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さきたま古墳公園の水鳥たち

2015/ 01/ 31
                 
 昨日、雪景色が撮れるかなと思い、ほんのちょっとですが雪が降っていたので、さきたま古墳公園に立ち寄りました。
 水鳥が三種類、沼で羽を休めていました。
 サギの仲間が二種類と、カモの仲間が一種類です。

サギニ種とカモ一種①
 〈手前から、ダイサギ、カルガモの群れ、アオサギ〉

サギとカモの群れ②
 〈アオサギとカルガモ〉

サギ2種―2
 〈手前:ダイサギ、後方:アオサギ〉

サギ④
 〈ダイサギ〉

アオサギ⑤
 〈アオサギ〉



【「日本野鳥の会」公式サイトより「水辺の野鳥たち」】
 
〈アオサギ〉
背が灰色した、最も大きなサギ
全長:93cm
九州以北での林で集団繁殖し、各地の水辺で見られる。
北日本では、秋冬に暖地に移動するものが多い。
正面からは白く見えるが、横、後ろからは灰色に見える。
成鳥では首が白く、頭に黒い冠羽があるが、若い鳥では首や冠羽の部分がぼやっとした感じ。
立ったまま翼を半開きにして、日光浴をする。
コウノトリ目サギ科
◇カラス大以上が多い(ヨシゴイなどはハト大)。
◇首や足が長い(首を縮めているものもいる)。
◇長めの鋭いくちばしで、魚などをとる。
◇飛ぶと首を縮める(×コウノトリ・トキ科、ツル科)。

〈ダイサギ〉
最も大きな白いサギで、極端に首が細長い
全長:89cm
コサギ同様さまざまな水辺で見られるが、九州から本州に夏鳥として飛来し繁殖するものと、冬鳥として飛来するものがある。
一般に体が大きなものほど動きが少なくなる傾向があるが、コサギのように足早に歩きまわるよりも、より深い水辺をゆっくり歩くか、じっと立っていることが多い。
ゴワーと鳴く。
コウノトリ目サギ科
◇カラス大以上が多い(ヨシゴイなどはハト大)。
◇首や足が長い(首を縮めているものもいる)。
◇長めの鋭いくちばしで、魚などをとる。
◇飛ぶと首を縮める(×コウノトリ・トキ科、ツル科)。

〈カルガモ〉
くちばしの先だけ黄色。
全長:61cm
全国の水辺で1年中見られる(北海道では冬に少ない)。
他のカモの雌に似ているが、比較的大型。
腰の部分に白い三日月模様(三列風切羽根の縁が白い)、飛ぶ時、腹は黒く見える。
水辺の草地に巣をつくる。
グェ、グェと太い声。





                 
        

タゲリ -さきたま古墳公園-

2015/ 01/ 30
                 
 鴻巣のせせらぎ公園に展示の、SL「C11322」と、行田の本丸児童公園に展示の、SL「C5726」の写真を撮りに行きました。
 「C11322」の写真を撮った後、行田のさきたま古墳公園に寄り道しました。
 四種類の野鳥の姿をみかけました。

 「タゲリ」 (チドリ科)
 遠くからですが、初めて御目文字できました。(写真で白く見えるところは、ほんのちょっぴり積もった雪です。)
 望遠を使ったのですが、ぼんやりとしか撮ることができませんでしたので、サントリーの愛鳥活動公式サイトよりサシエをお借りしました。

たげり ⑪-3 たげり ⑪-2

タゲリ横向き① タゲリ 後向き3-3


タゲリ四羽③




タゲリ (チドリ科)

 ①夏季にユーラシア大陸の中緯度の広範囲の地域で繁殖し、冬季はアフリカ大陸北部やユーラシア大陸南部等で越冬する。2011年3月27日にモンゴル国から飛来したカラーフラッグの足環(2008年7月31日に装着されたもの)が取り付けられた個体が、日本の石川県加賀市の柴山潟で確認された。
 日本には冬季に越冬のため本州に飛来し(冬鳥)、中部地方や関東地方北部で繁殖した記録もある[6]。北海道と東北地方北部では旅鳥。
 全長が32 cm、翼開長が約72 cm。同属のケリよりもひとまわり小さい。背面は光沢のある暗緑色、腹面は白い羽毛で覆われる。足は赤黒い。
 頭部には黒い冠羽が発達する。頸部には黒い首輪状の斑紋が入る。雌雄ほぼ同色。メスは頭部と胸部の黒い部分に褐色を帯びて、オスは夏羽の喉部が黒い。
 河川、湿地、干潟、水田等に生息する。冬季は小規模な群れを形成し生活する。見通しのよい開けた場所におり、警戒心が強い。
 食性は動物食で、昆虫類、節足動物、ミミズ等を食べる。足で地面をたたいたり揺するようにして、ミミズなどを地表におびき出して捕食することがある。
繁殖形態は卵生。繁殖期にはペア毎に縄張りを形成するが、緩く集団営巣することもある。地面に窪みを掘り枯草を敷いた巣に、3-7月に1回に4個の卵を産む。主にメスが抱卵し、抱卵期間は25-34日。雛は生後29-42日程で飛翔できるようになり独立する。
「ミュー ミュー」とネコのような声で鳴く。この鳴き声から、英語で「Pee Wee」という別名がある。飛び立つ時に鳴くことが多い。フワフワとした飛び方をする。―「ウイキペディア」より―

 ②ハト大で、冠羽が特徴。
 全長:32cm
 開けた農耕地に飛来するが、関東以西に多く本州中部で繁殖例がある。夏羽ではのども黒くなる。先が丸い翼でふわふわと飛び、白黒が鮮明で美しい。ミューとネコのような声。―「日本野鳥の会」公式サイトより―

 ③全長32cm。背、翼は金属光沢のある緑黒色。頭には後方へ伸びるかざり羽があります。
 「ミューウッ」あるいは「ミャーッ」と聞こえる猫の鳴き声に似た声を出します。
 日本では全国で記録されていますが、本州では繁殖例もあります。
 冬鳥として北方から渡って来て、積雪のない地方で冬枯れの田んぼの刈りあとや湖沼畔に群れをつくっています。飛ぶときは丸みのある翼をフワフワとはばたかせ、白と黒の模様をあざやかに浮き立たせます。
 名は田のケリ、とあってもチドリの仲間です。―「サントリーの愛鳥活動」公式サイトより―


                 
        

SL

2015/ 01/ 30
                 
SL

日本でいま、どのくらいの蒸気機関車が走っているのでしょうか。
埼玉では「パレオエクスプレス/秩父鉄道」、栃木では「SLもおか/真岡鐵道」、そしてJR東日本以東に目を移すと、群馬の「SLみなかみ/JR上越線」、「SL碓氷/JR信越本線」、新潟・福島の「SLばんえつ物語/磐越西線」、福島の「SL会津只見号/会津線・只見線」、岩手の「SL銀河/釜石線」、山形の「SL山形DC架け橋号/羽越本線」などが挙げられます。
 〈このほか、「SL村上ひな街道号」、「SLうまさぎっしり庄内号」など、観光キャンペーンの一環として臨時列車のダイヤが組み込まれています。〉
 また、営業路線で活躍している蒸気機関車のほかに、SLが蒸気を出して動いているところを見ることが出来る場所もあることをご存知ですか。
 「日本工業大学工業技術博物館(埼玉県南埼玉郡宮代町学園台4-1・tel 0480-33-7545)」、「川場村ホテルSL(群馬県利根郡川場村大字谷地2419・tel 0278-52-2241)」、「やながわ希望の森公園(福島県伊達市梁川町字内山1・tel 024-577-6100)」など、タイミングがあれば一度は訪れてみたいところです。


写真は、川里フェスティバル(2014年11月9日)会場にて撮影
SL⑪




 写真は、「C57-117」
蒸気機関車⑪
  SL・C57は、鉄道ファンから「シゴナナ」の愛称で親しまれているそうです。C57形はその優美なスタイルから「貴婦人」と呼ばれ、全国(四国を除く)で活躍した蒸気機関車です。
 昭和48(1973)年4月、宮崎で行われた植樹祭の折に、天皇陛下のお召列車の牽引機関車として使用されています。
 C57形のお召列車としては、この宮崎行が最後のお勤めとなりました。
 「SL村上ひな街道」など、現在もあちこちで走行しています。




                 
        

そば処 利庵 石臼挽 自家製粉 埼玉県行田市北河原557-1

2015/ 01/ 29
                 
そば処 利庵 石臼挽 自家製粉 埼玉県行田市北河原557-1


 「おすすめの一品と肴」: 昼、一人運転での訪問です。食べ終わって、よくよくお品書きをみると、・鴨焼き850円、・鴨つくね焼き350円、・だし巻玉子500円、・そばがき450円、・そばがき揚げ480円、・そばうす焼き450円、と書かれてありました。その横には「お飲物 ・日本酒:・福島県会津ほまれ360円、{・山形県秀鳳純米大吟醸、・静岡県臥龍梅超辛口純米吟醸、・広島県うごのつき純米吟醸生原酒、}各600円。」と四種類の銘柄が書かれています。肴というのは、お酒につくものと相場が決まっています。が、丁度いまは鴨が美味しく食べられる季節です。どうしても「鴨焼き」が食べたくなって、ついつい声をかけたところ、つくれますよ。という返事。早速頼んでしまいました。暖簾をくぐったのは今回で三度目ですが、家からそこそこ遠い所にあり、年がら年中来ることが出来るという近場でないので、そういう所為となったのでしょう。
 「※お替りそばは500円増しです」:「鴨焼き」が出てくる間に、お品書きの片隅に一行さりげなく書かれていました。ニ八そばは一枚680円です。お替りそばは同じ一人前なの?と伺ったところ、ソウデス。とのこと。ちょっと思案して、じゃあお替りを!と注文したのですが、二人連れのお客様が注文したタイミングと重なり、本日のおそばは先ほどのお客様の分で売り切れとなってしまいました。ということで、実際のところは少しホッとしたということも事実です。

 何となれば、「冷たいそば:・十割そば(限定10食)780円、・ニ八そば680円、・天付十割そば1,150円、・天付二八そば1,050円、・つけとろ二八そば910円、・梅おろしそば910円、・揚げ茄子そば(季節限定)1,050円、※大盛りは250円増しです。」「天ぷら:・野菜天の盛合わせ480円、・いか天200円、・ちくわ天130円、・かき揚げ180円、・ごぼう天130円、・ねぎ天(季節限定)150円。」というお品書きの中から、ニ八そばの大盛りと、かき揚げを既にたいらげた後だったからにほかなりません。かき揚げは三つも入っていて、大盛りのそばと合わせ、大変満足のいく味と、十分な量だったからです。

そばうす焼き⑪
「ニ八そば・大盛り」についている「そばうす焼き」

コーヒーサービス⑫
 ホットコーヒーが、サービスでつきます。

 鴨焼きを食べ終わる頃に、奥から奥様が出てきて、何とか一人前ご用意できますけれど・・・と、いうではありませんか。心の中でウーンどうしようと思いつつも、口から出た言葉はお願いします。そうなんですよ頼んでしまいました。

鴨焼き①
 鴨焼き

031 - コピー
 お替りそば

 また伺います。次は開店時間早々のの11時に入って、十割そばを頼みます。そして、「お替り!」と大きな声をかけます。

 12時35分、私と同じ、男一人車で来たお客様。奥様が玄関口まで出て来て、すみません、本日はお終いとさせていただきました。と、丁寧な挨拶。
 定休日は水曜日。営業時間は11:00~14:30となっていました。
 電話048-557-0103

そば処 利庵 ③
 暖簾三つのうち、左端の一つを折っています。食事中のお客様はいらっやしいますけれど、売り切れました。というシグナルです。


 『そば処 利庵のこだわり 
 ・玄蕎麦は国内産地より仕入れ、国内産にこだわってます
 ・石臼挽き自家製粉して 毎日挽きたての粗挽ソバにこだわってます
 ・昔ながらの手打ちの良さを十二分に楽しんでもらうことにこだわってます
 ・かつお節は天然だしを使用し かつを節にこだわってます
 ・麺、つゆに科学調味料を一切使わず そば店基本のかえしにこだわってます』


  本日の十割そばは、「信州産と益子産のブレンド」と黒板に書いてありました。ニ八そばは茨城産や地元産など五地域ほどの名前が載っていました。
               2015年1月29日(木)昼

