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木下サーカス四代記 読売新聞書評 戌井昭人  サーカス 中原中也

2019/ 03/ 04
                 
 
 小学生の頃と30代半ばに、木下サーカスを観に行ったことがある。大人になって空き地に建てられたテントの中に入った瞬間、かって感じた、あやしくもワクワクした気持ちが蘇り、子供の自分と大人の自分が繋がった。と、「木下サーカス四代記」(山岡淳一郎著.東洋経済新報社)の書き出しで始まった戌井昭人氏の書評。

   木下サーカス四代記.


 
 小学生のころ

 小諸市立野岸小学校に転校してきた男の子。
 担任の先生の紹介の後、家族でサーカスにいます。しばらくいますので見に来てくださいと短い言葉で挨拶。
 先生が、仲よくしてください。と再び皆にひとこと声をかけた後、学級委員の私の隣の席に座らせました。
 遊びに行っていい!?と、私。
 いいよ・・・と、彼。
 
 その彼は、午後早引けして、翌日からはずっと学校に来ませんでした。
 学校の休みの日。
 空き地にサーカスがテントを張っています。
 
 出入り口で、男の子の名前を伝えたら、しばらく経ってから彼が姿を現しました。
 遊びに来たよ。と、私。
 今、忙しいから・・・と、彼。
 その彼が木戸銭番をしている大人に、ひとこと。
 学校の友だちだから。中に入れて、と。

 私は木戸銭を払わずにサーカスをみることができましたが、あの時交わした言葉を最後にして、その後、学校でもどこでも、彼の姿をみることはありませんでした。



 当時の日本四大サーカスのうち、キグレ(New)サーカスは2010年10月に倒産(本業を停止)し、団員たちはテントを置いて夜逃げしました。(「ザ・ノンフィクション 倒産ピエロ ~夢の終わり。そして…~」 2012年7月8日(日) 14:00~14:55 フジテレビ)
木下(大)サーカスもご多聞に漏れず浮き沈みがありながらも存続の危機を乗り越え、今、年間120万人の観客動員数を誇っています。
 木下サーカスの四代にわたる軌跡が記された本書(『木下サーカス四代記』)。百年以上も家族経営で続いているということに凄まじさを感じる。経営の本質がココにあるかどうかわからないが、人間の本質が濃密に詰まっていた。と、戌井昭人氏は書評末尾に書き記しています。



 サーカスのこと

  そもそも「サーカス」という外来語が日本に定着するのは、昭和8年(1933年)にドイツから「ハーゲンベック・サーカス」がやってきて、日本全国を巡演したときからであったと言われています。〈最初に日本にサーカスが紹介されたのは、元治元年(1864年)にアメリカからやってきたサーカス団が横浜で公演したときで、「曲馬団」と翻訳されて広まりました。〉


 「サーカス」というと、中原中也の詩を思い出します。
 この詩は「生活者」(倉田百三主宰の文芸雑誌)に掲載された時(昭和4年〈1929年〉10月号)は「無題」でした。(「サーカス」の初稿は1925年から1926年の間に書かれたと推定されていますが、中原中也がこの詩に「サーカス」と名付けたのは、『山羊の歌』編集期の1932年4月~6月のことだと推定されています。
 「サーカス(曲馬団)の唄」〈西条八十(やそ)作詞、古賀政男作曲・編曲、歌手・松本晃〉は、「ハーゲンベック・サーカス」が初来日した1933年5月にコロムビアレコードから発売されていますが、この時代になっても「サーカス」には「(曲馬団)」という注記が必要とされていました。
 初出時、そのタイトルを「曲馬団」とせず、「無題」としたのは、中也の心情として当然にそうなのでありましょう。
かにかくに申し述べましたが、何れにせよ、サーカス団が日本にやってくる1年前に詩のタイトルを「サーカス」と名付けたことに、中也の詩性が伝わってきます。



サーカス


幾時代かがありまして
  茶色い戦争ありました

幾時代かがありまして
  冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして
  今夜此処での一(ひ)と殷盛(さか)り
    今夜此処での一と殷盛り

サーカス小屋は高い梁(はり)
  そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒(さか)さに手を垂れて
  汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆゃゆょん

それの近くの白い灯が
  安値(やす)いリボンと息を吐き

観客様はみな鰯(いわし)
  咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆょーん ゆゅゆょん

    屋外(やがい)は真ッ闇(くら) 闇(くら)の闇(くら)
    夜は却々と更けまする
    落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルヂィアと
    ゆあーん ゆょーん ゆゃゆょん



 (※追補:

 この詩は「朝の歌」と共に、自信のあった作品である。歌い易く出来ていて、中原に始めて会った人間は、大抵朗誦を聞かされたものである。「ゆあーん ゆょーん、ゆゃゆょん」のオノマトペを、中原は仰向いて眼をつぶり、口を突出して、独特に唄った。
 ・・・
 「サーカス」の道化は、むしろダダの系統のものであり、童謡は十八歳の中原に自然な口調だったに過ぎないと思われる。中原には何処か大人になる暇がなく歳を取ってしまったようなところがあったから、童謡調はずっと彼の詩についてまわり、中原独特の形に完成されて行ったと考えたい。

 と、大岡昇平は、自著『中原中也 なかはらちゅうや』(昭和49年発行.発行所角川書店)で書き表しています。)


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