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繪本 平家物語

2013/ 01/ 18
                 
安野光雅 1926年、島根県津和野に生まれる。
 1974年度芸術選奨文部大臣賞、ブルックリン美術館賞(アメリカ)、BIB金のリンゴ賞(チェコスロバキア)、ボローニア国際児童図書展グラフィック大賞(イタリア)、1984年国際アンデルセン賞、昭和63年紫綬褒章など、内外の数多くの賞を受賞。
 主な著書に、『ABCの本』『旅の絵本』(福音館書店)、『安野光雅の画集』『歌の絵本Ⅰ・Ⅱ』『読書画録』『黄金街道』『みちの辺の花』(講談社)、『算私語録』全3巻『イタリアの丘』(朝日新聞社)、『空想工房』『空想書房』(平凡社)、『安曇野』(文藝春秋)、『ZEROより愛をこめて』(暮らしの手帖社)、『エブリシング』(青土社)、『安野光雅・文集』全6巻(筑摩書房)など。編著に、『燐寸文学全集』(筑摩書房)など。

繪本 平家物語  
著者 安野光雅
発行所株式会社講談社


 作者が 『平家物語』とわたし――あとがきにかえて と題した6ページに及ぶ後段に、次のように述べている。
 ・・・つまり、ほとんどの人物は差引ゼロという感じになっている。実際の世の中の人間像もおよそそんなもので、人間は独裁者でさえも歴史の中に埋没していく。この物語の英雄たちも、しょせん物語という大きな時代の流れの脇役にすぎないと思う。
 武田泰淳の『滅亡について』(岩波文庫)のなかに、武田泰淳が鈴木大拙に「諸行無常の無常とは、常に変り、瞬時も同じことはない、ということではないでしょうか」という意味のことを聞き、そうだと言われて我が意を得るくだりがある。わたしはその意味で「無常」という言葉が好きである。
「おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
 たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」
 とはよく言ったものである。
 亡びることは、はかない。しかし亡びることは、新しいものを生みだすことでもある。歴史は滅亡と新生の繰り返しなのだから、詠嘆は、心をとりなおすために必要な、浄化の手段なのかもしれない。・・・


 木曾最後 きそのさいご

 木曽は丹波路へ向かうとも、また、竜花越(りゅうげごえ)を行って北国へ向かおうとも考えたが、やはり今井のことが気にかかるため勢田への道をとる。
 今井四郎兼平(かねひら)は勢田を固めていたが、主のことを思い、旗を巻いて都へとって返した。
 二者は、運よく大津の打出(うちで)の浜で出会った。共に戦い共に死のうと契(ちぎ)った主従である。この偶然に心をとりなおし、巻いた旗をほどいて散った兵を集めれば、義仲の妻、巴御前(ともえごぜん)も馳せ参じた。
 巴は色白く、髪は長く、美しい上に一騎当千の兵者(つわもの)で、これまでも鎧(よろい)をつけ大太刀(おおだち)を持って戦った度々の高名には、ならぶものがないほどであった。
 木曽軍は戦列を立て直して最後の戦いをいどむが、いかにも多勢に無勢である。
 凄惨な戦いとなり、兼平の味方は僅か五騎となった。しかし、この戦いの折り巴御前は勇将御田八郎師重(おんだのはちろうもろしげ)を組みふせ、首をとった後、鎧を脱ぎ捨てて東の方へ落ちていった。
 今井四郎は「わたしが防いでいるうちに、かの松林にかくれて自害なされ」と義仲に進言するが、その甲斐もなく、疲れた馬が深田にはまったとき、三浦の石田の次郎為久(ためひさ)という武者に射られて落命する。
 これを知った今井四郎は最後の名乗りをあげ、太刀の鋒(さき)を口に含み、馬から飛んで自害した。


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