 
追記:前にお邪魔したときにご主人からお聞きしましたが、器もご亭主自ら焼かれたものです。
 店名、お品書きなどの文字も、ご主人の筆によるものと思われますので、今度伺った折にたずねてみようと思います。





                 
        

 『幻想 百物語埼玉』開運編 ~埼玉の深い魅力を探る~

2015/ 01/ 29
                 
 『幻想 百物語埼玉』開運編 ~埼玉の深い魅力を探る~



 『幻想 百物語埼玉』は、「妖怪編」、「歴史編」、「開運編」の三部作となっています。

 先日の「歴史編」、「妖怪編」に続き、「開運編」の目次を載せます。

開運編 ③    開運編 ②



1.川越八幡宮 (川越)   ・・・4p

2.民部稲荷 (川越)    ・・・5p

3.出世稲荷 (川越) ・・・6p

4.箭弓稲荷神社 (東松山)   ・・・7p

5.高麗神社 (日高)   ・・・8p

6.三峯神社 (秩父) ・・・10p

7.聖神社 (秩父)  ・・・12p

8.慈眼寺 (秩父)   ・・・14p

9.鴻神社 (鴻巣) ・・・15p

10.鳩ヶ谷氷川神社の御神水 (川口) ・・・16p

11.荒川源流の女男の滝 (秩父) ・・・17p

12.ぎょうだいさま (越谷) ・・・18p

13.しわぶきばば (川越) ・・・19p

14.おびんずるさま (川越) ・・・20p

15.楊貴妃の鏡と如意輪観音 (秩父) ・・・21p

16.安養院の大銀杏 (三郷) ・・・22p

各所へのアクセス ・・・23p

[トピックス]
 四年に一度の奇祭 脚折雨乞 (鶴ヶ島) ・・・16p


 ≪「彩の国さいたま」。
 埼玉に家を構えていつのまにか28年も住んでいるというのに、まだまだ知らないことだらけの埼玉県でした。
 鶴ヶ島の奇祭に使われる龍神は、長さ36メートル、重さ3トン、頭の高さ4.5メートル、頭の幅2メートル、胴回り6メートル、口の直径1.6メートルのサイズです。この巨大な龍蛇の全体は、竹80本、麦わら570束で作られています。≫


【「トピックス・鶴ヶ島」 - 四年に一度の伝統行事 『脚折(すねおり)雨乞』
  鶴ヶ島市で四年に一度行われ、巨大な龍神が練り歩くことでも知られている「脚折雨乞」は、国選択無形民俗文化財に登録されている行事。
 鶴ヶ島市は昔から北部の脚折(すねおり)の雷電池(かんだちがいけ)をはじめとする豊かな水資源を基盤にした稲作が盛んであった。この池には巨大な大蛇が住んでおり、日照りで困った時は池のほとりにある脚折雷電社の前で雨乞いをすると、必ず雨が降ると言われ人々の信仰を集めていた。

 しかし江戸時代初期に雷電池の一部を埋め立て、水田にしてしまったところ、大蛇は上州板倉(現群馬県板倉町)の池に住処を移してしまい、雨乞いをしても雨が降らなくなってしまったという。
 明治7(1874)年になって、干ばつで困り果てた村人が板倉の水を持ち帰り、白鬚(しらひげ)神社にて降雨祈願をしたところ快晴の空が一転してかき曇り、雨が降り出したという。

 一度は農家の減少によりこの行事も廃(すた)れたが、昭和51(1976)年より地域の伝統行事として復活した。
 竹やわらなどで作られる巨大な龍蛇は、白鬚神社の神事の後に龍神となり雷電池へ向かい、解体される。聖地である雷電池を汚された事による龍神の怒りがこの地に雨を降らせるという。

 ※参考資料:鶴ヶ島市公式パンフレット.埼玉県の不思議辞典 金井塚良一、大村進 共著。】


                 
        

 『幻想 百物語埼玉』妖怪編 ~埼玉の深い魅力を探る~  

2015/ 01/ 28
                 
 『幻想 百物語埼玉』妖怪編 ~埼玉の深い魅力を探る~  


 『幻想 百物語埼玉』は、「妖怪編」、「歴史編」、「開運編」の三部作となっています。

 先日は、「歴史編」のインデックスを書きましたので、きょうは、「妖怪編」の目次を紹介します。

妖怪編 幻想 百物語埼玉


1.オクポ   ・・・4p

2.ヤナ    ・・・5p

3.袖引き小僧 ・・・6p

4.夜道怪   ・・・7p

5.チトリ   ・・・7p

6.黒塚の鬼婆 ・・・8p

7.横瀬の山姥 ・・・9p

8.野寺坊   ・・・10p

9.お天狗山の琴平様 ・・・11p

10.だいだらぼっち ・・・12p

11.見越し入道 ・・・13p

12.小豆洗い ・・・14p

13.見沼の竜 ・・・15p

14.袈裟坊 ・・・16p

15.曼荼羅淵の河童 ・・・17p

16.笹井の竹坊 ・・・17p

17.宝憧寺の河童 ・・・18p

18.沼小僧 ・・・18p

19.廻淵の蜘蛛 ・・・20p

20.やかんころがし ・・・21p

21.妖怪の証拠!? 天狗の爪&龍の穂ね・・・22p

22.血の出る杉 ・・・23p

コラム:河童いろいろこぼれ話 ・・・19p


 ≪≪「袈裟坊」から、「曼荼羅淵の河童」、「笹井の竹坊」、「宝憧寺の河童」、「沼小僧」まで、埼玉の各地域に伝承されている「河童伝説」を解き明かしています。
 コラムの、「河童いろいろこぼれ話」では、他県では見られない「埼玉の河童の話」を一挙公開しています。

  《 「まだまだある! 河童いろいろこぼれ話」
  一、ホオズキのような形をしている!? ― 日高市
     日高市では、河童は夏の間は川にいるが、冬は山の中に住んでいるといわれおり、上流からホオズキのような形で流れてきて、好奇心から近づいた人を水中へ引っぱり込んでしまうそうだ。
  一、河童の被害の見分け方 ― 児玉郡上里町(旧長幡村)
     児玉郡上里町(旧長幡村)には、水死した人が河童のせいで亡くなったのかどうか、見極める方法がある。
     川などで亡くなってしまった人の顔が笑顔であれば河童に引き込まれたといえるのだそうだ。何でも、河童は人の尻をくすぐって油断させ、力を抜かせてから水の中に引きずり込むらしい。

 この方法を利用して、旧長幡村にはなんと『河童を捕まえる方法』が伝わっていた!?
 【河童の捕まえ方】 ― 旧長幡村、神流川流域
  1.まず、川の細くなっている所を探す。
  2.川に橋のようにはしごを渡し、片側に網をくくりつけてすぐに引き上げられるようにする。
  3.はしごにまたがって、川の上にお尻を突き出す。すると、河童がやって来て、引きずり込もうとひょいと腰を上げる。同時に網も引き上げれば、網の中に河童が捕まっているという仕掛け。

 この方法で旧長幡村の人々はたびたび河童を生け捕りにしたというが、捕まった河童がその後どうなったのかは、残念ながら伝わっていない。

  ※参考文献:『埼玉県伝説集成 下巻・信仰編』韮崎一三郎著.『日高町史 民俗編』。 》    
      ≫≫




                 
        

ジョウビタキ

2015/ 01/ 27
                 
 きょうは朝から、シジュウカラ、メジロ、スズメ、ヒヨドリと、続けて我が家の庭を訪れています。

 先ほど、ジョウビタキが一羽、水浴びにやってきました。


ジョウビタキ 20150127撮影
 (ガラス戸の向こうに・・・)



ジョウビタキ

全長15cm。雄では頭が銀白色、顔は黒色、腹は赤茶色。雌は体が灰色味のある茶色。翼に白斑があります。
日本では冬鳥で、積雪のない地方で越冬し、平地から低山の農耕地、住宅地、公園、河原などに生息します。ただし1例ですが、北海道では繁殖したことがあります。
名前のジョウは「尉」で銀髪のこと。ヒタキは「火焚」で、火打石をたたく音に似た音を出すことからジョウビタキなのです。
翼にある白い斑点をキモノの紋に見たてて、モンツキドリという地方があり、ときどきぴょこんとおじぎをして尾をふるわせる、かわいい冬鳥です。その動作から、こんな話が―

昔、スズメとモンツキドリは姉妹でした。母親が重い病気になったとき、スズメはお歯グロを塗っていましたが、すぐやめて駆けつけたので死に目に会うことができました。ところがモンツキドリは、化粧をしたりモンツキを着たりと時間をかけたので、死に目に間に合いませんでした。怒った父親はモンツキドリに「もう、こんりんざいタベモノをやらない」と言いました。だから今でもモンツキドリ―ジョウビタキは、おじぎをしているのです。いっぽうスズメの口もとが黒いのは、途中で塗るのをやめたお歯グロのあとだというのですが・・・西瀬戸内地方にある民話です。
 <サントリーの愛鳥活動「日本の鳥百科」より>




                 
        

『幻想 百物語埼玉』 -歴史編-

2015/ 01/ 26
                 
『幻想 百物語埼玉』歴史編


 『幻想 百物語埼玉』歴史編の、2ページと3ページにかけて、「埼玉県の歴史」と題して、歴史編の「目次」に替えて使っているようです。初めに手にしたときは、「妖怪編」と、「開運編」には、ちゃんと「目次」が整っているのに、何故「歴史編」には、それがないのだろうと素朴な疑問をもったのですが、よくよく「埼玉県の歴史」をみると、赤色で書いてある行が、その「目次」に相当するということが判ってきました。何れにせよ、それぞれのページのタイトルとは異なる表記となっていますので、まずは、『歴史編』の目次を作ってみることにします。

1.埼玉(さきたま)古墳群-世界遺産登録を目指す県内随一の史跡-
   ・・・4p

2.吉見百穴(よしみひゃくあな)-岩壁の穴の謎-
   ・・・6p

3.坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の悪龍退治-ケツアブリの風習-
   ・・・7P

4.武蔵七党-武蔵武士の時代・武蔵国を中心に群雄割拠した剛の者達-
   ・・・8p

5.埼玉県に残る 源平合戦絵巻(げんぺいかっせんえまき)
   ・・・10P

6.河越夜戦(かわごえやせん)-日本三大奇襲(にほんさんだいきしゅう)-
   ・・・12p

7.忍城(おしじょう)攻防戦-日本三大水攻めの一つ-
   ・・・14p

8.武蔵国 戦国よもやま話
   ・・・16p

9.埼玉県の 街道をゆく
   ・・・18p

10.江戸時代より伝わる 祭りとむかしばなし
   ・・・20p

11.近代
   ・・・22p

歴史編 ①




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掲載日:2014年12月25日
..
埼玉の深い魅力を発信するガイドブック「幻想百物語埼玉」

幻想百物語埼玉(3編完結)

埼玉県では、埼玉の「深い」魅力を発信するため、埼玉の「妖怪」と「歴史」と「開運」にスポットを当てたガイドブック「幻想百物語埼玉 妖怪編」「幻想百物語埼玉 歴史編」「幻想百物語埼玉 開運編」を作成し、配布しています。

なお、「歴史編」は記述の誤りがあったため、平成26年12月、改訂版を作成しました。


幻想百物語埼玉

・妖怪編

埼玉に伝わる20の妖怪を豊富な画像と地元の古老が語る証言などを交えて紹介

・歴史編

埼玉の古代から現代までの出来事とともに、伝説やこぼれ話などを紹介

・開運編

神社やお寺を中心に埼玉の様々な「開運」にまつわるものを紹介

.
妖怪研究家の山口敏太郎氏

監修は作家の山口敏太郎氏
それぞれの冊子の大きさ
A5サイズ 24ページ
冊子に合わせて、若手クリエイターによる動画も作成(サイタマどうがで公開中)

配布について

○窓口配布

妖怪編、歴史編、開運編の冊子は、埼玉県庁広聴広報課と県民案内室で配布しています(無料)。

○郵送

郵送をご希望の方は、返信用封筒(A5冊子15cm×21cmが入る封筒に返信先を記入し、希望する冊数に応じた切手を貼付)を以下の宛先に郵送してください。

〒330-9301
埼玉県広聴広報課「幻想百物語埼玉」係

※ご希望の冊子の種類及び冊数と電話番号を記入したメモを同封してください。

(例)妖怪編1冊、開運編1冊、電話○○○-○○○-○○○○

※返信用封筒に貼付していただく切手の金額は下記のとおりです。
1冊郵送 140円
2~3冊郵送 205円
4~5冊郵送 250円
6~11冊郵送 400円


県民生活部 広聴広報課 企画調整担当

郵便番号330-9301 埼玉県さいたま市浦和区高砂三丁目15番1号 本庁舎1階

電話:048-830-2864

ファックス:048-824-7345






                 
        

