FC2ブログ
        

桜桃忌 三鷹の禅林寺

2018/ 06/ 19
                 



 太宰治(1909年6月19日-1948年6月13日)が亡くなって70年が経ちました。
 来年は生誕110年になります。
 
 太宰の生まれ故郷の金木(現五所川原市)では、今は「桜桃忌」という言い方はされていません。
 三鷹の禅林寺においても、平成4年、世話人会の解散により、「桜桃忌」(〈※〉)として営まれることはなくなりました。

(〈註〉:第1回桜桃忌が禅林寺で開催されたのが、太宰の死が確認された6月19日の翌年の同日、生存していれば満40歳の誕生日の日でした。「桜桃忌」の名は、太宰と同郷の津軽の作家で、三鷹に住んでいた今官一によってつけられました。
 常連の参会者を列記しますと、佐藤春夫、井伏鱒二、檀一雄、今官一、河上徹太郎、小田獄夫、野原一夫などの名前がみえます。特に、中心になったのは亀井勝一郎で、桜桃忌の司会も昭和38年まで勤めています。
 桜桃忌は全国から十代、二十代の若者など数百人もが集まる青春巡礼のメッカへと様変りしていきました。主催も筑摩書房に移り、さらに昭和40年から桂英澄、菊田義孝といった太宰の弟子たちによる世話人会が引き継ぎました。「太宰治賞」の発表と受賞者紹介が桜桃忌の席場で行われたのも、この頃のことです。)



 今も、毎年、桜桃忌になると、禅林寺にある太宰治の墓に詣でる人は後を絶ちません。
 

  佐藤錦



 没後70年、作家・太宰治を生んだ「三つの空白期」


6/18(月) 5:21配信

読売新聞(ヨミウリオンライン)


没後70年、作家・太宰治を生んだ「三つの空白期」


月刊誌「東京人」7月号で太宰治を特集しているほか、河出文庫から「太宰治の手紙」と「太宰よ! 45人の追悼文集」が6月に出版された



 今年は、作家・太宰治が亡くなって70年になる。誕生日にもあたる6月19日の節目の桜桃忌には、全国から数多くのファンが太宰の眠る東京・三鷹の禅林寺を訪れ、在りし日の作家をしのぶことだろう。太宰文学は、今も多くの人たちに読み継がれているが、実は、太宰には小説を執筆しない「三つの空白期」があった。その空白期は、いずれも死や別れと関係していた。太宰は、その空白期を経るたびに脱皮し、明るく前向きな作品も書ける作家へと変わっていった。

■「人間失格」累計700万部、「こころ」に次いで2位

 戦後、「斜陽」がベストセラーになり、遺作となった「人間失格」を書いて世を去った太宰治(1909~48)は、今も読み継がれる人気作家である。明治の文豪・夏目漱石は「国民作家」として幅広い世代で読まれるが、太宰の場合は「青春の文学」「青春のはしか」と言われるように、自意識が芽生え、過剰になる思春期にはまる若者が多い。

 名作文学の充実で知られる新潮文庫の売り上げでは、「人間失格」は累計698万8000部で、漱石の「こころ」(735万2500部)に次いで堂々の2位。没落貴族の家に生まれた女性の恋と革命を描く「斜陽」は約377万部、教科書にも掲載された「走れメロス」は201万6000部。このほか、第1創作集「晩年」をはじめ、「津軽」「ヴィヨンの妻」もそれぞれ100万部以上売れており、計6冊がミリオンセラーになっている。

 平成になってからも人気は衰えていない。生誕100年の2009年には、「斜陽」「ヴィヨンの妻」「パンドラの匣(はこ)」が映画公開され、翌10年には生田斗真主演で「人間失格」が映画化された。

 朝霧カフカ原作、春河35漫画で雑誌連載の始まったマンガ「文豪ストレイドッグス」(文スト)でも太宰の人気は高い。同作は谷崎潤一郎や中島敦ら実在の作家と同姓同名の「異能者」たちがバトルを繰り広げる人気シリーズで、浮世離れした性格の太宰は、直接触れた相手の特殊能力を無効にする「人間失格」という技をもつイケメンキャラ。「文スト」はアニメ映画にもなり、太宰が通った東京・銀座のバー「ルパン」は最近、若い女性客でにぎわっている。

