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「伝箕田館跡」&「箕田古墳群」

2016/ 08/ 31
                 

 きょうは8月31日の水曜日です。
 
 前々から、「箕田館跡」(※)を見たいと思っていました。
 昨年入手した「鴻巣市文化財マップ」(平成27年9月25日.編集・発行:鴻巣市教育委員会.監修:鴻巣市文化財保護委員会)を拠りどころにして、デジタルカメラ片手に出かけました。
 
 行く先は、JR高崎線北鴻巣駅西口からほど近いところです。

 近所の方に所在をお聞きしたところ、「箕田館跡」という話は聞いたことがないが、遠い昔、この地に住んでいたお姫様の所縁を示した石が、すぐ近くにあると教えて頂きました。
 指さす先に、目的のものがありました。家と家との境界の間の小さな三角地に、小さな石が置かれていました。

①伝箕田館跡20160831

 (※)「伝箕田館跡」(埼玉県指定 旧跡)
 《 およそ1000年前の平安時代後期、嵯峨源氏河原左大臣源融(とおる)の孫、仕(つこう)は武蔵守に任ぜられ、箕田郷を開墾して居館を作ったとされる。
 いわゆる箕田源氏の祖で、その子孫には宛(あつる)、渡辺綱などが排出し、武勇伝が『今昔物語』や『御伽草子』に語られている。
 現在はその推定地付近に石碑が立つだけで、館跡の面影をとどめるものはない。》(所在地:鴻巣市箕田1265外)


 「箕田館跡石碑」近くの駐車場に車を停めたのですが、その場所は「箕田二号墳」(所在地:鴻巣市箕田1260)駐車場でした。3台停めることができます。
 「二号墳」と番号をふっている古墳です。説明書きには、九基の古墳(そのうち二基は既に消滅)があると記述されています。
 古墳の所在地を見ると、箕田と宮前です。歩いて行ける範囲です。
 
 「箕田古墳群」の一つひとつを、ぐるっと見て回ることにしました。
 
 
 ※追補:きょうは、「箕田館跡」と「箕田古墳群」をぐるっと巡りましたが、3か所の「権八地蔵」も訪ねてきました。



                 
        

「8(や)き29(にく)の日・・・

2016/ 08/ 29
                 

 8月29日、きょうのNHK「あさイチ」は、「8(や)き29(にく)の日」にちなみ、知っているようで知らない、焼き肉がおいしくなるウラ技を徹底伝授! 「焼き肉!が10倍おいしくなるコツ 肉の味が劇的に変わる焼き方 ▽絶品野菜焼き究極のタレ&驚きデザート!?」でした。
 レタスを焼いて作ったシーザーサラダは、とても美味しそうでした。しかも簡単につくれそうです。レシピに載っているでしょうか。


                 
        

さいたま文学館―記念講演―『ジオパーク秩父』と宮沢賢治

2016/ 08/ 28
                 

 2016年8月28日(日)、午後2時から午後3時30分の予定で、講演が始まります。

③20160828 外観
 さいたま文学館(2016年8月28日)

 私は、番号100番です。番号と名前を受付に伝えて、レジメをいただきました。

②20160828 演題
 『ジオパーク秩父』と宮沢賢治:スクリーン・スタート画面
※講演会場内のアップ写真は、講演終了後に、ご了承頂いて撮りました。


 4枚のうち、表紙は目次となっています。
2枚目が資料①で、
 「ジオパーク秩父」のエリアとジオサイトの視点
3枚目が資料②で、
 大正年間に行われた盛岡高等農林学校(地質及土壌学教室)の秩父地質巡検
4枚目が資料③で、
 大正5年の宮沢賢治らの地質巡検行程(推定)と岩石標本の採集地点、
 訪れたであろうジオサイト・施設など
となっています。


表紙には、

 1 ジオパークとは?
  (1) ジオパークとは?
  (2) エコミュージアム、世界遺産、国立公園との違いとは?
  (3) ジオツーリズム とは?
  (4) ジオサイトとは?
  (5) 世界と日本のジオパーク

 2 「ジオパーク秩父」はどんなところ?
  (1) 「ジオパーク秩父」とは?
  (2) 「ジオパーク秩父」のテーマ
  (3) 秩父の運営組織とその取り組み
  (4) 再認定審査結果から
  (5) ジオ・エコ・人の視点からみた 秩父のおもなジオサイト

3 宮沢賢治は秩父で何を見たのか?
  (1) 大正5年のルートを探る
  (2) 賢治の“心友”保阪嘉内が詠んだ歌
  (3) 賢治が見学したと思われるジオサイト
  (4) "日本地質学発祥の地"秩父
  (5) 当時の学生が学んだ秩父の地質

 と、書き込まれています。

 まず、はじめに、そもそも「ジオパーク」とは何なのかということになりますが、「ジオ」は、「地球」に冠する接頭語とのことです。
 「大地に親しみ、大地の成り立ちを知る。人と地球のこれからの関係を考える。」というテーマのもと、現在、世界では33か国、120地域が認定されているとのこと。
 日本における「ジオパーク」は、39地域が認定されています。認定期間は4年で、そのサイクルのつど、再認定できるかどうかの審査が行われるとのことでした。
 「ジオパーク秩父」は、2009年不合格というところからスタートし、2011年9月に合格、2015年に再認定を受けたという経緯を辿っています。
 ・・・
というような(ジオパーク理解のための講座の趣きを主体とした)、説明が始まったということもありましたので、「宮沢賢治」に関連するところは、随分と駆け足の説明とならざるをえず、なおかつ、予定時刻を20分以上オーバーとなっての講演終了となりました。


①20160828スクリーン


 「世界遺産」、「国立公園」、「ジオパーク」の違いの説明を聞いているときに、ふと、南方熊楠の「曼荼羅」の世界が想い起こされてきました。エコロジーの本質を衝いているという意味において、これからの「人間と地球との共存」という避けて通れないテーマ
と感じ入りました。

 スクリーンに映し出された、岩石の美しさに目を見張るものがありました。

 大正5年の宮沢賢治らの「地質巡検行程」の、特に後半日程について、講師の本間岳史(ほんまたけし)氏が、推察を交え、訪問先不明部分に光をあて、訪れたであろうジオサイトや施設などを詳細に語っていることに、大変、興味深く、関心をもって聞くことができました。

そして、“心友”保阪嘉内(ほさかかない)が、秩父路で詠んだ歌296首の中に、岩石・鉱物・地質現象を記したのは154首あったのに比して、宮沢賢治のそれは、1首だったと、本間氏が述べたことに、殊の外、印象深く感じました。

 つくづくと「粋なもやうの博多帯」荒川ぎしの片岩のいろ



④さいたま文学館内部20160828
 さいたま文学館展示会場入口(2016年8月28日)


                 
        

4.4kmの間に、コンビニエンスストアが5つ

2016/ 08/ 28
                 

 きょう、行田の眼科医に行ってきました。

 帰り道、コンビニエンスストアが幾つあるのか数えてみました。
 さきたま古墳群に入る手前の信号のある四つ角から武蔵水路に沿って、国道17号線までの間は、およそ4.4kmあります。
 今、工事中になっていますが、最初の四つ角のところは、
①セブンイレブン
(この店舗は、最初がセブンイレブンとしてオープンして、その後に、ローソンが入り、そしてまた、セブンイレブンが入って、ただいま、新たに建屋を造りなおしています)。

 その、1.4km先に、
②ローソン

 その500m先に
③セブンイレブン

 それからちょっと離れた、2.2km先に、
④セーブオン

 そして、そこから300m離れたところに、

⑤ローソン
 があります。

※①が1番最初に出来、その後、④、⑤、②、③と、オープンしています。



 あと、忘れるところでしたが、
 今まで、白内障のお薬を頂いていましたが、きょうからは、飛蚊症のお薬もいただくことになりましたので、この場で、お伝えします。
 



                 
        

 賢治の学校 宮沢賢治の教え子たち 「先生はほほーっと宙に舞った」 総集編 

2016/ 08/ 27
                 

 きょうは8月27日は、宮沢賢治の誕生日です。賢治生誕の地、岩手県花巻市では、『宮沢賢治生誕120年記念事業』と題して、様々なイベントが催されています。

 ・イーハトーブフェスティバル
   :8月26日(金)~28日(日)

 ・童話村の森 ライトアップ~現実と幻想のはざまで~
   :4月29日(祝)~10月23日(日) 【指定日】

 ・ナイトミュージアム:
  「童話村の森ライトアップ」の日に、宮沢賢治記念館、宮沢賢治童話村「賢治の学校」、
   宮沢賢治イーハトーブ館、花巻市博物館、花巻新渡戸記念館 の開館時間を延長。
  開催日平成28年4月29日(祝)~10月23日(日)
  ※時間 ①4~6月、9~10月 午後7時まで  ②7〜8月 午後7時30分まで
  
 ・宮沢賢治記念館 特別 展
   ◇「雨ニモマケズ」展:
    賢治の『雨ニモマケズ手帳』の実物などを展示。
     ※開催日平成28年8月20日(土)~28日(日) 
     ※時間午前8時30分〜午後7時30分
     ※ 会場宮沢賢治記念館
   ◇「賢治の青春」展:
      同人誌『アザリア』全6巻のほか、賢治が保阪嘉内に宛てた書簡などを展示。
     ※開催日平成28年9月17日(土)~25日(日)
     ※時間午前8時30分 〜 午後7時
     ※ 会場宮沢賢治記念館
   ◇「賢治と石」展
     鉱物、地質学の側面から、賢治を紐解きます。
     ※開催日平成28年10月1日(土)~来年3月31日(金)
     ※時間午前8時30分〜午後5時
     ※会場宮沢賢治記念館

 ・イーハトーブフォーラム in HANAMAKI 2016 ~光と音のページェント 花火ファンタジー~
   :会場でしか味わえない感動。花火と音楽が織りなす幻想的な一夜。
    ※開催日平成28年8月20日(土)
    ※時間午後7時30分〜
    ※会場北上川河川敷

 ・第19回イーハトーブの里ツーデーマーチ
   :毎年全国から1000人を超すウォーカーが参加。5km〜40kmの全8コース。
    ※開催日平成28年8月20日(土)、21日(日)
    ※会場花巻市内8コース

 ・賢治風のステージ2016
  :「賢治さんに見せたい・聞かせたい」「賢治さんと一緒に楽しみたい」をテーマに、
   市内外から集う様々なグループがパフォーマンスする「賢治風のステージ2016」を開催。
  ◇今年は、宮沢賢治生誕120年を記念しオープニング特別ゲストとして、アンダーパスが出演。
    また、賢治風のステージ終了後に同ステージにて「希望郷いわて国体炬火イベント」を行います。
   ※開催日平成28年8月27日(土)
   ※時間午前10時 〜 午後3時
   ※会場宮沢賢治童話村





 賢治の学校 宮沢賢治の教え子たち 「先生はほほーっと宙に舞った」 総集編 

⑪さいたま文学館

 ここ、埼玉の地においても、さいたま文学館(桶川市若宮1-5-9.tel 048-789-1515)において、「さいたま来訪100年記念テーマ展」と冠して、『宮沢賢治 秩父路を行く -二十歳の旅・地質旅行のルートをたどる-』を、7月23日から9月4日まで開催しています。

 展示構成は、
  Ⅰ 宮沢賢治の生涯
  Ⅱ 盛岡高等農林学校と宮沢賢治
  Ⅲ 大正5年の地質旅行
  Ⅳ 賢治が歩いた埼玉の風景
 となっています。

 また、関連事業として、
  ①解説講座「宮沢賢治 秩父路を行く」が、8月6日(土)に開催(14:00~15:30)され、
  ②ビデオ「先生はほほーっと宙に舞った」が、今日8月27日(土)の14:00~16:00の2時間、上映されました。
  ③記念講演会「『ジオパーク秩父』と宮沢賢治」が、明日8月28日(日)開催(14:00~15:30)となっています。

  「先生はほほーっと宙に舞った」 総集編は全10編となっていて、教え子14名の皆さんが賢治の思い出を語っています。

②先生は・・・

 1991年制作の映画ですから、完成後25年が経っています。
 教え子の皆さん全員永眠されていること、製作された方も一昨年亡くなられたということなど、上映前にお聞きしました。

  映画製作当時の教え子の皆さんは、若い方で80歳、最年長の方で88歳でした。平均にすると、およそ83歳と数か月の年齢となります。単純に25年を加えてみても、108歳となりますから、むべなるかなと申せましょうか。
  
③先生は・・・上映会場



  
                 
        

種田山頭火  山口を訪ねた折に・・・

2016/ 08/ 27
                 

  《 山頭火は、北は平泉から、南は鹿児島まで全国各地をさまよい歩いた。鉄鉢に投げ与えられた米をいただき、安宿の片隅に疲れたわが身を横たえた。何度か小庵に落ち着こうと試みたが、ほどなくして、再び行乞の旅に出た。歩かずにはいられなかったのである。これほどまでに彼を旅に追いやったものは、いったい何だったのか。・・・》
 と、石寒太(いしかんた)は、自著『山頭火』の冒頭に述べています。

