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和暦と西暦  例えばご存知「忠臣蔵」

2016/ 09/ 22
                 
 マイブログでは、人物プロフィール、歴史の一コマなど、和暦の後にカッコ書きで西暦を記しています。(もしくはその逆に記載。何れにせよ併記することを旨としています。)
 引用、転用、借用(表現の機微はありますが言い方一つで「盗用」とか。さいわいにも私は小説もどきも書いていませんし、博士論文などもご縁がありませんでしたので・・・。) するときに、だいたいは3か所以上検索してから載せるようにしています。ですが公のサイトなどから引用するときは、ほとんどそのまま転記することを常としていました。
 このところ、「歴史もの」に興味、関心が移りつつあります。私の場合は、「食い物」から「歴史もの」に目移りがするようになったお年頃を迎えているようです。
 
 さて、そんな前置きをしてみましたが、公式サイトによる、西暦、和暦の併記をつけた記録を念のために出処の追跡調査をしてみたところ、そこそこ記録に誤謬があるケースが散見されたのです。
 例えば、赤穂浪士による吉良邸討ち入りですが、講談から拝借しますと、「元禄十五年十二月十四日」となっています。
 私たちも、12月14日はお馴染みの日となっています。勿論、旧暦の十二月十四日ですから、西暦に直せば1月30日の出来事です。
 元禄十五年は西暦では1702年にあたります。ということからすると、元禄十五年十二月十四日は、「1702年1月30日」となるはずです。
 しかし西暦にした場合、正しくは、1703年1月30日が、「赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件」のあった日なのです。
 また、吉良邸討ち入り事件を、1703年12月14日と記した、公式サイトもあります。日付は和暦に従っています。やはりおかしいですね。赤穂浪士は1703年12月まで、史実より10カ月以上、隠忍自重したことになってしまいますから。
 (上記、「赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件」の箇所につきましては、「てにをは」を入れ替えた程度で、下記新聞記事から転用しましたので、その旨ご留意くださいますよう。)
 

 2016年(平成28年)9月21日(水曜日)、讀賣新聞朝刊「文化欄」より、笠谷和比古(かさや・かずひこ)氏の「歴史の年月日 正確な表記を」~西暦の年と和暦の月日 奇妙な合体~をご案内致します。

《 みなさんは歴史の本やムックなどを見ていて、出来事が起きた年月日の表記が食い違うという経験をしたことはないだろうか。

 ◇関ケ原合戦はいつ?
 誰もが知っている関ケ原合戦をあげてみよう。これは和暦(旧暦)で「慶長五年九月十五日」の出来事だった。慶長五年は西暦だと1600年に相当する。そこで、合戦の日を「1600年9月15日」と表記する例がある。正しい西暦年と和暦の日付を合わせたものだ。権威ある歴史辞典にもそう記されているが、誤っている。和暦と西暦では日付がずれるので、西暦であれば1600年10月21日が正解である。

 赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件を、1702年とするものと、1703年とするものとがある。 ・・・(略)・・・  従って、討ち入りを1702年とすれば間違いである。 ・・・(略)・・・ 

   ◇疑似西暦
 このように「一七〇三年十二月十四日」がまずいので、「一七〇二年十二月十四日」と表記した例も目にした。だが、先に述べたように討ち入りは西暦1703年の出来事なので、完全な間違いである。

 関ケ原合戦の「1600年9月15日」や討ち入りの「1703年12月14日」「1702年12月14日」は、西暦の年に和暦の月日をくっつけた疑似西暦だ。はっきりインチキ西暦と言ってもいいと思う。
 ところが、気を付けて歴史本などを読んでみれば、この疑似西暦がはびこっている。

 疑似西暦の横行で、歴史を学ぶ人は混乱するし、国民の歴史認識はゆがめられている。もう一つ、顕著な例を紹介したい。有名な「慶応三年十二月九日」の王政復古の宣言である。
 慶応三年は1867年に相当するが、和暦十二月の出来事なので、赤穂浪士の例と同じように西暦年が改まる。西暦1868年1月3日が正しい。だが、疑似西暦で「一八六八年十二月九日」や「一八六七年十二月九日」と記される。どちらも誤りで、前者だと王政復古が実際より遅れ、後者だと早まる。

 ところで、疑似西暦によって「一八六八年一月三日」と表記される大きな戦がある。明治維新の鳥羽・伏見の戦いだ。王政復古の宣言の正しい西暦1868年1月3日を頭に入れている人が、鳥羽・伏見の戦いと同じ日に起こっていた――ということになってしまう。

    ◇表記の改善を
 疑似西暦を野放しにしていると、このようなトリックにからめ取られてしまいかねない。トリックとも気づかないままに、もはやどれが正しい西暦で、どれが疑似西暦であるかの判別もつかないまま、戸惑うことになるだろう。

 歴史家として多くの本や資料に当たる中で、懸念し続けてきた問題である。早くこの病弊から脱却するために、表記が少し長くなっても、一部で実行されているように、せめて、関ケ原合戦なら「慶長五(1600)年九月十五日」、王政復古なら「慶応三(1868)年十二月九日」とする書き方が適切だと、呼びかけたい。》


「笠谷和比古(かさや・かずひこ)
 1949年神戸市生まれ。国際日本文化研究センター名誉教授。日本近代史、武家社会論。著書に『歴史の虚像を衝(つ)く』『関ケ原合戦と大坂の陣』「武士道』など。

 



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