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上毛かるた 老農船津傳次平

2015/ 06/ 18
                 
 浅間のいたづら鬼の押し出し
  上毛かるた44枚中の一番最初の「あ」が、「あさまのいたづらおにのおしだし」です。

浅間山
 浅間山 (標高2568m 日本百名山の一つ)

 浅間山は、長野県と群馬県の県境にある活火山です。
 平成16年(2004年)9月に発生した噴火では、関東や東北の広い範囲に火山灰が降りました。
 その後、平成21年(2009年)2月から3月と、同年5月に小規模な噴火が起きています。
 今回の6月16日の噴火では、6年前と同じく噴火警戒レベル2の火口周辺警報を発表しています。


 行く先が逸れ始めました。「上毛かるた」に話を戻しましょう。
 先ず最初に「上毛かるた」を手に取ったときに気づくことですが、帯を解くと、最初が「あ」になっていますので、昔からある「イロハかるた」とは趣を異にしていることが判ります。
 「上毛かるた」は、昭和22年(1947年)12月に誕生しました。
  日本が敗戦という歴史を迎えた翌々年です。
  終戦後の復興にあって、「これから育っていく子どもたちに、意義あるものを感じ取ってもらいたい。郷土との所縁(ゆかり)を改めて認識し、これからの時代、明るく楽しく、そして希望のもてるものはないか。」と考えていた思いが、一つの形となり『上毛かるた』が誕生しましたと、「上毛かるた」の生い立ちに綴られています。
 発行からまもなく68年が経とうとしていますが、『上毛かるた』は、群馬県の文化として位置づけられ、いまなお県民に愛され続けています。


 

 前橋から渋川に行く道すがら、「船津傳次平の墓」という標識をいつも目にしていました。
 船津傳次平は、今から117年前の6月15日に没しています。
 (前橋市富士見町原之郷生れ.天保3年10月1日〈1832年10月24日〉-明治31年(1898年)6月15日。→「ウィキペディア」では生年を天保3年11月16日〈1832年11月22日〉とあります。)

 上毛かるたの43番目の「ろ」を思い浮かべます。
 「老農船津傳次平(ろうのうふなつでんじべい)」
 (ちなみに最後44番目の「わ」は、「和算の大家関孝和」です。)

 ようやくにして、今日(6月17日)、渋川からの帰り道に立ち寄りを実現しました。

 明治の三老農の一人として、その偉業を讃え顕彰碑が建てられています。
 船津家の墓所は、見事に全て船津姓の墓標となっていました。

船津傳次平の墓 ①
 船津傳次平の墓 (群馬県指定史蹟:昭和26年10月5日指定)


 群馬県指定史蹟
 船津傳次平の墓 
   指定年月日 昭和26年10月5日

 明治三老農の随一とたたえられた船津傳次平は、天保三年(一八三ニ)十月一日、勢多郡原之郷(富士見村原之郷)に生まれ、幼名を市造といいました。
 少年のころより学問に励み、特に和算は関流の皆伝を受けました。なお俳句もたしなみ俳号を冬扇といいました。
 傳次平は、いつも農業を工夫研究し、実験を重ねては農業を改良進歩させました。
 また寺子屋の師匠にもなって筆子の教育にあたりました。
 安政五年、二十七歳で名主となった傳次平は、他村の名主たちとはかって赤城山麓に植林し、水源涵養のために尽くしました。
 明治七年「太陽暦耕作一覧」を作りましたが、これは熊谷県より広く農家に配布されました。
 明治十年十二月、船津傳次平は、内務卿大久保利通に見いだされ、東京駒場農学校の教師となりました。傳次平は駒場野を開墾して実習地を作り、生徒たちに農学の指導をしました。
 明治十八年より農商務省の巡回教師となって農業改良の任にあたりましたが、全国への出張は百五十回にものぼり、その足跡は沖縄県を除く全国の道府県にわたったそうです。
 明治二十六年、西ケ原農事試験場の技師となって活躍していましたが、健康を害したので、明治三十一年三月帰郷しました。
 明治三十一年(一八九八)六月十五日逝去、六十六歳でした。

 墓誌は漢学者の保岡亮吉が書いたものです、なお裏面には次の句が刻まれています。

 駒場野や ひらき残りに くつわ虫
 こぼれても 草間に消えず 春の露

昭和六十三年三月二十一日
        前橋市教育委員会




《「明治三老農」について》

・ウィキペディアによる:
 老農(ろうのう)とは、おもに明治時代、農書に基づいて在来農学を研究し、これに自らの体験を加えて高い農業技術を身につけた農業指導者。

特に群馬県の船津伝次平、奈良県の中村直三、香川県の奈良専二の3人は明治の三老農と呼ばれ、彼らに次いで福岡県の林遠里、秋田県の石川理紀之助が知られていた。

彼らは、輸入学問であった近代農学とは独立して、近世以前の在来農学の蓄積に基づき、単なる個人の経験の寄せ集めという段階を越えた実証主義的な態度からの技術改良を志向した。一部には、イネの品種間の実証的な比較収量試験を行ったり、メンデルの法則の導入以前から交配によるカイコの品種改良を試みるものもいたという。

この老農らによって、1875年頃から各地で種子交換会や農事会など、農業技術の交流を行う組織が形成された。また、老農らによって集約・収斂された在来農学の集大成は明治農法と呼ばれた。

老農らをまとめ、組織化した会は農談会とよばれた。農談会は明治初期より各地で小規模なものが開かれていたが、1881年3月に開催された全国農談会が、初の全国規模の農談会といわれる。


・ひとことバンクによる:
 農会をつうじて老農の優れた経験的な技術の深化と普及が進むなど,明治農法の基礎が固まった。 著名な老農には,イネの品種改良や耕種改善に功のあった中村直三や奈良専二,勧農社を組織して馬耕教師と抱持立犂(かかえもちたちすき)を全国にひろめた林遠里,駒場農学校から農商務省の巡回教師となった船津伝次平,勤倹力行を鼓吹した石川理紀之助などがおり,とくに中村,船津,奈良(あるいは林)を明治三老農という。 
    


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