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『科学するブッダ 犀の角たち』

2016/ 04/ 17
                 
 はじめに

 人の記憶には、「もの」の記憶と、「こと」の記憶と、二種類あるという、佐々木閑氏。
 前者は、なん年なん月に誰とどこに行ったとかいう個別情報の保存であり、後者は、小さい時に連れて行ってもらった旅行の楽しさの思い出など、デジタルに数値化することのできないほんわかした記憶であると述べています。
 
 田舎の家の本棚の一角に、聖書が置いてありました。
 いま、私の手元にある聖書の何冊かあるうちの一つです。
 母ののこした聖書かなと初めのころは何気なくそう思っていたのですが、奥付を見てそうではないことが判りました。
 おそらく、姉がお嫁にいったときに置いていった聖書だったのだな、と、今はそう思っています。
 これも記憶の内の一つですが、「もの」の記憶なのか、「こと」の記憶なのか、どちらなのでしょう。

 姉が書き写した『般若心経』が手元に届いたのはいつだったでしょうか。キチンと表装されていた経文を、しばしじっと見ていたあの頃を思い出しています。
 一文字一文字をみながら、姉の人柄が滲み出ているなあと、そのとき感じていました。

 
 宗教性に近づくものの前提として、ひとはあるとき物質的幸福の限界を感じるようになる。
 それはやがて、避けて通る事の出来ない万人共通の苦しみ《「年をとらねばならないこと(老)」、「病気の苦しみから逃れがたいこと(病)」、そして「必ず死なねばならないこと(死)」》を意識するようになる・・・と。

 『科学するブッダ 犀の角たち』の「第五章「そして大乗」の最終項「合理性だけで全うできないのも人生」の中で、佐々木氏はかく語っています。

 《釈尊時代の仏教というものはそれまでの人生を一旦すべて整理して、新しい人生を構築しようという人のためにある。それができない人には、参加資格が与えられない。 

・・・

 ではどうするのか。そういう、やるべきことが分かっていても、どうしてもそれができないような、狂おしい状況に置かれた人が助かる道は、超越的な存在への帰依しかない。その道はキリスト教にあり、イスラム教にあり、そして様々な大乗仏教の中にある。

 釈尊時代の仏教と、大乗仏教に優劣がつけられないと言った理由はここにある。釈尊時代の本来の仏教は、自分の生活のすべてを投げ出して、何もかもを修行一本にかけていく、ある意味恵まれた境遇にある人たちの宗教である。それは科学と共通性を持つほど合理的でスマートで都会的である。できるものなら、そういうカッコいい生活を選びたい。

 しかし、そういう決意が心に生じる以前に、私たちの生活はすでにいろいろなしがらみでがんじがらめになっている。そんな中で、我々に日々の平安を与えてくれるのは、不合理ではあるが穏やかで、説明はできないが暖かい、そういった超越者の宗教である。

 合理性だけで人生を全うできるのならそうしたい。それは決して実行不可能な夢まぼろしではない。釈尊が、そして多くのすぐれた科学者たちがその道を行った。

 しかし、そうしたくてもできない者を拾いあげ救いあげる超越者の宗教は、これもまた人間社会になくてはならない大切な機能である。・・・》


 大乗仏教の経典の一つ、『般若心経』。
 きょうは、つっかえつっかえ10回暗唱できました。
 忘れながらも、毎日諳んじることにより、門前の小僧習わぬ「経を読む」ように覚えていくことでしょう。
  かの弘法大師(空海)は、「『般若心経』は呪文である」と喝破して大いに崇めています。
  『 羯諦羯諦波羅羯諦 (ぎゃていぎゃていはらぎゃてい)
    波羅僧羯諦 (はらそうぎゃてい)
    菩提薩婆訶 (ぼじそわか) 』




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