 山頭火は、山口県湯田温泉の地で「風来居」と名付けた庵(四畳一間)に、昭和13年(1938年)11月から10か月余り過ごした(「句碑」説明文による)となっていますが、昭和14年(1939年)3月、乞食俳諧師井上井月の墓参のため、長野県の伊那への旅をしています。
 広島、大阪、京都、名古屋、知多半島、渥美半島(芭蕉の弟子、杜国の墓に詣で)、伊良湖岬、豊橋、豊川、鳳来山、浜松、、飯田と巡り、伊那谷に着いたのが5月3日の午後です。
 「お墓したしくお酒をそゝぐ」と、山頭火は、井月の墓前で詠んでいます。
 念願を果たして、権兵衛峠を越え、木曽路を急ぎ、木曽福島、上松を経て名古屋に。そして、5月16日に湯田温泉の風来居に戻ってきています。

 湯田温泉の井上公園には、中原中也の詩碑とともに、種田山頭火の句碑が建っています。
 山口に初めて訪れた5月のある日の朝、初めて山頭火の句碑をみることとなりました。

①種田山頭火句碑
 碑文は、山頭火自筆を写したものです。
 『ほろほろ酔うてこの葉ふる』。


 井上公園の瓢箪池(池の前に、山頭火の句碑が建っていました)
②井上公園瓢箪池


※:種田山頭火(たねださんとうか):明治15年(1882年)12月3日、山口県防府市に生まれ、昭和15年(1940年)10月11日、愛媛県松山市で没しています。

 
 

③新山口駅ステンドグラス
  2016年5月山口の旅を終えて(新山口駅にて)




                 
        

 寄席に行きたいです。都内の8つの会場・・・

2016/ 08/ 26
                 

 寄席に行ったことありますか。
 一度は目の当たりにして、楽しみたいと思います。

 東京都内では、8つの会場があります。
 定席4会場、定席外4会場。

 新宿末廣亭
 浅草演芸ホール
 鈴本演芸場
 池袋演芸場

 国立演芸場
 お江戸上野広小路亭
 お江戸日本橋亭
 お江戸両国亭


 あなたの好きな落語家は、ご存命ですか。
 




                 
        

「そば」の食しかたなど・・・

2016/ 08/ 24
                 

 いつでもどこでも、手打ちそば教室が開かれています。公民館など幾つかの公の施設の年間スケジュールを見比べてみても、毎年必ずどこかで開講されている、今や大人気のそば教室となっています。

 安曇野にある、『こねこねハウス こねこね体験道場』でも、前日の午前中までに予約を入れれば「そば打ち体験」(約2時間:試食時間含む.料金3,800円〈3~4人前〉.10:00~14:00〈最終入館〉)ができます。当日空きがあれば随時受け付けますということです。全5回にわたる「個別指導そば打ち体験」(16,000円)、「おやきの体験」(3,150円)も行なっています。
 同じ建屋内の『こねこねハウス めん処穂高』(安曇野市穂高3029-1. tel 0263-82-0431)は、11:00~15:00まで営業(木曜休日)しています。せいろそば(ニ八)…750円、十割そば…950円などのメニューが揃っています。


 ◇そば打ちの手順について
 《  ①水まわし・・・そば粉とつなぎの小麦粉に、水を足していき・・・
   ②菊練り・・・生地をこね、・・・仕上げに菊もみとなります。
   ③のばし・・・ちょっぴり打ち粉をしてから、・・・ムラがなくなるまで、厚さが2~3mmになるまで根気よくのばしを繰り返します。
   ④そば切り・・・打ち粉の更科粉をたっぷりとふりかけて畳んだ生地を、包丁でこま板を少しずつ押しながら切る。この押し加減で太さが決まるため、集中力が必要。
   ⑤完成・・・水回しから始めておよそ1時間半、麺を茹でて、冷水に浸して、水けをきって出来上がります。 》
  となります。

 ・・・自宅でそばを打つとなると、多々道具が必要となりますし、私は右手指先を中心とした痺れが何十年と続いていますので、自らトライしてみようという気は起きません。専らあちこちの暖簾を潜って蕎麦の味を堪能しています。

 

 ◇「蕎麦」の食べ方

 自分の好きなように食べるということでよろしいのでしょうが。

 数十年前のこととはなりますが、NHKでしたかどこかのテレビ番組で、お江戸で有名な蕎麦屋老舗の店主が、《江戸前の蕎麦というのは、一口食べるごとの分量が重なりながらのっているので、それを天辺から一箸ずつとって、気持ち程につゆにつけて食べるのが・・・》と、おっしゃっていたのが思い出されます。

 私は、まず最初に、麺をちょっぴりずつ二度食します。噛み応えを先ず味わいます。そしてのどごしなどの麺の特徴(太さ、細さ、ごわごわさ、すっきりさなど)を感じとります。
 その後に、ほどほどの量のつゆをを口に含み、甘辛さ、濃淡具合、香を嗅ぎます。
 
 それからくだんの老舗店主のお話し通りに、一番上にのっているそばを一箸つまみます。
 つゆにそばの三分の一ほどをつけてからすすります。そうするとそばの香りがつゆの味に邪魔されずに、鼻腔をくすぐってきます。
 そして、杉浦日向子さんが何度もおっしゃっているように、周りに気兼ねせずに、大きな音を立てて啜りいれます。空気が鼻から抜けるときに、そばの香りを感じ取ることになりますので、大切な所作の一つとなります。
  ワサビは、一箸ごとに口に入れる合間、合間にちょっとずつ頂戴します。勿論、ワサビが苦手な方は、お隣のワサビの好きな方に「どうぞ」といってさしあげてください。
 お仕舞はそば湯で。そば湯はそばの栄養分がたっぷり溶け込んでいます。今までそば湯を飲むのに気が進まなかった方も、どうぞお召し上がりください。寒い時などに冷たいそばを食べるとお腹が冷えていますので、体を温かい状態にもどすためにも、そば湯での〆をお奨めします。



 あなたはそばをどんな風にして食べていますか。
 これから「新そば祭り」が、日本全国あちこちで開催されます。




                 
        

南紀白浜、南方熊楠を訪ねて

2016/ 08/ 23
                 

  名古屋工場単身赴任時、南方熊楠記念館を訪れたことがありました。
  今から37年ほど前の夏休みのことです。
 このときは、宏有さんが東京からやってきていましたので、南紀数日の旅となりました。
  小高い丘(番所山)の頂にあり、南方熊楠記念館入口から歩いて20分ほどの距離にあります。

 なんと、その入口には、ロープが巡らされ、入行禁止となっているではありませんか。
 記念館に至る道筋が私道となっているところがあり、その地主の方の所為でした。
 1965年(昭和40年)に開館している記念館との間に、この当時それなりのトラブルがあったことが伺われました。
  この日は、京都大学水族館を見学したり、臨海浦のグラスボートに乗って海中の魚たちの遊泳したりするさまを見物しました。

 今、「南方熊楠記念館」は、新館建設のため休館となっています。2017年(平成29年)3月頃、開館を予定していますとのことです。
 南方熊楠(みなかたくまぐす)は、1867年(慶應3年)の旧暦4月15日〈新暦5月18日〉、和歌山県和歌山城下(現在の和歌山市) に生まれ、1941年(昭和16年)12月29日、和歌山県田辺市に没しています。
 来年の2017年に、生誕150年を迎えます。
 

 今なんで、唐突に南方熊楠のことを書いたのかといいますと、「よみほっと」(讀賣新聞 2016年〈平成28年〉8月21日〈日〉の朝刊、日曜版『名言巡礼』に、南方熊楠のことば「世界にまるで不要の物なし」と題して、前後2ページにわたって記事が掲載されていたことに触発されたからです。
 この記事では、熊楠が30代後半から田辺市に住んだこともあり、南方熊楠顕彰館など、紀伊田辺駅を中心にした観光スポットを主に紹介していますが、塩見峠の先にある滝尻王子、熊野古道館、更に、熊野古道の中辺路〈なかべぢ〉地区、更にずっと先の、湯の峰温泉、渡瀬温泉、川湯温泉、熊野本宮大社までを案内しています。
 この中辺路地区は、「野中の一方杉」として知られる名所で、田辺市の中心部から車で40分ほどかかるところにあります。

 地元の旬の海鮮食材を使った「あがら丼」の具は、お店によって異なりますが、魚の刺身や、シラスを使うお店が多いとのことです。
 「あがら」は方言で「私たち」という意味で、「私たち自慢の丼」のことを指します。


 来年は2017年です。『南方熊楠生誕150年祭』のご案内も、近いうちにそれぞれのスポットで発表されることでしょう。
 羽田空港から南紀白浜空港まで約1時間10分。


                 
        

原馬室の獅子舞・棒術

2016/ 08/ 22
                 

 原馬室の獅子舞は、三匹獅子です。
 その獅子頭に使われている羽は、東天紅(とうてんこう)鶏の尾羽を用いています。
 愛宕神社の近くにお住いの、SWさんのお宅で東天紅が飼われているとの由、伺いました。

 東天紅の羽は青光りする光沢で、細く柔らかいのが特徴です。
 長い羽根は、尾羽の両端にあり1年に2本しか採れず、他の羽は5本くらい採ることができます。(蜀鶏〈=唐丸=トウマル〉の羽を獅子頭に用いる地域もあります。) 〈※〉

獅子頭 東天紅鶏 ②

獅子頭 東天紅鶏 ①


 高知県南国市の公式サイトより、《『高知県原産の日本鶏天然記念物〈4種〉』「東天紅」》を紐解いてみましょう。
《 日本においては、古より現在までに約40のニワトリ品種が作出され保存されている。その中でも特別記念物指定のオナガドリは極めて特別な存在であるが・・・》
の書き出しで始まり、
《 東天紅(トウテンコウ):体型は尾長鶏に良く似ています。尾羽も豊かで長いです。ただし、尾長鶏のように終生伸び続けることはありません。
 雄が時を告げる声が長いことで有名です。
 長いものは20秒を超え、この特徴は世界的にみても特異なものです。
 羽装は赤笹、トサカは単冠、耳朶は白、脚は柳色です。》
と記述されています。



 
原馬室の獅子舞・棒術

7月17日(日)、16か所で祈祷獅子舞が奉納されました。

昨日、8月21日(日)は、午後3時から愛宕神社、午後5時から観音堂の、二つの庭で、祭典獅子舞が行われました。

 ミンミンゼミの大合唱です。
 アブラゼミの鳴き声も、まだか細く耳に入ります。
 ツクツクホーシもいつのまにか、鳴き始めていました。
 ヒグラシはまだのようです。

 愛宕神社では獅子舞を、観音堂では棒術(木剣・六尺棒・真剣)と獅子舞をみることができました。

 祭典獅子舞が行われる日は、観音堂の道の反対側にある場所が臨時駐車場となります。
 午後5時前には、100台駐車できる場所が車で一杯となっていました。県外ナンバーのマイカーもそこかしこに停まっていました。


                 
        

訪問者

2016/ 08/ 21
                 

夏です。
このところの、我が家の訪問者たちの姿です。


カマキリ②
 カマキリです。
 メスでしょうか・・・


セミの抜け殻①
 もうかなり前のことにもなるのでしょうか。
 セミも羽化して翔びたっていったようです。




※補筆

 そもそも「訪問者」というタイトルが間違っていました。
 もともとセミは、土中で誕生し、土中で生活していたわけですから、外から来た「訪問者」ではありません。
 タイトルを「庭の歳時記」とした方がピッタリきます。


 庭の歳時記

夏です。
このところの我が家で目についたあれこれのうちの、セミの抜け殻と、カマキリです。


 セミの抜け殻です。
 かなり前に羽化して飛びたっていったのかも知れません。
セミの抜け殻①

 カマキリです。
 メスかどうか判りかねます。
カマキリ②





 おれはかまきり   工藤直子   

おう なつだぜ
おれは げんきだぜ
あまり ちかよるな
あまり ちかよるな
おれの こころも かまも
どきどき どきどき するほど
ひかってるぜ
おう あついぜ
おれは  がんばるぜ
もえる ひをあびて
かまを ふりかざす すがた
わくわく わくわく するほど
きまってるぜ



                 
        

ブラジル料理を堪能 群馬県大泉町の住民、16.8%が外国人 

2016/ 08/ 20
                 

 きょう(8月20日)は、朝から雨が降っています。
 地元の自治会連合会主催の夏祭りは、午後3時から始まる予定となっていますが、明日に順延となるのでしょうか、午後には曇マークもある天気情報なので微妙な感じです。


  いま ブラジル料理は如何ですか!

