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平家物語

2013/ 01/ 17
                 
義仲忌

 陰暦正月二十日。源平争乱期の武将、源義仲、俗にいう木曾義仲の忌日。
 この日、大津市の義仲寺で忌を修する。
 治承4年(1180)、26歳のとき、信濃の木曾で平氏討伐の兵をおこし、京都に入る。後白河法皇と意を異にし、その御所を焼き討ち。
 寿永3年(1184)、征夷大将軍に任ぜられ、朝日将軍と称したが、同年、源頼朝の命を受けた、源義経・源範頼率いる連合軍との戦いによって、近江琵琶湖畔粟津で戦死。
 享年31歳。

 人に逢へぬ帰途の追風義仲忌 原子公平


 例年1月21日、大津市の兼平庵において、今井四郎兼平墓前祭開催。




平家物語 ~巻第九

(一)
 木曾殿は信濃より、巴(ともゑ)・山吹とて、二人の美女を具せられたり。山吹は労(いたは)りあつて、都にとどまりぬ。なかにも巴は、色白く髪長く、容顔まことにすぐれたり。ありがたき強弓(ゆよゆみ)精兵(せいびやう)、馬の上、徒歩(かち)立ち、打ち物持つては鬼にも神にも会はうどいふ一人当千のつはものなり。究竟(くつきやう)の荒馬乗り、悪所落とし、いくさといへば、札(さね)よき鎧着せ、大太刀・強弓持たせて、まづ一方の大将には向けられけり。度々(どど)の高名、肩を並ぶる者なし。さればこのたびも、多くの者ども落ち行き討たれけるなかに、七騎がうちまで巴は討たれざりけり。
 
 木曾は長坂を経て、丹波路へおもむくとも聞こえけり。また竜花越(りゆうげごえ)にかかつて、北国へとも聞こえけり。かかりしかども、「今井がゆくへを聞かばや」とて、勢田の方へ落ち行くほどに、今井四郎兼平も、八百余騎で勢田を固めたりけるが、わづかに五十騎ばかりに討ちなされ、旗をば巻かせて、主のおぼつかなきに、都へとつて返すほどに、大津の打出の浜にて木曾殿に行き会ひたてまつる。互(たがひ)に中一町ばかりより、それと見知って、主従駒を早めて寄り合うたり。
 
(現代語訳)
 
 木曾殿は信濃から、巴・山吹といって、二人の近習の女を連れてこられた。山吹は病気の為に都に残った。巴は、色白く髪長く、容色がとても美しかった。その上にめったにない強弓の射手で、馬上でも徒歩でも、太刀を持てば鬼でも神でも相手にしようという、一人当千の女武者だった。抜群の荒馬の乗り手で、難所落としの名手であり、戦というと、(義仲は)札の堅固な鎧を着せ、大太刀・強弓を持たせて、まず一方の大将としてお向けになった。たびたびの巧妙手柄に肩を並べる者はない。それでこのたびも多くの者が敗走し討たれた中で、残り七騎になるまで巴は討たれなかった。
 
 木曾は長坂を通って丹波路へ向かうとも言われた。また竜花越えをして北国へ落ちたとも噂された。このような噂はあったが、木曾は「今井(兼平)の行方を知りたいものだ」と思い、勢田の方へ落ちていくうちに、今井の四郎兼平も、八百余騎で勢田を守っていたが、わずか五十騎ほどに討ちへらされ、従者に旗を巻かせて、主君義仲が気がかりなので、都へ引き返すところを、大津の打出の浜で、木曾殿にばったり会われた。お互いに一町ほど離れたところからそれとわかり、主従は馬を急がせて寄り合った。
  