冬の詩  中也

2015/ 01/ 25
                 
 
 冬の詩 中也  Ⅱ


中原中也の詩より「冬の詩」


 汚れつちまつた悲しみに・・・・・・  

汚(よご)れつちまつた悲しみに
今日(けふ)も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

よごれつちまつた悲しみは
たとへば狐(きつね)の革裘(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気(おぢけ)づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる・・・・・・


≪『曇天(どんてん)』と同じく、あまりに有名な中原中也の詩、『汚れつちまつた悲しみに・・・・・・』。
 冬をうたいこんだ詩としては、『生(お)ひ立ちの歌』もまた、人の心をはなさない詩として、中也ファンの記憶に深く留めています。


 生(お)ひ立ちの歌

  Ⅰ

   幼年期
私(わたし)の上に降る雪は
真綿(まわた)のやうでありました。

   少年期
私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のやうでありました

   十七 - 十九
私の上に降る雪は
霰(あられ)のやうに散りました

   二十 - 二十二
私の上に降る雪は
雹(ひよう)であるかと思はれた

   二十三
私の上に降る雪は
ひどい吹雪(ふぶき)とみえました

   二十四
私の上に降る雪は
いとしめやかになりました・・・・・・

 Ⅱ

私の上に降る雪は
花びらのやうに降ってきます
薪(たきぎ)の燃える音もして
凍(こほ)るみ空の黯(くろ)む頃

私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸べて降りました

私の上に降る雪は
熱い額(ひたひ)に落ちもくる
涙のやうでありました

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生(ながいき)したいと祈りました

私の上に降る雪は
いと貞潔でありました



 中也の冬の詩としては、『雪の宵』、『冬の日の記憶』、『頑是(ぐわんぜ)ない歌』なども印象に残っていますが、ここでは、『雪が降っている・・・・・・』を載せて、冬の幕を閉じたいと思います。
 (今回も前回に続き、白鳳社発行の愛蔵版『中原中也詩集』神保光太郎編を使用しました。)



 雪が降ってゐる・・・・・・  中原中也


雪が降ってゐる、
  とほくを。
雪が降ってゐる
  とほくを。
捨てられた羊かなんぞのやうに
  とほくを。
雪が降ってゐる、
  とほくを。
たかい空から、
  とほくを、
とほくを
  とほくを
お寺の屋根にも、
  それから、
お寺の森にも、
  それから、
たえまなしに、
  空から
雪が降ってゐる
  それから、
兵営にゆく道にも、
  それから、
日が暮れかゝる、
  それから、
喇叭(ラッパ)がきこえる。
  それから、
雪が降ってゐる、
  なほも。     (1929・2・18)


  

  




                 
        

初回の客 杉浦日向子

2015/ 01/ 24
                 
 
初回の客  杉浦日向子

はじめて訪れる店では、客としてどうふるまうのが望ましいか。基本は三つ。
 一、時間のゆとりを持って出かける。
 ニ、昼時をはずす。
 三、こざっぱりした身なりで行く。
 店の規模にもよるが、少人数(三人以下)が適当だろう。着いたら、外観を眺める。暖簾や看板のたたずまいを味わう。入店したら、入り口付近で全体の様子を把握する。このとき、席へは、案内されるのか、好きに掛けていいのか、一拍の間を置くとわかる。
 メニューは、はじからはじまで、じっくり精読する。わからない品書きはなんでも聞く。お薦めなども聞く。店の人になにか頼むときは、タイミングをはかって、ついでの動作をキャッチし、なるべくいちいち呼びつけない。店内をゆっくり見て、その空気から、常連客の層を推し量る。
 品が出たら、すぐに箸をとって軽く合掌、いただきますと小声で言う。あとは、自分のペースで呑(の)んだり食べたりすれば良い。
 おしまいに、ソバ好きは、ついやってしまいがちだが、ソバ屋で他のソバ屋の話題で盛りあがることは避けたい。
 今日も憩いをありがとう。感謝の念で店をあとにする気持ちを忘れずに。

ソバ屋で憩う③
 「ソバ屋(や)で憩(いこ)う -悦楽の名店ガイド101- 」 新潮文庫
 平成12年11月15日 6刷
 編著者 杉浦日向子(すぎうらひなこ)とソ連(れん)
 発行所 株式会社 新潮社



神田まつや

風味と適度な歯ごたえ、コシの強さ、そしてのど越しの良さという幾つかの美味しい要素に、つゆは、やや辛めという、麺と汁とのハーモニーで醸し出す神田の蕎麦処「まつや」。
蕎麦が好きな三人連れ。以前行ったことがあるというAさんに連れて行ってもらったのが、「神田まつや」。私もHさんも初めてのお店です。
 お昼時です。どのくらいの時間お店の外で待っていたことになったのでしょうか。幸い風もなく穏やかな日和だったのが、マテバカイロノ・・・ということになったようです。

 天もり  2,000円
 大天もり 2,100円
 大ざる   900円
 御酒    700円×2
 わさびかまぼこ 650円
 お通しは、そば味噌  …円。

東京都千代田区神田須田町1-13
電話 03-3251-1556
営業 11時~20時 (中休みなし)
土曜は19時まで
定休日 日祝

※比較的空いているのは、午後3時から5時の間、約60席で相席も。とのことです。


 茨城県境町の「常陸秋そば」、北海道の「雨竜」、青森十和田の「階上早生」、長野妙高の「霧下そば」等々を使っているとのことですので、出向くたびに、美味しさと風味の異なったソバを食べることが出来るのだろうな・・・と。


まつや②まつや③




                 
        

あそべ あそべ

2015/ 01/ 24
                 

 あそべ あそべ


あそべ あそべ





                 
        

征東〈夷〉大将軍源義仲生誕の地 嵐山町大蔵

2015/ 01/ 23
                 
 征東(夷)大将軍源義仲生誕の地



 源義仲(久寿元年<1154>-寿永3年1月20日<1184年3月5日>の生誕地は、埼玉県比企郡嵐山町といわれています。
 木曽で育ったということで、木曽義仲ともいわれ、旭(朝日)の昇る勢いで京の都を掌中に治めたということで、旭(朝日)将軍義仲ともいわれました。

 義仲の幼名を駒王丸といいますが、幼少時代の記述が今のところ確認されていないということもあり、駒王丸の父源義賢(生年不詳1126?-1155年9月14日〈久寿2年8月16日〉)の、東国での最初の赴任地は上野国多胡郡(群馬県多野郡)であったことなどにより、歴史書的には、「源義仲は東国に生まれ…」と表記している場合もあるようです。
 義賢が居住し、義仲が幼ない時代を過ごした嵐山町は、『大蔵館跡』、『義仲の産湯』、『産湯の清水』など、今もその足跡の名残をみることが出来ます。悠久の歴史を偲ぶ、鎌形八幡神社、威徳山班渓寺、大蔵神社などここかしこに点在しています。

スズメ③


 ご存じのとおり、埼玉県は武州と呼ばれていました。
 その武蔵野の地で生まれた源義仲は、征東(夷)大将軍に任じられています。
 埼玉出身で、『征東(夷)大将軍』(※)に任じられたのは、唯一彼だけです。

 ということもあり、埼玉県が発行した『幻想百物語埼玉 ~歴史編~』に、源義仲の記述があるだろうと思って手元に取り寄せました。

 ところが、2ページ3ページに掲げてある、  「埼玉県の歴史」  のところには、義仲を追いやった源頼朝の「征夷大将軍となる(1192)」という記述はありますが、源義仲を述べた項は、この歴史編どこを探しても一行も見つかりませんでした。
 『幻想…埼玉』とある歴史編です。平家物語の巻九「木曽殿の最後」のヒーロー義仲、ロマンと夢のある(あった)人物が登場していないので、とても寂しく思いました。

 そういえば、かの松尾芭蕉は、義仲を慕って「自分の墓は義仲公の隣に」と弟子たちに言葉を遺しています。今、背中合わせ(滋賀県大津市義仲寺)でお二人は、何を語っていることでしょう。(「義仲忌」:毎年1月20日、義仲寺で忌を修しています。)


 ※「征東(夷)大将軍」の記述は、話の本筋と違うところとなりますので、ここでの説明は割愛させて頂きます。

スズメ①



 幻想 百物語埼玉 ~埼玉の深い魅力を探る~


埼玉県公式サイトより《掲載日:2014年12月24日》
..
Q 浅野目義英議員(民主・無所属)
.この幻想百物語歴史編は、埼玉県が平成24年度に発行したもので、A4判22ページ、無料配布のとても小さな冊子です。2万部作られました。ここにございます。こういったものです。
この冊子は、ある大手旅行会社に埼玉県が平成23年、24年、作成費として約2,300万円の巨費を投じて委託して製作したものです。事業名称は、新たな埼玉の魅力創造推進事業です。しかし、今年の10月31日、県史の秘話やこぼれ話を盛り込んだ県発行の冊子、幻想百物語埼玉歴史編に62の誤り、78の修正する箇所があった。お読みいただいた皆様へおわび申し上げますと、県自身が報道発表しました。ネット上にも、その旨が発表されています。歴史愛好家からの指摘を8月に受けたといいます。この時まで、関係者は誰も誤りなどに気がつかなかったといいます。わずか22ページの、このような小さな冊子に62の誤り、78の修正を必要とする箇所、つまり計140か所、1ページ当たり6か所以上の直しが必要な冊子ということになります。絶句に値する数です。
戊辰戦争で敗れた新撰組局長の近藤勇が新政府軍に出頭した場所について、今の千葉県流山が正しいのに越谷と書かれている間違い、実に適当です。埼玉古墳群の丸墓山古墳の全長が105メートルと書かれてありますが、実は直径が105メートルという間違い、足利晴氏が関東公方と書かれてありますが、実際は古河公方であるという間違い、江戸時代から伝わる秩父夜祭りを紹介する一文では、豪華絢爛な笠鉾と書くべきところをなぜか笹鉾と書いてしまっている間違い、申しわけありません、私も間違えてしまいました。新井豪県議に聞きましたら、恐らくこの笠鉾を引いている関係者に話をしたら、激怒されるだろうとお話しになられていました。見沼溜池の干拓事業を成し遂げ、新田開発といった事業に尽力した江戸時代の治水家、井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)の記述について、徳川吉宗の幕臣なのに家臣と書いてしまっている間違い、あり得ません。こういった間違いが62か所もございました。
深刻なのは、歴史家の監修を全く受けていないことです。監修者は山口敏太郎氏、彼はオカルト研究家、漫画原作者、UFOの研究をされています。歴史家ではありません。この監修者は、適切な人材であったのか、しっかり仕事をしていたのかと、いぶかしくも感じます。この事業の業務委託企画提案募集要領に、目的趣旨として、知られざる歴史の裏話などに関する情報を収集し、冊子を作成し、埼玉の新たな魅力として県内外に発信することと書かれてあります。これで目的は十分達成できたのでしょうか。
私の知る浦和区在住の歴史作家に、この冊子をお目通しをいただきましたところ、埼玉県の出版物としては、その内容からして空疎で非科学的で地方公共団体の発行する歴史書としてはそぐわないものと言わざるを得ません。史実として歴史的事実、年代表記など、余りにも初歩的な誤りが多く、学術的には批判に耐えられるものではありません。監修者として山口敏太郎氏となっているが、彼はオカルト研究家であり、妖怪、怪談、超常現象など埼玉県の歴史を語るには余りにも常識から外れた作家です。歴史の本筋から離れ過ぎています。例えば、坂上田村麻呂の伝説は史実とかけ離れた怪奇物語となっており、武蔵国や坂東で最も大きな出来事であった平将門などについて触れられていません。この小冊子は単なる税金の無駄遣い、県民に埼玉県の歴史の本筋を見誤らせるリスクの大きい歴史的出版物と言わざるを得ないとのことでした。
仕事を手に入れるのは楽ではありません。この旅行会社は、県発行歴史冊子を作るため、幾つもの難関を突破しています。まず、調べたところ、企画提案は入札公示から企画書提出までの期間がわずか14日、私も前、指摘をさせていただきましたが、相変わらず異常に短く、しかも土・日曜が2回ずつ入っていたので、営業日10日、この10日で仕事を成し遂げたことになります。つまり、いつものように大手しか仕事ができないということです。
大手だから、あっという間にこの冊子の企画書が完成し、提出したということになります。5月23日のことでした。この会社は、最初の難関を突破しています。次にプレゼンテーション、新たな埼玉の魅力創造推進事業業務委託契約先候補者選考委員は5人、県民生活部副部長、広聴広報課長、同課副課長、文化振興課長、観光課長、所要時間15分、質疑応答10分、評定の結果、2社で争われましたが、3ポイントの僅差だったようです。この難関も通過しました。5月30日のことです。次に、契約書の締結、無事難関通過、ほとんど先が見えてきたのは7月2日です。企画提案募集要領には、業務の遂行に当たっては提案内容に基づき、県と調整を図りつつ進めること、本県職員と綿密な打ち合わせを随時行う体制を整備し、その体制を明記することと書かれています。これも月一回ほど行われたということですが、なぜか記録が残っていません。この難関も突破しています。
また、冊子を作るに当たっては、取材の進捗状況を定期的に書面で埼玉県に通知することになっています。報告はされたようです。さらに、冊子の記述の一部を県立さきたま史跡の博物館の学芸員にチェックをさせましたが、誤りに誰も気がつかなかったといいます。この冊子のお披露目イベントは3月20日、大宮ソニックシティなどで自転車見本市「埼玉県サイクリングショー」と同時に行われ、初めて県民の前に配られました。会議、イベント、10か月間順調に推移していたことになっています。いずれにおいても、重大なミスどころか、小さなミスさえも一切指摘されませんでした。県庁は何をやっていたのかと思います。
三点質問します。一つ、なぜこのような62か所もの誤りが生じてしまったのか。つまり、私は一つ一つ「難関」と呼びましたが、それぞれのチェックが甘かったのではないか、部長から答えてほしいと思います。また、全体を見回す監修者、山口敏太郎氏の責任はいかがなものとなるのでしょうか、お答えください。
二つ目、私はかつて24年9月定例会で、ただ漫然と大企業を厚遇優遇し、これで安心だと安穏としていては駄目です。事業の委託をし続けているだけでは、埼玉県観光行政の危機を乗り越えることはできませんと指摘をしました。よもや、埼玉県は悪くない、委託先業者がミスをしただけと思っていませんか。また、大手は任せておけば安心と思ってはいませんでしたか。会社も埼玉県も慢心になってはいませんでしたか。この業務委託の問題がどこであったと考えますか。知事から答えてほしいと思います。
三点目、契約書を読みましたが、第21条において、その責めに帰すべき理由によって埼玉県に損害を与えたときは、その損害を賠償しなければならないと書かれています。正しい内容の冊子を作り直し、12月以降に配布するといいます。作り直せば、損害が賠償されたと言えるのでしょうか。県民に配布するときに、配布できなかった、誤った情報が提供された、これらについて県、県民に賠償はされないのか、改めて三点目、部長の見解を伺います。