日本とブラジルの時差は12時間です。リオ・オリンピックの閉会式は、日本時間の8月22日(月)朝7:30から始まります。(リオ・パラリンピックの開催期間は、日本時間の9月8日~9月19日)
 群馬県大泉町は、今熱気に包まれています。人口41,470人中、南米日系人などの外国人は6,982人住んでいます。この1年間でも460人ほど外国人が増えています。(2016年7月31日現在の大泉町HPによる)
 ブラジル料理を出すお店も十店舗以上あり、地球の反対側に位置する国の料理に舌鼓をうつお客で賑わっています。「リオ五輪キャンペーン 今だけ」〈ロディオグリル大泉店〉を打ち出しているお店では、シュラスココース、いつもは、大人3,180円なのに、開催期間中は、大人1,780円、子ども980円となっていました。〈パウロレストラン〉のバイキング料理は、平日、大人990円、子ども500円、土・日・祝日、男性1,240円、女性1,090円、子ども600円となっています。オリンピック終ったあと、数日間お休みのお店もあるようですので、出かけるときは電話などで確認することをお奨めします、(※税別料金)




《以下、PR公式ページより、そのまま転載させて頂きました。》 (※添付写真は、自前のものです。)
「1.プリマヴェーラ」
食べ放題のシュラスコフルコースが大人気。3,280円(税別)90分。5〜10歳は1,700円(税別)です。ブラジル人に人気の ピッカーニャ、ガーリックステーキ、サーロイン、ソーセージ、焼きパイナップルなど11 種類のお肉のほか、サラダバーやデザートがついています。
◇ 基本情報 ・住所:群馬県邑楽郡大泉町西小泉3-2-15 ・アクセス:東武小泉線西小泉駅 徒歩3分
・営業時間:火曜日〜金曜日 17:00〜24:00 (L.O. 23:30)  祝祭日の場合、ランチも営業 11:00〜15:00 (L.O. 14:30)
  土曜日 11:00〜15:30 17:00〜24:00 日曜日 11:00〜15:30 17:00〜21:30
・定休日:月曜日 ・電話番号:0276-62-8607 ・料金:昼: 1,000~3,000円 夜: 1,000~3,000円

「2.レストラン・ブラジル」
伝統的なブラジルの味にこだわった創業24年の大泉町で最初のブラジル料理レストラン。ブラジル料理定番の黒豆とベーコンなどを煮込んだフェイジョアーダは自慢の逸品です。毎週第一・第三日曜日はシュハスココースが4000円のところ男性が3,500円、女性3,000円でお得になります。

ブラジル ④

ブラジル ③ ブラジル ①
◇ 基本情報 ・住所:群馬県邑楽郡大泉町西小泉5-5-3  ・アクセス:東武小泉線西小泉駅 徒歩5分
・営業時間:(月~金)11:00~15:00(LO)&17:30~22:00(LO) (土・日・祝)12:00~22:00(LO)
・定休日:水曜日 ・電話番号:0276-62-0994 ・料金:1000円~1500円

「3.ロデイオグリル 大泉店 (スーパータカラ内)」
ブラジル人がよく利用するスーパー内にあるレストラン。シュハスココースはもちろんのことブラジル風の大きなハンバーガーや軽食などメニューが豊富です。また、好きなおかずを選べるブラジル風お弁当もあり、配送をお願いすることが出来ます。

⑤ロディオグリル スーパータカラ内
◇ 基本情報 ・住所:群馬県邑楽郡大泉町坂田3-12-10スーパータカラ店内 ・アクセス:東武小泉線西小泉駅 徒歩10分
・営業時間:月・水・木 10:00 ~ 20:00  金・土・日 10:00 ~ 23:00
・定休日:火曜日  ・電話番号:0276-62-2600  ・料金:1000円~1500円

「4.パウロレストラン」
2013年9月に移転して、リニューアルオープン。広いガラス窓が店内を明るくして、気持ちいい雰囲気の中での食事を楽しむことができます。メニューはすべてブラジル料理のバイキング。平日は大人990円、子ども500円。土日は男性1240円、女性1090円、子ども600円と大変お安いです。
◇ 基本情報  ・住所:群馬県邑楽郡大泉町坂田5-3-22 ・アクセス:東武小泉線西小泉駅 徒歩5分
・営業時間:(火~木)11:00~15:00 17:00~22:00  (金・土)11:00~15:00 17:00~22:00  (日)11:00~19:30
・定休日:月曜日  ・電話番号:0276-61-1131  ・料金:1000円前後

「5.ピザクイーン」
ブラジルなのに、ピザ!?そうです。ブラジルにはイタリア移民が多いので、ピザは本場の味でとてもおいしいです。このレストランでは32種類のピザのほか、サイドメニューとしてブラジルのデザートやパスタなどがあります。配送をしてくれますが、店内でも食事ができます。
◇ 基本情報 ・住所:群馬県邑楽郡大泉町丘山16-14  ・アクセス:東武小泉線西小泉駅から3km
・営業時間:(水~金)17:00~23:00  (土・日)12:00~23:00
・定休日:月・火  ・電話番号:0276-62-8910  ・料金:1600円~3000円

「6.リオ トーキョーカフェ」
店内はまるで小さな歴史館のように移民の歴史が学べる写真が並べられています。健康にいいアサイジュースをはじめとするトロピカルフルーツジュース(600円~)やブラジルの定番軽食(450円)などが売られています。
◇ 基本情報 ・住所: 群馬県邑楽郡大泉町坂田3丁目13−342  ・アクセス: 東武小泉線西小泉駅から徒歩11分
・営業時間:10:00~21:00  ・定休日: 水曜日  ・電話番号:0276-62-2600  ・料金: 500円程度

「7.焼きたてのパン屋さん・トミ」
店内は所狭しとパン、お菓子、雑貨類が並んでいます。奥に行くとテーブル席が5つほどとカウンター席があります。ここで軽食をとることができます。朝早くからオープンしているので、ここで朝食を取ることもできます。
◇ 基本情報 ・住所: 群馬県邑楽郡大泉町坂田3-7-4  ・アクセス: 東武小泉線西小泉駅から徒歩10分
・営業時間: (火~金)6:00~20:00 (土・日)5:00~20:00
・定休日: 月曜日  ・電話番号: 0276-61-1030  ・料金: 300円~700円

「8.カザ・ブランカ」
好きな料理を好きなだけ!ブラジルバイキングが楽しめるお店です。お野菜たっぷりのサラダバーからお肉料理にデザートまで堪能いただけます。欲張りなあなたにピッタリですね。
ブラジルでお肉料理と聞くとすぐにシュラスコを思い浮かべる方もいるかと思いますが、ここはそうではありません!なんと、自分好みのハンバーガーまで作れちゃうんです。注文すれば焼きたてのパテを用意してくれます。
少し時間がかかるので一度に何枚か注文するのがおすすめ。パンにパテと目玉焼き、ベーコンやレタスなどお野菜で彩りましょう♪オリジナルハンバーガーにかぶりつけば、肉汁が口からあふれ出してきます。幸せですね!
◇ 基本情報 ・住所:群馬県邑楽郡大泉町坂田4-18-1 ショッピングモール・オプス 1F
 ・アクセス:東武小泉線西小泉駅から徒歩15分
・営業時間:10:00~24:00 ・定休日:水曜日 ・電話番号:0276-55-3284  ・料金: 1000円~2000円

「9.ショップ スター」
こんがり焼きあがった丸焼きチキンが目印!お店の周りには香ばしい香りが広がります。香辛料の香りがしますが、全然辛くないので、ご安心を。丸焼きチキンは食べやすいようにカットしてくれます。店内はもちろんのことテイクアウトでお持ち帰りもできます。焼きたてをすぐに味わうのもよし。お持ち帰りでじっくり味わうのもよいですね。
ここでは定番の牛肉のハンバーガーから、チーズ、ベーコン、トマト、ブラジルソーセージを挟んだハンバーガーやパイ生地に味付けしたひき肉を包んだパステルまでお楽しみいただけます。お食事が終わったらデザートにトロピカルアイズバーはいかがでしょうか?お口さっぱり、爽やかな気分になりますよ。
◇ 基本情報 ・住所: 群馬県邑楽郡大泉町坂田2-16-1 ・アクセス:西小泉駅出口から徒歩約3分
・営業時間:9:00~19:00 ・定休日: 月曜日 ・電話番号: 0276-62-5553 ・料金: 1000円~2000円

「10.バナナブラジル アロマ・カフェ」
パステルやサンドウィッチ、タピオカ・サンドなどの軽食からチュロスなどのスイーツやアサイーなどのフレッシュジュースをいただけます。タピオカ・サンドはでんぷんを溶いて、フライパンで焼き、チーズやお肉などをいろいろ巻いたクレープのようなお料理です。アサイーは栄養価も高く美容と健康に良いことで話題にもなりましたね。
ここでのイチオシは「ココナッツケーキ」。ココナッツケーキでありがちなパサパサ感が全然ないんです!しっとりとした生地とココナッツの香りと歯ごたえが見事にマッチ。そして、甘すぎない。何個でもいけちゃいます♪
◇ 基本情報 ・住所: 群馬県邑楽郡大泉町坂田5-3-22  ・アクセス:東武小泉線西小泉駅から徒歩3分
・営業時間: (火~金)11:00~21:30 (土日)10:00~21:30
・定休日: 月曜日  ・電話番号: 0276-62-5573  ・料金: ~1000円

「11. Do Paulo (ド・パウロ)」
コシンニャ、ピゾッリ、クロケチーなどのブラジルならではの軽食からボリューム満点のサンドウィッチやパステル、ハンバーガー、ホットドッグまで勢ぞろい。もちろんビタミンたっぷりのジュースもご用意しています。そして、コーヒーも香り豊かで美味しいです。たっぷり注がれてきますので、飲みごたえあります。口当たりがマイルドなので、朝にちょうどよいですね。
ハンバーガーのパンはお店で焼いているため、香りがよいのが特徴。トマト、チーズ、レタス、パテとシンプルですが、全体のサイズも大きく、具材もしっかり入っているので食べ応え満点!特にチーズが濃厚です。トマトの爽やかな酸味と肉汁たっぷりなパテとの相性も抜群です。
◇ 基本情報 ・住所: 群馬県邑楽郡大泉町坂田4-8-1  ・アクセス:東武小泉線西小泉駅から徒歩12分
・営業時間: 7:00~21:00 ・電話番号: 0267-62-3792 ・料金: ~1000円

「12.ベン ブラジル カルネス」
駐車場が車でにぎわう人気店。カルネとはブラジル語で「お肉」をさします。ここではチキンの丸焼きをお買い求めいただけます。「丸焼き」とは大胆!さすがブラジルですね。日本では珍しいですが、ブラジルではごく一般的なお料理です。お店ではなんと、炭まで販売しているとか!
じっくりと焼き上げたチキンの皮は香り豊かでお肉も柔らかジューシー。かぶり付くと肉汁があふれ出します。一羽買うとかなりのボリュームですが、とってもリーズナブル。おなか一杯になります。お隣には先ほどご紹介した「バナナブラジル アロマ・カフェ」がありますので、セットで行ってみてはいかがでしょうか?チキンのあとのスイーツも最高ですね。
◇ 基本情報 ・住所:群馬県邑楽郡大泉町坂田5-3-22  ・アクセス:東武小泉線西小泉駅から徒歩約4分
・営業時間:0276-63-8893  ・定休日: 月曜日 ・電話番号: 9:30~20:30 ・料金: ~1500円

*ブラジル料理いかがでしたか?馴染みのないメニューもありますが、一度食べたらファンになること間違いなし。全体的にボリューム満点のものが多いですよね。そして、がっつり系のお肉料理以外にもスイーツやフレッシュジュースなどデザート系も盛りだくさん。身近なブラジルへ一度足を運んでみてはいかがでしょうか?