 その太宰といえば、1948年(昭和23年)6月に妻と3人の子を残して、戦争未亡人と玉川上水で心中したため、「人間失格」に代表される“無頼派”“苦悩の旗手”のイメージが長年ついてまわってきた。しかし、生前の太宰を知る関係者が次第に世を去り、太宰の作品を純粋に楽しむ世代が登場した平成時代からは、次第に明るい太宰像が目立ち始めた。没後60年の2008年には、月刊誌「東京人」が〈「生レテスミマセン」とは裏腹の明るく、健康的な素顔〉を特集した。生誕100年の翌09年には爆笑問題の太田光が「人間失格ではない太宰治」(新潮社)を出版し、〈M・C(マイ・コメディアン)〉を自認していた太宰を、「コメディアンの先輩」としたうえで、「富嶽百景」や「お伽草紙」に収録の「カチカチ山」など11作を〈サービス精神に溢(あふ)れた〉傑作として推薦している。15年にお笑い芸人で初めて芥川賞を受けた又吉直樹も太宰治を「大好き」と公言、「笑える短編小説」として「親友交歓」「畜犬談」などを推奨している。

 6月13日で没後70年となる今年も、やはり「東京人」7月号が「今こそ読みたい太宰治」を特集。生前の太宰と会ったことのある新宿のバー「風紋」の女主人と作家・堀江敏幸さんの対談「太宰さんは、ひょうきんな人でした」を掲載している。

■小説を書かなかった「三つの空白期」とは

 故郷・青森県の蟹田町(現・外ヶ浜町)に1956年(昭和31年)に建てられた文学碑には、太宰の「正義と微笑」の一節、「かれは人を喜ばせるのが何よりも好きであった」が刻まれている。代表作「人間失格」の主人公・大庭葉蔵も、道化によって他人を笑わせる人物で、実はサービス精神の塊である。

 死を前にした晩年の小説には、「子供より親が大事、と思いたい」(「桜桃」から)、「家庭の幸福は諸悪の本」(「家庭の幸福」から)など、心中という結果から見ると、破滅型で、無頼な文章が目立つ。しかし、作品をよく読むと、子どもを育てる甲斐性(かいしょう)も自信もない主人公が、家を飛び出し、酒場に逃げて、子どもたちに食べさせたらさぞ喜ぶであろう桜桃を、食べては種をはき、食べては種をはき、「子供より親が大事」と心の中で虚勢みたいにつぶやく、なんとも弱い人間の困った姿をユーモラスに書いている。

 津軽の新興地主の家に生まれ、金木村(現・青森県五所川原市)の尋常小学校時代、「全甲」を通し、エリート校の旧制青森中学(現・県立青森高校)でも成績はトップクラスだった太宰治(本名・津島修治)の幼少年時代は、陽気で明るかったが、決して弱い性格ではなかった。母親が病弱で、乳母や叔母、子守に育てられたため、母の愛を渇望していたが、文学好きな兄たちに囲まれ、何不自由ない生活をしている。いたずら好きで、自分で脚本を書いては家でミニ芝居をし、家族たちを楽しませる少年で、高等小学校時代の綴(つづ)り方では県下でも有数の豪邸に生まれ育った自分について、無邪気に「無上ノヨロコビデアル」と書いている。太宰は、親元を離れて暮らした旧制青森中学生の頃から、親の金で同人誌を発行し、創作を始め、自尊の精神とそれが破れるさまをコント風に描く小説で同級生たちをあっと言わせていた。