A 上田清司知事
.まず、「『幻想百物語埼玉歴史編』の62か所の誤りは、なぜ起こったのか」のお尋ねでございます。
この「幻想百物語埼玉歴史編」は、平成24年度に本県のいわゆるサブカルチャーの魅力を県内外に発信することを狙い発行いたしました。県は、受託者を公募によるプロポーザル方式で選定いたしました。
その際、受託者は埼玉県内を紹介する冊子やパンフレット、ホームページの作成の実績と、本県のいわゆるサブカルチャーの魅力を県内外に発信する企画力が評価されました。
県と受託者は、企画の打合せをはじめとして、十数回の打合せを実施しながら冊子の作成に当たったそうであります。
今回、受託者が冊子の一部について、歴史の専門家の監修を受けていなかったということが分かりました。
その大きな原因は、県の契約書の仕様書において、専門家の監修について明確な規定を設けていなかったことにもあります。
大手だから任せておけばいいという鷹揚(おうよう)な気持ちはなかったと思いますが、契約に当たっての肝心要の史実を確認させるという細心の注意が足りませんでした。
今後は、史実についての専門家の監修を受けることや監修結果を県に報告することを仕様書に明記し、県としても監修結果をしっかり確認するようにしたいと思います。
いずれにしても、自分のお金を使うというような意識があれば、仕様書に明記しようが明記しまいが、4人のスタッフラインのうち誰かが原稿の段階で誤りに気付くのではないかと私は思います。
税金ということで、自分のお金でないから、そういう安易な気持ちがどこかにあったのではないかというふうに思います。誠に申し訳ありませんでした。

A 福島勤県民生活部長
.
『幻想百物語埼玉歴史編』の62か所の誤りは、なぜ起こったのか」について、お答えを申し上げます。
はじめに、この冊子を入手された方をはじめ県民の皆様に、大変御迷惑をおかけしましたことを発行者として心からお詫び申し上げます。
御質問のチェックが甘かったからではないのかについてでございます。
県は、この冊子を作成した平成24年度当時、取材の進捗状況や内容の確認を行うため、受託者と十数回にわたり打合せを行っております。
こうした中で、受託者は参考文献や取材を基に冊子の原稿を作成し、県はデザインやレイアウトなどの確認をいたしましたが、史実など記述内容の詳細な確認は行っておりませんでした。
今回は、冊子の一部について、歴史の専門家の監修を受けなかったことが誤りにつながったと考えております。
県としては、受託者に歴史の専門家の監修をしっかりと受けさせるべきであったと反省しているところでございます。
次に、監修者の責任についてでございます。
監修者には、冊子の企画や紙面構成、デザイン等のアドバイスを依頼し、史実の監修は依頼していなかったと受託者から聞いておりますので、監修者に責任はないと考えております。
次に、受託者からの賠償についてでございます。
受託者は監修不足を認め、内容を修正した冊子を、同社の費用負担により当初と同じ2万部作成いたします。
また、手元に冊子がある方からの申し出に基づき、新たに作成した冊子を同社の費用負担により送付する予定でございます。
議員御指摘のように、配布できなかった期間があり、また誤った情報が提供された事実はございます。
しかし、受託者に対し賠償請求をすべき明確な損害が発生しているとは言い難いと思っております。
県庁の法務相談においても、顧問弁護士から同様の見解をいただいております。
ただ、県の信用が損なわれたことは事実でございます。
受託者に対し厳しく注意するとともに、冊子の修正に当たっては内容を慎重に確認するよう指導したところでございます。
今後は、委託業務における確認作業を更に徹底し、このようなことのないよう努めてまいります。

上記質問・答弁は速報版です。
・上記質問・答弁は、一問一答形式でご覧いただけるように編集しているため、正式な会議録とは若干異なります。
.

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議会事務局 政策調査課  

郵便番号330-9301 埼玉県さいたま市浦和区高砂三丁目15番1号 議事堂1階

電話:048-830-6250

ファックス:048-830-4923

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スズメ②
                 
        

冬の詩 中也

2015/ 01/ 23
                 
  冬の長門峡  中原中也



長門峡(ちょうもんきょう)に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。

われは料亭にありぬ。
酒酌(く)みてありぬ。

われのほか別に、
客とてもなかりけり。

水は、恰(あたか)も魂(たましひ)あるものの如(ごと)く
流れ流れてありにけり。

やがても蜜柑の如き夕陽(ゆふひ)、
欄干(らんかん)にこぼれたり。

あゝ! ――そのような時もありき、
寒い寒い、日なりき。


 中原中也詩集 〈愛蔵版〉
  昭和44年8月20日 発行
  著作者 中原中也
  編者  神保光太郎
  発行者 高橋謙
  発行所 株式会社 白鳳社









                 
        

さきたま古墳 行田古代米カレー ~B級グルメ新名物~ 

2015/ 01/ 22
                 
さきたま古墳 行田古代米カレー ~B級グルメ新名物~ 
 

 行田名物かずかずあれど・・・
  行田のフライに、行田ゼリー。
  そして『さきたま古墳 行田古代米カレー』が新たな名物に・・・

  行田産の古代米、5㌫以上がご飯に入っていれば、晴れて仲間入りできる『さきたま古墳 行田古代米カレー』。
 昨年秋に発行したチラシに記載しているグループは、17店舗となっていま
す。

 OB会の泊まり込みの秋の一泊バス旅行の折には、車内で参加の皆さんに配ったチラシ。
 私自身も、何かの折に行こう、行こうと思ってはいたのですが、カレーを食べるという目的のためにということだけでは、なかなかどうして腰があがらないようです。

 これからだんだん暖かくなり、いろいろな催し物も開かれるようになるでしょうから、そんな折に、どこかのお店に立ち寄ろうかなと思い始めています。


⑦

⑥

⑧



                 
        

1月22日は、カレーの日。

2015/ 01/ 22
                 
  1月22日は、カレーの日



「キッコーマン国際食文化研究センター」の公式サイトでは、カレーを洋食として紹介(明治5年(1872年)発行の『西洋料理指南』と『西洋料理通』によるカレーの製法記述)しています。

 ということはさておきまして、きょうは、『カレーの日』です。
 野菜類、肉、ご飯と一皿に栄養のバランスが三拍子揃い、かつ、子供たちの人気ナンバーワン(当時)のカレーライス=ライスカレーが、学校給食のメニューの中で、『〇△□の日』として、唯一選ばれたということでしょうか。

 1982年(昭和57年)、全国学校栄養士協議会が、学校給食が始まって35周年を記念して、1月22日を全国の学校給食の統一献立の日として、カレーを選びました。

 (いわゆる戦後になってからの給食として、1947年(昭和22年)1月22日の水曜日から、主要都市の約300万人の児童にララ物資給食(※)がスタート。この日を学校給食の始まった日としての記念日としました。なお、ユニセフの援助による脱脂粉乳給食は1949年(昭和24年)に始まり、そして1950年(昭和25年)より開始されたアメリカ合衆国の援助による小麦粉給食により完全給食の体制が整ったことを付記しておきます。)

≪※『ララ』はアメリカ合衆国救済統制委員会が1946年6月に設置を認可した日本向け援助団体。1946年1月22日にアメリカサンフランシスコ在住の日系人浅野七之助が中心となって設立した「日本難民救済会」を母体としている。
当時アメリカにおける対外的な慈善活動は海外事業篤志団アメリカ協議会(American Counsel of Voluntary Agency for Work Abroad)が担っていたが、その対象地域は欧州のみであり日本は含まれていなかった。そのため、日本に対する援助物資輸送のために新たな援助団体を設立する必要があった。反日感情が残るなかでの「アジア救援公認団体」認可に際しては知日派のキリスト友会員の協力によるところが大きい。
支援物資は1946年11月から1952年6月までに行われ、重量にして3300万ポンド余の物資と、乳牛や2000頭を越える山羊などもあり、全体の割合は食糧75.3%、衣料19.7%、医薬品0.5%、その他4.4%となった。多数の国にまたがり、多くの民間人、民間団体からの資金や物資の提供であったためその救援総額は不明であるが、推定で当時の400億円という莫大な金額であったと言われている。
南北アメリカ大陸在住の日系人が寄附の中心であったが、日本国内での物資配付にあたっては連合国軍最高司令官総司令部の意向により日系人の関与について秘匿され、アメリカからの援助物資として配付された。(ウィキペディアによる)≫




書きかけです・・・   …

                 
        

小泉今日子さん 『小暮荘物語』三浦しをん (「読売新聞」2011年2月6日書評)

2015/ 01/ 20
                 
小泉今日子さん 『小暮荘物語』三浦しをん (「読売新聞」2011年2月6日書評)


 木版画家、百瀬晴海さんの『版画で綴る 我が街 小田急線七十駅』シリーズの第25回 は、『世田谷代田駅』(鉄道ジャーナル2月号掲載)です。彼女は「沿線を取材するとさまざまな記憶が蘇ります。…」と取材ノートに書いていますが、三浦しをんの小説『小暮荘物語』は、この小田急線代田駅から徒歩5分にある古びた二階建て木造アパートに住む人たちと、そこにかかわる人々をめぐる連作短編集となっています。