                 
        

宮沢賢治への旅 「第1部イーハトーブの光と風」&「第2部ほんとうの幸せを求めて」

2016/ 08/ 19
                 


  牧歌
    「種山ヶ原の夜」の歌(三)

一、種山ヶ原の 雲の中(なが)で刈った草は
  どごさが置いだが 忘れだ 雨(あめ)ぁふる

二、種山ヶ原の せ高の芒(すすぎ)あざみ
  刈ってで置ぎわすれで 雨(あめ)ぁふる 雨(あめ)ぁふる 

三、種山ヶ原の 霧の中(なが)で刈った草さ
  わすれ草も入(はえ)ったが 忘れだ 雨(あめ)ぁふる 

四、種山ヶ原の 置ぎわすれの草のたばは
  どごがの長嶺(ながね)で ぬれでる ぬれでる
   
五、種山ヶ原の 長嶺(ながね)さ置いだ草は
  雲に持ってがれで 無ぐなる 無ぐなる 

六、種山ヶ原の 長嶺の上の雲を
  ぼっかげで見れば 無ぐなる 無ぐなる   

宮沢賢治 牧歌 作詞作曲

 所収:日本詩人全集 20 宮沢賢治 
 昭和42年4月10日発行 
 著作者 宮沢賢治
 編 者 草野心平
 発行所 株式会社 新潮社





プレミアムカフェ 宮沢賢治への旅 第1部・第2部

 今朝(8月19日)9時からの、NHK BSプレミアム、「Pカフェ 生誕120年 宮沢賢治の世界」。
 あと10分ほどで10時になるあたりから、見始めました。
 「宮沢賢治への旅」の第1部は、「イーハトーブの光と風」、第2部は、「ほんとうの幸せを求めて」となっていました。
 
 公式サイトをみましたところ、初回放送は1996年となっていました。
 再放送は、8月20日(土)の午前2時から95分間ですので、録画にセットしました。
 



  永訣(えいけつ)の朝

けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
 ( ※ あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっそう陰惨(いんさん)な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
 (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
 (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
 (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系(にそうけい)をたもち
すきとほるつめたい雫(しづく)にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものををもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍(あい)のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
( ※ Ora Ora de Shitori Egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびゃぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
 ( ※ うまれでくるたて 
こんどはこたにわりゃのごとばかりで 
くるしまなぁよにうまれでくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが兜卒(とそつ)の天の食に変って
やがておまへとみんなとに
聖(たふと)い資糧(しりやう)をもたらすことを
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

 原註
 ※ あめゆきをとってきてください
 ※ あたしはあたしでひとりいきます
 ※ こんなにじぶんのことばかりで くるしまないやうにうまれてきます 



 所収:日本詩人全集 20 宮沢賢治 
 昭和42年4月10日発行 
 著作者 宮沢賢治
 編 者 草野心平
 発行所 株式会社 新潮社






                 
        

父の遺したもの

2016/ 08/ 18
                 

 父が他界して、間もなく10年になります。

 私たち子ども、親類縁者、ご縁、所縁〈ゆかり〉のある人たちに、父は日暮し硯に向かって書きためたものを、折々の便りとしていました。
いまのように、ブログとかのSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)のない時代です。

 ある折りの郵便の中に「アンケート」用紙が入っていました。
 《毎々おもしろくないものを お送りいたして居りますが かえって御迷惑なことと存じ、この辺で中止したいと存じて居ります。
 つきましては 一応皆様の御意見をおうかゞいいたしたいと思います。御自身の思うまゝに該当項目に○印をおつけ下さい。
   アンケート
 一.いたゞいても読むことがない。
 二.むづかしいので読んでも興味がない。
 三.中学生、高校生に読ませたい。
 四.興味を以て読んでいる。
 五.原子力発電所を見学したい(東電と打合せします)
 六.年寄りの楽しみに勉強をつづけなさい。
 七.よその人に話をするのに役立つ。
             以上

 封書の中には、上記の文章と、アンケート(返送して下さい)用紙と、62円切手が貼ってある父宛の封筒が入っていました。
 (私は、父に返事を出していなかったので、アンケート用紙も父宛の封書も、今、手元にあるということになります。)

 今の時代でしたら、例えばブログでしたら一日に何人ぐらいの訪問者があるのかなど、一目で判りますが、当時は反応を知る手だてなどはありません。多くの読者からの読後感想文が届かない故の、父なりの状況判断がそうさせたのでしょうか。

 その後も、父の折々の便りが続きました。
 父の投げかけに対する、読者からの反響が大きかったからでしょうね。


 父は、早稲田時代に英語を習った、會津八一に私淑していました。
 (父の専攻は電気です)
 《オレは貧乏だから、お前たちが大人になったら、誰か家を建ててくれや・・・》など、會津八一の朴訥な人柄を偲ばせる逸話を、父の晩酌の折に、聞くことができました。
 
 父の遺した「便り」は数々あります。
 『會津先生をしのんで』(モノクロトーン写真貼付)は、昭和59(1984)年5月31日に、『會津先生をしのんで (其の二)』(カラー写真・モノクロ写真貼付)は、昭和59(1984)年11月28日に、それぞれ記されています。
 和紙を使い、筆で著しています。
 装幀は袋綴じとなっています。 

 シリーズものは、随分と息の長いストーリーとなっています。
 私は、このブログをはじめてから、今ようやくにして、父の遺した和紙袋綴じ装幀の書物を読み始めているのです。
 いわずもがなではありますが、父の存命中は、ほとんど目を通していなかったのです。

 私に父の思い出があるように、父も、『桑切り鎌』〈平成元(1989)年9月24日〉のサブタイトルに、「父のおもいで」と題して、父から無言の教えを学び取ったその時のことを平易な文章で書いています。

 
 父は、長く東京電力に勤めていましたので、『チェノブイリ原子力発電所事故について』も、154ページ〈序 平成1(1989)年6月15日〉にわたって、論考しています。


 父は、また、群馬県和算研究会の会員でしたので、会報にいろいろ文章を寄稿していました。 その原稿とは別に、臺灣軍兵器部に属していた時〈昭和15(1940)年6月18日-22日〉に解いた『方陣』も、遺しています。いつ頃私たちに郵送したのか記載ないのが、心残りですが。



 ここに、父の遺した書物の名前を、ひとつのページにおさめることができました。
 父の「自分史」の一端を、僅かでも知ることができたのかな、と思っています。
 
 

川原田政太郎先生のこと  1990(平成2)年8月26日


崇禅寺算額  平成2(1990)年8月31日


川原田政太郎先生のこと  平成2(1990)年10月1日→8月26日付と、記載内容異なる。


泉岳寺 そわ女 句碑  1990(平成2)年11月17日


おもい出ばなし (自分史) 1990(平成2)年12月2日
おもい出ばなし 第二集〈※〉 1990(平成2)年12月11日 →※原文のママ」
おもい出ばなし 第三話 1990(平成2)年12月19日
おもい出ばなし 第四話 1991(平成3)年1月19日
おもい出ばなし 第五話 1991(平成3)年1月29日
おもい出ばなし 第六話 1991(平成3)年2月9日


東新宅棟札銘 (第五話付録)  1991(平成3)年1月21日


おもい出 あれや これや 1991(平成3)年7月20日


兵隊のおもい出  
 ① 1991(平成3)年8月23日 
  →父から私あてのリクエスト用紙が挿んでありました《此の間いただいた おなめはおいしい塩味で生きています 又 暮にはお願いします》
 ② 1991(平成3)年8月31日  
 ③ 1991(平成3)年10月10日  
 ④ 1991(平成3)年11月4日


中山俊夫大先輩のこと  1991(平成3)年10月22日


天壽國曼荼羅  平成4(1992)年壬申歳(じんしん)如月(きさらぎ:二月)18日


名古屋火力発電所 1992(平成4)年2月28日


兵隊のおもい出 台湾編  
 (一)      →記載日未記載
 (二) 1992(平成4)年3月11日
 (三) 1992(平成4)年3月27日
 (四) 1992(平成4)年4月2日
 (五) 1992(平成4)年4月12日
 (六) 1992(平成4)年5月5日
 (七) 1992(平成4)年5月25日
  →《兵隊のおもい出 台湾編(九)の裏表紙内側に張ってください》と添え書きの和紙の中に、「昭和18年1月3日撮影」の白黒写真が入っていました。18名の人物の中に、祖父母、両親は写っていますが、姉は母のお腹の中です。このとき、兄と私は居りません。)
 (八) 1992(平成4)年6月2日
 (九) 1992(平成4)年6月15日


おもい出ばなし  1992(平成4)年7月13日


兵隊のおもい出 大陸編
 (一) 1992(平成4)年7月27日
 (二) 1992(平成4)年8月11日 →「263㌻~278㌻」となっている。
 (二) 1992(平成4)年8月15日 →「263㌻~282㌻」となっている。且つ、272㌻からは、文章も異なっている。
 (三) 1992(平成4)年9月2日
 (四) 1991(平成4)年10月15日 →1992年が「正」。
 (五) 1992(平成4)年11月5日
 (六) 1992(平成4)年11月21日
 (七) 平成四(1992)年11月26日
 (八) 1993(平成5)年2月19日
 (九) 1993(平成5)年2月26日
 (十) 1993(平成5)年3月8日
 (十一) 1993(平成5)年3月12日
 (十二) 1993(平成5)年3月30日 
  →「昭和19年9月26日撮影」の白黒写真18名の人物写真の中に、母方の祖父母、母、姉が写っています。この時、兄は母のお腹の中でした。
 (十三) 1993(平成5)年4月22日
 (十四) 1993(平成5年)5月4日
 (十五) 1993(平成5)年5月13日
 (十六) 1993(平成5)年5月20日
 (十七) 1993(平成5)年6月9日 
   →《今日は皇太子殿下御結婚の日 テレビを見ながら》と、末尾に記載。
 (十八) 1993(平成5)年6月23日
 (十九) 1993(平成5)年7月22日
 (二十) 1993(平成5)年7月28日
 (二十一) 11993(平成5)年7月31日
  →《「憶良らは 今やまからん 子泣くらん その子の母も 吾を待つらんぞ」・・・いよいよ帰國が出来る、家人に手紙を出してよろしいいとのことにより、私はどのように書こうかと思ったが、すぐ、その昔、支那に留学した憶良がうたった歌を思い出したのである。この歌一首で故郷の人達に充分意が通じると思い、書いたものである》
 (二十二) 1993(平成5)年8月14日
 (二十三) 1993(平成5)年9月10日
 (二十四) 1993(平成5)年10月21日
 (最終回) 1993(平成5)年10月30日
  →裏表紙裏面に《國 破れて 山河在り 城 春にして 草木深し》の記述。
   (昭和13年10月1日の「歩兵二等兵」から始まる官等級の記録を見ると、敗戦後の昭和20年8月18日に復員令が下った後の8月20日、所謂ポツダム「技術大尉」で、その記録を終えています。)  

 
入院  1994(平成6)年2月3日


田村福平君を偲ぶ  平成6(1994)年7月8日


木曽義一さん  平成8(1996)年1月10日


山梨の思い出  2002(平成14)年8月9日





                 
        

村田沙耶香 コンビニ人間 文藝春秋9月特別号 芥川賞発表 受賞作全文掲載

2016/ 08/ 15
                 

1979年(昭和54年)8月14日生れの村田沙耶香(むらたさやか)氏。昨日が満37歳の誕生日でした。

《 小学生のころ、私は憑りつかれたように小説を書いていた。もっと行きたい、といつも考えていた。何処へなのかは自分でもわからないが、とにかく、「言葉」や「物語」の力を借りなくては到達することができない場所へ、行ってみたくてしょうがないのだった。作家になってからも、ずっとそういう衝動に突き動かされていた。「行きたい」「知りたい」とうことが、ずっと私の原動力だった。・・・》と、村田沙耶香氏は「芥川賞受賞の言葉」の中で述べています。

「芥川賞選評」で、山田詠美(やまだえいみ)氏は、
《コンビニという小さな箱とその周辺。そんなタイニーワールドを描いただけなのに、この作品には小説のおもしろさのすべてが、ぎゅっと凝縮されて詰まっている。十数年選考委員をやって来たが、候補作を読んで笑ったのは初めて。そして、その笑いは何とも味わい深いアイロニーを含む。村田さん、本当におめでとう。》
と、受賞作を手放しで褒め称えています。
同じ選考委員の川上弘美(かわかみひろみ)氏の選評では、
《・・・こちらは反対に、笑ったのです。はじめての種類の、笑いかたでした。おそろしくて、可笑しくて、可愛くて(選評で「可愛い」という言葉を初めて使いました)、大胆で、緻密。圧倒的でした。》
と、ここでも〈笑った〉という言葉が使われていました。

 
小説『コンビニ人間』が描くワールドには、「笑いを誘う」ようなモチーフはどこを探しても見つからないように思います。
どうしてそう思うのかを、氏の小説の文中から幾つか思い当たる箇所を読んでみると、なるほどと頷いてくれるかもしれません。

《 気が付くと、小学校のあのときのように、皆、少し遠ざかりながら私に身体を背け、それでも目だけはどこか好奇心を交えながら不気味な生き物を見るように、こちらに向けられていた。
 あ、私、異物になっている。ぼんやりと私は思った。・・・正常な世界はとても強引だから、異物は静かに削除される。まっとうでない人間は処理されていく。
 そうか、だから治らなくてはならないんだ。治らないと、正常な人達に削除されるんだ。
 家族がどうしてあんなに私を治そうとしてくれているのか、やっとわかったような気がした。》

《 皆、初めて私が本当の「仲間」になったと言わんばかりだった。こちら側へようこそ、と皆が私を歓迎している気がした。
 今まで私は皆にとって、「あちら側」の人間だったんだな、と痛感しながら、皆が唾を飛ばして話し続けるのを、「なるほど!」と・・・》

