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井上靖 詩 夏

2019/ 08/ 05
                 
 夏が好きあの人の声消されゆく夜汽車の汽笛遥かふるさと


 SLやまぐち号 2016年5月
 (「SLやまぐち号」2016年5月.湯田温泉駅.当日、中原中也墓前に参り)



 夏   井上靖

四季で一番好きなのは夏だ。夏の一日で一番好きなのは
昼下がりの一刻(ひととき)――、あの風の死んだ、もの憂い、しん
とした真昼のうしみつ刻だ。

そうした時刻幼いころの私はいつも土蔵の窓際で、祖母と
とうもろこしを食べていた。小学校に通っている頃は毎
日、インキ壺のような谷川の淵に身を躍らせて、その時
刻を過した。学生の頃は、校庭の樹蔭で、書物で顔を覆
って、爽やかな青春の眠りを眠った。

そうしたこの世ならぬ贅沢なすべては遠く去り、今の私
にはもはや土蔵も、谷川の淵も、校庭の樹蔭もない。真
夏の昼下がりの一刻、私は書斎の縁側の籐椅子に倚って、
遠い風景を追い求めている。烈日に燃えた漠地の一画、
遠くに何本かの龍巻の柱が立ち、更にその向うを、静か
に駱駝の隊列が横切っている。

そうした旅への烈しい思いだけが、風の死んだ、もの憂
い、しんとした真昼のうしみつ刻の中に、私を落ち着かせ
る。私を生き生きとさせる。