 筆者は『柱の実り』の冒頭2行目から「・・・小田急線の世田谷代田駅は、いつもどこかのどかなムードだ。朝のラッシュの時間帯にも、ホームはそれほど混みあわない。各駅停車に乗ったまま新宿まで行っても、十五分弱だ。住んでいる場所によっては、井の頭線の新代田駅まで歩くひともいるし、気分を変えるために少し早起きして、下北沢まで歩くこともできる。利便性の高さと選択度の多様性さが、駅を利用する住民の態度に余裕をもたらしている。・・・」と書き進め、「・・・世田谷代田は古くからの住宅街なので、郊外の新興住宅地に比べても緑も多い。休日は近所を散歩するようになって、ここのところすこぶる健康的だ。歩くうちに、気になる建物も見つけた。おいしそうなお惣菜(そうざい)屋さんや、おしゃれなカフェではない。いまにも崩れそうな木造二階建てのアパートだ。
 「小暮荘(こぐれそう)」と、錆(さ)びた外階段にプレートがくくりつけてある。・・・」と、小暮荘の物語に導いてゆきます。


 前置きが長くなりましたが、小泉今日子さんが、讀賣新聞(2011年2月6日)の書評欄に、この『小暮荘物語』を載せていますので、お目通し願えればと思います。
 「遠い記憶が蘇(よみがえ)ってきた。父親の経営する会社が倒産し、町中にひっそりと佇(たたず)むおんぼろアパートに少しの間身を潜(ひそ)めたことがある。私が中学2年生の時だった。小さい会社だったけど一応社長令嬢だったし、小さい家だったけど一応持ち家育ちの私にとって、人生がぐるんと裏返るような感覚がする体験だった。大人達には深刻な事態だったと思うが、子供だった私の胸は不謹慎にもワクワクしていた。なぜだか、ここから何かが始まるんだという予感が小さな胸を膨(ふく)らませていた。
 
 世田谷代田駅から徒歩5分、おんぼろな外観の小暮荘には4人の住人がいる。1階に住む大家の小暮さんは70歳過ぎの男性だけれど、死ぬ前にもう一度セックスがしたいと願いながら愛犬ジョンと暮らしている。その隣のいかにも今時の女子大生、光子の部屋には複数の男友達が出入りする。光子の生活を2階からこっそりと覗いているのは感じの悪いサラリーマンの神崎。今の彼と前の彼と3人で共同生活する羽目に陥(おちい)っている花屋店員の繭も2階の住人だ。この4人を中心に物語はくっつぃたり離れたりしながら進んでゆく。繭の働く花屋のオーナー佐伯夫婦。白い薔薇(ばら)を買いにくる謎の客ニジコ。小暮荘の前を通る度、庭を駆け回るジョンにシャンプーを施(ほどこ)したいと思っているトリーマーの 美禰。美禰と心を通わすヤクザの前田。一人一人抱きしめてあげたくなるほど愛おしい登場人物達が、恋愛や性や癖の問題を抱えながら、真摯(しんし)に誠実に他人との関わりを求めている。
 あぁ、私はこの物語がとっても好きだ。ずっとずっと小暮荘を見守っていたかった。読み終わった時、これから何を楽しみに生きて行ったらいいの? と、喪失感すら抱いてしまった。こんな気持ちを抱くのは、私もおんぼろアパート経験者だからだろうか。それとも、何かが始まったり終わったりしながら続いてゆく人生を、45年分それなりに経験したからなのだろうか。
                 (女優)  」

小暮荘物語 三浦しをん
 『小暮荘物語(こぐれそうものがたり)』 
 平成26年10月20日 初版第1刷発行
 著者 三浦(みうら)しをん
 発行所 祥伝社(しょうでんしゃ)

                 
        

大寒のウグイス

2015/ 01/ 20
                 
 今朝、雨戸を開けたら、ウグイスが丁度水浴びをしているところでした。
 すぐ、さっと飛び立って行ってしまいました。

 今日は大寒です。

 大寒やなだれて胸にひゞく曲  石田波郷



 2013年12月7日(土)、我が家の庭で撮ったウグイスです。

20131207鶯①

20131207鶯②

20131207鶯③







                 
        

冬の安曇野

2015/ 01/ 17
                 
 冬の安曇野


安曇野の冬①


安曇野の冬②


冬の安曇野③





                 
        

冬の読書

2015/ 01/ 12
                 
 冬の読書

 「読書の秋」とはいいますが、「読書の冬」とは聞いたことがありません。
 ということで、ブログの見出しは、「冬の読書」ということにしました。


 佐藤愛子の『晩鐘』。
(株式会社文藝春秋.平成26年12月10日第1刷)
 《表表紙》
「戦いすんで日が暮れて」から四十五年、佐藤愛子が人生のすべてを懸けて描く鎮魂歌
   私の夫であったあなたは、いったい何者だったのですか?
 《裏表紙》
 みんないなくなった――。
 誰もいない――。そして私だけがいる――。
 先生。
 これが「長生き」をするということなのですね?
 長生きがめでたいなんて、何も知らない者がいうことですね。
 長く生きるとはこういうことだったのです。老人が無口なのは、孤独に耐えているからなのですね。耐えているとは思わずに耐えている。その孤独をどういう言葉でいえばいいのかわからない。   (本文より)

 佐藤愛子の本を購入し、かつ読了したのは、数冊です。
 佐藤愛子は、小説家の佐藤紅緑を父とし、詩人のサトウハチロウは異母兄で・・・というような俗人的な耳学問と、北杜夫、なだいなだとの出会い、そして川上宗薫などとの長い交流を持ち・・・といった、文学世界の人と人とのしがらみの中で、佐藤愛子の名前をちらほらみかけるといった程度の知識しか持ち合わせていませんでした。
 彼女の作品は二度、芥川賞候補となっています。直木賞候補には二度なって、そのうちの、『戦いすんで日が暮れて(1969年)』が、受賞作となりました。
 ということで、佐藤愛子は、「芥川賞作家」といわれることなく、今を迎えています。


読み直している本

『私の上に降る雪は わが子中原中也を語る』
(株式会社講談社 1973年10月12日第1刷発行)
 この本は、村上護が、中也の母、中原フクの著述をもとにして編して著した本です。
 編者の村上護が解説のところで、中原フクさんを語っています。

 ≪中原フクさんは明治12年10月うまれ。そろそろ満95歳の誕生日を迎えられる。・・・書信は一日に十数通も書かれるという。・・・八十数年つづけておられるお茶(表千家流)に、いまもうちこまれて、その道にたゆまず精進されている。・・・これまでに、中也の遺稿などはもちろん、その身辺雑事まで調べがすすみ、中也の研究はすこぶるおおい。だが、中也の全生涯にわたる伝記ということで、一本にまとまったものは不思議となかった。その点、これは中也伝記の最初の本であるといえるだろう。中也三十年の生涯を中心にしながらも、彼が生まれる以前から死んでのちまで、フクさんの九十数年の人生経験の広がりのなかで、わが子中也をあらためてとらえたところが、つまり本書の意義かと思う。・・・≫

 讀賣新聞朝刊一面、下欄の書籍広告の左端に、『私の上に降る雪は わが子中原中也を語る』が載っていたのは、いつの日付だったのでしょう。この本の中に、その切れ端が挟み込んでありました。

私の上に・・・新聞広告①

私の上に降る雪は わが子 表紙②

 中原フクさんは、1980年、101歳でお亡くなりになっています。
 《「種田山頭火」、「尾崎放哉」、「坂口安吾」などをてがけた村上護(1941.11.28-2013.6.29)は、71歳で他界。彼の中原中也論も二階の方の本棚に置いてあります。》



『ゆきてかへらぬ 中原中也との愛』
 (株式会社講談社 1974年10月20日第1刷発行.1974年12月16日第2刷発行)
  この本は、村上護が、中也の恋人、長谷川泰子の著述をもとにして編して著した本です。
  編者の村上護が解説のところで、長谷川泰子を語っています。

ゆきてかへらぬ 

  ≪・・・詩をあまり事実の側に引き寄せるのもどうかと思うが、これは中原の念頭に長谷川さんのことがあって作られた詩(「無題.彼女の心は真っ直い! に始まる18行の詩」)に違いない。その他、中原の詩を読みすすめて行きあたるのは、その背後にある事実である。
 はたして中原が生きた時代を知らない者にとって、中也の詩をどう読んでいくか、ほかに方法はあるかもしれないが、いまは事実にかかわって、わたしは中原が詩によんだ長谷川さんを知りたいのである。・・・≫

 長谷川泰子は、小林秀雄とまだ一緒にいたころ、新劇の心座というところに所属していたことがあるといいます。
 歌舞伎の河崎長十郎が、池谷信三郎、舟橋聖一、村山知義たちと組んだ新劇団体で、今日出海が演出を担当していたことなど、時代を物語るに相応しい、錚々たる名前が出てきましたので、どんどんと読み進めていくことが出来ました。

 「・・・いまは事実にかかわって、わたしは中原が詩によんだ長谷川さんを知りたいのである。・・・」と、村上護は書いていますが、中也が彼女をおもう詩として、私が一番印象に深い一節は、この『ゆきてかへらぬ 中原中也』の中ではとりあげていません。
 「未刊詩篇」の「別離」と題した「5」の「1」の21行です。
別離
 1 
さよなら、さよなら!
いろいろお世話になりました
いろいろお世話になりました

さよなら、さよなら!
  こんなに良(よ)いお天気の日に
  お別れしてゆくのかと思ふとほんとに辛(つら)い
  こんなに良いお天気の日に

さよなら、さよなら!
  僕、午睡(ごすゐ)の夢から覚めてみると
  みなさん家を空(あ)けておいでだった
  あの時を妙に思ひ出します

さよなら、さよなら!
  そして明日(あした)の今頃は
  長の年月(としつき)見馴れてる
  故郷(こきょう)の土をば見てゐるのです

さよなら、さよなら!
  あなたはそんなにパラソルを振る
  僕にはあんまり眩(まぶ)しいのです
  あなたはそんなにパラソルを振る
さよなら、さよなら!
さよなら、さよなら!   (1934.11.13)



 昨年の12月16日に注文した、百田尚樹の『ボックス 上・下』。まだ連絡がないので本屋に行ったところ、もうちょっとお待ちくださいとのこと。随分前に発刊した本ですので、古本で買おうとも思ったのですが、もう少し待つことに致します。それにしても、1か月かかるのもあるんですね。

愛国論

 『愛国論(あいこくろん)』
発行所 KKベストセラーズ
2014年12月30日 初版第2刷発行
著者 田原総一朗・百田尚樹
 田原総一朗、百田尚樹、共に憂国の士であることを感じ得た対談となりました。
 とても読みやすい本でしたよ。

 『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』 発行所 ワット株式会社 2014年1月10日 第2刷 著者 安倍晋三・百田尚樹
は、「あとがき」から目を通し始めました。「・・・私には政治的な力は何もありません。ただ目指していることは、「小説」を通して、多くの読者に「日本の素晴らしさ」「日本人の美しさ」を伝えていくことです。・・・」と、百田尚樹は書いています。

日本よ、世界の真ん中で 咲き誇れ


 「週刊文春」、1月8日号から、百田尚樹の『幻庵』が連載開始となりました。
 1月15日号の【前回までのあらすじ】の末尾には、「・・・この物語は、江戸後期の文化・文政時代から幕末にかけて、碁会最高権威の[名人碁所]の座をめぐり、男たちが死闘を繰り広げた記録である。・・・」と、書かれています。



 冬の読書
『新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方』
新・戦争論
著者 池上彰 佐藤優
2014年12月10日 第4刷発行
発行所 株式会社 文藝春秋
 ☆⇒


冬の読書
『ブルース』
ブルース
著者 桜木紫乃
2014年12月5日 第1刷発行
発行所 株式会社 文藝春秋
 ☆⇒

冬の読書
『変見自在(へんけんじざい) プーチンよ 悪(ワル)は米国(べいこく)に学(まな)べ』
プーチンよ 悪は米国に学べ
著者 高山正之
 2刷 2014年10月10日
 発行所 株式会社新潮社
 ☆⇒