《 ・・・毎日やけにはりきって声を張り上げて、健康そうなのに就職しようとしている様子もない。あんたが異物で、気持ちが悪すぎたから、誰も言わなかっただけだ。蔭では言われてたんですよ。それが、これからは直接言われるだけ」
「え・・・・・・」
「普通の人間っていうのはね、普通じゃない人間を裁判するのが趣味なんですよ。・・・》

《 そうか。叱るのは、「こちら側」の人間だと思っているからなんだ。だから何も問題は起きていないのに「あちら側」にいる姉より、問題だらけでも「こちら側」に姉がいるほうが、妹はずっと嬉しいのだ。そのほうがずっと妹にとって理解可能な、正常な世界なのだ。》


お二人の選考委員が、読後〈笑った〉のか、読み進めている最中に〈笑った〉のか・・・。ここは、やはり、『コンビニ人間』を通読して、その疑問に自ら答えるしかないように思います。

「私」を取り囲む人々の蠢きの隙間から聞こえてきた『声』とは、何でしたか。
 そして、あなたが垣間見た小説『コンビニ人間』から発信された『声』とは何でしたか。
 同じでしたか。違っていましたか。
 そして、小説を読んで、あなたは〈笑った〉のですか。


文藝春秋9月特別号



文藝春秋 九月特別号 
◇[総力特集]:「天皇制退位」の衝撃
◇[日本は「白人の失敗」に学べ]:石原慎太郎
◇[EU崩壊で始まる「新世界秩序」]:エマニュエル・トッド
◇[超大型特集]:戦争を知らない世代に告ぐ 
   戦前生まれ115人から日本人への遺言
◇[第155回芥川賞発表]:『コンビニ人間』村田沙耶香(むらたさやか)  
  普通とは何か。ユーモアあふれる物語にひそむ現代への批評
 〈インタビュー〉「バイトは週3日、週末はダメ人間です」
◇[追悼再録]:永六輔 テレビが日本を恥知らずにした
◇[初公開]:阿久悠日記 全二十七冊を読む 
◇[大竹しのぶ]:後妻業の女に気をつけて
◇[孤独のグルメ VS 102歳の珈琲職人]:俳優松重豊×カフェ店主関口一郎
◇[ベストセラーで読む日本の近現代史):佐藤優
◇[グラビア]:▽日本の顔(藤城清治) ▽小さな大物(さだまさし)
◇・・・ エトセトラ ・・・


                 
        

般若心経 262文字

2016/ 08/ 14
                 

 お釈迦様には、釈迦(しゃか)、ブッダ〈「目覚めた人」・「悟った人」という意〉、釈尊(しゃくそん)、釈迦牟尼(しゃかむに)、ゴータマ・シッダッタ(ガウタマ・シッダールタ)など、いろいろな呼び名があります。

 ブッダは紀元前5、6世紀頃、ヒマラヤ山脈の南麓にあったカピラヴァットゥという国の王子として生まれています。
 生誕から幾星霜を経たこんにち、 仏教の経典は多種多様となっていますが、おおもとの仏教のことを「釈迦の仏教」と呼んでいます。

 その「釈迦の仏教」の教えとは異なる、日本では特に馴染みの深い『般若心経』は、釈迦没後五百年を経ってから作られました。
 『西遊記』で有名な玄奘三蔵(げんじょうさんぞう.602~664)が、インド語(サンスクリット)の原典から漢文に翻訳した名著として、私たちの身近にあります。

 ブッダの教えが、五百年、千年といった長い時間を経て様々に変化し、それが今の複雑な仏教世界を生み出していますが、(そういった見知らぬ世界のことにかかわりなく)仏教に帰依していない私たちにとって、この262文字が全文の『般若心経』は、いつでも手元に置くことができる身近な経典となっています。

般若心経262文字全文

般若心経262文字全文



【『般若心経』訳】

  〈「五蘊」《※:後日書きたいと思います…》はみな「空」である。〉
 聖なる観自在菩薩が、
 深遠な般若波羅蜜多(智慧の完成)の行を行じながら観察なさった。
 五蘊があり、そしてそれらの本質が空であると見たのである。
 そして一切の苦しみや厄いを超えたのである。(※この一行は、漢訳にはあるが、サンスクリット本にもチベット語訳にもない。もともとなかったのかもしれない。)

  〈決めゼリフ「色即是空」〉
舎利子よ、
この世の「物質要素(色〈しき〉)は「実体がないという状態」(空性〈くうしょう〉)であり、「実体がないという状態」が「物質要素」である。(※この一文は、サンスクリット原典にはあるが漢文には存在しない)
 「物質要素」(色〈しき〉)は「実体がないという状態」(空性)と別ものではなく、「実体がないという状態」は「物質要素」とは別ものではない。
 「物質要素」(色)が、「実体がないという状態)(空性)なのであり、「実体がないという状態」が「物質要素」なのである。
 〔五蘊のその他の要素である〕「感受作用」「受〈じゅ〉)、「構想作用」「想〈そう〉」、意思作用およびその他の様々な心の作用)〈行〈ぎょう〉」、「認識作用」(識〈しき〉)についても、「物質要素」(色)と全く同じことが言える。

舎利子よ、
この世のすべての基本的存在要素(法〈ほう〉)の特性は、「実体がないという状態」である。それらは起こってくることもなく、消滅することもない。汚れることもなく、清らかになることもない。減ることもなく、一杯になることもない。

  〈全宇宙「空」〉
それゆえに、「実体がないという状態」(空)においては、「物質要素」(色)はなく、「感受作用」(受)はなく、「構想作用」(想)はなく、「意思作用およびその他の様々な心の作用」(行)はなく、「認識作用」(識)はない。
 「眼」はなく、「耳」はなく、「鼻」はなく、「舌」はなく、「感触器官」はなく、「意(こころ)」はない。
 「いろかたち」はなく、「音」はなく、「香りはなく、「味」はなく、「感触」はなく、「思い浮かぶもの」はない。
 「眼によって起こる視覚」はなく、〔「耳によって起こる聴覚」はなく、「鼻によって起こる嗅覚」はなく、「舌によって起こる味覚」はなく、「触覚器官によって起こる触覚」はなく、〕「意によって起こる意識」はない。

  〈「十二支縁起」も「四諦」もない〉
「無無明」はなく、また
「無明」が尽きることもない。(※以下、十二支縁起を順にたどって最後にくる)
「老いと死」はなく、また
「老いと死」が尽きることもない。
「苦」「集」「滅」、「道」〔という「四諦(しだい)」〕はない。
「悟りの智」もなく、〔涅槃(ねはん)の〕「獲得」もない。
それゆえ舎利子よ、[涅槃の]「獲得」がないのであるから。

  〈最高の悟り〉
それゆえ、菩薩には「獲得すること」がないのだから、般若波羅蜜多(智慧の完成)に依り、心になんの妨げもなく過ごしている。
心になんの妨げもないから、恐怖することがなく、倒錯した思いを超越しており、涅槃に入った人なのである。

過去、現在、未来におられるすべてのブッダは、般若波羅蜜多(智慧の完成)に依って、
この上ない正しい悟りを完全に悟られたのである。

  〈聖なる「呪文」〉
ゆえに以下のことを理解せよ
般若波羅蜜多(智慧の完成)は大いなる真言(しんごん・マントラ)であり、
大いなる知力を持つ真言であり、
最上の真言であり、比類なき真言であり、
一切の苦しみを鎮める真言であり、
ウソいつわりがないから、真実なのである。

般若波羅蜜多(智慧の完成)において、真言(しんごん)が説かれた。それは以下の如し。
  「羯諦羯諦波羅羯諦 (ガテー ガテー パーラガテー)
   波羅僧羯諦 (パーラサンガテー)
   菩提薩婆訶 (ボーディ スヴァーハ) 」
   (行った者よ、行った者よ、彼岸に行った者よ、向かい岸へと完全に行った者よ、悟りよ、幸いあれ)
 以上、『般若波羅蜜多心』が終った。

※【訳】:佐々木閑氏によるサンスクリット原典からの訳。


◇所収:NHKテレビテキストアンコール放送『100分de名著 般若心経』(佐々木閑)
◇所収:NHKテレビテキストアンコール放送『100分de名著 真理の言葉』(佐々木閑)



                 
        

『ダンマパダ』は、ブッダの"真理のことば”

2016/ 08/ 13
                 


 ものごとは心に導かれ、心に仕え、心によって作り出される。


 "苦しみ"を消すには、自分自身を変えるしかない。


 自分の救済者は自分自身である。
 他の誰が救ってくれようか。
 自分を正しく制御してはじめて、
 人は得難い救済者を手に入れるのだ。


 「100分de名著『ブッダ 真理の言葉』」(NHKテレビテキスト2012年3月アンコール放送)の、「はじめに」の中で、佐々木閑(ささきしずか)氏は、《「釈迦の仏教」は、念仏を唱(とな)えれば救われるといったような、誰かに救いを求める宗教ではありません。自分の道は自分で開けという厳しい教えです。》 《・・・いわゆる「神頼み」でないブッダの教えは、拝んで助けてもらう救済の宗教よりも、合理的な現代人の志向に合っているという・・・》と述べています。

 また、同氏は、「100分de名著『般若心経』」(NHKテレビテキスト2014年9月アンコール放送)の、第1回放送の中で、《・・・こちらから押しつけることはしないが、求める人にはすべてを与えるという姿勢です。ここで、「自利(自己の救済)」が「利他(他人の救済)」に転じるという点に注目してください。・・・私はときおり釈迦の仏教のことを"心の病院”であると言っているのですが、それは、苦しみや痛みを感じてやってきた人はすべて治療してあげるけれども、こちらからわざわざ町の中へ出向いていって健康な人まで引っぱり込んでくるようなことはしないという・・・》と論じています。
『ブッダ 真理の言葉』」ワールドは、仏道修行があればこそを前提としています。

 一方、釈迦の死から五百年以上経って現れた「大乗仏教」という新しい宗教運動を信奉する人たちの中に、「般若経(はんにゃぎょう)」と呼ばれる一連のお経を作った人たちがいます。『般若心経』は、そのたくさん作られたお経お一つです。
 そして、この『般若心経』で言うところの「最高の悟り」、言い換えれば"究極の善行”とみなしたものは、「般若経」を一度唱えることである・・・、世の中の人に「般若経」をどんどん広めていくのが最高の功徳である・・・と書き進めています。
 氏はその文中に置いても、《釈迦自身は「自分の教えを広めることが、悟りのための功徳になる」とは、一言も言っていないのです。》という言葉で、釈迦の教えと般若心経の教えを対比して説明しています。

 とまあ、双方に端的な違いがあるということが判ったうえで、 『般若心経』」「第4回 見えない力を信じる」を開けてみることに致します。
《・・しかし、経文やお念仏を唱えて心にパワーをもらい、そのおかげで病気を克服していく人、あるいは救いを感じる人がたくさんいるのは確かです。・・・病んでいるとき苦しんでいるとき、やはり理詰めの論理より、ぼんやりとでもいいから希望を与えてくれる不思議な力にすがりたくなるのは人の情けです。意味の理解できない経文でも、信じて唱えれば心が安らぎます。それは、どんなガチガチの合理主義者にも否定できない事実です。・・・》
 
 宗教に「個人のこころの救済」を求めるのであれば、「神秘」を触媒とする『般若心経』を唱えること、写経することによって、心のパワーを生み出すのだと。
 見えない力を信じる。ことが宗教理解の第一歩ということでしょうか。
 

 あらためて繰り返しますが、 『ダンマパダ』と、『般若心経』を同じテーブルに乗せてみると、両者の言っていることは両極端の位置にあるということが判ります。『ブッダ=釈迦』の教えと、『般若心経』の教えは、真逆であるということを、佐々木閑氏は再三にわたって語っているのですね。
 その違いの源はどこから来ているのかの詳細は、「釈迦の仏教」から「大乗仏教・・(「般若心経」)・・へ」の中で、後ほど述べたいと思います。


 はてさて 『般若心経』の、この上ない素晴らしさと効用が讃えられる文はどのようになっているでしょうか。 聖なる『呪文』を見ることに致しましょう。

 《【訳】
 ゆえに以下のことを理解せよ。
 般若波羅蜜多(智慧の完成)は大いなる真言(マントラ)であり、
 大いなる知力を持つ真言であり、
 大いなる知力を持つ真言であり、
 最上の真言であり、比類なき真言であり、
 一切の苦しみを鎮(しず)める真言であり、
 ウソいつわりがないから、真実なのである。》

