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眠られぬ夜に 生から死への15章 早坂曉

2020/ 07/ 26
                 

 感受性信仰世界理に落ちる幼き純な道ほど遠く


 01 眠られぬ夜に 早坂曉.


 〈・・・
 考えてみると、信仰は幼い純な心のあいだに植えつけるべきものでしょう。大きくなっては、よほどの苦しみに遭遇しないかぎり、人は信仰の道に入ることは少ないのです。
 大きくなってからの信仰は、理に落ちるところが多い。病気の克服や、欲求の成就を願っての信仰は”利“からの道でしょう。”利”からの信仰は、つまり”理”の信仰でもあります。
 信仰は”理”で入るものではないようです。理屈が先に立つから、信仰の奇跡を疑ったり、笑ったりして、そこでもう躓いてしまいます。
 信仰は、感受性の問題だと思うのです。理でなく、情の世界なのでしょう。
 ・・・〉

 早坂曉は『眠られぬ夜に 生から死への15章』の「あとがき――訂正のために」の中で、次のように記しています。

 〈 ・・・ あたりまえのことですが、死を見つめてみて、やっと生の輝きに気がつきました。生の意味も少し見えてきたようです。心筋梗塞やガンに出会っていなければ、私は相変わらず、明暗のない、平べったい日常を生きていたに違いありません。ですから、私は心筋梗塞やガンに、感謝しているのです。
 いや、少し訂正させてもらいます。しきりと私は、自分がガン患者だと書いてきましたが、実は、私はガンではありません。
 確かに病院で胆嚢ガンと宣告され、胆嚢ガン切除の手術を受けたことは間違いないのですが、腹部を大きく開けてみたら、私の胆嚢は胆砂がつまっている、ただの胆嚢結石であったのです。
 明らかに、病院側の誤診でした。良いほうの誤診でしたので、抗議はしませんでしたが、もし、ガン宣告をされてから手術を受けるまでの一か月近くのあいだに、気弱く自殺でもしていたらと、ぞっとした気持ちになったことも確かです。
 しかし、誤診であっても、私は確実に末期ガンの患者として二十数日を過ごし、まことに得難い体験をさせてもらったことに感謝しているのです。
 ただし、心筋梗塞のほうは誤診ではなく、もう一度発作がきたら死にますよ、と宣告されていますから、いやでも死を視野に入れての生活になっております。厭味ではなく、生きるにはよいロケーションと思っているのです。
 本当のことを言うと、退院してからの毎日は、これが最後の一日になるかもしれない、これが最後の仕事になるかもしれない、これが最後の出会いになるかもしれないと、緊張した生の日々を送り続けたものですから、すっかり疲れ果ててしまいました。
 もっと、肩の力を抜いて、子規さんのように”それでも平気で生きる”ようにしなければと思っています。
もっと眠りを深く――です。
一九九二年八月
                      早坂曉 〉


 『眠られぬ夜のために』はヒルティが書いた本のタイトルです。
 早坂曉は、日々の眠られぬ夜のために、さまざまな著作本を引用して、わが身をなぞらえています。
 『死ぬ瞬間』〈エリザベス・キューブラー・ロス著。読売新聞刊〉では、ガン死を予告された人間は、だいたい五つのステップを経て死に至ると書いてあります。と紹介していますが、私と違っている点が二つあります。本の中の人びとが、アメリカ人であること、そして、キリスト教の信者であることです。 と前もって断り書きをしてからの引用となっていて、少なくとも死に至るステップは判ったのですと括っていますが、

〈 しかし、ロスさんの本は、死に至るステップは教えてくれたのですが、死そのものには触れていません。やはり、まだ私の眠りは浅いのです。〉

と結んでいます。

話はとんとん拍子に展開していきます。
空海の成就から転じてモンテーニュの言葉と葉隠れに及び、そしてビバルディの「四季」に嗚咽。
「李朝の青磁展」には何故行くことができなかったのか、岩城宏之さんの手術の時の覚悟、タカアシガニを見つめているうちに、思いもよらず人間という生きものに生まれた幸運に気付いたことなどを綴っていきます。
 「ⅱ」は、いよいよ、種田山頭火、正岡子規となります。
中江兆民やハイデッカー、フロイトも出て来ます。
 「ⅲ」は、日本で長い間教鞭をとられていたゲーテン教授や井上靖さんの人間世界の言葉の他に、エイズ、オゾン層、酸性雨、地球温暖化など地球規模での「眠られぬ夜」に筆を運んでいます。
「ⅳ」では、かく語っています。

 〈 ・・・ 人間の都合のいい、つまり欲望を満足させる時間と空間をつくり出すものが、”科学” になってしまったと言っていいでしょう。そうして、とうとう地球(自然)そのものを汚染し、破壊するまでになってしまいました。
 もう、必死に人間の欲望を制御するしか、未来は約束されません。そして、その欲望を制御する力は、宗教にしかありません。
 「おびただしい涙が流されたため
  上から下へ、また下から一番上へ
  信仰過多の遊びのせいで、人生がそこなわれ・・・」
 と、ノストラダムスは数多くの宗教があらわれて、かえって人を不幸にすると予言しているのは皮肉なことですが、二十一世紀は、まさに宗教の世紀と言えます。
 ただし、ここでいう宗教は、現世利益を厳しく排除し、欲望を抑えることを標榜した宗教でなくては困るのです。
 なぜなら、二十一世紀は宗教と科学の大決戦の世紀だからです。
 反自然となった巨大科学と戦えるのは宗教しかありません。そして、宗教がもし科学との戦いに破〈ママ〉れることがあれば、間違いなく人類の歴史は二十一世紀で終わるでしょう。
 はたして、巨大科学を打ち倒すほどの力を二十一世紀の宗教が持つことができるのでしょうか。人類の未来、いや、地球上の全生物の未来もふくめて、私たちの未来は”宗教”にゆだねられているようです。・・・ 〉