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五月節句

2013/ 05/ 03
                 
四〇 五月節句

 五月の節句は月遅れでなく五月に行います。凡そ月の始めから五月幟を八日の頃迄立てます。八日を終い節句といいます。四日には菖蒲と餅草を軒先に三ヶ所挿し、その夜はやはり菖蒲と餅草を束ねたのを浮べた所謂菖蒲湯を立てて入ります。今は三月は女、五月は男と節句が分業の様に云われますが、此の日もやはり若い嫁女など里へ日帰りでお客にやるのが姑の仕事の様に云われて居ります。

五月 幟 絵③

 五日の飾り物は庭には五月幟、吹流しに鯉幟です。幟と吹流しには家々の定紋を附けます。二個ある下のは贈り主の紋です。吹流しは色々の五反下りなどでなく円筒になった白地に裾には波に千鳥などの模様の入ったものをこの辺りでは用います。昨年(昭和十五年)子供の初節句でしたので祖父の文久頃、父の明治初め、それから私の明治末期と古い三代の幟を立ててみました。祖父のと父のは染め物の幟でして、例えば絵の桜花のしべとか葉脈、武士の鎧の輪郭、衣服の襞の線などが白く抜き染めになっています。しかるに私のはすでに描絵でしてあくどい絵具でえがかれて居ります。それが今度子供になりますと、木綿がなくて幟そのものを断念せねばならぬ状態なのです。之に反して座敷の人形と幟は新になる程、種類と数を増して来て居ります。甲冑、陣太刀、弓矢立てを中心に鍾馗、金時、桃太郎等町の節句と同様な飾り人形が揃って来ました。
 五日の節句の献立は神仏へは朝お茶と御赤飯をあげますが、外に神棚と節句飾りの床の間へ煮〆は干瓢、椎茸、里芋、人参、蓮根、するめ、蒲鉾などの盛り合わせです。この干鱈を食うのが此の日の例です。
 この日赤飯は稲荷と橘山へもあげます。

五月幟 ⑤ 鯉幟 ⑤


  附記一 橘山祭り

 橘山は利根川の畔に立つ独立山丘で、ここから南は関東平野、北は毛越の山脈に連る丘陵つづきであります。前橋の北郊二里、眺望の絶佳で知られて居ります。この山嶺に数社の石宮がありまして、山は昔前橋藩の御林でしたが、維新後山頂の部分と共に不思議に私共の所有となりました。この石宮の一つは明らかに十二様でありますが、他は何様か不明でした。(その一つに正和五年六月と刻した小板碑がありました)が、この一列の神様は五月五日を祭日として居ります。そして明治以来私共でこの日にお赤飯を上げて居るのです。松籟の外平常は何人も訪う事なき山のお宮も、時あって里人の年中行事の中に細々とその祭祀をつづけてゆく一例として、この一項を附加しました。
 山は蕨の盛りの頃です。
 終戦後ほど経て橘山は雑木や松が雑多に生える様になり、下草を掻く人も少なくなりましたので山は荒れ放題にあふれるようになりました。丁度その頃群馬県子供会で子供の遊び場として貸して欲しいという事なので、子供の自由の遊び場にお貸ししました。それから子供の木登りの場所になったり、夏のキャンプ場になったり子供会で利用するようになりました。

藤の花

  附記二 藤の葉を軒にさす事

 菖蒲を軒端にさし乍ら、五十年程私共に居る番頭の三津さんが、昔は軒に藤の葉を挿す日のあった事を話してくれました。それは蛇のこない呪だそうです。昔姉と妹の二人娘がありました。どういうわけか蛇に見込まれて嫁に求められたそうです。姉は嫌って断りましたが、妹はことわりきれず蛇の嫁になりました。お節句に嫁が帰った時蛇も一緒にお客に来ましたが、何とかして蛇から逃れたいと折から咲いた藤の花を取ってくれとたのみました。蛇は高い梢に上りましたが、やがて危い花のところへ葉を伝って下りてゆきました。そして落ちて死んだのだそうです。それから藤の花を見ると蛇がよりつかないというのです。
 何でもこの藤の葉を挿すのは旧の四月八日の事であったろうと云います。

補修 習俗歳時記 今井善一郎著 


コデマリ
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