 《これさえ唱えれば苦しみはすべてとり除かれる、どのようなことにも効く、万能の呪文だ、と言葉を重ねています。最高の賛辞です。・・・》

 《【訳】
 般若波羅蜜多(智慧の完成)において、真言(しんごん)が説かれた。それは以下の如し。
  「羯諦羯諦波羅羯諦 (ガテー ガテー パーラガテー)
   波羅僧羯諦 (パーラサンガテー)
   菩提薩婆訶 (ボーディ スヴァーハ) 」
   (行った者よ、行った者よ、彼岸に行った者よ、向かい岸へと完全に行った者よ、悟りよ、幸いあれ)
 以上、『般若波羅蜜多心』が終った。》


 佐々木閑氏の私たちへのメッセージです。
 《般若波羅蜜の不思議なパワーが多くの人たちに生きる力を与えてくれるよう心から願っています。

 「羯諦羯諦波羅羯諦 (ぎゃていぎゃていはらぎゃてい)
    波羅僧羯諦 (はらそうぎゃてい)
    菩提薩婆訶 (ぼじそわか) 」  》


                 
        

皇太子ご一家、長野で「山の日」記念式典へ

2016/ 08/ 11
                 

日テレNEWS24 2016年(平成28年) 8月11日(木)


皇太子ご一家、長野で「山の日」記念式典へ


 皇太子ご一家は10日から長野県を訪問し、11日、上高地で行われる「山の日」を記念する式典に出席される。

 皇太子ご夫妻と愛子さまは10日昼過ぎ、特急列車で長野県松本市に到着された。駅では大勢の人に迎えられ、ご一家は笑顔で手を振って応えられていた。

 11日は今年から国民の祝日となった初めての「山の日」で、ご一家は日本有数の山岳リゾート・上高地で行われる第1回「山の日」記念全国大会の式典に出席される。愛子さまが公務に同行する形で地方を訪問するのは初めてのことで、ご一家は11日、上高地に移動し、式典に出席した後、穂高連峰を望む散策路を歩かれる予定。

 10日は皇太子さまがお一人で歓迎レセプションに出席され、世界的登山家の今井通子さんとは森林浴の医学的効果の研究について話がはずんでいた。


                 
        

大橋睦 陶展 「暮らしになじむ、器」 8月27日~ 世田谷

2016/ 08/ 11
                 

 間もなく、陶房 窯八
のホームページに載ることでしょう。

暮らしになじむ、器 ②



  大橋睦 陶展  「暮らしになじむ、器」 

  《土味にこだわり、薪窯で焼いた器です。使うほどに色艶が増してきて、手になじみ、
 暮らしになじむ器です。カップやポット、皿類、花入れ、酒器など展示いたします。》


 「ギャラリー澄光(ちょうこう)」で、8月27日(土)から9月4日(日)までの9日間開催されます。
 11:00~19:00 ( last day ~17:00)
 作家在廊日:9/2(金)、3(土)、4(日)、〈他の日もだいたいは家人が在廊していますとのことです〉

暮らしになじむ、器 ③

 ギャラリー澄光
  東京都世田谷区奥沢4-27-12
  tel 03-3748-2781
  東急東横線自由が丘駅南口徒歩7分・目黒線奥沢駅前(「京樽」の横路地を入って4軒目)


                 
        

 キリストとは・・・

2016/ 08/ 10
                 


 『仁義なき キリスト教史』(架神恭介著、発行筑摩書房)では、「キリスト」のことを、《キリストというのは、・・・メシアと同義である。ヘブライ語で言うメシアが、ギリシア語ではキリストとなる。意味は「油を塗られた者」であり、・・・》(第1章やくざイエス 29㌻11行~12行)とあります。
 内田和彦著による、『「聖書は初めて」という人のための本』(発行いのちのことば社)の第三章 聖書の内容(2)――新約聖書 1 福音書(1)マタイの福音書の38㌻、2行~8行にかけて、「キリスト」について次のように記述しています。
 《「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」ということばで始まるこの福音書は、明らかに旧約聖書との連続性を意識しています。つまり、これから述べるイエスという人物が旧約聖書に語られていたメシヤであることを示そうとしているのです。
 メシヤとは「油注がれた者」の意味で、元来は神に油注がれた王や大祭司を意味していました。そこから転じて、神が終末に派遣する救い主を意味するようになりました。メシヤのギリシャ語がクリストスで、それが日本語ではキリストとなったのです。・・・》

仁義なき キリスト教史 架神恭介著

「聖書は初めて」という人のための本 内田和彦



 阿刀田高著に、『新約聖書を知っていますか』があります。この文中に、「キリスト」のいわれが、書かれてあると思いきや、そのことに何も触れていませんでした。
 同じ作者の著による『旧約聖書を知っていますか』の「第12話 エピローグする意味」(新潮文庫版)、362㌻の4行~10行にかけて、阿刀田氏は次のように記しています。
 《 そして、私のこのエッセイ……。好みはともかく、らくには読めるだろう。読まないよりはましだろう。西欧の文化に触れるとき、旧約聖書について多少なりとも理解があれば、かならず役に立つ。かまびすしい中東問題だって、そこにイスラエルが強くかかわっていることを思えば、やはり旧約聖書の知識はあったほうがよいのである。私の、このエッセイはそれ以上のものではないし、だが、それ以下でもあるまいと思っている。
 私は信仰を持たない。あえて言えば、このエッセイは、そのあたりにも多少の価値があるかもしれない。聖書についての解説書が、ほとんど信仰を持つ人の手によって書かれている。読む側に信仰がないのなら、書くほうも信仰を持たないほうが、同じレベルに立っているだけ、わかりやすい側面もあるだろう。》

 解説書なのか、説明書なのか、ダイジェストなのか、エッセイなのかにもよると思いますが、知っているようで知らない類のもの「念のためですが〈キリストとは・・・〉」のような肝心なこととかが載っていると、とてもありがたいですね。

阿刀田高 新約聖書・旧約聖書 を知っていますか


 さてさて、それでは、次に話を進めましょう。
 キリスト教において、「聖霊」という言葉は、信仰を持つ者にとって切っても切れないものですが、阿刀田高さんの本には「聖霊」についての、注釈のようなものでも何か話が出て来るでしょうか・・・。『仁義なき キリスト教史』には、その記載がありました。

 その「聖霊とは・・・」、何かの折に、触れたいと思っています。
 その後は、「三位一体とは・・・」と続きます。


                 
        

第15回こうのす花火大会 「入間修武太鼓」公演決定   PROGRAM

2016/ 08/ 09
                 

 鴻巣市商工会青年部「第15回こうのす花火大会実行委員会」の公式サイト、8月8日付インフォメーションは、「チケット残数についてのお知らせ」、「入間修武太鼓(航空自衛隊入間基地太鼓部)による公演決定!」、「第15回こうのす花火大会実行委員長挨拶」の3つでした。


 「入間修武太鼓」の公演場所は、JR高崎線鴻巣駅西口から徒歩20分の、無料観覧会場(鴻巣駅から一番近い観覧会場)です。
 早めに席を確保した後の一刻を,楽しく過ごすことができますね!、
《第15回こうのす花火大会で,航空自衛隊入間基地所属の太鼓部,入間修武太鼓による公演が決定しました!
公演予定は以下のとおりです。
日時:10月8日 14:00~/16:00~
場所:無料観覧会場(ポピー会場)内
入間修武太鼓による迫力満点の和太鼓演奏は必見です!
皆様のお越しを心よりお待ちしております。
入間修武太鼓の詳細はリンク先よりご確認ください。》


8月7日に協賛金の募集は閉め切りました.
《第15回こうのす花火大会のプログラム作成に入り、9月末にはチケットとプログラムを発送します.》と記載されています。

 ご参考となるかどうか判りかねますが、昨年の「第14回こうのす花火大会プログラム」を載せましたので、斜め読みしていただければと思います。

01) 開幕の宴
02)スターマイン、03)スターマイン
04)同時打ち、05)同時打ち、06)同時打ち
07)スターマイン、08)スターマイン、09)スターマイン
10)同時打ち
11)スターマイン、12)スターマイン
13)音楽コラボ スターマイン
14)同時打ち
15)スターマイン、16)スターマイン
17)同時打ち
18) 音楽スターマイン 十三浦伝説恋の津軽十三湖
19)同時打ち
20)スターマイン、21)スターマイン
22)同時打ち
23)スターマイン、24)スターマイン
25)同時打ち、26)同時打ち、27)同時打ち
28)スターマイン
29)一斉打上
30)同時打ち、31)同時打ち
32)一斉打上
33)同時打ち
34) 音と光のコラボレーション Pray for Japan
35)同時打ち、36)同時打ち
37)スターマイン、38)スターマイン
39)一斉打上
40)スターマイン、41)スターマイン
42)同時打ち、43)同時打ち
44) みらいへのかがやき
45)スターマイン
46)同時打ち、47)同時打ち
48)三段打ち
49)スターマイン
50) 音楽コラボ コスモス乱舞
51)一斉打上
52)同時打ち、53)同時打ち、54)同時打ち
55)スターマイン、56)スターマイン、57)スターマイン、58)スターマイン
59)同時打ち
60) 銀柳大瀑布
61)スターマイン、62)スターマイン、63)スターマイン
64) 合同花火「ドッカーン!」心をひとつに・・・
65)スターマイン
66)同時打ち、67)同時打ち
68)スターマイン、69)スターマイン、70)スターマイン、71)スターマイン 
72)同時打ち、73)同時打ち
74)スターマイン
75) Red splash
76) 音楽スターマイン
77)スターマイン、78)スターマイン
79)同時打ち、80)同時打ち
81) スターマインからの同時打ち
82) 鴻巣市発展の花
83) 音と光のコラボレーション 彩北大乱舞
84) 黄金錦大乱舞
85) 鳳凰乱舞 ~四尺玉含む~


                 
        

Message from His Majesty The Emperor(August 8, 2016)

2016/ 08/ 08
                 
 象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(平成28年8月8日)



A major milestone year marking the 70th anniversary of the end of World War II has passed, and in two years we will be welcoming the 30th year of Heisei.

As I am now more than 80 years old and there are times when I feel various constraints such as in my physical fitness, in the last few years I have started to reflect on my years as the Emperor, and contemplate on my role and my duties as the Emperor in the days to come.

As we are in the midst of a rapidly aging society, I would like to talk to you today about what would be a desirable role of the Emperor in a time when the Emperor, too, becomes advanced in age. While, being in the position of the Emperor, I must refrain from making any specific comments on the existing Imperial system, I would like to tell you what I, as an individual, have been thinking about.


Ever since my accession to the throne, I have carried out the acts of the Emperor in matters of state, and at the same time I have spent my days searching for and contemplating on what is the desirable role of the Emperor, who is designated to be the symbol of the State by the Constitution of Japan. As one who has inherited a long tradition, I have always felt a deep sense of responsibility to protect this tradition. At the same time, in a nation and in a world which are constantly changing, I have continued to think to this day about how the Japanese Imperial Family can put its traditions to good use in the present age and be an active and inherent part of society, responding to the expectations of the people.


It was some years ago, after my two surgeries that I began to feel a decline in my fitness level because of my advancing age, and I started to think about the pending future, how I should conduct myself should it become difficult for me to carry out my heavy duties in the way I have been doing, and what would be best for the country, for the people, and also for the Imperial Family members who will follow after me. I am already 80 years old, and fortunately I am now in good health. However, when I consider that my fitness level is gradually declining, I am worried that it may become difficult for me to carry out my duties as the symbol of the State with my whole being as I have done until now.


I ascended to the throne approximately 28 years ago, and during these years, I have spent my days together with the people of Japan, sharing much of the joys as well as the sorrows that have happened in our country. I have considered that the first and foremost duty of the Emperor is to pray for peace and happiness of all the people. At the same time, I also believe that in some cases it is essential to stand by the people, listen to their voices, and be close to them in their thoughts. In order to carry out the duties of the Emperor as the symbol of the State and as a symbol of the unity of the people, the Emperor needs to seek from the people their understanding on the role of the symbol of the State. I think that likewise, there is need for the Emperor to have a deep awareness of his own role as the Emperor, deep understanding of the people, and willingness to nurture within himself the awareness of being with the people. In this regard, I have felt that my travels to various places throughout Japan, in particular, to remote places and islands, are important acts of the Emperor as the symbol of the State and I have carried them out in that spirit. In my travels throughout the country, which I have made together with the Empress, including the time when I was Crown Prince, I was made aware that wherever I went there were thousands of citizens who love their local community and with quiet dedication continue to support their community. With this awareness I was able to carry out the most important duties of the Emperor, to always think of the people and pray for the people, with deep respect and love for the people. That, I feel, has been a great blessing.


In coping with the aging of the Emperor, I think it is not possible to continue reducing perpetually the Emperor’s acts in matters of state and his duties as the symbol of the State. A Regency may be established to act in the place of the Emperor when the Emperor cannot fulfill his duties for reasons such as he is not yet of age or he is seriously ill. Even in such cases, however, it does not change the fact that the Emperor continues to be the Emperor till the end of his life, even though he is unable to fully carry out his duties as the Emperor.

