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杉浦日向子

2012/ 11/ 24
                 
大江戸美味草紙

大江戸美味草紙 杉浦日向子著


冬の足音 より

 新蕎麦は物も言わぬに人が増え

 江戸っ子は無類の蕎麦好きだ。新蕎麦の時期になると、宣伝もしないのに、蕎麦の香りに吸い寄せられるように、店の前へ行列が出来る、といった句だ。
 江戸初期、精進料理の珍味として供せられていた「蕎麦切り」が、庶民食の代表となったのは、江戸も半ば、安永年間のこと。蕎麦切りとは、今われわれが思う蕎麦の姿で、製麺された、あの、するするっとたぐるやつだ。上方の「麦切り(うどん)」を真似、蕎麦粉につなぎを入れ、平たくのして切ったので、「蕎麦切り」。それまで、蕎麦と言えば、蕎麦の実の殻を剥いたものを、そのまま炊いたり、「ぞうすい」や「かゆ」にしたか、蕎麦粉を熱湯でこねて生醤油で食べる、「そばがき」か、それを「すいとん」か「ほうとう」のように具だくさんの汁で煮込むかが、一般的な蕎麦の調理法だった。かって蕎麦は、米の代用品、飢饉の際の「救荒作物」であり、蕎麦好き、蕎麦通、などという言葉自体が存在しない、ネクラでシビアな素材だった。それが、時代が下がり、食生活にゆとりが生まれた江戸半ばに、そば切りが普及しはじめ、五穀の外の雑穀・蕎麦は、やっと表舞台の光明を得た。
 ところで、赤穂の義士たちが、討ち入り前に、蕎麦で腹ごしらへをしたと伝えられるが、元禄の頃(安永から七十年以上前)、江戸にはまだ、そんな大勢を収容できる蕎麦切りの専門店はなかったので、たぶん不可能だったろうと思われる。
 蕎麦は、日本海側と中部以東の山間地で多く栽培され、それぞれ地方色豊かな蕎麦文化が育まれたが、中でも特異なスタイルを確立したのが「江戸前蕎麦」だ。
 江戸の蕎麦は、第一に「もり」。しかもその量が極端に少ない。五寸のセイロに、麺の輪を六つ盛る。それは「蠅がくぐれるほどの」隙間があり、ひと山(一箸分)三、四本。六箸で一枚食い終える勘定だが、なんの、ぐるっと箸をかき回せば一枚一口だ。それを麺の下三分の一「つゆに顔を見せて」(どっぷりとつけてはいけない。江戸のつゆは辛いのだ)、ツ、ツーとすすり込む。ズルズル、モグモグはご法度。ツ、ツーとほとんど噛まずに、蕎麦の香りと、喉ごしを楽しまなくてはならない。
 白米が豊富にあった江戸だからこそ、蕎麦は主食ではなく、趣味食として独自の進化を遂げた。江戸の蕎麦は、いわば、タバコやコーヒーなどと同じ嗜好品の扱いで、蕎麦は手軽な食事ではなく、都市のリフレッシュ・タイムの、オシャレな小道具として機能し、蕎麦屋は大人の止まり木、ロンドンのパブの役割をしたのだった。
 江戸で「蕎麦前」と言えば清酒のこと。蕎麦が茹であがる前に、一杯やって待つ。いい蕎麦屋には、必ず、いい酒と、気の利いたツマミがあるのが江戸の流儀だ。
 スタイリッシュな江戸蕎麦は大人気を博し、人口百万だった江戸の街に、たちまち四千店もの蕎麦屋が出来た。
 しかも、これは店舗登録されているものに限るので、かつぎ屋台の「風鈴蕎麦屋」は無数だろう。現在、人口千二百万の東京にある蕎麦屋は、たった五千店だそうだから、当時の江戸っ子がいかに蕎麦好きだったかがわかる。


 そばの花江戸のやつらがなに知って

 蕎麦処、信州の俳人・一茶は、この江戸前になじまなかった。ふん、蕎麦の花も見たことのない都会の連中が通だなんだと、ばかばかしい。
 蕎麦好きの江戸ッ子のはしくれとして、耳が痛い。

 おおえどむまそうし 
 大江戸美味草紙
  新潮文庫 
 著者 杉浦日向子
 発行所 株式会社新潮社
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