 そんな太宰には、ほとんど小説を書かない三つの空白期間があった。空白の期間を経るたびに太宰は、私たちが知る作家へと脱皮していった。

 第1の空白は、旧制弘前高校に1927年(昭和2年)に入学してからの1年間であり、翌年5月に「無間奈落」を発表するまで一つも創作を発表していない。第2の空白は、30年(同5年)に東京帝国大学文学部仏文科に進学後、「学生群」を7月から11月まで連載してから、33年(同8年)2月に、太宰治のペンネームで初めて書いた小説「列車」を発表するまでの2年以上の長いブランクである。そして、第3の空白は、鎮痛のために使ったパビナールという薬の中毒になり、治療のため36年(同11年)10月、精神科病院入院という「人間失格」体験を経てからの1年半ほどである。その「空白」期間に起きた別離と挫折を経るたびに成長し、「弱くて明るい太宰」が誕生していく。

 第1の空白では、高校入学直前に貴族院議員だった父・津島源右衛門の死に見舞われ、高校1年の夏、作家・芥川龍之介の自殺に遭遇した。エリートであり続けることを期待する父の死は、悲しみではあったが、自由への一歩だった。そして、敬愛した作家・芥川の自殺が新聞で騒がれ、作家という存在がクローズアップされたことは、優等生という道から、親兄弟が反対する作家への道を歩ませる大きなきっかけとなった。

 事実、太宰は、芥川の死の直後から突如、芸者遊びを始め、優等生の道から外れ、翌28年、同人誌「細胞文芸」を創刊。創作を再開してからは、文体をがらりと変え、当時流行していたプロレタリア文学を意識した長編に取り組み、地主階級の実家を批判する内容が主流となった。しかし、もしここで、太宰が時流に乗るような作家だったら、後年の太宰治の誕生はなかった。「創作ハ技芸ナリ」という考えがある太宰には、「マルクス主義の宣伝文に過ぎない」という疑念があるプロレタリア文学にはなじめず、長編はすべて中絶している。当時、学生の多くが参加した社会主義運動にもなじめずに芸者遊びを繰り返し、成績は急降下していった。

■「私の生涯の黒点」…衝撃的だった第2の空白

 そんな矛盾が露呈したのが、東京帝大に入学した年に始まる第2の空白だ。非合法運動への関与、芸妓(げいぎ)・小山初代との結婚問題で、それに反対する実家の怒りを買い、分家除籍処分を受けたことが、事の始まりだった。さらに、その絶望から銀座のカフェの女性従業員と心中を図り、女性だけを死なせる事件を起こしてしまい、言葉を失う。この空白時代について、太宰は小説「東京八景」で、〈阿呆(あほう)の時代である〉と書いている。大学にはほとんど通わず、ぐずぐずと左翼運動をつづけ、自らが〈私の生涯の、黒点である〉という心中事件の痛みを抱え続ける。

 この苦闘の空白の2年を経た太宰は、ようやく左翼運動から離脱し、1933年(同8年)、太宰治のペンネームを使った随想「田舎者」を発表する。もはや地方の名家の生まれであるという自負も、優等生であるという自尊もなく、「私は、青森県北津軽郡というところで、生れました。(中略)何をかくそう、私は、もっとひどい田舎者なのであります」と書いている。

 そうして生まれたのが、幼少年時代を叙情的につづった記念碑的な作品「思い出」だった。その後、心中事件を見つめた「道化の華」で、同世代の作家から「天才」と騒がれ、「逆行」では35年(同10年)の第1回芥川賞の候補にもなった。しかし、これで順風満帆とならないのが太宰である。過去の優等生という栄光、自尊心、地主の子という自負をなげうっても、自分は「天才」の小説家という自負の念だけは捨てることができなかったのである。

 その頃の太宰の口癖は、「傑作を一つ書いて死にたいねえ」であり、檀一雄ら親しい文学仲間と話すときには、「ゲーテの処女出版が幾つの年、チェホフが幾つの年、芥川が幾つの年」と、いちいち数え上げていたという。もはや芥川は雲の上の存在ではなく、その名を冠した芥川賞は是が非でも欲しかった。しかし、落ちた。しかも、選考委員の川端康成からは、「作者、目下の生活に厭(いや)な雲ありて、才能の素直に発せざる憾(うら)みあった」と評された。

