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元禄15年12月14日は、太陽暦では翌年の1月30日

2018/ 12/ 07
                 

ご存知、忠臣蔵。
天に満月、地に残雪。
このとき、既に堀部弥兵衛の屋敷には、吉田忠左衛門、原惣右衛門、寺坂吉衛門、大石瀬左衛門、間瀬孫九郎らの面々が集まっていたといいます。

 奥の部屋にこもっていた内蔵助と弥兵衛が、別間の席に加わったときは、同志の数は二十人余りに膨らんでいました。

愈々、決行の時。
普段は無骨ものを任じる弥兵衛(前江戸留守居役、前髙三百石、隠居料二十石、七十五歳.堀部安兵衛の義父)が珍しく酒を嗜み

 雪晴れて心にかなふ朝(あした)かな 
と、一句。

 内蔵助がこれを受け、手拍子を振りながら『羅生門』の一曲を謡いだします。

伴い語らふ諸人(もろびと)に、
御酒(みき)をすすめて
盃を、
とりどりなれや梓弓(あずさゆみ)
やたけ心のひとつなる
武士(つはもの)の交わり
たのみあるなかの酒宴かな


 本所二ツ目相生町の米屋商店(前原伊助)と同所三つ目横町の杉野十平次道場に待機していた二つの集団も、内蔵助と相前後して安兵衛道場に合流しています。(※吉良邸討入り時、出発した場所は諸説あり。)

 本所松坂町二丁目の吉良邸。

 表門組は、
 総指揮 大石内蔵助
 補佐役 原惣右衛門
 同   間瀬久太夫
 新門(表門の北)担当 堀部弥兵衛以下五人
 屋内突入組 片岡源吾右衛門以下十人
 屋外攻守組(庭番) 早水籐右衛門以下六人

 裏門組は、総勢二十三人。
 指揮官 大石主税
 補佐役 吉田忠左衛門
 同   小野寺十内
 同   間喜兵衛
 屋内突入組 杉野十平次以下九人
 屋外攻守組 潮田又之丞以下十人

の四十七名でした。

 ここで話は飛びます。
 ご存知、寺坂吉右衛門。
 吉右衛門は、元々、忠左衛門の下僕で、忠左衛門の推挙により足軽(三両二分二人扶持)にとりたてられた人物です。
 そうした身分ゆえ、討ち入りの直接の責めを負わせる必要はない、との暗黙の合意が、忠左衛門との間に出来ていました。
 忠左衛門は、あくまで同志と行動を共にしたい、と泣いて懇願する寺坂に因果を含め、故郷へと去らせています。
後世、巷間「寺坂逃亡」説の本当のところを、茲に記しておきます。

 はてさて、何を言いたかったのか、話をもどしましょう。
 ここに三つの問題を記しておくことにいたします。
 赤穂の浪人47人に対し、吉良邸江戸屋敷在宅者は「吉良家分限帳」によれば43人となっています。
 このうち料理人、足軽、坊主、厩別当などの非戦闘員を除けば36人になります。当日の宿直員となると、さらに減って22人。このうち初めから逃亡したものを除くと、実戦に参加したのは15人程度と推測されることになります。

12月3日(月)、BS日テレ午後10時からの「にっぽん! 歴史鑑定~討ち入り24時」では、吉良家につめていた武士は□人ほどで、内蔵助率いる赤穂浪士の△倍ほどと、解説していたのが耳に残ります。

 もう二つ、事実はどっちなのかという二つのこと。
 一つは、吉良が発見された場所です。
 裏門のすぐ横にある物置(墨置き小屋など)に隠れていたという説と、建物の一隅の台所の奥に潜んでいたという説の二つ。
 今一つは、念願かなってから、いつ吉良邸を出発したのかという、その時刻。午前5時と午前6時の二つの説が有力です。
 一つの説(午前5時説)の根拠は、高輪泉岳寺までの歩く速度を毎時4㎞(戦いすんで疲れているので6㎞と計算するには無理がある)としています。
 もう一つの説は、永大橋の渡りぞめの時刻(普段は六つ半〈午前7時〉ですが、一斉登城日のこの日はあけ六つ〈午前6時〉)から橋の往来が許されていた)を元にしている説などがあります。

 何が正しいのか、何を論拠としているのか。
 結語を導くには、物語にせよ、小説にせよ、ドキュメンタリー風の番組にせよ、何らかの根拠を指し示すことは必要なのでしょう。

 映像の世界、ナレーションの誘導。
 何を裏打ちとして語りかけるのか。
 対峙する側として、観察眼とあわせ懐の豊かさを持ち合わせたいものです。
 

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