 
(二)
 木曾殿、今井が手を取つてのたまひけるは、「義仲、六条川原でいかにもなるべかりつれども、なんぢがゆくへの恋しさに、多くの敵(かたき)の中を駆けわつて、これまではのがれたるなり」。今井四郎「御諚まことにかたじけなう候ふ。兼平も勢田で討死つかまつるべう候ひつれども、御ゆくへのおぼつかなさに、これまで参つて候ふ」とぞ申しける。木曾殿「契りはいまだ朽ちせざりけり。義仲が勢は、敵に押し隔てられ、山林に馳せ散つて、この辺にもあるらんぞ。なんぢが巻かせて持たせたる旗、上げさせよ」とのたまへば、今井が旗をさし上げたり。京より落つる勢ともなく、勢田より落つる者ともなく、今井が旗を見つけて、三百余騎ぞ馳せ集まる。木曾大きに喜びて、「この勢あらば、などか最後のいくさせざるべき。ここにしぐらうで見ゆるは、誰が手やらん」「甲斐の一条次郎殿とこそ承り候へ」「勢はいくらほどあるやらん」「六千余騎とこそ聞こえ候へ」「さてはよい敵ごさんなれ。同じう死なば、よからう敵に駆け会うて、大勢の中でこそ討死をもせめ」とて、まつ先にこそ進みけれ。
 
(現代語訳)
 
 木曾殿が、今井の手を取っていうことには、「義仲は六条河原で最後を迎えるつもりであったが、お前の行方が気がかりで、多くの敵の中を駆けわって、ここまで逃れてきた」。今井の四郎は、「お言葉まことに有難く存じます。兼平も勢田で討死いたすつもりでございましたが、お行方が気がかりで、ここまで参りました」と申し上げた。木曾殿は「死ぬなら一所で死のうという約束はまだ朽ちていなかった。義仲の軍勢は敵に押し隔てられて、山林に馳せ散ってしまい、この辺りにもいようぞ。お前が従者に巻かせて持たせている旗を上げさせよ」とおっしゃると、今井の旗を差し上げた。京より落ちのびた軍勢ともなく、勢田より落ちのびた軍勢ともなく、今井の旗を見つけて、三百余騎が馳せ集まった。木曾はだいそう喜び、「この勢力があれば、最後の一戦をせずにはすまされない。そこに集まって見えるのは誰の手勢か」「甲斐の一条次郎殿と聞いております」「兵力はどのくらいあるのだろうか」「六千余騎と聞いております」「それは格好の敵であるようだ。同じ死ぬなら、よい敵に駆け合い、大軍の中でこそ討死をしたいものだ」といい、真っ先に進んだ。
 
 
(三)
 木曾左馬頭(きそのさまのかみ)、その日の装束には、赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、唐綾縅(からあやおどし)の鎧(よろい)着て、鍬形(くはがた)打つたる甲(かぶと)の緒締め、厳物(いかもの)作りの大太刀はき、石打ちの矢の、その日のいくさに射て少々残つたるを、かしら高に負ひなし、滋籘(しげどう)の弓持つて、聞こゆる木曾の鬼葦毛(おにあしげ)といふ馬の、きはめて太うたくましいに、金覆輪(きんぶくりん)の鞍(くら)置いてぞ乗つたりける。鐙(あぶみ)ふんばり立ち上がり、大音声をあげて名のりけるは、「昔は聞きけんものを、木曾冠者、今は見るらん、左馬頭兼 伊予守(いよのかみ)、朝日将軍源義仲ぞや。甲斐の一条次郎とこそ聞け。互によい敵(かたき)ぞ。義仲討つて兵衛佐(ひやうゑのすけ)に見せよや」とて、をめいて駆く。一条次郎、「ただいま名のるは大将軍ぞ。余すな者ども、もらすな若党、討てや」とて、大勢の中に取りこめて、われ討つ取らんとぞ進みける。
 
(現代語訳)
 
