つに、トウガラシをベースにした香辛料が何種類かありましたので、この秋は、オリーブオイルとお土産の香辛料を使った、「オイルパスタ」をあれこれ作ってみました。選んだ材料により、ニンニクは入れたり入れなかったりしました。

 その一つ。「たらことスナップえんどうのオイルパスタ」。スナップえんどうが見つからなかったので、インゲンを代用しました。(ロングパスタ、バターを使いました。)

 その一つ。「ブロッコリーとアンチョビのオイルパスタ」。ブロッコリーが見つからなかったので、ロマネスコを代用しました。(ロングパスタ、ニンニク、ベーコンを使いました。)

 もう一つ、何か別の「オイルパスタ」を作ってみようと思っています。


パスタのおきて

1. 塩の量は、お湯の量の1パーセント。(塩の量が少ないと、メンが固いママの状態となってしまいます。)
2. 大きな鍋を使う。(パスタ200gに対し、水2リットル。湯が少ないと、メンどうしがくっついてしまいます。)
3. ゆでるときは、フツフツ沸騰。(湯がボコボコしている状態では沸騰しすぎで、適切なゆで上がりになりません。)
4. アルデンテ(ちょうど良い歯ごたえが残った絶妙のゆで加減)を見逃さず、湯切りします。
5. ニンニクは常温のオリーブオイルに入れて熱っします。(香りと旨みがひき立ちます。)
6. ソースは、パスタがゆで上がる前に完成させます。(最近のパスタは、ゆで時間が短くなっているのが多いので、パスタをゆでる時には、ほぼ調理が整っていると、上手にからめることが出来ます。)
7. 皿に盛る前にソースと和えます。(パスタをソースとからませておくことで、パスタに味が行き渡ります。)
8. ゆで汁は、貴重な調味料となります。(オイルソースの場合などは、特に、ゆで汁とオイルソースを熱し、完全に混ぜ合わせるとより美味しさが増します。)
9. 野菜はパスタと一緒にゆでます。(ゆで上がる時間は野菜の種類により異なりますので、それぞれ計算してから野菜を鍋のお湯の中に入れてください。)
10. ソースの種類に応じて、パスタの太さや、パスタのタイプを変えてください。(オイルソースは「メン」としっかりからめたいので、細めのパスタがおすすめ。こってりしたクリームソースは、もっと太めのパスタがピッタリ。幅広のパスタにも合います。酸味と旨味が程よいトマトソースは、両者の中間くらいの太さのパスタがお奨めです。

今まで、いろいろ試してみましたが、やはり、相性というものはあるんだな。と、ガッテンしているところです。

 ※補筆:「アンチョビ」は、フィレを粗いみじん切りにして使ってください。オリーブオイルで炒めるという料理本が多いのですが、私が試した範囲では、素材の香り、味、旨みを口の中で味わうには、火を通さない方が、アンチョビという素材を使っている適正さを感じます。







                 
        

ほたる

2014/ 09/ 12
                 
ほたる
 
 姉と兄へのお土産の話です。

 ・・・
 箱田の家では、二人の子供が待っているのだろう。やっと子供のことが気になった。長女も大きくなったろう。まだ見ぬ長男はどんな子だろう。八木原からの道は昔々私が子供の時、ほたるを取ったところである。そうだ二人の子供に何も土産も持って帰らない、ほたるを見つけてお土産にしようと思い立った。もう時期がおそいので飛んでいるのを見つけることが出来ない。それでも注意して草むらを探してようやく二匹を見つけることが出来た。情ない土産だが、これが今の私にはせい一ぱいの土産であった。そして句が出来た。
 復員の土産とほたるとりにけり
 ・・・

 毛筆で書かれた父の文章ですので、推敲を重ねて書き綴るということはしていません。そのときどきを思い出しながらあるがままに筆を進めています。
 父は「木犀の花」の香りが満ちている時期に最初の出征をし、「蛍の光」が残る時期に最後の帰還をしました。故郷にもどった昭和21年6月9日は、父の誕生日から5日後の、満33歳になったときでした。


                 
        

六二 木犀の花

2014/ 09/ 11
                 
  


六二 木犀の花

 木犀の花の咲く頃になると家中にその香りが満ち満ちます。そしてその花の下を出征して行った弟の事を思い出します。

木犀 ②

 戦争は周期的のものではないのですけれど、昔はよく十年に一度位の割に大きな戦争があると言われていました。実際明治から大正の頃はそんな説がほんとうかと思われるように十年位の間隔に戦争がありました。

 弟の出て征ったのは今度の戦争でそれも二回出征しました。弟は補充兵でしたから年とって呼ばれました。家の三本の木犀が一度に咲いて秋は九月と十月の交(こう)でその香りは正に満庭香しという感がありました。隠居の庭に生えている木は大きく伸びて、枝は塀を越し外の通りの上に乗り出していました。その花の下を弟は出かけて行ったので特に記憶に残っているのでしょう。

 第一回の出征の時は初年兵から訓練を受けて途中から小石川の工科学校に入り、そこを卒業しました。そして台湾軍に入りました。台湾軍に入って海を渡る時、弟は父宛に一通の手紙を送ってまいりました。驚いた事にそれは結婚の希望の手紙でした。こののっぴきならぬ時に届けられた切札の様な手紙に父も驚きながら降参して四国まで私をやって、その弟の希望する女性(ひと)をもらって来る話をさせました。私が阿波の徳島の先方の家へ着きその話をしますと、先様はその女(ひと)がその家の相続人であったにもかかわらず、その方は養子を迎えて本人はくれて下さる話になりました。
 