When the Emperor has ill health and his condition becomes serious, I am concerned that, as we have seen in the past, society comes to a standstill and people’s lives are impacted in various ways. The practice in the Imperial Family has been that the death of the Emperor called for events of heavy mourning, continuing every day for two months, followed by funeral events which continue for one year. These various events occur simultaneously with events related to the new era, placing a very heavy strain on those involved in the events, in particular, the family left behind. It occurs to me from time to time to wonder whether it is possible to prevent such a situation.


As I said in the beginning, under the Constitution, the Emperor does not have powers related to government. Even under such circumstances, it is my hope that by thoroughly reflecting on our country’s long history of emperors, the Imperial Family can continue to be with the people at all times and can work together with the people to build the future of our country, and that the duties of the Emperor as the symbol of the State can continue steadily without a break. With this earnest wish, I have decided to make my thoughts known.

I sincerely hope for your understanding.





象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(平成28年8月8日)


戦後70年という大きな節目を過ぎ,2年後には,平成30年を迎えます。

私も80を越え,体力の面などから様々な制約を覚えることもあり,ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに,この先の自分の在り方や務めにつき,思いを致すようになりました。

本日は,社会の高齢化が進む中,天皇もまた高齢となった場合,どのような在り方が望ましいか,天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,私が個人として,これまでに考えて来たことを話したいと思います。


即位以来,私は国事行為を行うと共に,日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として,これを守り続ける責任に深く思いを致し,更に日々新たになる日本と世界の中にあって,日本の皇室が,いかに伝統を現代に生かし,いきいきとして社会に内在し,人々の期待に応えていくかを考えつつ,今日に至っています。


そのような中,何年か前のことになりますが,2度の外科手術を受け,加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から,これから先,従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合,どのように身を処していくことが,国にとり、国民にとり,また,私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき,考えるようになりました。既に80を越え,幸いに健康であるとは申せ,次第に進む身体の衰えを考慮する時,これまでのように,全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが,難しくなるのではないかと案じています。


私が天皇の位についてから,ほぼ28年,この間(かん)私は,我が国における多くの喜びの時,また悲しみの時を,人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に,国民統合の象徴としての役割を果たすためには,天皇が国民に,天皇という象徴の立場への理解を求めると共に,天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において,日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅も,私は天皇の象徴的行為として,大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は,国内のどこにおいても,その地域を愛し,その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ,私がこの認識をもって,天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務めを,人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。


天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,これまでにも見られたように,社会が停滞し,国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして,天皇の終焉に当たっては,重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き,その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が,1年間続きます。その様々な行事と,新時代に関わる諸行事が同時に進行することから,行事に関わる人々,とりわけ残される家族は,非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが,胸に去来することもあります。


始めにも述べましたように,憲法の下(もと)、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で,このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ,これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,こに私の気持ちをお話しいたしました。

国民の理解を得られることを,切に願っています。


《  所収:宮内庁ホームページ
このホームページは,天皇皇后両陛下・皇族方の宮殿・御所などでのご公務や国内各地へのお出まし,外国とのご交際など皇室のさまざまなご活動を中心に紹介しています。皆様が積極的に利用され,皇室のご活動や皇室の文化などへの理解を一層深めていただければ幸いです。 

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象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(ビデオ)(平成28年8月8日) 》



                 
        

雨ニモマケズ  宮沢賢治

2016/ 08/ 08
                 


 二人の東北旅行のおりに、 宮沢賢治の古里もおとずれました。
 賢治の記念品の一つとなっている「雨ニモマケズ」。童話「銀河鉄道の夜」とともに、ときに心に響いてくる詩です。


《 「雨ニモマケズの周辺」

 宮沢賢治の没後、賢治愛用のトランク蓋裏のポケットから、一冊の黒手帳が発見されました。これが有名な「雨ニモマケズ」の手帳です。くり返し書かれた南無妙法蓮華経のお題目、快楽もほしがらずに見られる反省や悲願のことば、等といっしょに「雨ニモマケズ」が書いてありました。

 最初に 11.3 とあるのは、昭和6年11月3日を示す日付です。当時、賢治は病床に臥せっておりました。しかし、病人の手になるものとは思えない程の大きな、しっかりした字で、前後9ページに及んで書き込まれております。

 この「雨ニモマケズ」を書いたとき、賢治はおそらく、死を予感していたと想像されます。それを念頭におけば、最後の方の「ソウイウモノニワタシハナリタイ」という悲願が、ずっしりとした重みで、われわれの胸をうちます。

 賢治が晩年、農民と共に生きようとしてつくった「羅須地人協会」のあとには、昭和11年に、「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ・・・・・・」からはじまる石碑が建立され、今でも訪れる人が多くおります。

       財団法人
         宮沢賢治記念会 》

①雨ニモマケズ

③印刷雨ニモマケズ


雨ニモマケズ -1-

雨ニモマケズ -2-

雨ニモマケズ -3-



                 
        

宮沢賢治の歌碑 小鹿野町・三山の小鷹神社  賢治の八つの碑

2016/ 08/ 07
                 

 昨日(8月6日)、さいたま文学館を訪れました。
 解説講座「宮沢賢治 秩父路を行く」を興味深く拝聴しました。
 その中で、埼玉県で八番目の「賢治の歌碑・詩碑」の説明がありました。
 今年の7月30日(土)に、皆本沢近くの三山の小鷹神社境内に建立された宮沢賢治の新たな歌碑です。
 歌碑がスクリーンに映し出されました。

歌碑銘刻:「霧晴れぬ分れて乗れる三台のガタ馬車は行く山岨のみち」 
  注記:(※)山岨=やますそ 


 先ほど、この新たに完成した小鹿野町・小鷹神社境内の「宮沢賢治歌碑」を、小鹿野町の公式サイトや、観光協会のホームページで検索したのですが、ヒットしません。
 どうしてなのかなあと思いつつ、あきらめかけていたところ、除幕式の日取りは書かれていませんでしたが、《読売新聞(YOMIURI ONLINE)、2016年08月07日「埼玉ニュース」宮沢賢治来訪 100周年歌碑完成…小鹿野》に辿り着きました。

 《詩人で童話作家の宮沢賢治が20歳で盛岡高等農林学校2年だった1916年、地質調査で小鹿野町を訪れて今年、100周年になるのを祝って、歌碑が同町三山の古鷹神社境内に完成し、除幕式が行われた。

 歌碑に刻まれたのは「霧晴れぬ 分れて乗れる 三台の ガタ馬車は行く 山岨のみち」という短歌。町によると、町内から友人に宛てたはがきに書かれ、後に賢治が改作したという。

 賢治の歌碑・詩碑は町内で4基目。町内の旧旅館で発見された記録から一行が皆本沢に向かったことが確認され、近くの同神社に建てられた。「小鹿野賢治の会」の守屋勝平会長(87)は「歌碑が町の文学、観光の発展につながれば」と語った。

 今年は賢治の生誕120年で、町内では訪問日の9月4日に向け、関連行事が予定されている。長瀞町の県立自然の博物館では、長瀞や皆野、小鹿野や秩父を巡った賢治の旅行ルート図(推定)や秩父地方で採集した岩石の一覧表などのミニ展示を行っている。》



 ちょっと以前は、「秩父鉄道SLと手打ちそば」を楽しみましたが、これからは、「宮沢賢治の歌碑・詩碑をめぐる旅と手打ちそば」で、秩父路を楽しみたいと思います。


①熊谷市・八木橋百貨店の歌碑〈平成9年9月建立〉
 「熊谷の蓮生坊がたてし碑の旅はるばると泪あふれぬ」
 「武蔵の國熊谷宿に蠍座の淡々ひかりぬ九月の二日」
   (※)熊谷市仲町74 tel 048-523-1111

②寄居町・荒川河畔(寄居町生活支援センター向陽・障害者交流センター付近)の歌碑〈平成5年9月建立〉
 「毛虫焼くまひるの火立つやこれやこの秩父寄居のましろきそらに」
 「つくづくと『粋なもやうの博多帯』荒川ぎしの片岩のいろ」
   (※)〈付近の住所〉大里郡寄居町寄居653-1 tel 048-598-6961

③長瀞町・野上駅の歌碑〈平成15年9月建立〉
 「盆地にも今日は別れの本野上駅にひかれるたうきびの穂よ」
   (※)秩父郡長瀞町大字本野上272-2

④長瀞町・養浩亭駐車場の歌碑〈平成15年9月建立〉
 「つくづくと『粋なもやうの博多帯』荒川ぎしの片岩のいろ」
   (※)秩父郡長瀞町長瀞1446 tel 0494-66-3131

⑤小鹿野町・おがの化石館の歌碑〈平成9年3月建立〉
 「さはやかに半月かゝる薄明の秩父の峡のかへり道かな」
   (※)秩父郡小鹿野町下小鹿野453 tel 0494-75-4179

⑥小鹿野町・小鹿野町役場の歌碑〈平成9年3月建立〉
 「山峡の町の土蔵のうすうすと夕もやに暮れわれらもだせり」
   (※)秩父郡小鹿野町小鹿野89 tel 0494-75-1221

⑦小鹿野町・小鹿野町観光交流館「本陣」の中庭多目的ホール前の詩碑〈平成24年12月建立〉
  詩「雨ニモマケズ」全文銘刻
   (※)秩父郡小鹿野町小鹿野314 
    →付近の電話:町役場小鹿野庁舎総合政策課 tel 0494-75-4197

⑧小鹿野町・三山の小鷹神社境内歌碑〈平成28年7月30日建立・除幕式〉
  「霧晴れぬ分れて乗れる三台のガタ馬車は行く山岨のみち」 
   (※)秩父郡小鹿野町三山1195(又は1193)
    →宮司宅電話: tel 0494-76-0253

 


 ※宮沢賢治の詩『雨ニモマケズ』全文:「宮沢賢治記念会」発行
①雨ニモマケズ 宮沢賢治記念会

②雨ニモマケズ




                 
        

宮沢賢治 秩父路を行く 埼玉来訪100年記念 テーマ展 さいたま文学館 8月27日ビデオ上映会・8月28日記念講演会

2016/ 08/ 06
                 


 子どもさんやお孫さんの夏休み宿題テーマにも向いているのかどうか・・・。
 9月4日まで、「埼玉来訪100年記念 テーマ展」と冠して『宮沢賢治 秩父路を行く ―二十歳の旅・地質旅行のルートをたどる―』
  Ⅰ 宮沢賢治の生涯
  Ⅱ 盛岡高等農林学校と宮沢賢治
  Ⅲ 大正5年の地質旅行
  Ⅳ 賢治が歩いた埼玉の風景
が、さいたま文学館(桶川市若宮1-5-9.JR高崎線桶川駅西口から徒歩5分)で、特別展示されています。

さいたま文学館⑤


宮沢賢治④秩父路を行く


きょう6日、午後2時からの解説講座「宮沢賢治 秩父路を行く」を聞きに行きました。
県企画短編映画「100年の時を超えて~秩父鉄道と宮沢賢治~」も見ることができました。
県内には、賢治の歌碑・詩碑が8つもあることを初めて知りました。
熊谷市八木橋百貨店前にも賢治の歌碑があることをご存知でしたか。

秩父路の手打ちそば屋を見つけながら、それぞれの碑を訪れてみたいなと思いました。

「関連事業」として、
きょうの解説講座「宮沢賢治 秩父路を行く」に続き
8月27日のビデオ上映会「先生はほほーつと宙に舞った」(14:00~16:00)と、
8月28日の記念講演会「『ジオパーク秩父』と宮沢賢治」(14:00~15:30)が開催されます。
参加費無料ですので、ぞれぞれ参加(先着200名)を希望される方は電話で申込(048-789-1515)くださいとのことです。

※駐車場はありますが、開演30分前には既に満杯でした。
〈会場に近い駐車場:パトリア桶川駐車場(750台.tel 048-789-2371 桶川市若宮1-5-2).最初の1時間は無料、以降30分ごとに100円〉

♪特記事項:「テーマ展 宮沢賢治 秩父路を行く」の小冊子が、限定○△×部、500円で頒布されています。手元に置いておく貴重な資料(A4判、24ページ)となりますね。

 ①宮沢賢治 秩父路を行く

③宮沢賢治 秩父路を行く

②宮沢賢治 秩父路を行く
 さいたま文学館(桶川市若宮1-5-9.JR高崎線桶川駅西口から徒歩5分)


                 
        

 宮沢賢治  種山ヶ原(作品第368番) パート三

2016/ 08/ 06
                 

 特に詩歌・童話の世界において、宮沢賢治の名を世に高らしめた一番の功労者は、草野心平その人です。心血を注ぐ彼の尽力があったからこそ、こんにちの「宮沢賢治」ワールドがあるといっても過言ではありません。
  大正14年(1925年)7月、『春と修羅』を読んで「瞠目し感動し」た草野心平から賢治のもとに書簡が届いたことから二人の交友が始まり、同年8月には、草野編集の文芸誌『銅鑼』に詩が発表されています。