冬の読書
『人生の意味と神 信仰をめぐる対話』
人生の意味と神 信仰をめぐる対話
著者 ヴィクトール・フランクル
   ピンハス・ラピーデ
訳者 芝田豊彦、広岡義之
2014年9月1日 第1版第1刷発行
発行所 株式会社新教出版社
 ☆追補です。フランクルを一躍有名にした『夜と霧』(原題は『強制収容所における一心理学者の体験』。英語訳は『人間の意味探究』)は、世界二十四カ国で出版され、アメリカ図書館協議会の発表によれば、この本は歴史上これまで最も多く読まれた十冊の書物に数えられています。彼のナチ強制収容所(アウシュビッツとテュルハイム)体験に基づいたこの本は、わずか九日間で口述したと言われています。フランクルは、ウィーンの心理学者、フロイトとアドラーのもとで学び、やがて袂を分かつこととなります。彼はウィーン大学等で神経学・精神医学を教授し、ロゴセラピー(実存分析)という生きる意味を問う心理療法を設立した現代を代表する思想家であり精神科医でもありました。フロイトの精神分析学とアドラーの個人心理学の人間観と心理療法の限界を明確に認識して、それらを補強するものとして、ロゴセラピー(実存分析)を唱えました。
 フランクの対話者である、ピンハス・ラピーテは、ユダヤ人宗教哲学者あるいは、敬虔なユダヤ教徒・神学者として知られています。
 ユダヤ人二人の対話集を翻訳した、広岡義之氏は、「日本基督教団神戸平安教会」会員であり、芝田豊彦氏は、「フェローシップ・ディコンリー福音教団東鳴尾ルーテル教会」会員であることを申し添えさせて頂きます。
 訳者を代表して、「・・・読者の皆様には、フランクルおよびラピーテの信仰論を学ぶことによって、混迷する現代社会のさなかで「人生の意味」あるいは「神」の探求がいかにして可能かを考えていただきたいと願っています。」と、広岡義之氏は解説の最後の文章でくくっています。


冬の読書
『銀翼のイカロス』
銀翼のイカロス
著者 池井戸潤
2014年7月28日 第1刷発行
発行所 ダイヤモンド社
 ☆⇒再読しました。
 航空会社再建に絡む、合併銀行内部の策略と隠ぺいと暗闘。そこには必ず政治家の影が。
 そしていつものように、金融庁の黒崎俊一が登場し、どんでん返しの幕間に引きずり込んでいく・・・・・・・・・
 半沢直樹が導いたエンドレスをソラリゼーションした結末。巨頭落つというラストシーン。それを皮肉な結末と片づけていない、作者としての企業社会に対するメッセージがこめられている。 ・・・ そんな風に、読み直して感じました。










                 
        

晩鐘

2015/ 01/ 11
                 
 佐藤愛子さんは、1923年11月5日生れです。
 2014年12月10日、株式会社文藝春秋から、『晩鐘(ばんしょう)』が発刊されました。
 91歳を数え、まだまだ筆勢衰えることを知りません。

 夫だった彼と、彼を取りまく人々への追慕と、残されたものの寂寥感が、終章の終わり12行にたんたんと綴られています。


 今はもう、辰彦をわかりたいとは思いません。わからなくてもいいのです。人が抱えている深淵は誰にもわかりません。本人でさえもわからないのではないかと思います。
 畑中辰彦は彼なりに、一所懸命に生きた――。
 彼はかく生きた――。
 辰彦だけじゃない。庄田さんも川添さんも桑田さんも、皆、「かく生きた」という事実があるだけです。その人生の意味とか、徒労であったとか、立派であったとか、辛かっただろうとか、幸福とか不幸とか、そんなことをいう必要などないのです。わからなくてもいい。わからないままに、「かく生きた」という事実の前に私は沈黙して頭を下げる。それだけです。

 見渡す限りの広野に私は一人、佇んでいます。広野の果てに太陽が沈んで行くのを見ています。太陽の頭が少しずつ小さくなっていって、とうとう地平に没し、その残光の中に夕暮の靄(もや)が湧いて広がります。気のせいでしょうか。微かに遠く、低い鐘の音(ね)が聞えます。
 でもその鐘の音は、あるいは他の人には聞えない、私にだけ聞えているものかもしれません。
                               (完)


                 
        

たより

2015/ 01/ 10
                 


 寒中お見舞い申し上げます


  寒さ厳しい折 皆様のご健勝をお祈り申し上げます

 




 
 
                 
        

友をおもう

2015/ 01/ 09
                 



  茫茫とひたひたと悲し寒四郎    想
                    

  明日は1月10日です。寒に入って四日目を「寒四郎」といいます。
 






 
                 
        

2015/ 01/ 08
                 
 我が家の垣根は、ひいらぎです。

 11月から12月にかけて、白い可憐な花が咲きます。
 柊は、ジャスミン、ライラック、キンモクセイ、ギンモクセイと同じく、モクセイ科です。
 モクセイの花の香りを思い浮かべてください。そこはかとない芳香を漂わせるひいらぎは、道行く人たちの家路を急ぐ足をふと立ち止まらせます。


 柊をさす母によりそひにけり 高浜虚子

 ひとの来て柊插して呉れにけり 石田波郷



 箱田の家の外塀にそったところ、薪の山が幾重にも連なる、その中ほどに、とても大きな銀木犀の木がありました。
 モクセイの花の香りが思い出されます。





                 
        

七草 なづな

2015/ 01/ 07
                 

  『春の七草』
         
 1.芹(せり)
    
 2.薺(なずな)
    ペンペン草

 3.御形(ごぎょう)
    母子草。

 4.繁縷(はこべら、はこべ)
    
 5.仏の座(ほとけのざ)
    正しくは
    田平子(たびらこ)。

 6.菘(すずな)
    蕪(かぶ)。

 7.蘿蔔(すずしろ)
    大根。


 14世紀の南北朝時代に、「四辻の左大臣(よつつじのさだいじん)が、 源氏物語の注釈書「河海抄(かかいしょう)」の中で、七草のことを記述しています。
 それが後年、よく知られる、
 「せり なずな 御形 はこべら 仏の座 すずな すずしろ これぞ 七草
の歌になって広まったことにより、「春の七草」の7種の草とその読み並べ方が定着したといわれています。


 新春の1月7日の「七草粥(ななくさがゆ)」。
  (食べると、災いを除け、長寿富貴を得られると、いわれています。)

 春の七草は「七草がゆ」にして食べるなど、”食”を良しとして楽しむものですが、秋の七種は、花を”愛でる”ことを楽しむものとしています。


  『秋の七種』

 山上憶良が詠んだ2首が、『秋の七種』の由来とされています。
  • 秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり) かき数ふれば七種 (ななくさ)の花(万葉集・巻八 1537)
  • 萩(はぎ)の花 尾花(おばな) 葛花(くずばな) 瞿麦(なでしこ)の花 姫部志(をみなへし) また藤袴(ふじばかま) 朝貌(あさがお)の花(万葉集・巻八 1538)〈旋頭歌〉
 「朝貌の花」は、桔梗、木槿(ムクゲ)、朝顔、昼顔など諸説ありますが、今は、「桔梗(キキョウ)とする説が一般的なようです。なお、「尾花(オバナ)」は、「薄(ススキ)」のことをいいます。





  ≪ 七草囃、 七草なずな、 七草なづな、 童歌 》


 七草 なずな 唐土の鳥が 日本の国へ 渡らぬ先に ストトントント ストトントント


 七草 なずな 唐土の鳥が 日本の国に 渡らぬ先に ストトントント ストトントント


 七草 なずな 唐土の鳥が 日本の土地に 渡らぬ先に ストントンストトン ストトントン


 七草 なづな 唐土の鳥が 日本の土地へ 渡らぬ先に 何 たたく セリたたく





                 
        

日々の暮らし

2015/ 01/ 07
                 
 今週は、掃除当番です。
 火曜日、「燃やせるごみ」の袋が、いつもの1.5倍くらいの量となっていました。
 昨年末の30日の火曜日も、ごみ収集車が回収にきてくれたおかげで、ごみ袋が道路まで溢れるということはありませんでした。
 今日は第1週の水曜日です。「「資源ごみ」の回収日です。
 カン類、ビン類、ペットボトル、紙類、布類・衣類が、第1週と第3週の回収日となっています。
 「ビン類」では、日本酒一升瓶の数が例年に比べ少ない感じがしました。
 「カン類」が、ダントツに多く、二つのカゴ一杯に溢れていました。年末年始に帰省した家族の方が、多かったのでしょうか。






                 
        

初恋

2015/ 01/ 06
                 
 結婚披露宴のときの思い出の一コマ。
 何故にか、お目出度い席で、この『初恋』の歌を幾たびか聴きました。
 
 
 砂山の砂に 砂にはらばい
 初恋のいたみを
 遠くおもい出(い)ずる日

 初恋のいたみを遠く遠く
 ああ おもい出(い)ずる日

砂山の砂に 砂にはらばい
 初恋のいたみを
 遠くおもい出ずる日


 志摩大喜歌
 巨瀬励起ピアノ伴奏


 (※『石川啄木第一歌集』として、明治41年(1908年)に世に出た作品は、『一握の砂』として、明治43年(1910年)東雲堂より刊行されています。この一握の砂の詩の中のほんの一部にリフレィンを加えて、越谷達之助が、『初恋』という名前にして作曲しました。昭和13年(1938年)発表の歌曲集『啄木に寄せて歌える』に収録された15曲の冒頭の作品です。)



 昭和15年(1940年)秋、三浦環のリサイタルが日比谷公会堂で開かれたおりに、アンコール曲で、彼女が越谷達之助(こしたに たつのすけ)という無名の作曲家を引き連れて登場し、彼の伴奏で『初恋』を熱唱した。」というくだりが、讀賣新聞文化編『愛唱歌ものがたり』に記載されています。


一握の砂
 石川啄木


函館なる郁雨宮崎大四郎君
同国の友文学士花明金田一京助君

この集を両君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを両君の前に示しつくしたるものの如し。従つて両君はここに歌はれたる歌の一一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。
また一本をとりて亡児真一に手向く。この集の稿本を書肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。この集の稿料は汝の薬餌となりたり。而してこの集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき。

著者

明治四十一年夏以後の作一千余首中より五百五十一首を抜きてこの集に収む。集中五章、感興の来由するところ相邇ちかきをたづねて仮にわかてるのみ。「秋風のこころよさに」は明治四十一年秋の紀念なり。