 そして娵女(よめじょ)は私の家へ、婿なしの嫁入りをし、暫く私の家に居ましたが、そのうち台湾から弟が呼びますので、単身敵船の縦横する海を渡って弟の許へゆきました。そして台湾で二度目の結婚式を挙げました。
 嫁の親代わりには兵器部少将閣下、仲人は兵器部少佐殿御夫妻、場所は台湾神宮広前でありました。

 台湾軍の兵器部で、弟は平穏無事に過しました。ただ小さな事がありました。弟は将校の端くれでしたから、下に兵卒の人が居たわけです。その人達を弟は「何々さん」とさんを付けて呼ぶ癖があったという事です。これは軍隊の慣例にも反する事ですし、士気にも反する事ですので上級の将校さんからきびしく叱られたそうですが、いつか弟のさんづけは又始まってしまって、その中に台湾軍兵器部全部がさんづけをするようになったと言うことです。

 弟は台湾へ行く時父から日本刀をもらって軍刀として持ってゆきました。この刀は父の毎夜寝る時枕元に置く守り刀でした。陸奥大掾三善長道作の直刀に近い直刃(すぐば)の比較的短い刀でした。軍刀には短いのですが、弟は「乃公がこの刀を使う時は最後の時だけだから、平常は軽い方が良いのだ。」と云って、短いのを喜んで持って行きました。台湾では勿論この軍刀を使う事はなかったでしょう。然し大陸へ行ってはどうだったでしょう。戦争は平坦ではなかったようです。洞庭湖のもっと先まで進んで敵機の直撃などにもさらされた事があるようでした。

  太平洋戦争の緒戦の終ったときでしょう。最もその時は緒戦が終ったときなどは意識しなかったのですから、戦果が徐々とあがっていると思って居ました。そのような時ひょこり台湾の戦線から弟が帰って来ました。戦地の兵器の事を陸軍省だか参謀本部だかに連絡しにきたのだと言いました。今思えば空手で戦争している実状だったと思います。弟は用事を終えて、一晩だけ生家に泊まって戦線へ戻りました。戦地の事は一言も語りませんでした。これも今思えば千言万言故国の危急を告げたかったでありましょうに。

 戦争が終えてからしばらくの後に、弟は他の多くの彼国派遣の日本軍と共に無事帰ることが出来ました。然しこれもすぐ帰れたわけではありません。永い抑留の生活がありました。消息は途絶えて不明でもありました。

 どうしようもない焦燥と生きているという希望との入り交じった長い長い無音の末、突然一葉のはがきが舞い込みました。
 「憶良らは今やまからん 子泣くらん
  その子の母も吾をまつらんぞ」
 弟です。たったそれだけの文字が書かれておりました。彼の帰還の第一声は万葉歌の一首をもって書かれていました。

 それから幾日かして無事家庭に帰りました。父と喜びの盃を交わす夜もまいりました。盃の中身を口に含みながら弟は云いました。
 「日本酒はうまいなあ」と。
 彼の妻子も同じ席に並んでいたのはいうまでもありません。

 さて今年も木犀の匂う頃となりました。木犀は戦争を思い出させますが戦争が周期的なものだという事は迷信の一種だと思わざるを得ません。
 後の日になって私の家に弟が残して行った軍刀の元の拵え(こしらえ)だけが遺っているのに気がつきました。そこでこの中、鍔だけを弟に贈りました。この鍔は糸透かし(いとすかし)という細い透かしの入った鉄の鍔でしたがそれが戦争の唯一の記念になりました。

鍔 ②


  補修 習俗歳時記
  昭和50年10月1日
  著者 今井善一郎
  発行所 株式会社 煥乎堂


( 「補修再版」の『付記』は、転記しませんでした。 )
 

                 
        

六〇 秋の彼岸

2014/ 09/ 10
                 

 晩秋蚕の終る九月二十三日、四日頃に秋の彼岸が参ります。彼岸花という曼珠沙華の花が真紅に村中の土手々々を燃え立たせます。これから秋の仕事が引きつづき多忙を極める境であります。

秋の彼岸の頃 ①

 私共では秋の彼岸には格別の法要はいたしませんが、入り口の日は小豆めし、走り口は白飯の半日休みで、中日は牡丹餅を作りまして一日休みです。秋の彼岸がすぎますと夜長になると云うので夜業(よなべ)を始めました。前に書き忘れましたが、私共で餡餅(あんびん)や牡丹餅を神仏に上げるときはへぎを用います。このへぎは厚い四角の漆塗の物で両端がそって皿型をしています。


 習俗歳時記
  昭和50年10月1日
  著者 今井善一郎
  発行所 株式会社 煥乎堂


                 
        