 木曾左馬頭のその日の装束は、赤地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧を着て、鍬形を打ちつけた甲の緒を締め、いかめしいつくりの大太刀を脇に差し、石打ちの矢でその日の戦で射て少々残ったものを左肩に高く見えるように背負い、滋籘の弓を持って、名高い木曾の鬼葦毛という馬でとても太くたくましいのに、金覆輪の鞍を置いて乗っていた。鐙をふんばって立ち上がり、大音声をあげて名乗るには、「昔聞いたであろう木曾冠者を、今その目で見ていよう、左馬頭兼伊予守、朝日将軍・源義仲である。そなたは甲斐の一条次郎と聞く。互いに好敵である。この義仲を討って兵衛佐(頼朝)に見せるがよかろう」といい、大声で突進した。一条次郎は、「今名乗った者は大将軍である。逃がすな者ども、討ちもらすな若党、討て」といい、大勢の中に義仲を取り囲んで、われこそが討ち取らんと進んだ。
 
 
(四)
 木曾三百余騎、六千余騎が中を縦さま・横さま・蜘蛛手(くもで)・十文字に駆け割つて、後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。そこを破つて行くほどに、土肥次郎実平(どひのじらうさねひら)二千余騎で支へたり。それをも破つて行くほどに、あそこでは四、五百騎、ここでは二、三百騎、百四、五十騎、百騎ばかりが中を駆け割り駆け割り行くほどに、主従五騎にぞなりにける。五騎がうちまで巴は討たれざりけり。木曾殿、「おのれは疾(と)う疾う、女なれば、いづちへも行け。われは討死(うちじに)せんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曾殿の、最後のいくさに女を具せられたりけりなんど言はれんことも、しかるべからず」とのたまひけれども、なほ落ちも行かざりけるが、あまりに言はれ奉りて、「あつぱれ、よからう敵がな。最後のいくさして見せ奉らん」とて、控へたるところに、武蔵国に聞こえたる大力(だいぢから)、御田八郎師重(おんだのはちらうもろしげ)、三十騎ばかりで出で来たり。巴、その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べ、むずと取つて引き落とし、わが乗つたる鞍(くら)の前輪(まへわ)に押しつけて、ちつとも動かさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。その後物の具脱ぎ捨て、東国の方(かた)へ落ちぞ行く。手塚太郎(てづかのたらう)討死す。手塚別当(てづかのべつたう)落ちにけり。
 
(現代語訳)
 
 木曾の三百余騎は、敵の六千余騎の中を、縦に、横に、八方に、十文字に駆け破り、敵軍の後方へつつっと抜け出たところ、味方は五十騎ほどになっていた。突破してくる途中に、土肥次郎実平が二千騎で防いでいた。それをも突破して、あちらで四、五百騎、こちらで二、三百騎、また百四、五十騎、さらに百騎を駆け破り駆け破りしていくうちに、ついに木曾主従あわせて五騎になってしまった。その五騎になっても、巴は討たれなかった。木曾殿は、「おまえは早く早く、女なのだから、どこへでも逃げていけ。自分は討死しようと思う。もし人手にかかるようならば自害しようと思うので、木曾殿が、最後のいくさに女を連れていたなどと言われては残念だ」とおっしゃった。巴はそれでも落ち延びようとしなかったが、あまりに強く言われ、「ああ、よい敵がいればよいのに。最後の戦いをしてお見せいたしましょう」と言っていたところ、ちょうど武蔵国で有名な大力の、御田八郎師重が三十騎で現れた。巴はすぐにその中に駆け入り、御田八郎の馬に押し並べ、むずと御田をつかんで引き落とし、自分の馬の鞍の前輪に押しつけて、少しも身動きをさせず、御田の首をねじ切って捨てた。そうして、巴は鎧や甲を脱ぎ捨てて、東国の方へ落ちていった。この時、木曾の家来の手塚太郎が討死した。また、手塚別当は逃げてしまった。
 