 ここ埼玉県における宮沢賢治の足跡をたずねると、大正5年(1916年)9月、賢治は盛岡高等農林学校農学科の2年生の時の学校の地質旅行に参加したおりに、熊谷市、寄居町、長瀞町、小鹿野町、秩父市に足を運んでいます。

宮沢賢治画②


 宮沢賢治は、明治29年(1896年)8月27日、岩手県稗貫(ひえぬき)郡花巻町〈現花巻市〉に生まれ、郷里において昭和8年(1933年)9月21日永眠しました。(享年37歳)

 大正5年(1916年)9月、宮沢賢治は盛岡高等農林学校農学科の2年生の時に、学校の地質旅行に参加して埼玉県各地を訪れていますが、この年の3月には修学旅行で、京都、東京方面に初めて旅行し、8月には、絵画、浮世絵への関心がたかまり、帝室博物館見学のために上京しています。

◇詩歌・童話集の発刊:
 大正13年(1924年)4月、心象スケッチ『春と修羅』〈大正11年1月より大正12年12月までの詩69篇を収録〉を自費出版で東京関根書店より刊行。発行部数一千部。
 大正13年(1924年)4月、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』を東京光原社より刊行。
 昭和2年〈1927年)1月、『春と修羅』第二集〈大正13年2月より大正14年10月までの作品108篇収録)の出版を予定して「序」を書いていますが、出版はされていません。
 また『春と修羅』第三集は、大正15年(1926年)5月より昭和2年(1927年)9月までの作品、126篇収録の詩となって書き残されています。
◇没後の全集発刊:
 昭和9年(1934年)10月、「宮沢賢治全集」全三巻が文圃堂より刊行。
 昭和14年(1939年)11月、「宮沢賢治全集」全七巻を十字屋書店より刊行、昭和19年(1944年)2月完結。
 昭和31年(1956年)4月より「宮沢賢治全集」決定版全十一巻を筑摩書房より刊行、昭和32年(1957年)2月完結。

宮沢賢治画①



 宮沢賢治の詩には、「春」、「冬」の文字が良く使われています。
 反面、「夏」という言葉が見つかりません。私が目を通した限りにおいては、次の「種山ヶ原 パート三」に1カ所だけ載っています。諸兄姉において、賢治の「詩」の中に、「夏」が表記されているのをご存知でしたら、どうぞ教えてください。
 

「種山ヶ原 パート三  宮沢賢治」

この高原の残丘(モナドノックス)
こここそその種山の尖端(せんたん)である
炭酸や雨あらゆる試薬に溶け残り
苔から白く装(よそは)れた
アルペン農の夏のウヰーゼの
いちばん終りの露岩(ろがん)である
わたくしはこの巨大な地殻の冷え堅まった動脈に
槌(つち)を加へて検(しら)べよう
おお 角閃石(かくせんせき) 斜長石 暗い石基と斑晶(はんしゃう)と
まさしく閃緑玢岩(せんりょくふんがん)である
じつにわたくしはこの高地の
頑強に浸蝕に抵抗したその形跡から
古い地質図の古生界に疑(うたが)ひをもってゐた
そしてこの前江刺(えさし)の方から登ったときは
雲が深くて草穂は高く
牧路(まきみち)は風の通った痕(あと)と
あるかないかにもつれてゐて
あの傾斜儀の青い磁針は
幾度もぐらぐら方位を変へた
今日こそはこのよく拭(ぬぐ)はれた朝ぞらの下
その玢岩の大きな突起の上に立ち
  ……赤いすいばとひとの影……
なだらかな準平原や河谷(かこく)に澱(よど)む暗い霧
北はけはしいあの死火山の浅葱(あさぎ)まで
天に接する陸の波
イーハトヴ県を展望する
いま姥石(うばいし)の放牧地が
緑青(ろくしやう)いろの雲の影から生れ出る
そこにおお幾百の褐や白
馬があつまりうごいてゐる
かげろふにきらきらゆれてうごいてゐる
食塩をやろうと集めたところにちがひない
しっぽをふったり胸をぶるっとひきつらせたり
それであんなにひかるのだ
起伏をはしる緑のどてのうつくしさ
ヴァンダイク褐にふちどられ
あちこちくっきりまがるのは
この高原が
十数枚のトランプの青いカードだからだ
  ……蜂がぶんぶん飛びめぐる……
海の縞(しま)のやうに幾層ながれる山稜と
しづかにしづかにふくらみ沈む天未線(スカイライン)
ああ何もかももうみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵(ちり)とでなりたつときに
風も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは
水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ
  ……蜂はどいつもみんな小さなオルガンだ……

(※)所収:日本詩人全集 20 宮沢賢治 発行所株式会社新潮社 昭和42年4月10日発行


宮沢賢治大正15年ごろ
 宮沢賢治(大正15年頃)



                 
        

山村暮鳥  雲  あるとき

2016/ 08/ 05
                 


「雲  山村暮鳥」

おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平(いはきたひら)の方までゆくんか

(※)所収:現代日本名詩集 大成 3 発行所東京創元新社 昭和40年6月30日 四版

①セミの抜け殻20160805


「あるとき  山村暮鳥」

また蜩(ひぐらし)のなく頃となつた
かな かな
かな かな
どこかに
いい国があるんだ

(※)所収:日本詩人全集 13 発行所株式会社新潮社 昭和43年7月20日発行

②セミの抜け殻20160805


山村暮鳥は、明治17年(1884年)1月10日、群馬県西群馬郡棟高(むなだか)村〈現在高崎市〉に生まれました。
大正2年(1913年)、第一詩集『三人の処女』を、新声社より自費出版。大正4年(1915年)『聖三稜玻璃』(人魚詩社)、大正7年(1918年)『風は草木にささやいた』(白日社)、大正10年(1921年)『梢の巣にて』(洛陽堂)、それぞれの詩集を刊行。大正12年(1923年)、39歳の時に、童話集『鉄の靴』を内外出版社から刊行しています。没後、大正14年(1925年)詩集『雲』がイデア書院より、大正15年(1926年)詩集『月夜の牡丹』(花岡謙二編)が紅玉堂より、相次いで刊行されました。






                 
        

 つゆの素

2016/ 08/ 04
                 


 蕎麦で使うつゆ、売っているものの中では、にんべんの「つゆの素」が一番旨い!と、隣の席に座ったAさんのお話し。
 蕎麦打ちはお手のもの、年季が入っている人の言葉です。

 先日、スーパーマーケットで、「にんべん つゆの素」が特売品で売りに出されていましたので、買い物かごに入れました。

 さきほど、にんべんの公式サイトで「つゆ」のページを開けたところ、27種もあることが判りました。
 一列に4品種並んでいます。三列目の最初の品目に目が留まりました。
 そこには、こう書いてありました。
 つゆの素
「麺が旨いつゆ(2倍濃厚)」。

  Aさんが言っていたのは、この「2倍濃厚」であったことを思い出しました。
 念のため冷蔵庫を開けてとりだしたつゆの素をみたところ、「3倍濃縮 1000mℓ」と印字されていました。「2倍濃厚」は、500mℓです。
 


これからもしばらくの間、暑い日が続きます。冷たい麺を美味しく頂きたいものですね。

◇にんべん つゆの素 500mℓ:麺が旨いつゆ(2倍濃厚)
 ・ 麺が旨いつゆ.6種のだし使用(鰹節、鯖節、宗田鰹節、真昆布、利尻昆布、日高昆布)。 蕎麦屋のような粗ろ過を行い、つゆ中に粉末を残すことで、だし本来の風味を引き立たせました。 化学調味料無添加、2倍濃厚つゆです。.
栄養成分表示<100ml当たり>
エネルギー 78kcal.たんぱく質 4.3g.脂質 0g.炭水化物 15.1g.ナトリウム 2.8g.食塩相当量 7.1g

◇にんべん つゆの素 (3倍濃縮) 1000ml: つゆに合うバランスの良い特級醤油を使い、かつお節の良さを100%引き出す独自の製造方法により、めんつゆ、天つゆから煮物や丼もの、ちょっと手を加えて和風ドレッシングまで、あらゆる料理に幅広く使えます。.
栄養成分表示<100ml当たり>
エネルギー 115kcal.たんぱく質 4.8g.脂質 0g.炭水化物 23.9g.ナトリウム 4.1g.食塩相当量 10.4g

◇B社 追いがつおつゆ (2倍濃縮) 1000mℓ: 「旨みだし」と「香りだし」の2つのだしに、「絹ぶし®製法」できめ細やかに挽いたかつお節を加えました。かつお節が生み出すほのかなつゆのにごりが、料理をおいしくするだしの余韻の決め手です。
栄養成分表示<100ml当たり>
エネルギー 75kcal.たんぱく質 2.1g.脂質 0g.炭水化物 15.3g.ナトリウム 2.6g.食塩相当量 6.5g


                 
        

とと姉ちゃん  ホットケーキ特集

2016/ 08/ 03
                 


 あの当時、とても頑丈そうでシンプルな冷蔵庫とオーブンが台所の一角を占めていました。
 冷蔵庫といっても「板氷」を台に入れて庫内を冷やすという類のものです。
 ということからすれば、オーブンも今の時代と比べようもないものでした。

 母が、沼田の街中までイースト菌を買い出しに出かけました。
 我が家の子どもたちに、手づくりのパンを食べさせるためです。
 村を通るバス便は、とても少なかった時代のことです。

 夕方、香ばしいパンを焼いた匂いが、家々を包み込んでいきます。
 ここは社宅だけで作られている小さな集落です。
 いつのまにか、近所の子どもたちが我が家の台所の入り口に集まっています。

 我が家の子ども三人のためのパン・・・でしたけれど、母は、ワイワイガヤガヤとおしゃべりして、出来上がりを一所懸命待っている子どもたちの人数を数えていました。
 
 焼きたてのパンの何ともいえない香りは今でも鮮明に覚えているのですが、このときのパンの味は覚えていないのです。

 それからまたしばらくして、母は我が家の子どもたちのために、パンをつくりました。
 今度も社宅の子どもたちが台所前にあっという間に集合しています。
 今度も母は、子どもたちの頭数をきちんと数えました。勿論、家の中にいた三人の子ども達も忘れていません。
 このときのパンの香ばしさと美味しさというものが、想坊の食いしん坊をハッキリと芽生えさせた瞬間でもありました。

 でもそれ以来、母はイースト菌を手に入れるために沼田の街まで出かけるということはありませんでした。
 母のつくったパンの味をかみしめたのは、生涯この一度だけとなりました。



 「とと姉ちゃん」の今週は、小麦料理特集「ホットケーキ」ですね。混ぜて焼くだけで作れる簡単料理・・・





                 
        

津村信夫「夏草」

2016/ 08/ 02
                 


  夏草  津村信夫

お父さん
燐寸(まつち)をおつけしませうね
そして それを一服お喫(す)ひになつたら
また ゆつくり歩き初めませう
いくらか空気も冷えてきました
――お前たち 若い者は
  かうやつて歩いて行くうち
  どんな事を考へるか
お父さん あなたはさうお訊(き)になつたのですね
お父さん
明るい昼の中でも
私達は夢を持つのです
白い雲が あの誘惑者が
今恰度(ちゃうど)
私達の頭の上を過ぎてゆきます
それから
もつと何かお訊き下さい
そんなふうに優しく
そんなふうに静かに
お父さん お父さん

父を喪(うしな)つてから
私に初めての夏が来ました
草が茂つて
どうかすると
私の姿も隠されてしまひます
私は歩いてゆくのです
かうやつて
あれらの夏の続きを歩いて行くのです
(空気も冷えてきました そしてもう充分夏の外気には言葉がみちてゐます)
私の視界には 畑と丘の間に
ぽつかりと口をあけて
沼が白くにぶく光ってゐました


(※)所収:日本詩人全集 33 昭和詩集(一) 発行所新潮社 昭和44年4月25日発行


 津村信夫(つむらのぶお)は、明治42年(1909年)1月5日、兵庫県神戸市に生まれました。
 昭和9年(1934年)、詩誌『四季』が創刊され、堀辰雄、丸山薫、三好達治、立原道造らと共に参加。同年3月、慶應義塾大学経済学部を卒業しています。
 生前の詩集としては、昭和10年(1935年)、第一詩集『愛する神の歌』(四季社より自費出版)、昭和17年(1942年)『父のゐる庭』(白井書房)、昭和19年(1944年)『ある遍歴から』(湯川弘文堂)を刊行しています。
 没後、『善光寺平』(昭和22年〈1947年〉・国民図書刊行会)、『さらば夏の光よ』(昭和23年〈1948年〉・矢代書店)が、相次いで刊行されました。