2014年9月9日 宮内庁

2014/ 09/ 09
                 
 9月9日(火曜日) 午前5時から、『秋季の「土曜日に実施する皇居一般参加」』の申し込み受付が、宮内庁のインターネットでありました。
 電話での受け付けは、午前8時30分からとなっていました。
 何れも、10月18日(土)と、25日(土)の、午前の回(10時00分)と、午後の回(13時30分)の申し込みです。
 11月22日(土)と、29日(土)の『秋季の「土曜日に実施する皇居一般参加」』の申し込みは、10月7日(火)になっています。今回と同じく、インターネットでは午前5時から、電話では午前8時30分からの申し込み受付です。
 それぞれ、先着150名という狭き門です。


 「昭和天皇実録」の全文1万2000ページ超を、宮内庁は、本日の9月9日に公表しました。
 この実録は1990年から24年5か月かけて完成、今年8月21日に、天皇、皇后両陛下に奉呈されました。宮内庁内で11月30日までの間、閲覧できますが、来春から5年かけて出版されることになっています。

 ―― 『「20世紀の基礎資料」 これまで手が届かなかった皇室文書から引用されたことが一番大きく、20世紀を再検証する基礎資料となるだろう。例えば2・26事件は、天皇の意思を時間軸で追うと、全体像がくっきりと見えてくる。戦前の統帥権の総攬(そうらん)者としての迷いや葛藤、戦後は戦争を何度も思いだしている姿が浮かぶ。戦前戦後を通じて政治史の観点から意味があるのは勿論、風俗史、社会史の視点で読むとさらに興味深い』 御厨貴東大名誉教授(日本政治史):2014年9月9日(火)・讀賣新聞(朝刊) ――



玉音放送 CD版 ①
 「昭和天皇の玉音放送」CD版 (「新潮45」平成22年8月号特別付録)




 宮内庁より、平成26年1月15日付で、平成27年度歌会始のお題が発表されました。今回は「本」です。
公式ページにバトンタッチ致します。


お題は「本(ほん)」ですが,「ぼん」,「ぽん」,「もと」等のように読んでもよく,「本」の文字が詠み込まれていれば差し支えありません。
さらに,本を表す内容であれば,「本」の文字がない場合でも差し支えありません。
詠進歌の詠進要領
• 1 詠進歌は,お題を詠み込んだ自作の短歌で一人一首とし,未発表のものに限ります。
• 2 書式は,半紙(習字用の半紙)を横長に用い,右半分にお題と短歌,左半分に郵便番号,住所,電話番号,氏名(本名,ふりがなつき),生年月日,性別及び職業(なるべく具体的に)を縦書きで書いてください(書式図参照)。
無職の場合は,「無職」と書いてください(以前に職業に就いたことがある場合には,なるべく元の職業を書いてください。)。
なお,主婦の場合は,単に「主婦」と書いても差し支えありません。
• 3 用紙は,半紙とし,記載事項は全て毛筆で自書してください。ただし,海外から詠進する場合は,用紙は随意(但,半紙サイズ24cm×33cmの横長)とし,毛筆でなくても差し支えありません。
• 4 病気又は身体障害のため毛筆にて自書することができない場合は下記によることができます。
o (1)代筆(墨書)による。代筆の理由,代筆者の住所及び氏名を別紙に書いて詠進歌に添えてください。
o (2)本人がワープロやパソコンなどを使用して印字する。この場合,これらの機器を使用した理由を別紙に書いて詠進歌に添えてください。
o (3)視覚障害の方は,点字で詠進しても差し支えありません。
注意事項
次の場合には,詠進歌は失格となります。
• 1 お題を詠み込んでいない場合・短歌の定型でないもの又用紙が縦長の場合
• 2 一人で二首以上詠進した場合や毛筆でない場合
• 3 詠進歌が既に発表された短歌と同一又は著しく類似した短歌である場合
• 4 詠進歌を歌会始の行われる以前に,新聞,雑誌その他の出版物,年賀状等により発表した場合
• 5 詠進歌の詠進要領 4(1)に記した代筆の理由書を添えた場合を除き,同筆と認められるすべての詠進歌
• 6 住所,電話番号,氏名,生年月日,性別,職業を書いてないものその他この詠進要領によらない場合
詠進の期間
お題発表の日から9月30日までとし,郵送の場合は,消印が9月30日までのものを有効とします。
郵便のあて先
「〒100-8111 宮内庁」とし,封筒に「詠進歌」と書き添えてください。
詠進歌は,小さく折って封入して差し支えありません。
お問い合わせ
疑問がある場合には,直接,宮内庁式部職あてに,郵便番号,住所,氏名を書き,返信用切手をはった封筒を添えて,9月20日までに問い合わせてください。

<書式図>
(横長)
お題 本 ①




                 
        

仲秋の名月

2014/ 09/ 08
                 
 明日の9月9日(火)の午前10時38分に、満月となります。
今日、9月8日は、旧暦の8月15日にあたり、今夜の月は「中秋の名月」と呼ばれます。
中秋は年によって違いますが、9月中旬から10月上旬にあたることが多いです。今年のように、9月8日、と早い時期に中秋の名月がやってくるのは38年ぶりのこととなります。
ちなみに、このところの中秋の名月を歴年で辿ってみますと、
2010年 9月22日
2011年 9月12日
2012年 9月30日
2013年 9月19日
2014年 9月 8日
2015年 9月27日
2016年 9月15日
2017年 10月4日
2018年 9月24日
2019年 9月13日
と続き、2010年の東京オリンピックの年は、10月1日が、「中秋の名月」の日になります。