我を愛する歌

東海(とうかい)の小島(こじま)の磯(いそ)の白砂(しらすな)に
われ泣(な)きぬれて
蟹(かに)とたはむる

頬(ほ)につたふ
なみだのごはず
一握(いちあく)の砂を示(しめ)しし人を忘れず

大海(だいかい)にむかひて一人(ひとり)
七八日(ななやうか)
泣きなむとすと家を出(い)でにき

いたく錆(さ)びしピストル出(い)でぬ
砂山(すなやま)の
砂を指もて掘(ほ)りてありしに

ひと夜(よ)さに嵐(あらし)来(き)たりて築(きづ)きたる
この砂山は
何(なに)の墓(はか)ぞも


砂山の砂に腹這(はらば)ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出(い)づる日


砂山の裾(すそ)によこたはる流木(りうぼく)に
あたり見まはし
物(もの)言(い)ひてみる

いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握(にぎ)れば指のあひだより落つ

しっとりと
なみだを吸すへる砂の玉
なみだは重きものにしあるかな

大(だい)という字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来(き)たれり

目さまして猶(なほ)起(お)き出(い)でぬ児の癖(くせ)は
かなしき癖ぞ
母よ咎(とが)むな

ひと塊(くれ)の土に涎(よだれ)し
泣く母の肖顔(にがほ)つくりぬ
かなしくもあるか

燈影(ほかげ)なき室(しつ)に我あり
父と母
壁のなかより杖(つゑ)つきて出(い)づ

たはむれに母を背負(せお)ひて
そのあまり軽(かろ)きに泣きて
三歩あゆまず

飄然(へうぜん)と家を出(い)でては
飄然と帰りし癖よ
友はわらへど

ふるさとの父の咳(せき)する度(たび)に斯(か)く
咳の出(い)づるや
病(や)めばはかなし

わが泣くを少女等(をとめら)きかば
病犬(やまいぬ)の
月に吠(ほ)ゆるに似たりといふらむ

何処(いづく)やらむかすかに虫のなくごとき
こころ細ぼそさを
今日(けふ)もおぼゆる

いと暗き
穴(あな)に心を吸(す)はれゆくごとく思ひて
つかれて眠る

こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂(しと)げて死なむと思ふ

こみ合あへる電車の隅(すみ)に
ちぢこまる
ゆふべゆふべの我のいとしさ

浅草(あさくさ)の夜(よ)のにぎはひに
まぎれ入(い)り
まぎれ出(い)で来(き)しさびしき心

愛犬(あいけん)の耳斬(き)りてみぬ
あはれこれも
物に倦(う)みたる心にかあらむ

鏡(かがみ)とり
能(あた)ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ
泣き飽(あ)きし時

なみだなみだ
不思議なるかな
それをもて洗(あら)へば心戯(おど)けたくなれり

呆(あき)れたる母の言葉に
気がつけば
茶碗(ちやわん)を箸(はし)もて敲(たた)きてありき

草に臥(ね)て
おもふことなし
わが額(ぬか)に糞(ふん)して鳥は空に遊べり

わが髭(ひげ)の
下向く癖(くせ)がいきどほろし
このごろ憎(にく)き男に似たれば

森の奥より銃声(じうせい)聞ゆ
あはれあはれ
自(みづか)ら死ぬる音のよろしさ

大木(たいぼく)の幹(みき)に耳あて
小半日(こはんにち)
堅(かた)き皮をばむしりてありき

「さばかりの事に死ぬるや」
「さばかりの事に生くるや」
 止(よ)せ止せ問答

まれにある
この平(たひら)なる心には
時計の鳴るもおもしろく聴(き)く

ふと深き怖れを覚え
ぢっとして
やがて静かに臍(ほそ)をまさぐる

高山(たかやま)のいただきに登り
なにがなしに帽子(ばうし)をふりて
下(くだ)り来しかな

何処(どこ)やらに沢山(たくさん)の人があらそひて
鬮(くじ)引ひくごとし
われも引きたし

怒(いか)る時
かならずひとつ鉢(はち)を割(わ)り
九百九十九(くひやくくじふく)割りて死なまし

いつも逢(あ)ふ電車の中の小男(こをとこ)の
稜(かど)ある眼(まなこ)
このごろ気になる

鏡屋(かがみや)の前に来て
ふと驚きぬ
見すぼらしげに歩(あゆ)むものかも

何(なに)となく汽車に乗りたく思ひしのみ
汽車を下(お)りしに
ゆくところなし

空家(あきや)に入(い)り
煙草(たばこ)のみたることありき
あはれただ一人居(い)たきばかりに

何がなしに
さびしくなれば出(で)てあるく男となりて
三月(みつき)にもなれり

やはらかに積れる雪に
熱(ほて)る頬(ほを)埋(う)づむるごとき
恋してみたし

かなしきは
飽(あ)くなき利己(りこ)の一念を
持てあましたる男にありけり

手も足も
室(へや)いっぱいに投げ出(だ)して
やがて静かに起きかへるかな

百年(ももとせ)の長き眠りの覚(さ)めしごと
※(「口+去」、第3水準1-14-91)呻(あくび)してまし
思ふことなしに

腕(うで)拱(く)みて
このごろ思ふ
大(おほ)いなる敵(てき)目の前に躍(をど)り出(い)でよと

手が白く
且(か)つ大(だい)なりき
非凡(ひぼん)なる人といはるる男に会ひしに

こころよく
人を讃(ほ)めてみたくなりにけり
利己(りこ)の心に倦(う)めるさびしさ

雨降れば
わが家(いへ)の人誰(たれ)も誰も沈める顔す
雨霽(は)れよかし

高きより飛びおりるごとき心もて
この一生を
終るすべなきか

この日頃
ひそかに胸にやどりたる悔(く)いあり
われを笑はしめざり

へつらひを聞けば
腹立(はらだ)つわがこころ
あまりに我を知るがかなしき

知らぬ家いへたたき起して
遁(に)げ来(く)るがおもしろかりし
昔の恋しさ

非凡(ひぼん)なる人のごとくにふるまへる
後(のち)のさびしさは
何(なに)にかたぐへむ

大(おほ)いなる彼の身体(からだ)が
憎(にく)かりき
その前にゆきて物を言ふ時

実務には役に立たざるうた人(びと)と
我を見る人に
金借りにけり

遠くより笛の音(ね)きこゆ
うなだれてある故(ゆゑ)やらむ
なみだ流るる

それもよしこれもよしとてある人の
その気がるさを
欲(ほ)しくなりたり

死ぬことを
持薬(ぢやく)をのむがごとくにも我はおもへり
心いためば

路傍(みちばた)に犬ながながと※(「口+去」、第3水準1-14-91)呻(あくび)しぬ
われも真似(まね)しぬ
うらやましさに

真剣になりて竹もて犬を撃(う)つ
小児(せうに)の顔を
よしと思へり

ダイナモの
重き唸(うなり)のここちよさよ
あはれこのごとく物を言はまし

剽軽(へうきん)の性(さが)なりし友の死顔の
青き疲れが
いまも目にあり

気の変る人に仕(つか)へて
つくづくと
わが世がいやになりにけるかな

龍(りよう)のごとくむなしき空に躍(をど)り出(い)でて
消えゆく煙
見れば飽(あ)かなく

こころよき疲れなるかな
息もつかず
仕事をしたる後(のち)のこの疲れ

空寝入(そらねいり)生※(「口+去」、第3水準1-14-91)呻(なまあくび)など
なぜするや
思ふこと人にさとらせぬため

箸(はし)止(と)めてふっと思ひぬ
やうやくに
世のならはしに慣れにけるかな

朝はやく
婚期(こんき)を過ぎし妹の
恋文(こひぶみ)めける文(ふみ)を読めりけり

しっとりと
水を吸すひたる海綿(かいめん)の
重さに似たる心地(ここち)おぼゆる

死ね死ねと己(おの)れを怒(いか)り
もだしたる
心の底の暗きむなしさ

けものめく顔あり口をあけたてす
とのみ見てゐぬ
人の語るを

親と子と
はなればなれの心もて静かに対(むか)ふ
気まづきや何なぞ

かの船の
かの航海の船客(せんかく)の一人にてありき
死にかねたるは

目の前の菓子皿(くわしざら)などを
かりかりと噛(か)みてみたくなりぬ
もどかしきかな

よく笑ふ若き男の
死にたらば
すこしはこの世さびしくもなれ

何がなしに
息(いき)きれるまで駆(か)け出(だ)してみたくなりたり
草原(くさはら)などを

あたらしき背広など着て
旅をせむ
しかく今年(ことし)も思ひ過ぎたる

ことさらに燈火(ともしび)を消して
まぢまぢと思ひてゐしは
わけもなきこと

浅草の凌雲閣(りよううんかく)のいただきに
腕組みし日の
長き日記(にき)かな

尋常(じんじやう)のおどけならむや
ナイフ持ち死ぬまねをする
その顔その顔

こそこその話がやがて高くなり
ピストル鳴りて
人生終る

時ありて
子供のやうにたはむれす
恋ある人のなさぬ業(わざ)かな

とかくして家を出(い)づれば
日光のあたたかさあり
息ふかく吸ふ

つかれたる牛のよだれは
たらたらと
千万年も尽きざるごとし

路傍(みちばた)の切石(きりいし)の上に
腕拱(く)みて
空を見上ぐる男ありたり

何やらむ
穏(おだや)かならぬ目付(めつき)して
鶴嘴(つるはし)を打つ群を見てゐる

心より今日(けふ)は逃げ去れり
病(やまひ)ある獣(けもの)のごとき
不平逃げ去れり

おほどかの心来れり
あるくにも
腹に力のたまるがごとし

ただひとり泣かまほしさに
来て寝たる
宿屋(やどや)の夜具(やぐ)のこころよさかな

友よさは
乞食(こじき)の卑(いや)しさ厭(いと)ふなかれ
餓(うゑ)たる時は我も爾(し)かりき

新しきインクのにほひ
栓(せん)抜(ぬ)けば
餓ゑたる腹に沁(し)むがかなしも

かなしきは
喉(のど)のかわきをこらへつつ
夜寒(よざむ)の夜具にちぢこまる時

一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと

我に似し友の二人(ふたり)よ
一人は死に
一人は牢(らう)を出(い)でて今病やむ

あまりある才を抱(いだ)きて
妻のため
おもひわづらふ友をかなしむ

打明けて語りて
何か損(そん)をせしごとく思ひて
友とわかれぬ

どんよりと
くもれる空を見てゐしに
人を殺したくなりにけるかな

人並(ひとなみ)の才(さい)に過ぎざる
わが友の
深き不平もあはれなるかな

誰(たれ)が見てもとりどころなき男来て
威張(ゐば)りて帰りぬ
かなしくもあるか

はたらけど
はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり
ぢっと手を見る

何もかも行末(ゆくすゑ)の事みゆるごとき
このかなしみは
拭(ぬぐ)ひあへずも

とある日に
酒をのみたくてならぬごとく
今日(けふ)われ切(せち)に金(かね)を欲(ほ)りせり

水晶(すゐしやう)の玉をよろこびもてあそぶ
わがこの心
何(なに)の心ぞ

事もなく
且(か)つこころよく肥(こ)えてゆく
わがこのごろの物足らぬかな

大いなる水晶の玉を
ひとつ欲(ほ)し
それにむかひて物を思はむ

うぬ惚(ぼ)るる友に
合槌(あひづち)うちてゐぬ
施与(ほどこし)をするごとき心に

ある朝のかなしき夢のさめぎはに
鼻に入(い)り来きし
味噌(みそ)を煮(に)る香(か)よ

こつこつと空地(あきち)に石をきざむ音
耳につき来(き)ぬ
家(いへ)に入(い)るまで

何がなしに
頭(あたま)のなかに崖(がけ)ありて
日毎(ひごと)に土のくづるるごとし

遠方(ゑんぱう)に電話の鈴(りん)の鳴るごとく
今日(けふ)も耳鳴る
かなしき日かな

垢(あか)じみし袷(あはせ)の襟(えり)よ
かなしくも
ふるさとの胡桃(くるみ)焼(や)くるにほひす

死にたくてならぬ時あり
はばかりに人目を避さけて
怖(こは)き顔する

一隊の兵を見送りて
かなしかり
何(なに)ぞ彼等のうれひ無(な)げなる

邦人(くにびと)の顔たへがたく卑(いやしげ)に
目にうつる日なり
家にこもらむ

この次の休日(やすみ)に一日寝てみむと
思ひすごしぬ
三年(みとせ)このかた

或る時のわれのこころを
焼きたての
麺麭(ぱん)に似たりと思ひけるかな

たんたらたらたんたらたらと
雨滴(あまだれ)が
痛むあたまにひびくかなしさ

ある日のこと
室(へや)の障子(しやうじ)をはりかへぬ
その日はそれにて心なごみき

かうしては居(を)られずと思ひ
立ちにしが
戸外(おもて)に馬の嘶(いななき)しまで

気ぬけして廊下(らうか)に立ちぬ
あららかに扉(ドア)を推(お)せしに
すぐ開(あ)きしかば

ぢっとして
黒はた赤のインク吸ひ
堅くかわける海綿(かいめん)を見る

誰(たれ)が見ても
われをなつかしくなるごとき
長き手紙を書きたき夕(ゆふ)べ

うすみどり
飲めば身体(からだ)が水のごと透(す)きとほるてふ
薬はなきか

いつも睨(にら)むラムプに飽(あ)きて
三日(みか)ばかり
蝋燭(らふそく)の火にしたしめるかな

人間のつかはぬ言葉
ひょっとして
われのみ知れるごとく思ふ日

あたらしき心もとめて
名も知らぬ
街など今日(けふ)もさまよひて来(き)ぬ

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来(き)て
妻(つま)としたしむ

何(なに)すれば
此処(ここ)に我ありや
時にかく打驚(うちおど)ろきて室(へや)を眺むる

人ありて電車のなかに唾(つば)を吐(は)く
それにも
心いたまむとしき

夜明けまであそびてくらす場所が欲(ほ)し
家(いへ)をおもへば
こころ冷(つめ)たし

人みなが家(いへ)を持つてふかなしみよ
墓に入(い)るごとく
かへりて眠る

何かひとつ不思議を示し
人みなのおどろくひまに
消えむと思ふ

人といふ人のこころに
一人づつ囚人(しうじん)がゐて
うめくかなしさ

叱(しか)られて
わっと泣き出(だ)す子供心
その心にもなりてみたきかな

盗むてふことさへ悪(あ)しと思ひえぬ
心はかなし
かくれ家(が)もなし

放(はな)たれし女のごときかなしみを
よわき男の
感(かん)ずる日なり

庭石(にはいし)に
はたと時計をなげうてる
昔のわれの怒(いか)りいとしも

顔あかめ怒(いか)りしことが
あくる日は
さほどにもなきをさびしがるかな

いらだてる心よ汝(なれ)はかなしかり
いざいざ
すこし※(「口+去」、第3水準1-14-91)呻(あくび)などせむ

女あり
わがいひつけに背(そむ)かじと心を砕(くだ)く
見ればかなしも

ふがひなき
わが日(ひ)の本(もと)の女等(をんなら)を
秋雨(あきさめ)の夜(よ)にののしりしかな

男とうまれ男と交(まじ)り
負けてをり
かるがゆゑにや秋が身に沁(し)む

わが抱(いだ)く思想はすべて
金(かね)なきに因(いん)するごとし
秋の風吹く

くだらない小説を書きてよろこべる
男憐(あはれ)なり
初秋(はつあき)の風

秋の風
今日(けふ)よりは彼(か)のふやけたる男に
口を利(き)かじと思ふ

はても見えぬ
真直(ますぐ)の街をあゆむごとき
こころを今日は持ちえたるかな

何事も思ふことなく
いそがしく
暮らせし一日(ひとひ)を忘れじと思ふ

何事も金金(かねかね)とわらひ
すこし経(へ)て
またも俄(にはか)に不平つのり来(く)

