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江戸城内の刃傷事件 播州赤穂

2018/ 04/ 22
                 
 今から317年前の4月21日、江戸城内において、三度目の刃傷(にんじょう)事件が起こりました。
 元禄14年3月14日のことでした。

 江戸城内における最初の刃傷事件は、寛永5年8月10日(1628年9月7日)。
 目付・豊島刑部信満(のぶみつ)が、老中・井上主計頭正就(かずえのかみまさなり)を殺害した事件です。
 加害者の豊島はその場で小姓役番士・青木久左衛門忠精(ただかず)の手によって切り殺されました。(自裁との説もあります。)

 二度目は貞享元年8月28日(1684年10月7日)。
 若年寄・稲葉石見守正休(まさやす)が、大老・堀田筑前守正俊を刺殺しています。
 この時は老中4人が寄ってたかって、その場で稲葉を斬殺したという記録が残っています。

 そして三度目が、表(本丸表)での、播州赤穂藩主、浅野内匠頭源長矩 従五位下が、高家肝煎(きもいり)〈筆頭〉・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ) 従(じゆ)四位上への、刃傷事件です。

 元禄14年(1701年)3月14日、京からの朝使を迎えた三日目の朝。朝使登営〈とえい〉(登城)の予定は昼四つ(午前10時)。
 その半時(1時間)前の朝五つ半すこし過ぎ、殿中松の廊下で刃傷事件が起こったのですが、前2件とは違い、その場では加害者も被害者ともに生きているということから、その後の物語が展開されていったということは、どなたもご存知の通りです。

 朝使下向という、賓客を招いている最中の刃傷事件であったことが、即断即決の処断に至ったのでありましょう。(浅野内匠頭には武士の面目を保たせることで、「打ち首」を罪一等減じての「切腹」に、一方吉良上野介には「お構いなし」となったことが、その後の討ち入りまでの物語を織りなしていくことになりました。三百有余年前の播州赤穂浪士の仇討の顛末が、こんにちまで脈々と語り継がれていることに、精神風土の一端を覗き見る思いです。)


   -ツヅク-

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