 月の満ち欠けによって暦を作っていた太陰暦(旧暦)では、7、8、9月を秋としていていました。その真ん中の8月15日を中秋といいます。

 月の観賞は中国から伝えられた行事で、日本では9世紀末ころから宮中で月見の宴が行われていました。秋は空が澄み渡り、月の高さもほどよく眺められる良い季節なので、三か月の秋の真ん中の月を「中秋の名月」と呼ぶようになり、月を愛でる習慣がこんにちまで伝承されています。
 この中秋の名月の日は、現在ではお月様におだんごとすすきをお供えするのが一般的ですが、地方によっては、豆やいもなどを供えたり、早く採れたイネ(早稲)を供えるなど、農作物の収穫と関連した行事が行われています。これが、もともとの中秋の名月の行事であったと考えられています。
 月ははるか昔から、農作の守護神として世界的に崇められる傾向がありました。このようなことから、中秋の名月は農作物の実りに感謝するという意味もこめられていました。


2014年仲秋の名月(9月8日)
 きょうのお月様を拝むことはハナからあきらめていたのですが、いつもの「もしかしたら・・・」という気持ちが通じたのでしょうか、ほとんど曇天だったのにもかかわらず、束の間、「仲秋の名月」とご対面出来ました。
 このあと、すっと雲に隠れていきました。





                 
        

六一 月見

2014/ 09/ 08
                 
 旧暦の八月十五夜と九月十三夜には月見をする例があります。私共では最近は多忙にかまけて省略していますが、もとは十五夜には徳利に薄をさし、うどんなど手打にして縁側にならべ十三夜にはお団子を作って月見をしました。やはり片月見はいけないなど云われて居ります。農家の秋は全く鼓腹撃壌の時で、玉蜀黍の香ばしい味、秋茄子の汁、山栗のほどやき、初茸の塩焼、鮎の香り、柿の舌ざわり等全く一年中の好時節です。

 十五夜と十三夜の二つの月見は当然旧暦に従っていたしますが、次の十月十日の月見は現在十一月十日に新の一月おくれとなって十日夜の行事をいたします。そして新暦に従っただけ月との縁は切れてしまいました。


 習俗歳時記
  昭和50年10月1日
  著者 今井善一郎
  発行所 株式会社 煥乎堂





                 
        

五九 山の幸

2014/ 09/ 08
                 
 父は冬から春になる頃、毎年きまって蕗の薹を好みました。私の家の西の土手下と裏の畑の梅の木の下に蕗が沢山ありましたので、毎年雪のとける頃から蕗の薹のコロコロは発見されて父の食膳をよろこばせました。父は山椒も好きでした。その若芽は裏の山でいくらでも取れました。茗荷の子も好きでした。これは秋茗荷でした。西の畑の桐の木の下に毎年目を出しました。

 蕨やぜんまいは初夏の頃に附近の山によく見出されました。赤城山へゆけばかなり取れました。ぜんまいには雄ぜんまいと雌ぜんまいとあり、雌ぜんまいの花房のあるのは苦くて食べられませんでした。

 昔は茸は種類が多かったです。松露は利根川原の松林に出ました。丸い玉でシャキシャキとして歯ざわりが良く香りもよかったものですが久しくお目にかかりません。赤城の赤松が小松であった頃は初茸が沢山とれました。初茸は欠けたり、傷ついたりすると緑靑のようにそまるので、見たところはまずそうですが味は飛切りよくてこの土地で産する茸では一番です。毎年秋になると山の人が小籠で売りにきてくれたのですがこの頃はほとんど御無沙汰です。

 前に糧友瓶という手製の瓶詰が出来た頃はこの初茸を「山の幸」というレッテルを貼って親戚に送った事もあります。

 以前に家の前に木小舎があった時分にどういうものかその雨落ちに千本しめじが出ました。これも歯ざわりの良い茸で殊に清汁に入れるとよくだしが出ました。

薪の山 ②
 薪の山

 
 赤城の麓に楢林がありそこを伐った翌年楢ぶさという茸が沢山出来ました。これはザマ(背負籠)に半分も取ってきて毎日油煎りにしたり色々の料理をして食べました。

 終戦後は椎茸の自家栽培が始まり、これは何回も何回も作りかえしては食べました。直径十五センチ位の大きな椎茸も出来ました。金網の上に茸をのせて塩をふりかけて焼くと香ばしい香りがするのでしたが、この時は同じ方法でやる初茸が思ひ出されてたまりませんでした。なめこは種を買ってきて培養してみましたがうまくゆきませんでした。然し他所で立派に培養する人があり、これをいただいて豆腐入りの味噌汁にして食べます。

干し大根 ②
 大根干し


 柿と栗は先祖が屋敷に適当に植えてくれたのでかなり食べられましたが申しわけない事に私が跡継ぎの木を植えないので大分さびしくなりました。

 子供の時渋川に栗山というのがありました。自然生の山栗の多い山で毎年栗取りにゆきました。小さな栗の粒でしたが一升も二升も拾ってくる事が出来ました。馬に乗って行った覚えがあります。或年は祖母や母と一緒に行きました。途中立ち寄りました渋川の家では大叔父(石沢庫)様がちょうど簗へゆく時なので一同は誘われたのでしたが祖母と母はそちらへ参りました。私は鮎よりも栗の方がよかったのでそのまま栗山へゆきました。山には堀込宇仲さんという山番が待っていて家からは宇仲さんの分も弁当を持ってゆきました。一同楽しみながら一日栗拾いをしました。栗はいつも叺に入れて馬につけて帰るのでした。この栗山は戦争中の燃料になって其の後は松の植林をしてなくなりました。残念なことです。