 当時の太宰は、虫垂炎の手術で腹膜炎となり、鎮痛のために使ったパビナールで中毒にかかり、被害妄想が激しく、薬代のために友人らから多額の借金をして生活が荒れていた。あまりにも図星といえる指摘をした川端には、「刺す。そうも思った。大悪党だと思った」と怒りの文章を書いた。が、その後、川端に「私に希望を与えて下さい 老母愚妻をいちど限り喜ばせて下さい 私に名誉を与えて下さい」と約4メートルもの巻紙で芥川賞を懇願する手紙を送っている。同じように、芥川賞を懇願する4メートルあまりの毛筆の手紙を選考委員だった佐藤春夫にも送っている。

■誰の中にも潜む「ずるさと愚かさ」描いた太宰

 だが、思いはかなわなかった。それどころか、中毒が高じて、師の井伏鱒二や同居していた初代の願いで、精神科病院に入院させられる。後にいう「人間失格」体験である。苦しみはそれで終わらなかった。入院中、同居していた初代が、弟のようにかわいがっていた親類の画学生と悲しい過ちを犯していたことがわかったのだ。

 かつて銀座のカフェの女性と心中を図り、さんざん迷惑をかけた自分である。人を責める資格がないのはわかっている。それでも、自分の感覚が、初代を許せなかった。

 太宰、第3の空白時期は、傑作意識に取りつかれて、生活をないがしろにし、生活をともにした女性を捨てた自分という存在、自分の中に巣食う虚栄心と、どこまでも向き合う時間だった。

 そうして空白の果てに生まれた小説「姥捨(うばすて)」で太宰は、「単純になろう。単純になろう」と繰り返したうえで、「あたりまえに生きるのだ。生きてゆくには、それよりほかに仕方がない。おれは、天才でない。気ちがいじゃない」と宣言している。

 その頃に書いた随想「一日の労苦」では、「無性格、よし。卑屈、結構。女性的、そうか。復讐(ふくしゅう)心、よし。お調子もの、またよし。怠惰よし。変人、よし」と書いている。

 太宰の三つの空白は、さまざまな挫折と別れを経て、太宰が、自らの弱さ、駄目さととことん向き合うための時間だった。太宰の弱さは、人間の弱さである。そのずるさ、駄目さは、人間であれば誰の心の中にも潜むものである。太宰の小説を読み、自分のことが書かれているかのように思う若者が多いのは、人一倍とことん悩み、苦しんできた太宰が、自らを含めた人間の弱さ、愚かさを否定するのではなく、ユーモラスに描いたからだろう。

 1939年(同14年)に、29歳で石原美知子と結婚してからの太宰は、「富嶽百景」「女生徒」「走れメロス」「津軽」「お伽草紙」など、戦時下の暗い世相に抗するかのように、人間の滑稽と悲惨を明るく描く作品を量産した。その時期の太宰は「懶惰(らんだ)の歌留多(かるた)」という作品の中で、遺作とはまったく違う文脈で「人間失格」という言葉を使っている。

 〈苦しさだの、高邁(こうまい)だの、純潔だの、素直だの、もうそんなこと聞きたくない。書け。落語でも、一口噺(ばなし)でもいい。書かないのは、例外なく怠惰である。おろかな、おろかな、盲信である。人は、自分以上の仕事もできないし、自分以下の仕事もできない。働かないものには、権利がない。人間失格、あたりまえのことである。〉

 太宰を愛読した作家・司馬遼太郎は〈太宰文学は破滅型で、『人間失格』が太宰の人生だというのは、先入観です〉と、1987年(同62年)の講演「東北の巨人たち」で語っている。「人間失格」だけではない、明るく、前向きな太宰治もいたのである。それを誕生させたのは、太宰治の「三つの空白」であった。

プロフィル

鵜飼 哲夫(うかい・てつお) 読売新聞編集委員。文化部で文芸担当を四半世紀、読書面デスクなどを経て現職。三度の飯より本が好きで、夕刊読書面にコラム「ほんの散策」を月に1回連載している。著書に『芥川賞の謎を解く 全選評完全読破』(文春新書)、今年5月に出した新刊に『三つの空白 太宰治の誕生』(白水社)。