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かなりや 西條八十  東京そぞろ歩き

2019/ 06/ 29
                 
かなりやの唄口遊(うたくちずさ)む心旅昨日忘れそ明日を煩う


 村田英雄が歌い、当時(1961年~)空前のヒット曲となった、「王将」は西條八十が作詞しました。船村徹が歌詞の一部を見直して作曲した歌謡曲です。



 「かなりや」の巣   野田宇太郎 (詩人)

 西條八十の名が童謡詩人として、ひろく世間に知られることになったのは、大正七年十一月号「赤い鳥」に「かなりや」を発表し、それが成田為三に作曲されて翌八年五月号に曲譜が発表されてからである。それ以前の西條八十は、早稲田の学生時代に発行した雑誌「聖杯」や「假面」の詩人というに過ぎなかった。
 西條八十さんは大正四年に早大を卒業すると、没落した実家の再興を計って兜町のカネナカという株屋に勤め、自分も相場に身を入れた。金が少し出来たので知人の紹介で、宮辺という人が営んでいた建文館という小出版社に共同出資し、その建文館の二階で結婚間もない奥さんと生活した。そこは当時の神田神保町三番地、現在の神保町一丁目の一角に当る。こうして西條さんが神保町の小出版社の編集と経営に当ったのは大正七年末なでだったが、その間大正七年五月には長女嫩子さんがそこで生れ、それから間もなくのある日、創刊されたばかりの童話童謡雑誌「赤い鳥」の主幹鈴木三重吉の来訪を受ける。それが詩人西條八十の運命の決定であった。

  2-5西條八十 挿絵その5

 三重吉に童謡の寄稿依頼をうけた西條さんは、先ず「青い鳥」の大正七年九月号に「忘れた薔薇」を発表し、つづいて十一月号に発表したのが「かなりや」である。そのころ西條さんはある翻訳の仕事をするために上野不忍池のアパートの一室を借りていた。たまたま生まれて間もない長女を抱いて上野の山を散歩することもあった。そのときふと思い浮かんだのが「かなりや」の構想だった。
 もう西條さんは「唄を忘れたかなりや」ではなかった。こうして西條さんの運命の転記となった建文館のあとを、わたくしは神保町一丁目に捜したことがある。そのころ西條さんは奥さんと一緒にやはり神保町の旧居付近を歩いて、何か思い当ることがあると次々にわたくしに報せて来た。

 2-1西條八十 挿絵その1

 その後「かなりや」の詩碑は人手の多い不忍池畔に建てられたが、やはりわたくしには幻のように消えはてた半世紀昔の表神保町三番地の建文館のことが忘れ難い。そこが人間西條八十の苦労の多かった生活の跡であり、名作「かなりや」の巣だったからである。



 かなりや

 2-2西條八十 挿絵その2.jpg

唄を忘れた金絲雀(かなりや)は、後(うしろ)の山に棄(す)てましょか。
いえ、いえ、それはなりませぬ。

唄を忘れた金絲雀は、背戸の小籔(こやぶ)に埋(い)けましょか。
いえ、いえ、それもなりませぬ。

唄を忘れた金絲雀は、柳の鞭(むち)でぶちましょか。
いえ、いえ、それはかわいそう。

唄を忘れた金絲雀は、
象牙(ぞうげ)の船に、金の櫂(かい)
月夜の海に浮かべれば、
忘れた唄を思いだす。


かなりやの歌碑

 2-3西條八十 挿絵その3


 上野不忍池のかなりやの歌碑は夙に知られている所ですが、和歌山県那智勝浦町の狼煙山遊園(ホテル浦島内)にも、かなりやの歌碑が建っています。
 何れも最終節の歌詞が刻まれています。
 不忍池の歌碑は1960年(昭和35年)にサトウ・ハチローらによる「西条八十会」によって建立されました。

 かなりや歌碑 その1

 1969年(昭和44年)には建立10周年を記念した「かなりや祭」も開催されています。


 2-4西條八十 挿絵その4



 4-1 かなりや歌碑

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