蕎麦打ち ②
 蕎麦打ち


 習俗歳時記
  昭和50年10月1日 発行
  著者 今井善一郎
  発行所 株行会社 煥乎堂






                 
        

五八 川の幸

2014/ 09/ 07
                 
 利根川の鮎 ⑤


 利根川が家から一キロばかりの所を走って居りますから、当然川の幸が多いわけなのですが、どういうわけか昔からそんなに川の幸に多く恵まれていません。鯉やクキなどはむしろ庭の池に養って居りました。昔から来客があると下の庭にある池から鯉をあげて御馳走するのでした。然し、なんと云っても川の御馳走は鮎でした。私の小さいころは方々に簗があって水が出る毎に魚がとれ、しかもその水の出方が悪いと簗が流れてしまって、簗師はその度毎に大損害をするのでした。私の家の杉山は生育の悪い木が多かったので、その簗に並べるのは手頃でしたからよくその簗材に求められました。父はその求めに応じた事が多かったのですが、その代金は又もらえない事の方が多いようでした。簗というのはそんなに危険が多く、簗師というのはしばしば一攫千金の夢と身代限りの現実を味わう商売のようでした。

 昔、明治の時代に祖父の弟にあたる大叔父はこの利根川の鮎を明治天皇樣に献納して御嘉納いただきました。明治天皇様は特に利根川の鮎をお好み遊ばされまして宮内省の大膳寮の役人を時折御差遣になりまして利根川筋の鮎をお召しになりました。この為大叔父は木曾神社の湧玉の泉に生洲を設け、その御用に当てました。それで生洲の側に小屋を建て宮内省の役人の出張される時のお休み処と致しました。大叔父は木曾神社の神主をして居りました。そして右の小屋を宮城遥拝所と名づけ、平常は皇居の遥拝所にあてて居りました。宮内省の役人の出張のない時には良い漁を選んで大叔父は鮎を湧玉の泉に養っては宮内省に差上げました。当時民間で直接に献上の栄を得ていた産物と献上人が八人ありました。例えば見沼の螢は大宮の氷川神社の宮司、香は鳩居堂の熊谷氏などでしたが、木曾神社宮司としての大叔父はその一人に加えて頂きました。そこで木曾神社の湧玉の泉は宮内省の御用生洲となり、主猟官の御差遣もまたしばしばありました。これみな鮎漁でありましたが、春になって或時立派な山女がとれた事がありまして、これも献納しましたがその時又主漁官の御差遣がありました。然し山女の時期は短いのでその時は御漁がなかったと云います。

 以上はいずれも明治時代祖父の生存した頃のことでしたが、大正になって大叔父のその身一代献納をさし許された時代は過ぎました。大正時代以後の事は私も記憶があります。その頃は父の代になり叔父の所へ館林から叔母が来て交際が開けました。毎年初秋になると、父はその親戚へ鮎を送りました。

 その時分私の家に出入りした職人に野島の初さんという川の漁に明るい人が居りました。鮎の時期になると一日出かけて方々の釣師から大きな魚ばかり集めて来ました。私の家の台所は見事な魚ばかり集まりました。丸ショウギという平らな竹籠に頭を中心にして矢車状に並べ、その丸ショウギを何枚も重ねて、それを野島の初さんがお使役として館林の親戚に届けました。

 その鮎は一尺位ずつありその丸ショウギの上に羽子板を並べた様にならんでいました。これは私が見て記憶しているのですからこれから推しても明治の鮎は立派だったと思います。館林へ送り物をしたおこぼれは当然私達も口にしたので憶えば勿体ない様な川の幸を私達はたべたものです。館林の家は醤油屋でしたが大きな農場を自営して居り初さんが魚を持っていくと帰りにはその農場で出来た梨をお返しに頂いたものでした。その梨が又、一つ一つとても大きかったので今でも記憶に新たです。

 鮎を食べるのは嵐のあった翌日の利根川の出水の時です。坂東橋の下流で長い竿の先に丸いすくい網をつけたもので村の人達は揃って流れ落ちてくる鮎をすくったのです。そんな時は実に沢山の鮎がとれました。自然に私共の台所まで充分この魚で賑わいました。

 その他利根川筋の懇意な人達から時折鱒やクキなど頂きました。鱒と云っても今の養殖鱒ではなく鮭と並ぶ様なものでした。その他山女、岩魚など時たま味わいましたがこれは極稀でした。

 関東発電所が出来てから利根川に堰堤が出来、それ以後魚は途絶えました。


 習俗歳時記 
昭和50年10月1日発行
 著者 今井善一郎
 発行所 株式会社 煥乎堂


 箱田の家  ⑤
 左が「母屋」。母屋から屋根つきの渡り廊下を通って「隠居・蔵」へ。隠居蔵の手前に「下の池」がありました。下の池は、今は土で埋められています。この写真では見ることが出来ませんが、今では「上の池」だけになっています。(東南にある蔵と蔵の間にあるくぐり戸を抜けた先の「東屋」には池がありますが、昨今枯山水の風を呈していて水がはってありません。※隠居蔵の2階は蔵書蔵となっていて、『橘山房』として地元の図書室としても使われています…。)