 
(五)
 今井四郎、木曾殿、ただ主従二騎になつて、のたまひけるは、「日ごろは何とも覚えぬ鎧(よろひ)が、今日は重うなつたるぞや」。今井四郎申しけるは、「御身(おんみ)もいまだ疲れさせたまはず。御馬も弱り候はず。何によつてか一領の御着背長(おんきせなが)を重うはおぼし召し候ふべき。それは御方(みかた)に御勢(おんせい)が候はねば、臆病でこそ、さはおぼし召し候へ。兼平(かねひら)一人(いちにん)候ふとも、余の武者千騎とおぼし召せ。矢七つ八つ候へば、しばらく防き矢仕らん。あれに見え候ふ、粟津(あはづ)の松原と申す。あの松の中で御自害候へ」とて、打つて行くほどに、また新手(あらて)の武者五十騎ばかり出で来たり。「君はあの松原へ入らせたまへ。兼平はこの敵(かたき)防き候はん」と申しければ、木曾殿のたまひけるは、「義仲、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れ来るは、汝(なんぢ)と一所(いつしよ)で死なんと思ふためなり。所々で討たれんよりも、一所(ひとところ)でこそ討死をもせめ」とて、馬の鼻を並べて駆けんとしたまへば、今井四郎、馬より飛び降り、主(しゆう)の馬の口に取りついて申しけるは、「弓矢取りは、年ごろ日ごろいかなる高名(かうみやう)候へども、最後の時不覚しつれば、長き疵(きず)にて候ふなり。御身は疲れさせたまひて候ふ。続く勢(せい)は候はず。敵に押し隔てられ、言ふかひなき人の郎等(らうどう)に組み落とされさせたまひて、討たれさせたまひなば、『さばかり日本国に聞こえさせたまひつる木曾殿をば、それがしが郎等の討ちたてまつたる』なんど申さんことこそ口惜しう候へ。ただあの松原へ入らせたまへ」と申しければ、木曾、「さらば」とて、粟津の松原へぞ駆けたまふ。
 
(現代語訳)
 
 今井四郎と木曾殿は、たった主従二騎となり、木曾殿が言うには、「ふだんは何とも思わない鎧が、今日は重うなったぞ」。今井四郎が申し上げるには、「お体もまだお疲れになってはおりません。御馬も弱ってはいません。どうして一着の鎧を重くお思いになるのでしょうか。それは味方に軍勢がいないため、弱気となり、そのようにお思いになるのでしょう。この兼平一人ですが、他の武者千騎だとお思いくださいませ。矢が七、八本残っていますので、しばらく防ぎ矢をいたしましょう。あそこに見えるのが粟津の松原と申します。殿は、あの松の中で御自害なさいませ」、そう言って馬を進めていくと、また新手の敵の武者五十騎ほどが現れた。「殿はあの松原へお入りください。兼平はこの敵を防ぎます」と言えば、木曾殿は、「この義仲は、都で討死するはずだったが、ここまで逃れてきたのは、お前と同じ所で死のうと思ったからだ。別々の所で討たれるより同じ場所で討死しよう」と言って、馬の鼻先を並べて駆けようとした。今井四郎は馬から飛び降り、主君の馬の口に取りついて、「武士たる者は、日ごろいかに功名がありましても、最後の時に失敗をしてしまいますと、永遠の不名誉となってしまいます。殿のお体はお疲れです。従う軍勢もございません。敵に間を押し隔てられ、取るに足らない者の家来に組み落とされ、お討たれなさって、『あれほど日本国で勇名を馳せられた木曾殿を、誰それの家来がお討ち申し上げた』などと言われるのは無念でございます。今はただ、あの松原へお入りなさいませ」と申し上げた。木曾は、「それならば」と言い。粟津の松原へ馬を走らせた。
  