誰(た)そ我(われ)に
ピストルにても撃(う)てよかし
伊藤のごとく死にて見せなむ

やとばかり
桂(かつら)首相に手とられし夢みて覚(さ)めぬ
秋の夜の二時








                 
        

NUPASの思い出

2015/ 01/ 06
                 
  『NUPAS』は、「自然と人を愛する会」。
 チャンポンでドイツ語と英語と日本語の頭文字をとったとのことを、K教授から聞いたことがあります。
 若い教授も交えた私たち学科仲間の泊まり込みの旅行。自然を愛(め)で、ひとを愛(あい)し・・・、東京に近い山梨とか千葉とか、関東近県の山野を歩きました。
 「ユースホステル」をよく使いましたが、ご存知ですか。今でもあると思いますが、お金のかからない泊まり込みの旅には欠かせない宿泊施設でした。

 
 NUPASメンバーの重鎮の結婚披露宴。
 卒業研究指導の教授が頼まれ仲人、NUPAS仲間の教授が主賓という席に、私もひとときを共にしました。

 このとき初めて耳にしたのが、 『ウィーンわが夢の街』。

 

 NUPASのみんな
 わずか四年の学生時代。されど四年の学生時代でしたね。
 新宿でのプチ同期会、今でも懐かしく思い起こされます。






『ウィーンわが夢の街』 
 
 喜びも悲しみも みんなこの街に
 夜でも昼でも 心のなぐさめ
 誰にでも愛されるわたしのふるさと
 私の心は いつもこのまちに

 遥かきこえてくる 楽しい歌声
 ウィーン ウィーン
 おまえは心のふるさとよ
 古びたまちかど かわいい娘たち
 ウィーン ウィーン
 おまえはわたしの夢のまち
 幸せあふれる 夢のまち ウィーン

 ときは過ぎ 世も移り
 風の香りさえ なつかしい思い出に
 胸は熱く燃え まちなみは変わらずに
 わたしに ほほえむ

 わたしの心は いつもこのまちに
 遥かきこえてくる 楽しい歌声
 ウィーン ウィーン
 おまえは こころのふるさとよ
 古びたまちかど かわいい娘たち
 ウィーン ウィーン
 おまえはわたしの 夢のまち
 幸せ溢れる 夢のまち
 ウィーン

 ― ジーツィンスキー作曲・作詞 ―
 ・あらかはひろし訳詞
 ・鮫島有美子歌




                 
        

そば処 石墨 年末年始に暖簾をくぐる

2015/ 01/ 02
                 


石墨入口①

 「そば処 石墨」
 木曽神社の湧水を使っているとのことです。
 今日、初めて知りました。


 コンコンと湧き出る木曽神社の水量は豊かです。
 
 2015年1月2日。木曽神社の初詣の前に、前橋の「そば処 石墨」へ。
 2014年12月29日の年末、赤城山の麓へ買い出しに行く途中にも立ち寄りました。
 更科そばが食べられるお店です。
 更科そばのお店、幾つ知っていますか。
 昨年、初めて暖簾をくぐった時の更科そばの味覚、触感、触覚は、私にとってはとても新鮮でした。

 前橋を通られるときは、是非一度お立ち寄りください。
 定休日は日曜日で、営業時間は、11:00~14:30.17:30~21:00(売切り終了)
 また来たい。と、きっと思います。


2014年12月29日(月)お昼
1229①もり・大盛り
 もり(大盛り)〈550円+100円〉
※更科そばの質感が浮かび上がってくるように撮りましたので、左半分の写真となりました。念のため!

1229②
 今日のおすすめ天ぷら(白ぎす、アスパラ、レンコン、各二個ずつ計6個で 600円)

1229③揃いました
 


2015年1月2日(金) 木曽神社

20150102①木曽神社湧水
 湧水

20150102②-2清水
 清水

20150102③滝
 滝

木曽神社④20150102
 眼下に木曽神社本殿

⑥木曽神社20150102
 木曽神社本殿


2015年1月2日(金) 石墨 昼

20150102石墨①もり
 もり(550円)

石墨②20150102野菜天ぷら
 野菜天ぷら(8種類700円)〈シシトウガラシ、シイタケ、オオバ、ナス、カボチャ、サツマイモ、マイタケ、ミツバ〉


石墨入口②
そば処 石墨
〒371-0803 群馬県前橋市天川原町2-3-5
 電話 (027) 243-2443


  長崎からの年賀はがきに「食べ過ぎ・・・」と書かれてあったので、今年から「大盛り」や「並べ過ぎ」は慎むようにしたいなと思い、石墨のカウンター越しに、昨年12月29日に「もり、大盛り」と大きな声でいった反省を踏まえ、今年1月2日、「もり」と短くひとことにしました。天ぷらも「やさい天」にしました。
 これからもブログに食べ物あれこれを載せるときは、今まで以上に、「品良く」、「さりげなく」、「ほど良く」、「ほどほど」を
心がけたいと思いました。
 足をのばすごとに、また、来たいな。と、思うお店が増えていきます。
 鹿児島、長崎、福岡の九州への旅も、ニ年内には実現したいなと思っていますが、中原中也のふるさとの山口や、書研仲間が二人住んでいる広島にも、立ち寄ることが出来たらいいなと思い始めている昨今です。



                 
        

二日

2015/ 01/ 02
                 
 


 二日の光坂広ければ低きかに 中村草田男

 留守を訪ひ留守を訪はれし二日かな  五十嵐播水


 二日
 皇居宮殿・長和殿では、一万人近いひとたちが訪れています。
 「ただ今から 天皇陛下のお言葉がございます。」
 一般参賀。
 NHKの実況中継。

 一月二日を季語では、「二日」とあらわします。
 むかしから二日は、よろずの仕事始めの吉日とされています。初荷、初湯、掃初め、書初めなど、みなこの日の行事となっています。
 元日にはひっそりとしていた街中が活気づくのは、この日からです。

 デパートやスーパーマーケットなどでは、元旦に店始めして、二日はお休みといったところなど、今ではひところのような、日にちのとらえ方を杓子定規にはみていないところをも目立ち始めました。

 地方の祭事なども、決まった日にちで執り行われていたものが、その日にちの前後の土曜、日曜に開催するようになったところもあります。
 平日を避けて休日にもっていくことを選ぶということが、永劫性に繋がることなのでしょう。



陛下「国民一人一人に少しでもよい年に」 皇居で新年一般参賀
―産経新聞―

 新年恒例の一般参賀が2日、皇居で行われ、天皇、皇后両陛下と皇太子ご夫妻はじめ皇族方が宮殿「長和殿」のベランダに立ち、集まった人々に手を振って応じられた。午前9時半の開門までに昨年より5千人ほど多い約1万7千人が列を作り、10時10分ごろからの初回で陛下はマイクを通じ「新しい年をみなさんとともに祝うことを、誠によろこばしく思います。本年が国民ひとりびとりにとり、少しでもよい年となるよう願っています。年頭に当たり、わが国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」とお言葉を述べられた。

皇居一般参賀①天皇陛下・皇后陛下


 昨年12月に20歳の成年を迎えた秋篠宮ご夫妻の次女の佳子さまも初めて参加し、笑顔で手を振られた。

 一般参賀は午後も午後1時半ごろと同2時20分ごろに行われる。




新年一般参賀、平成で3番目の8万1030人訪れる
―産経新聞 1月2日(金)16時37分配信―

 集まった参賀者に手を振られる天皇、皇后両陛下と皇族方=2日午前、宮殿・長和殿(三尾郁恵撮影)(写真:産経新聞)

 新年恒例の皇居での一般参賀は2日、天皇、皇后両陛下と皇太子ご夫妻はじめ成年皇族方が宮殿「長和殿」のベランダに午後までに計5回立たれ、宮内庁によると、訪れた人は平成に入って3番目の多さとなる、8万1030人を記録した。

 昨年は10月に皇后さまが80歳の傘寿の節目を迎えられ、12月には三笠宮さまが99歳の白寿となられていた。さらに、昨年12月に20歳の成年を迎えた秋篠宮ご夫妻の次女の佳子さまが今回初めて一般参賀に参加され、ピンクのドレスで笑顔で手を振られた。





 
 
                 
        

中原中也 最終章なぜ「羊の歌」

2015/ 01/ 01
                 
 Iさんのお母さんの実家が山口にある・・・と、お聞きしたように記憶しています。
 


 羊をめぐる二つの謎

 十二支の動物の中でも、昨年の午(うま)や来年の申(さる)に比べ、日本人にはなじみの薄い今年の干支(えと)・羊(ひつじ)。しかし、歴史や文学の世界に探せば、意外な発見がある。奈良時代に建てられた石碑・多胡(たご)碑に刻まれた羊の文字に、中原中也の詩集の最後を飾る「羊の歌」の章。羊を巡る二つの謎を追って、知的冒険の旅に出た。



中原中也「山羊の歌」  最終章なぜ「羊の歌」

 ? 夭折(ようせつ)の詩人、中原中也(1907~37)は、未年生まれだ。彼の文学には、「羊」を巡る謎が一つある。1934年(昭和9年)に出版した生前唯一の詩集『山羊(やぎ)の歌』に、「羊の歌」と題する最終章があるのだ。「山羊」なのに、なぜ「羊」なのか。

 単なる遊び心ではないはずだ。小学生まで優等生だった中也は、旧制山口中時代に文学にかぶれ、3年生で落第する。詩人とは言え生涯、親の仕送りで暮らした。詩集は、自身の生の意味を証明するものだった。
 JR新山口駅から単線の列車に乗り、故郷がある山口市の湯田温泉駅に向かう。

 <死の時には私が仰向かんことを!
  この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!>

 窓の外を眺めながら、ぼんやり本を開く。「羊の歌」の章は、3編を収める。この冒頭で始まる詩の第1節には、「祈り」とある。「汚れちまった悲しみに・・・・・・」をはじめ、甘い感傷をかき立てる『山羊の歌』のほかの詩と比べ、「士」「罰」など信仰心を連想させる言葉が目立つ。

 キリスト教の犠牲の象徴の「羊」を、意識したのは間違いない。山口は、戦国時代にフランシスコ・ザビエルがキリスト教を布教した。キリスト教に縁の深い土地柄で、祖父母は敬虔(けいけん)なカトリック信者だった。

 一方で、「山羊」にも近しさを感じていた。実家の医院は、患者にヤギの乳を飲ませた。顎が細く、耳が大きい自分の顔は、ヤギに似ていると友人に語った。

 「羊を右に、山羊を左に」は聖書の言葉だ。英語の右(ライト)は、正義を意味する。反対側に置かれた山羊は、悪の象徴だ。温泉街の中にあり、開館20年を迎えた中原中也記念館を訪ねた。中原豊館長は、「中也は、神に選ばれた『羊』になりたいけれど、近づけないない『山羊』でした。理想と現実の間で揺れていた」と話す。

 「羊の歌」の詩は31年ごろ、友人の安原喜弘に宛てて書かれた。彼は中也を純粋な感性の人間だったと短い文章の中で振り返っている。若き詩人は、周囲との衝突が絶えず、酒に酔って荒れた。

 <あゝ、その時、私の仰向かんことを!
  せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!>

 人間の悲しみ、喜び、その「すべて」を感じられる心優しき「羊」になりたい。そのように願いながら、中也は詩人の荒ぶる魂を抱えた「山羊」として生きた。
 中原家の墓は山口市内にあり、小さな川がそばをながれる。冬ざれて、流れはさらさらと音をたてていた。

 (文化部 待田晋哉) 2015年(平成27年)1月1日(木曜日) 讀賣新聞




中原中也 山羊の歌 復刻版
中原中也 山羊の歌 復刻版 限定360部 13番本 麥書房 昭和45年9月10日刊行