                 
        

銀座並木通り 空也

2014/ 09/ 06
                 
 『空也餅、冬には時々作ります。』との、お店の人の話です。

 夏目漱石著の『吾輩は猫である』の二節に一か所、三節に二か所「空也」の名前が出てきます。

 「ニ」≪ ・・・ 主人はまたやられたと思いながら何も云わずに空也餅(くうやもち※)を頬張って口をもごもご云わしている。 ・・・ ≫ 
 「三」≪ ・・・ 鼻子は学問上の質問は手に合わんと断念したものと見えて、今度は話題を転ずる。「御話は違いますが――この御正月に椎茸(しいたけ)を食べて前歯を二枚折ったそうじゃ御座いませんか」「ええその欠けたところに空也餅(くうやもち)がくっ付いていましてね」と迷亭はこの質問こそ吾縄張内(なわばりうち)だと急に浮かれ出す。「色気のない人じゃ御座いませんか、何だって楊枝(ようじ)を使わないんでしょう」「今度逢ったら注意して置きましょう」と主人がくすくす笑う。「椎茸で歯が欠ける位じゃ、余程歯の性(しょう)が悪いと思われますが、如何(いかが)なものでしよう」「善いとは言われますまいな――ねえ迷亭」「善い事はないが一寸愛嬌(あいきょう)があるよ。あれぎり、まだ填(つ)めないところが妙だ。今だに空也餅引掛所(ひっかけどころ)になってるなあ奇観だぜ」「歯を填める小遣いがないので欠なりにして置くんですか、又は物好きで欠けなりにして置くんでしょうか」「何も永く前歯欠成(かけなり)を名乗る訳でもないでしょうから御安心なさいよ」と迷亭の機嫌は段々回復してくる。 ・・・ ≫
  (「新潮文庫版・注解の※空也餅:半搗きの餅でつぶし餡をつつんだ和菓子。と表記されている。)

吾輩は猫である
 「   一
 吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生まれたか頓(とん)と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。 ・・・ 」 (-新潮文庫版 平成25年12月20日 115刷による- 解説は伊藤整。その冒頭にはこう書かれています。・・・『吾輩は猫である』は漱石の最初の小説である。彼は四十歳になって初めてこの小説を書いたので、それまでは単なる一英文学者だった。この作品の出現は言わば奇跡のようなものであった。だから、どういう風にして小説家漱石が準備され成熟したかを知るためには、漱石その人の過去の生活や性格を考える必要がある。・・・ )


 文壇人のお口に合う、「空也」の和菓子です。
 小島政二郎の『金の指』では、空也双紙が手土産として、舟橋聖一の『白い魔魚』はこちらも手土産として空也最中が、そして、林芙美子の『匂い菫』には、空也最中が茶菓子として出てくるそうです。










                 
        

『ノンフィクション賞』。

2014/ 09/ 05
                 

 今から44年前『大宅壮一ノンフィクション賞』が誕生しました。日本におけるノンフィクション賞の始まりです。
  大宅壮一(1900〈明治33〉.9.13-1970〈昭和45〉.11.22)の三女、評論家の映子(1941.2.23-)さんは、ゴルフが趣味です。夫、娘二人、孫三人の家族です。
 大宅歩(1932-1966)は、壮一の長男で、33歳で死去しました。彼は、中学・高校(日比谷高校)で、ラグビーをやっており、試合や練習でしばしば脳震盪など負傷したことにより、脳に障害を持つようになり、ときおり発作を起こすようになっていました。
 彼のノートに遺された詩文や散文などが遺稿集として、『詩と反逆と死』(文芸社1966年)と、『ある永遠の序章』(南北社1967年)と題して、相次いで発行されています。
 この二冊の初版本は、発売直後に手元にとりよせましたが、『ある永遠の序章・青春の反逆と死』(沖積舎1983年)は、私の移りゆく時代ということもあり、気づくということもありませんでした。
 同じく知らなかったということで、大宅歩原作と銘打っての映画、『残照』があります。河崎義祐監督作品で、三浦友和主演です。主人公が遠野翔。恋人の久美子役が原田美枝子、妹光子役が五十嵐めぐみ。両親(進吾と久子)役が、小林圭樹と司葉子。1978(昭和53年)4月29日、東宝系で封切されています。
映画では、自分の死を悟った主人公が、恋人との別れのシーンを余韻残るタッチで演出していますが、現実の世界としては、彼は東大卒業後、定職につくことはありませんでしたが、結婚して子供を授かっています。
 彼の遺文を載せて、冥福を祈ります。
≪ ・・・  睡眠の量はその長さにもよるが、深さを掛けて考えなければならない。私がその長さにおいて他人よりもはるかに多いのに深さにおいてははるかに劣っている。否睡眠に入る労働の径路においてくたびれるのである。いわゆる寝付きが悪いというシロモノだ。
 この疲労のウッセキが意識の忘れた頃台風のようにやってきて発作を誘う。  発作は完全に私を死の世界に追いやり十五分ほどでもとへもどり、その日その翌日頭痛を伴い、思考能力を完全に失わせるが私にとっては、安らぎの世界である。
 私はこうして死から生へと幾度となく世界を往復している感じがする。」