 
(六)
 今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、鐙(あぶみ)踏んばり立ち上がり、大音声あげて名のりけるは、「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にも見たまへ。木曾殿の御乳母子(おんめのとご)、今井四郎兼平、生年(しやうねん)三十三にまかりなる。さる者ありとは鎌倉殿までも知ろし召されたるらんぞ。兼平討つて見参(げんざん)に入れよ」とて、射残したる八筋(やすぢ)の矢を、差しつめ引きつめ、さんざんに射る。死生(ししやう)は知らず、やにはに敵八騎射落とす。その後、打ち物抜いてあれに馳せ合ひ、これに馳せ合ひ、切つて回るに、面(おもて)を合はする者ぞなき。分捕りあまたしたりけり。ただ、「射取れや」とて、中に取りこめ、雨の降るやうに射けれども、鎧(よろひ)よければ裏かかず、あき間(ま)を射ねば手も負はず。
 
 木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆けたまふが、正月二十一日、入相(いりあひ)ばかりのことなるに、薄氷(うすごほり)張つたりけり。深田(ふかだ)ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬のかしらも見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。今井が行方のおぼつかなさに、振り仰ぎたまへる内甲(うちかぶと)を、三浦の石田次郎為久(いしだのじらうためひさ)、追つかかつて、よつ引いて、ひやうふつと射る。痛手なれば、真甲(まつかう)を馬のかしらに当ててうつぶしたまへるところに、石田が郎等二人落ち合うて、つひに木曾殿の首をば取つてんげり。太刀の先に貫き、高くさし上げ、大音声をあげて、「この日ごろ日本国に聞こえさせたまひつる木曾殿を、三浦の石田次郎為久が討ち奉りたるぞや」と名のりければ、今井四郎、いくさしけるが、これを聞き、「今は誰(たれ)をかばはんとてか、いくさをばすべき。これを見たまへ、東国の殿ばら。日本一の剛(かう)の者の自害する手本」とて、太刀の先を口に含み、馬よりさかさまに飛び落ち、貫かつてぞ失(う)せにける。さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。
 
(現代語訳)
 
 今井四郎はただ一騎で、五十騎ほどの敵中に駆け入り、鐙を踏んばって立ち上がり、大音声で名乗った、「日ごろはうわさにも聞いていよう、今はその目で御覧あれ。木曾殿の御乳兄弟、今井四郎兼平、生年三十三に相成る。そういう者がいるとは、鎌倉殿(頼朝)さえも御存知であろうぞ。兼平を討ってお目にかけよ」と言って、射残した八本の矢を、つがえては引き、つがえては引き、さんざんに射た。自分の命を顧みず、たちまちに敵八騎を射落とした。その後、太刀を抜いてあちらに馳せ向かい、こちらに馳せ向かいし、切って回ると、正面から立ち向かってくる者がいない。敵の武器を多く分捕った。敵は、ただ、「射殺せ」と言って兼平を中に取り囲み、雨が降るように矢を射たが、兼平の鎧がよいので裏まで通らず、鎧のすき間を射ないので、今井は傷も負わない。
 
 木曾殿はただ一騎で、粟津の松原へ駆け入ったが、折しも正月二十一日の日没時だったので、薄氷は張っており、深田があるとも知らずに、馬をざっと乗り入れたところ、馬の頭も見えなくなった。あおってもあおっても、鞭を打っても打っても馬は動かない。今井の行方が気がかりになり、振り向いて顔を上げたその甲の内側を、三浦石田次郎為久が追いかかって、弓を十分に引き絞ってひょうと射るとふっと射抜いた。木曾殿は深手を負い、甲の正面を馬の頭にあててうつ伏せになった、そこへ石田の家来二人が駆けつけて、ついに木曾殿の首を取ってしまった。太刀の先に貫き通し、高く差し上げ、大音声で、「近ごろ日本国に名を馳せられていた木曾殿を、三浦石田次郎為久がお討ち申したぞ」と名乗りをあげたので、今井四郎は戦いの最中だったが、これを聞き、「もはや誰を守ろうとして戦う必要があろうか。これを見よ、東国の方々、日本一の剛勇の者の自害する手本だ」と言って、太刀の先を口にくわえ、馬からさかさまに跳んで落ち、貫かれて死んでしまった。こうして粟津の合戦は終わった。
  
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