「健康な人より時計の針は完全に半廻りほど日付け変更線がくるっている。発作の前ぶれか。いや発作は前ぶれなしに怒涛のようにやってくる。発作を意識している時に発作は起きない。 ・・・ ≫




あらためて『ノンフィクション賞』

大宅壮一ノンフィクション賞
  公益財団法人日本文学振興会が主催。株式会社文藝春秋が運営。副賞100万円。
• 第1回(1970年)
〇 尾川正二『極限のなかの人間』(光人社)
〇 石牟礼道子(受賞辞退)『苦海浄土 わが水俣病』(新潮社)

講談社ノンフィクション賞
講談社が主催。副賞100万円。
• 第1回 (1979年)
〇 柳田邦男『ガン回廊の朝』(講談社)
〇 立花隆『日本共産党の研究 上・下』(講談社)

小学館ノンフィクション大賞
小学館が主催するノンフィクション(未発表原稿)を対象とした公募制の文学賞。
ノンフィクション作家の登竜門のひとつと位置づけられている。賞金は500万円(第13回までは1000万円)。
選考委員は椎名誠・関川夏央・高山文彦・二宮清純・平松洋子の5名。
•   第1回(1994年) 
〇 大賞 『狂気の左サイドバック』(一志治夫)
〇 優秀賞 『ショーン』(山下柚実)・『龍の伝人たち』(富坂聡)

開高健ノンフィクション賞
集英社主催、一ツ橋綜合財団後援。副賞300万円(単行本化の際は別途印税)。
未発表もしくは未刊行の作品を対象にした文学賞で小学館ノンフィクション大賞とともにノンフィクション作家の登竜門の位置づけにある。
• 第1回 2003年
〇  平岡泰博『虎山へ』、(優秀賞)姜誠『越境人たち 六月の祭り』、駒村吉重『ダッカへ帰る日―故郷を見失ったベンガル人』

新潮ドキュメント賞
財団法人新潮文芸振興会が主催。副賞100万円。
もともとは新潮学芸賞として1988年から2001年の第14回まで続いたが、2002年か
らノンフィクションを対象とする新潮ドキュメント賞と、評論・エッセイを対象とする小林秀雄賞とに分離した。
• 第1回 (2002年)
〇 高木徹 『ドキュメント 戦争広告代理店―情報操作とボスニア紛争』(講談社)


 第13回の、小林秀雄賞『月日の残像』(山田太一著作)、新潮ドキュメント賞『殺人犯はそこにいる』(清水潔著作)は、2014年8月29日に発表されています。
作者の受賞の言葉が、週刊新潮 9月11日号(№34)に掲載されています。

山田太一氏:
 現実にも夢にもこんなことがあるなんて思ってもいませんでした。世界が違うという気持でした。それはそれとして、小林秀雄氏の本は若い時からその折々の関心で長く読んで来ました。どう生きようとどう考えようと、その浅薄をきびしく突くと
いう存在になってもらっていたところがあります。御存命だったら怖くて逃げだすかもしれません。

清水潔氏:
  「足利事件」を含む5件の幼女誘拐殺人事件を追い始めたのは今から7年前のことです。本書には「足利事件」冤罪の可能性を報じ、「真犯人」と思われる人物を特定するまでの6年間にわたる取材の足跡を可能な限り記しました。しかし日本の犯罪史に残るこの重大事件は今も未解決、犯人は野放しのままです。今回の受賞で事件に再び光が当たることを祈っています。



                 
        

9月

2014/ 09/ 03
                 
 ひと声、「みゃう」と鳴いて、日影でお昼寝を決め込んでいた「ミユ」が近寄ってきました。
 9月。
 陽だまりといっては、まだまだ暑さが残る午後のひととき。
 窓から射しこんでくる陽光の中に、後姿でポーズをとったミユ。
 ちょっぴり短いミユの影が、ほんのちょっとのお昼過ぎを表していました。
 
 撮影が一段落した頃合を見計らって、「みゃう」とひと声鳴いて、座った私の足許に体を預けに来たミユ。
 ピンと立った尻尾を私の腕に当ててきます。

 私を見上げて、また、「みゃう」とひと声鳴いて、風通しの良い日影に戻っていきました。


2014年9月2日の「ミユ」
 





                 
        

『ご成婚55年 「皇后美智子さま」秘録』。

2014/ 09/ 02
                 
 ノンフィクション作家の工藤美代子が、週刊新潮に載せているシリーズが、8月14・21日夏季特大号(№31)をもって、第二部了となりました。


 ≪≪1959年(昭和34年)4月10日の皇太子殿下御成婚記念切手を求めるために、早朝から県庁所在地の郵便局本局前に並んだことを思い出しています。姉からおつかいを頼まれた弟です。勿論、学校は遅刻という結果が待っていることを知った上での長い長い行列の中の一人でした。記念切手のセットを手に入れて、ふと目をあげると、行列の中に姉が並んでいるのが目に留まりました。遅刻や早退などもってのほかとにんずる優等生が、ひとつでも多くのシールが欲しいがために、弟に頼んだセットだけでは事足りなかったのです。当然のこと、「エーッ!?」と、吃驚仰天の私でした。≫≫

皇太子御成婚記念切手-10円切手-    皇太子御成婚記念切手-30円-



 同秘録、連載第9回、第10回と2回にまたがって多くの紙面を割いて、三島由紀夫のことが書かれています。
 《三島が漏らした美智子さんとの「お見合い説」は、今も関係者の間で広く流布している。が、前回、当時の事情を知る関係者がその話を否定していることをお伝えした。では、なぜ、お見合い説は広まったのか。そして、三島の胸中には、どんな想いがあったのか。》と、第10回の見出し文にあります。
 工藤美代子が締めくくりに、次の文章を選んで載せています。前段は割愛しますが、彼女の筆致の確かさを見ることが出来ました。
 《 ・・・  という具合で、三島と美智子さんの「お見合い」説は拡散してしまった。 今回の取材で、正田家の実情をよく知るもう一人の人物からも証言を得ることができた。

 「昭和三十三年二月という時点は極めて微妙なときですが、すでに皇太子さまご自身は美智子さまを意中の人と真剣にお考えになっていたと思います。その強いご希望は、すでに美智子さまにもそれとなく伝わっていたと考えていいでしょう。ですから、そのようなときにどんなことがあるにせよ、三島さんからのお誘いをお受けするなどというはずは絶対にないのです。ましてや銀座のお座敷などへ行くはずもありません」

 証言者の名は秘すが、誰よりも真相を知っていると思われるこの人物のコメントをもって、お見合い騒動の幕を閉じたい。


 長くなりましたが、ここで三島由紀夫のことを書くつもりは毛頭ありません。
 工藤美代子の「皇后美智子さま」秘録に、皇太子殿下が民間人と結婚するということに対して、皇族や女官や、諸々の人たちが拒否反応をここかしこで示しています。
 その中で、具体的に名前が掲げられている一人に、柳原白蓮(1885年10月15日-1967年2月22日)がいます。彼女はご存知の通り、父は伯爵の柳原前光です。母は柳橋の芸妓奥津りょう。大正天皇の生母の柳原愛子の姪であるということと同時に、大正天皇の従妹ということにもなります。
 世間をあれほどまでに賑わせ、騒がせ、驚かせ、顰蹙された白蓮にしても、民間人が、将来、天皇陛下となる人に嫁ぐなどもってのほか、と一刀両断に切り捨てていたことに、時代性を感じました。

 

 閑話休題、先日のブログに載せた、①林真理子著『白蓮れんれん』、②清水潔著『殺人犯はそこにいる』、③ヨナス・ヨナソン著‐訳柳瀬尚紀‐『窓から逃げた100歳老人』、それぞれひとこと書き加えておくことにいたします。

① 『白蓮れんれん』を読みながら、フッと頭の隅を過ったのが、ノンフィクション作家の工藤美代子が著した『「皇后美智子さま」秘録』中に名前が載っていた、「柳原白蓮」です。民間人美智子さんへの拒否反応は、どこから出てきているのか・・・と、ついつい、話の本筋から離れたあらぬ方向のところへ、こころが飛んでいっていました。
 ご成婚55年目にしての「秘録」。書籍になったら、いの一番に買い求めます。

② 『殺人犯はそこにいる』。一つのページがめくられたときに、陽が当たります。
   見る側にとって、テレビ放映では残像という記憶が残るでしょうけれど、書籍の類では、記録が事実として残ります。さいしょの発行が2013年12月20日です。この日から数えて、何年何月何日後に、そのときが来るのか、こころしたい。
 「時代性が変わった」という感想を聞くことが、存外思った以上に早く来るような気がしてなりません。

③ 原語(スェーデン語)から日本語に訳す翻訳本が一日も早く出ることを願っています。手元に置いてある翻訳本は、 いろいろなレベルの人たちが英語版を手にし、分担しながら訳しているのではないかな・・・という気持ちがふつふつと沸き起こっていました。



                 
        

二百十日(にひゃくとおか) 

2014/ 09/ 01
                 
 立春から数えて210日目の、2014年の「二百十日」は、9月1日です。


 この時季は稲が開花・結実する大事なときですが、台風が相次いで襲来し、農作物が被害を受けてしまうことがよくあり、厄日とか荒れ日などと言われています。一つの目安として警戒を呼びかけていたようです。
立春から数えて220日目の二百二十日も厄日と考えられています。
 二百十日は伊勢の船乗りたちが長年の経験によって凶日としたといわれていて、雑節として暦に記載されたのは江戸時代で、八十八夜とほぼ同じ頃です。先人たちの経験に基づいた生活の知恵が暦となっているのですね。
 農作物を風雨の被害から守るため、各地で風鎮めの儀式や祭が行われていて、風祭りもその一つです。
 【風祭り(かざまつり)
風害から農作物を守るため、神に祈願する祭り。全国的に行われているようですが、関東・中部・東海地方では、風祭りと共に風神・風宮の伝承が色濃くあるようです。二百十日前後に行うところが多いですが、正月・2月・4月・7月・8月に行う地方もあります。 】
   (「日本の行事・暦〈雑節〉」公式ページより抜粋)


 青杉の穂にある二百十日の日  菅 裸馬


雲 ⑪